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三国志 「淮南の三叛」 後

2010.03.20 - 三国志・中国史

諸葛誕は挙兵を決すると、直ちに諸将を招集した。そして、自ら陣頭指揮をとって揚州刺史、楽綝(がくちん)に襲い掛かって、血祭りに挙げる。続いて、淮南に駐屯していた10万余の官吏、兵士、及び揚州の新兵4万を支配下に収め、1年分の糧食を確保した上で寿春城に立て篭もった。諸葛誕は更に万全を期すべく、長史の呉綱を呉に派遣して、援軍を求めた。呉はこの求めに応じて、降将、文欽とその息子、文鴦、文虎、それに全懌(ぜんえき)全端(ぜんたん)唐咨(とうし)ら3万余の兵を送って、共に城を守らせた。これに対し、司馬昭は自ら26万余の兵を率いて討伐に向かった。



討伐軍は現地に到着すると、まず作戦会議を開いた。将軍達は即座に力攻めにしようと提案してきたが、司馬昭はこれを制し、「寿春城の守りは堅く、力攻めしても攻めあぐねるだろう。その間に呉が駆けつければ、挟撃を受けてしまう。ここは水も漏らさぬ陣を敷き、ゆっくりと敵の自滅を待つべきである」と述べ、長期包囲の作戦を取った。そして、司馬昭は寿春城を何重にも囲ませ、堀を巡らし、土塁を高く築いて鉄壁の包囲網を敷いた。その一方、州泰、石包らに命じて、精鋭を選抜した遊撃軍を編成させ、呉の更なる援軍に備えた。城内の文欽らは何度も打って出て、包囲網の突き崩しを図ったが、その度、手痛い反撃を受けて弾き返された。その頃、蜀の姜維もこの機に乗じて、魏への侵攻を図っていた。



呉は新たに援軍を派遣し、将軍、朱異率いる数万余が寿春城の救援に駆けつけた。だが、呉軍は、強力な魏の遊撃軍の攻撃を受けて、撃退されてしまう。朱異はその後も、幾度となく攻撃を加えたが、どうしてもぶ厚い包囲網を突破する事は出来なかった。呉の大将軍、孫綝(そんちん)はその結果に怒って、朱異を処刑した。こうして寿春城は、救援の望みを断たれてしまう。孤立無援の寿春城では、食料が欠乏し始め、将兵の結束も乱れ始める。諸葛誕の部将2人も見切りを付けて、司馬昭に投降してしまった。司馬昭はさらに切り崩しにかかり、間者を潜入させて、城内を疑心暗鬼の状態に陥れた。それによって呉の援将、全懌、全端ら数千人が城を出て降伏してしまい、この後も投降する者は絶えなかった。



258年正月、寿春城の包囲は、年を越えても続く。諸葛誕、文欽はこのままでは死を待つばかりと見て、総力を挙げて城から打って出る事を決した。そして、反乱軍は、城内で作った数台の攻撃車両を先頭に立てて、遮二無二に突撃する。しかし、高所に陣取った包囲軍も投石車を繰り出し、雨あられの様に投石と火矢を浴びせかける。車両は一台、また一台と破壊され、兵達も次々になぎ倒されていった。それでも反乱軍は攻撃を続行し、激闘は数日に渡って繰り広げられた。戦場にはおびただしいほどの戦死者が横たわり、寿春城の堀は戦死者の血で真っ赤に染まったと云う。多大な被害を受けた反乱軍は、むなしく城内に引き揚げる他なかった。城内の困窮はさらに進み、すでに投降者は数万人に達した。



文欽は、諸葛誕に「この際、食料を節約するためにも、北方の出身者を城から出して、信用できる者と呉の者だけで城を守ろう」と提案する。だが、諸葛誕はこの提案に耳を貸さなかった。そして、この一件を機に、2人の仲は険悪なものとなる。元々、この2人は嫌いあっていたのだが、司馬昭打倒という目的のため、否応無く協力していたに過ぎない。しかし、事態が深刻になるにつれ、亀裂も深まってきたのであった。そういったある日、文欽が作戦提案のため、諸葛誕の元へ赴いたところ、疑念に凝り固まっていた諸葛誕によって、その場で殺されてしまった。



この報を受け、文欽の子である、文鴦、文虎は城を脱出して司馬昭に投降する。司馬昭はこの2人を許し、魏の将軍に取り立てた。その上で、司馬昭はこの2人を寿春城に向けて、「我ら文欽の子でさえ、こうして許されたのだ。諸君らも安心して投降するが良い」と呼び掛けさせた。それを聞いた寿春城の将兵達は、安堵すると同時に戦意も失った。こうして諸葛誕は、益々追い詰められていった。司馬昭は頃合は良しと見て、城の四方から兵を進め始める。討伐軍は一斉に陣太鼓を打ち叩き、城壁を登っていった。しかし、城兵はすでに戦意喪失しており、あえて抵抗しようとする者はほとんどいなかった。



諸葛誕に従うのは、いまや僅かな私兵のみ、寿春城が討伐軍によって飲み込まれてゆく中、万に一つの可能性に賭けて敵陣突破を図った。だが、分厚い包囲陣を突破する事は適わず、殺到する敵兵によって諸葛誕は斬り倒され、あえなく戦場の露と消えた。主将の死を受けて生き残った将兵達も次々に投降し、呉将、唐咨と呉兵1万余も降伏した。その一方、諸葛誕に忠誠を誓っていた将兵数百人余は降伏を拒否し、「諸葛公のために死すならば、本望である!」と叫んで刑死していった。討伐軍の将達は、「淮南では幾度も反乱が企てられており、この際、全ての捕虜を生き埋めにしましょう」と提案した。これに対し、司馬昭は、「元凶さえ滅ぼせば、それで良いのだ」と言って、全員の命を保障した上、周辺地域に居住させた。



 司馬昭はその度量を示した一方、諸葛誕の一族は皆殺しとして禍根を断った。その頃、反乱に乗じて攻め込んできた蜀の姜維は、利あらずとして撤退していった。呉や蜀をも巻き込み、1年余に及んだ大反乱はここに終結した。王稜、毌丘倹、諸葛誕らによる一連の蜂起は、淮南の三叛と呼ばれた。いずれも、司馬一族の専横に対する反抗であったが、皮肉にも、これらの反対勢力が一掃された結果、司馬一族の権力は揺るぎないものとなった。諸葛誕の乱から7年後、265年、司馬昭は皇帝の一歩手前、晋王の位にまで上り詰める。だが、司馬昭は、帝位を目前にして急死した。司馬昭54歳。その跡を継いだ司馬炎は直ちに晋王の位を引き継ぐと、魏帝曹奐に迫って禅譲させ、皇帝の位へと上った。これで曹操が築き上げた魏は滅び、新たに司馬一族の王朝、晋が誕生する。



諸葛誕は、蜀に仕えた諸葛亮、呉に仕えた諸葛謹と比べられて、こう言われた。「呉は其の虎を得、蜀は其の龍を得、魏は其の狗(いぬ)を得た」と。天下を取った司馬一族の国家、晋から見れば、諸葛誕は反逆者に過ぎず、不当に評価が陥れられた可能性がある。確かに、諸葛亮や諸葛謹と比べると、諸葛誕の度量は狭く、猜疑心の深さゆえに身を滅ぼしたと言えよう。しかし、諸葛誕は人材豊富な魏にあって、要職を歴任したのみならず、最重要地の総司令官にまで上り詰めた人物であるから、決して無能な人物ではない。数百人余の兵が諸葛誕を慕って、共に最後を迎えている事からも、人望厚い人物であった事が窺える。享年は不明であるが、50代半ばには達していたと思われる



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