このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
戦国史・第二次大戦史・面白戦国劇場など
敵持とは、かつて人を殺めたため、討手から逃れている者の事である。逃亡の身である敵持に取って、深編笠、鎖鉢巻、鎖帷子は必需品であった。中には剃髪して僧となって身分を隠したり、虚無僧となって逃亡生活を続ける者もいた。討手に遭遇せず、無事生涯を終えんとしても、その死の間際まで緊張は解けなかった。そして、墓場まで秘密を持って行かねば成らなかった。敵持の身に、真の安息はなかったのである。
元文3年(1738年)に成立した「老死語録」と云う本には、ある敵持の話が載せられている。
徳川幕府に仕える旗本、杉浦内蔵助には親しく付き合っていた2人の老人がいた。1人は小山六左衛門と云う60代の独身の老人で、内蔵助が話相手として屋敷に住まわせていた。もう1人は内海意三と云う70代の独身の町医者で、六左衛門と同じく内蔵助の話相手として、その屋敷によく寝泊りしていた。
屋敷では2人の老人が同じ日に寝泊りする事も多く、おのずと親交が深まっていった。そういったある夜、寝物語に2人の老人はしみじみと語り合った。意三は、六左衛門を信用出来る友人と見込み、これは誰にも話さないでほしいと念を押した上で、自らの身の上話を始めた。「今から50年前、わしが20余りの頃、喧嘩で人を殺めた事がある。その後、殺害した者の子が成人して、仇討ちに江戸に出たと聞いたが、顔も知らないであろうし、名前も変えているので、まず見つかる事はないだろう。しかし、敵持の身を隠して仕官は出来ず、経歴を述べるのも憚られる。そのため、今まで奉公も結婚もしなかったのだ。」
六左衛門は意三が人を殺めた事があると聞いて驚いたが、それでも友人の話に聞き入っていた。しかし、その話は、段々と自分の身の上に重なってくる事に愕然とした。実は、この意三に討たれた者の子こそ、六左衛門に他ならなかったからである。六左衛門が11歳の時、父が討たれ、成人すると敵(かたき)を求めて江戸に出てきた。しかし、敵の行方はようとして掴めず、ただただ、歳月のみが過ぎていった。その探し求めた敵が、実に50年振りに、それも目の前にいたのである。六左衛門は、仇を討つと決した。
そして、後日の早朝、六左衛門は屋敷の門で待ち伏せをした。意三が薬箱持ちと共に門に入ってくると、60代前半の六左衛門は刀を振り上げ、「親の敵!」と名乗りを上げる。すると、70代前半の意三も刀を手に取って、返り討ちの構えを取った。そして、老人同士の斬り合いが始まった。六左衛門は、意三の薬箱持ちに一刀を浴びせられ、傷を負いながらも10歳若い事がものを言ったのか、とうとう意三を討ち果たす事に成功したのである。敵持は、墓場まで秘密を持って行かねばならない。気心の知れた老人であるからと秘密を漏らしたのは、意三の一生の不覚であった。
一方、六左衛門は町奉行所に出頭し、仇討ち成就を報告した。これで、50年間の苦労は報われるはずであった。ところが奉行所では、仇討ちが正当なものであるのかどうか、書類で確かめなければならず、その間、六左衛門は拘束される身となった。六左衛門が仇討ちを申請してから、既に40年余の歳月が流れており、その書類を探し出すのに奉行所は苦労した。六左衛門は老体で、負傷の身でもあったので、この長時間の拘束は実に応えた。ようやく仇討ちが認められ、六左衛門は解放されたものの、破傷風に罹ってしまい、ほどなくして病没してしまった。
この話が、本当にあった出来事なのかは定かではないが、同様の事例は確かにあったのだろう。