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レーニンの遺体

2009.06.22 - 歴史秘話 其の一
ウラジミ-ル・イリイチ・レーニン(1870年4月10日~1924年1月21日)


レーニンとは、社会主義革命の父であり、ソビエト連邦の建国者でもある。1924年1月21日、レーニンは脳梗塞により54歳で死去するが、その後を継いだスターリンは、共産党の偉大さを示すため、レーニンの遺体に防腐処理を施して赤の広場に永久に安置するよう主張した。レーニンの妻ナジェージダ・クループスカヤは、遺体をごく普通に埋葬してほしいと頼んだが、この意向は無視された。スターリンが求めたのは、人々が見てすぐにそれと分かる、生き生きとした神聖な遺体であった。これまでの人類史で、人間の遺体を生きていた時と同じ状態で保存出来た例はなかった。大抵の遺体(ミイラ)は、肉体は残せても色褪せて干乾びた状態になるのが常だった。


この難解な作業に取り組んだのは、生化学者のボリス・ズバルスキーと解剖学者のウラジミール・ヴォロビヨフの2人だった。2人はこの作業が成功すれば、多額の報酬と栄誉が与えられる事になったが、その反面、失敗すれば銃殺刑は免れなかった。2人は異常な緊張感をみなぎらせて、この作業に取り組む事になった。1924年3月、ズバルスキーとヴォロビヨフは、まず大量の化学薬品を取り寄せた。レーニンの遺体は死後、簡単な防腐処理を施されただけであったので、眼窩は落ち込み、顔も歪んで、悪臭が漂い始めていた。作業は急を要し、ズバルスキーとヴォロビヨフは助手達と共に昼夜兼行で必死に働いた。


まず、チームはレーニンの体から内臓を取り出し、体腔を洗い流した。それから体にホルマリンを注入し、さらに念を入れてホルマリンの浴槽に浸した。それから体を引き上げて乾かすと、様々な薬品の混合液に何度も浸け込んだ。そして、着手してから4ヶ月後に作業は完了した。ソビエト政府はレーニンの家族を招待して、遺体を見せた。レーニンの弟は、「兄は息を引き取った時よりも良く見える」と言って驚いた。これを聞いてソビエト政府は安心し、遺体を赤の広場にあるピラミッド型の優雅な霊廟に安置した。


作業の成功で、ズバルスキーとヴォロビヨフには巨額の報酬が与えられたが、ズバルスキーは極度の緊張状態を強いられていた事から、精神に深い傷を負った。ズバルスキーは、腐ったレーニンの体の周りをハエが飛び回っているという悪夢を見るようになった。実際にその様な事になっていれば、彼はスターリンの逆鱗を受けて殺されていたのだ。その後、2人の科学者はあまり幸福な人生を送る事は出来なかった。1937年、ヴォロビヨフはかねてからスターリンに嫌悪感を持っていた事から目を付けられ、不審な死を遂げた。1952年、ズバルスキーは長らく霊廟に勤めていたが、ユダヤ系であった事からスターリンの反ユダヤ主義の煽りをくらって投獄され、ほどなくして死亡した。


1938年、レーニンの妻、クループスカヤが霊廟を訪れた。クループスカヤは、「自分は年を取ったのに、夫は亡くなったその日から少しも変わっていないように見える」と呟き、悲しげに首を振った。彼女が夫の姿を見たのはそれが最後だった。現在でもレーニンの遺体は霊廟のガラスケースに安置されている。遺体は周に二度、腐敗の兆候がないか検査され、一年半に一度、化学薬品の入った浴槽に浸けられる。それから数週間後、レーニンは再び人々の前に姿を現すのである。


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↑レーニンの遺体
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世界最高峰に埋もれた謎 1924ジョージ・マロリーのエベレスト挑戦 3

2009.03.05 - 歴史秘話 其の一
●調査隊が推測したマロリー、アーヴィンの遭難の様子



2人は頂上に達したかどうかはともかく、これまでに人類が到達した事のない高みに立った。しかし、疲労も甚だしく、酸素も切れていた。それでも2人は力を振り絞り、日没前に最大の難所であるセカンドステップを下り終える事に成功する。そして、ファーストステップも下り終えて、イエローバンドに達した時、辺りは闇に包まれた。マロリーは、ランタンと懐中電灯をキャンプに置いてきているので足元は照らせなかった。なので、ほのかな月明かりだけを頼りに、石灰岩の脆い岩の連なりを下りて行かざるを得ない。2人は水分不足や酸素不足に加え、極度の疲労もあって意識が朦朧としていた。それに最大の難所を超えたのと、キャンプを目前にした安堵感もあって、ふと心が緩んだのかもしれない。垂直な岩壁が横たわる危険箇所に差し掛かった時、マロリーは雪疵(せっぴ・雪の塊)を踏み外して、滑り落ちてしまった。



2人はロープで体を結び合っていたが、激しい衝撃によって切断されてしまう。その直後、マロリーは片足で斜面に着地した為、右足が登山靴の上で折れてしまった。そのまま急斜面を滑り落ちて、暗黒の谷底へと向かっていく。だが、彼は諦めず、体をひねって岩屑の斜面に指先を食い込ませて、体を停めようとした。手袋はすぐに裂けたが、それでも腕と指の力だけで必死に食い止めようとする。その最中、傾いた岩に打ち当たって、体が宙に舞い挙がった。そして、斜面に激しく叩きつけられ、尖った岩に額を激しくぶつけた。滑落の速度は緩んできて、ようやく体は停止した。しかし、致命傷を負ったマロリーが、再び立ち上がる事はなかった。



アーヴィンの方は、どうなったのだろうか。(1933年)イギリスの第4次遠征隊がエベレストに挑戦した際、標高8460メートル地点で、アーヴィンのピッケルを発見している。そのピッケルには滑落したような傷跡はなく、ただ岩の上に置かれていた。事故の際、アーヴィンは滑落を免れ、ピッケルをその場において親友を助けようとしたのだろうか。しかし、最早、どうする事も出来ず、1人で下山に取り掛かろうとして、途中で力尽きたのかもしれない。それとも、やはり事故の際、ピッケルを取り落として、一緒に滑落してしまったのかもしれない。いずれにせよ、アーヴィンは氷雪の山塊に倒れ、短い22年の生涯を閉じた。その遺体は、現在も発見されていない。マロリーとアーヴィンは、第6キャンプまで後僅かという距離に達していながらの無念の遭難死であった。




●マロリーとアーヴィン、その人となり



ジョージ・レイ・マロリー(1886年6月18日~1924年6月8日)


マロリーは牧師の子として生まれる。その風采は極めて優れており、整った顔立ちに洗練された雰囲気を漂わせていた。彼は非常に神経質なタイプで自身たっぷりだったかと思うと、心許なくなって沈み込み、感情の振幅が激しいところがあった。だが、登山者としての彼の能力に疑問を持つ者は誰もいなかった。山に向かって足を運ぶ、その軽快な足取りは誰にも真似できないものだった。


マロリーのもっとも優れていたものは、その魂であった。彼の意志力は尽きる事がなく、何かやるべき事があれば、何時でも行動に移る用意があった。彼は誰よりも早く行動し、出発する時は夜も明けきらない早朝だった。遠征隊の隊長ノートンは、マロリーの事を、「不屈の精神を持った男であり、チャンスがある限りは敗北を認めない」と評している。しかし、その一方で、「彼は愛すべき人物だったが、せっかちで行く先々で所持品をばら撒いていった」とも述べている。



マロリーは登山家としては際立った能力を持っていたが、管理能力はなかった。目の前の物事に集中すると、決まって大事な物を忘れてくる傾向があった。最後の忘れ物の中にはコンパス・夜間用ランタン・懐中電灯がある(荷物になるのであえて置いていったとも考えられるが、ランタン・懐中電灯を携帯していれば遭難は避けられていたかもしれない)。



このエベレスト挑戦時、マロリーはもうじき39歳となる年齢だった。肉体的に、これが最後の挑戦となる可能性が高かった。それに彼は、このエベレスト登頂に人生の意義を見出していたので、今回のエベレスト挑戦には並々ならぬ決意で向かっていった。彼は死も覚悟していたが、勝算の無い戦いをするつもりはなかった。彼は以前、「私は既婚者ですし、後先を考えずに飛び込むわけには行きません」とも述べている。帰りを待っている妻子もあったし、その当時に出来うる限りの手を尽くしてエベレストに挑み、そして、生きて帰る心積もりであった。



アンドリュー・カミン・アーヴィン(1902年4月8日~1924年6月8日)


アーヴィンは裕福な家庭に生まれ、少年の頃からバイクの旅をするなど生来の冒険家であった。彼には登山の経験は少なかったが、機械に極めて強い点と抜群の体力を買われて21歳の若さで遠征隊に加えられている。若さゆえの生意気な行動を取る事もなく、常識心に富んでいた。長身で顔立ちが良く、肩幅の広い好青年であった。そして、彼の仕事能力は大変なものだった。昼間、氷河で作業して疲れ切った後でも、テントの中で道具類を広げ、壊れやすく扱いにくい酸素器具の改良に取り組んだり、遠征隊の修理屋を勤めたりもしていた。彼はこの作業を皆が寝静まった後も、だいぶ遅くまで続けていた。



彼は肉体的にも精神的にも大人であり、年長者に対して控え目な態度を取りながらも、大人として行動していた。高い理想を抱いており、シェルパに対しても礼儀正しく接していた。マロリーとアーヴィンは共に理想主義で子供っぽいほどの無邪気さがあり、2人は出会ってすぐに意気投合する。マロリーの方が10年以上も年長であったが、2人は対等の親友となった。遠征隊の記念写真が残っているが、2人は隣同士で写っている。そして、写真に写るアーヴィンはいつも陽気に微笑んでいる。



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↑後列左がアーヴィンでその隣がマロリー







↑マロリーの生い立ちや内面を知りたいなら、「エヴェレスト初登頂の謎 ジョージ・マロリー伝」が、1999年のマロリーの遺体発見時の様子、遭難の経緯、登頂の可能性を知りたいなら「そして謎は残った 伝説の登山家マロリー発見記」を読んでみるのが、よろしいかと。

世界最高峰に埋もれた謎 1924ジョージ・マロリーのエベレスト挑戦 2

2009.03.04 - 歴史秘話 其の一

マロリーの遺体を発見!

(1999年)、マロリーの遭難から75周年のこの年、マロリーとアーヴィンの遺体を捜索し、その偉業が達成されたのかどうかを確かめるべく、調査遠征隊がエベレストに向かった。そして、調査隊は初日、エベレスト北面標高8160メートル地点で、真っ白に凍りついたマロリーの遺体を発見する。その遺体はうつ伏せの姿勢で顔を地面に埋め、全身をいっぱいに伸ばして、滑落停止の姿勢をとっていた。



両腕はいまだ逞しい筋肉をつけながら頭の上へ伸びており、指先は関節を曲げて岩屑の中に埋もれていた。右ひじが折れているか、脱臼するかしていた。両足は下に伸びているが、片足は折れており、それを庇うようにもう一方の足が上に交叉していた。目は閉じており、額に致命傷と思われる外傷があって、砕けた頭蓋が飛び出していた。絡みついたクライミング・ロープが胸郭を締め付け、皮膚に食い込んでいた。



遺体付近からは、天然繊維の衣服・皮製のヘルメット・手紙数通・鋲靴・絹製のハンカチ・時計・肉の缶詰・ポケットにしまわれていた日除け用ゴーグルなどが見つかった。だが、登頂の証拠となりうるコダックのカメラは発見出来ず、彼が頂上に置いてくると言っていた妻ルースの写真も見つからなかった。また、この調査ではアーヴィンの遺体は発見出来なかった。



結局、今回の調査ではマロリーとアーヴィンがエベレスト登頂を果たしたのかどうかを確定する、決定的な証拠を見つける事は出来なかった。しかし、2人の行動を推測できる、幾つかの遺物を発見する事は出来た。特に標高8490メートル地点で、マロリー達が使用したNo9酸素ボンベが発見された事は、その登頂速度を推測できる重要な発見であった。一通りの調査を終えると、マロリーの遺体はその場に丁重に埋葬された。




マロリーとアーヴィンは世界の高みを極めたのか?


オデールは、「とある岩の段差で2人を目撃した」と言っている。調査隊はその証言に基いて現地調査を試みた。その結果、サードステップ(標高8700メートル)が最もその光景に当てはまる事が分った。だが、午前5時半に出発したとして、午後13時にここまで到達するのは不可能ではないものの、極めて難しいと推測された。なので、セカンドステップ上部への到達が相応と考えられた。このセカンドステップは高さ30メートルほどの岩壁で、巡洋戦艦の切り立った艦首と形容されるほど難度が高い箇所である。 そのため、イタリアの著名な登山家メスナーは、当時の貧弱な装備でそこを越えるのは不可能であるとして、マロリーのエベレスト登頂を否定している。



だが、マロリーの友人はこう述べている。「彼のルートを探し出す才能に、何度も感心させられた事は忘れられない。複雑に入り組んだルートでも、彼は遠くから見当を付け、現場で細かく見極める」 「ジョージが登っている姿を見ていると、体力よりもしなやかさ、バランスの良さに感銘を受ける。どんなに険しい場所でも、リズミカルにテンポよく前進する。その動きの滑らかな事、まるで蛇の如しだ」と。マロリーは間違いなく当時世界一流の登山家であり、周囲の誰もが認める確かな技術があった。そして、2人は最大の難所セカンドステップを乗り越え、もしかするとサードステップにまで達していたのだろう。このサードステップはさほど難しい場所ではないので、後は頂上への道が残されるのみである。しかし、エベレストは超高所にあって、酸素の量は地表の三分の一に過ぎず、その条件下では、人間の能力は極端に低下する。なので、現在、酸素ボンベ無しでこの山を登頂出来る人間は、ほとんど存在しない。



マロリー達が頂上を目指す4日前には、同じ遠征隊の登山家ノートンとサマヴィルが、8530メートル地点まで無酸素で登っている事実がある。これは壮挙であったが、ノートンの最後の1時間の歩みは、高さにして30メートル、距離にして僅か90メートルでしかなかった。体力、経験豊富な2人の登山家が病弱者のように咳き込み、数歩進んでは息を切らし、喘ぎ苦しみながら登らねばならなかった。後300メートルの高さを登り切れば、2人は栄光の頂点に立つ事が出来るのであるが、それを成そうと思えば、少なくとも後10時間の時間が必要であった。そうなれば夜を跨いでの登山となるが、装備も貧弱で体力も限界近い2人には、到底無理な相談であった。2人はここで登頂を諦めて、引き返さざるを得なかった。酸素ボンベの助けがなければ、この過酷な山の征服は極めて難しい。一方、マロリーは酸素ボンベの使用を考えていて、その書き付けでは、「おそらく、酸素ボンベ2本ずつで頂上へ向かうだろう」と言っている。



マロリー達が午前5時~5時半にキャンプを出発したとして、酸素ボンベを2本ずつ背負い、頂上を目指した場合を想定してみる。最大流量にセットしてあるとすれば、その持続時間は8時間となり、午後13時頃、セカンドステップを乗り越えた時点で、酸素ボンベの2本目が無くなる。そこからは酸素不足で歩みが遅くなるので、頂上に到達するのは午後19時となり、丁度、日が沈み始める頃になる。この場合だと、まだ明るみの残る内に頂上ピラミッドは下れなかっただろうし、まして困難なセカンドステップを闇夜に下る事は、不可能であっただろう。そうなれば、彼らはここで遭難していただろう。だが、彼らが実際に遭難した場所は、セカンドステップとファーストステップを下り終えて、第6キャンプまで後もう少しという地点であった。



これは、マロリー達がまだ明るみが残っている間に、セカンドステップを下り終えていた事を示唆している。また、酸素ボンベの2本目が切れた時点(午後13時頃)で断念して、引き返していたとすれば、まだ日のある内に第6キャンプまで達していただろう。マロリーはその最中に、転落したのだろうか?しかし、マロリーのポケットには日除けゴーグルが入っていた。エベレストの紫外線は極めて強いので、日中の行動には日除けゴーグルは欠かせない。もし、ゴーグル無しで日中行動したなら、雪面に反射した太陽光によって雪盲(角膜、網膜の炎症)となり、痛みで目を開けられなくなってしまう。これがポケットに入っていたと言う事は、昼間ではなく、夜間に行動していた事を示唆している。酸素ボンベ2本ずつのシナリオだと、どうも話が噛みあわないのである。



マロリーの書き付けには、「おそらく・だろう」という言葉があって、酸素ボンベを2本ずつにするか3本ずつにするか、選択の余地があった。そして、彼らの手元には推定7本の使用可能な酸素ボンベがあった。後日、第6キャンプを捜索したオデールは、酸素ボンベを1本発見しているので、6本使用されたとも見なせる。もし、彼らが酸素ボンベを3本ずつ背負っていったなら、シナリオは劇的な変化を見せる事になる。
最大流量にセットしてあるとすると、その持続時間は12時間となり、セカンドステップを乗り越えた時点で3本目に切り替え、そのまま歩みを緩めることなく、頂上を目指す事になる。そして、酸素ボンベの3本目が空になる午後16時頃、マロリーとアーヴィンは頂上に到達していた可能性がある。その場合だと、まだ明るみが残る内に難所のセカンドステップを下り終え、ファーストステップを下り終えた時点で日没を迎える事になる。



おそらく、彼らは3本ずつ酸素ボンベを背負っていったのだろう。そうなれば、(1953年)ヒラリーとテンジンのエベレスト初登頂から遡ること29年前、マロリーとアーヴィンは世界の高みを極めていた可能性があるのだ。間接的に2人の登頂を示唆する手掛かりもある。マロリーの遺体から発見された物入れには、頂上に置いてくると言った妻ルースの写真が無かったのである。しかし、その写真が頂上で発見された訳でもない。なので、最終的には、マロリーが頂上で撮ってくると言っていたコダックのカメラが発見されなけれれば、登頂の確認は出来ない。エベレストのような寒冷な場所では、何十年経ってもフィルムは現像可能な状態で保存されており、それは今でも、ヒマラヤ最高峰の雪の中に埋もれている。



エベレスト最大の謎 1924ジョージ・マロリーの頂上挑戦 3に続く・・・



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ジョージ・マロリーの遺体

世界最高峰に埋もれた謎 1924ジョージ・マロリーのエベレスト挑戦 1

2009.03.03 - 歴史秘話 其の一
19世紀から20世紀前半にかけて、世界では未知なるものを求める探検熱が大いに高まっていた。この頃、人類の科学技術は飛躍的な発展を遂げており、その恩恵を受けて大陸の奥地から、太洋の隅々まで探索する事も可能となっていた。新たなる発見は、国威発揚と、経済的利益にも繋がっていたから、各国は熱狂的に探検隊を送り出していった。中でも、経済力と軍事力があった欧米諸国は、地理上の空白地を次々に埋めてゆき、やがて、人類未訪の地は、北極、南極、そして、第3の極地と言われているエベレスト(ネパール名サガルマータ)のみとなる。欧米諸国は、この残された人類未踏の地に自らの国旗を打ち立てるべく、一番乗り競争にやっきとなった。



そして、1906年4月6日)には、アメリカのロバート・ピアリーが北極点に到達し(これには異論もある)、(1911年2月14日)には、ノルウェーのロアルド・アムンゼンが南極点に到達する事に成功する。いずれも、世界史に残る偉業であった。当時の世界大国イギリスも、これに負けじと北極、南極に遠征隊を送り込んでいたが、いずれにおいても遅れをとった。残された未踏の地は、第3の極地にして、世界最高峰であるエベレスト(標高8848メートル)のみとなる。イギリスは今度こそ、世界に先駆けてこの人跡未踏の地を征し、帝国の威信を内外に示さんと試みた。



そして、(1921年)、イギリスは、第1回遠征隊をエベレストに送りこむ。エベレストが生易しい山で無い事は分かっていたから、第1回遠征隊の目的はまずこの山を徹底的に偵察し、一番易しい登頂ルートを見出す事にあった。そして、この遠征には、1人の魅力的な人物が含まれていた。彼の名はジョージ・リー・マロリー、端正な容姿にして、技術と実績を積み重ねた優れた登山家であった。そして、「そこに山があるから」と言う世界的に有名な言葉を発している。 マロリーを含む3人の登山者は苦心の末、北稜の7千メートル地点にまで達した。そこから、マロリーは雪煙たなびくエベレストを見つめた。今回はここまでであったが、マロリーは頂上への登坂可能なルートを見出して満足であった。マロリーの残した言葉、「大胆な想像力で夢に描いたものより遥か高みの空に、エベレストの山頂が現れた」



(1922年)、第2回遠征隊が派遣され、いよいよ本格的にエベレスト征服が試みられる事となる。今回の遠征にも、マロリーが主力の1人として加わっていた。そして、マロリー、サマヴィル、ノートンの3人の登山家が力を合わせ、遥かなる頂を目指して挑戦を開始した。3人は凍傷を負いながらも登坂を続け、酸素吸入器なしで8225メートルの高度にまで達した。だが、ここで信じ難いほどの寒気に襲われたため、一行は引き返さざるをえなかった。後日、マロリーとサマヴィルはそれでも諦めず、最後の挑戦に出る。



だが、アイスフォールの切り立った斜面を登坂中、雪崩が発生して、マロリーを含む登山隊を呑み込んでしまう。マロリーは無事であったが、この雪崩で7名のシェルパが死亡した。この挑戦はマロリーが強く訴えたものであったため、世間では非難の声も挙がり、彼自身深く苦悩した。こうして第二回遠征は、無残な失敗に終った。マロリーの言葉、「これは魔の山だ。冷酷ですぐ裏切る。はっきり言って事はあまり上手くいっていない。やられる危険があまりに大きく、高所で人間が使える力はあまりにも小さい・・・」



(1924年)、第3回遠征が行われる。今回の遠征にもマロリーは加わっていたが、この時、38歳となっており、年齢的に最後の挑戦となる可能性が高かった。マロリーの残した言葉、「打ち負かされて降りてくる自分の姿なぞ、とても想像できない」  「それがどんなに私の心をとらえているか、とうてい説明しきれない」  「ほかの人達が私抜きで頂上の征服に取り掛かるのを見たら、あまり良い気持ちがしないだろう」  「どれほど今年に期待しているか、とても言い表せない」  「もう一度、そして、これが最後。そういう覚悟で私達はロンブク氷河を上へ上へと前進してゆく。待っているものは勝利か、それとも決定的敗北か」  「この冒険はこれまでになく必死なものとなっていきそうな・・・」




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↑出発準備を整えるマロリーとアーヴィン



(1924年6月6日午前8時40分)、マロリーとアーヴィンの2人はノース・コル(標高7066メートル)のキャンプを出発する。2人が出発間近、準備に余念が無いところを登山隊の1人、ノエル・オデールが写真に収めている。マロリーが酸素マスクを気にしている様子を、アーヴィンが側で、少し首を傾けながら眺めている図である。これが、2人が撮られた最後の写真となる。



2人はシェルパ8人を伴って第5キャンプ(標高7710メートル)を目指した。ここに到着すると、マロリーは書き付けを託して4人のシェルパを戻した。書き付けには「ここは風もなく、見通しは明るい」と書かれてあった。(翌6月7日早朝)、マロリーとアーヴィンと4人のシェルパは第6キャンプ(標高8230メートル)に押し進んだ。ここでマロリーは再び書き付けを託して、4人のシェルパを戻した。



遠征隊の撮影係ジョン・ノエルに宛てた書き付け、「親愛なるノエル。この晴天を利して、出発はおそらく明日早朝。当方の姿を探すのに早過ぎる事はないでしょう。午前8時にはピラミッドの下のロックバンド(頂上ピラミッドを取り巻く、灰色の石灰岩の帯)を横切っているか、もしくはスカイラインを登高中の予定」 


ノエル・オデールに宛てた書き付け、「親愛なるオデール。何ともだらしない有様で誠に申し訳ない。出発直前に調理用ストーブを落としてしまった。明日は明るい内に気幕の予定にて、間違いなく早めに第4キャンプへ降ってもらいたい。そちらのテントにコンパスを忘れてきた模様、力添えを頼む。コンパス無しでここに居る。ここまで2日間で90気圧の消費、明日は、おそらく酸素ボンベ2本ずつで頂上へ向かうだろう。これは、クライミングにはえらいお荷物だ。天候の方は理想的だ!」



(6月8日推定午前5時半)、この日は、マロリーが書いたように理想的な晴天に恵まれた。マロリーとアーヴィンは第6キャンプを後にすると、頂上攻勢に出発した。現在、エベレストを目指すにはネパール側からとチベット側からの二通りのルートが開削されているが、ネパール側の方が難度が低いとされており、こちらが一般的に用いられている。しかし、マロリーが挑んだのは、チベット側からのルートであり、行く先には数々の難所が待ち受けている。(イエローバンド)、石灰岩の急な一枚岩の連なりで、砕けやすく、無数の岩屑が乗っている。(ファーストステップ)、高さ30メートル程のほぼ垂直な岩壁である。その後は強風が吹き晒す、危険な山稜ルートが続く。



(セカンドステップ)、高さ30メートルほどの岩壁で、ファーストステップより遥かに難しく、巡洋戦艦の切り立った艦首とも形容される。岩場は特徴のある三つの部分に分かれていて、上部は垂直である。この難所を超えると、技術的に困難な箇所はなくなる。後は広い台地の緩やかな登りとなり、雪に覆われた山頂ピラミッドへと続く。マロリーはコダック社のカメラを持参しており、頂上で記念写真を撮る予定であった。更に、妻ルースの写真を頂上に埋めてくると言っていた。



その頃、オデールはマロリーに頼まれたコンパスと2人のための食料品を届けるため、第6キャンプに向かっていた。(午後12時50分頃)、オデールはふとエベレストを見上げると、頂上を覆っていた雲がにわかに晴れわたって、その全貌が露(あらわ)となった。そこで、オデールは生涯忘れえぬ光景を目撃する。稜線上のとある岩の段差の下、小雪稜上に小さな黒点が一つ浮き上がり、そのまま動いて行く。また一つ黒い点が現れると小雪稜上の黒点に合流すべく、雪の上を進んで行く。これは明らかに人影であった。



その頃、一つ目の黒点は、大きな岩の段差に接近しており、ほどなくその上に現れた。二つ目の黒点も同じような動きであった。幻想的とも言えるその光景はやがて雲に覆われてゆき、まもなく搔き消えた。遠目にも分るほど、2人はてきぱきとした身ごなしで動いていた。そこから山頂に達して第6キャンプに戻るまで、明るい時間がそう長くないと意識していたからだろう。2人が目撃された場所は、頂上ピラミッドの基部からほど近い、よく目立つ岩の段差であった。



オデールは、2人がそこから山頂に辿り着くまで、後3時間はかかるだろうと見なした。2人の下山が遅くなるのは確実だった。だが、オデールは意志堅固なあの2人なら登頂を成し遂げ、「ついに征服した!」と知らせてくれるだろうと思い、さほど心配はしていなかった。オデールは第6キャンプに荷物を届けると、第4キャンプへと降っていった。その夜は晴れ渡っており、オデールは何か動きはないか、救難信号が出ていないか、と夜通し見張ったが何も見えなかった。



一夜明けて(6月9日)、オデールは双眼鏡で第5、第6キャンプの様子を窺ったが、2人の気配はまるでなかった。オデールはこの日の正午、嫌がるシェルパ2人を連れて、第5キャンプまで行って2人を捜索した。しかし、そこには誰もおらず、何も手がつけられていなかった。オデール、「盛んに流れていくちぎれ雲をすかして、嵐を告げるような夕焼けが時折覗き、やがて夜の帳が降りるにつれて、風と寒さが募っていった」。



(翌6月10日)、シェルパ達はこれ以上登るのを拒否したので、オデールは彼らを帰らせると1人で登っていった。第6キャンプに辿り着いたものの、やはり2人の姿はなく、酸素ボンベが一つあるのを発見したのみであった。凄まじい強風が吹き付ける中、オデールは危険を顧みず、ただ1人山頂に向かって2時間進み、2人を捜索した。だが、山稜には暗く重い大気が垂れ込み、強風が吹き荒れるのみで、親しい友人2人の痕跡を見つける事はついに出来なかった。



オデールは捜索を諦め、下山に取り掛かろうとした時、山頂へ振り返った。「それは冷たいよそよそしさで、私というちっぽけな存在を見下ろし、風の咆哮に乗せて、私の切なる願いを嘲笑っていた。秘密を明かしてくれ、2人の我が友にまつわる謎を明かしてくれという私の切なる願いを・・・」


マロリーとアーヴィンは、エベレストに消えた。そして、彼らが頂上に到達したのかどうかは、世界の登山史上に残る謎となった。



エベレスト最大の謎 1924ジョージ・マロリーの頂上挑戦 2に続く・・・



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ジョージ・マロリーのエベレスト挑戦


仇を尋ねて40年

2009.02.08 - 歴史秘話 其の一
文化14年(1817年)12月20日、北越の新発田藩(溝口家5万石)にて、一件の殺人事件が起こった。滝沢休右衛門と言う藩士が、城下町の酒場にて、同じ新発田藩士である、久米弥五朗と口論した挙句、相手を殺害したのである。休右衛門は事件後、逃亡し、行方をくらませた。その結果、滝沢家は喧嘩殺人の上に出奔の罪で断絶となった。そして、被害者である久米家も、主人が斬り殺されたとあって改易となった。


久米家に残された遺族は、妻と一女二男である。娘は10歳、長男、幸太郎は7歳、次男、盛次郎は4歳であった。家禄は没収され、屋敷を追われたが、遺族には年30表の合力米が与えられた。久米家が再び御家を再興するには、仇討ちを果たす必要があった。そこで、弥五朗の弟である、板倉留六郎(32歳)が幼い兄弟を育成し、仇討ちを成就させるために後見人となった。


以後、久米家の遺族、親戚はあらゆる方法で滝沢休右衛門を探索したが、その行方はようとして知れず、空しく11年の歳月が流れた。文政11年(1828年)留六郎は43歳、幸太郎は18歳、盛次郎は15歳となった。同年5月5日、3人は藩主、溝口直諒(みぞぐち・なおあき)に御目見えし、格別の思し召しによって兄弟には刀一振りと金30両、留六郎にも金15両が下賜された。さらに家老からも激励の言葉をかけられ、3人は恐縮して平伏した。藩主と家老からの直接の激励と援助と云う、大変な配慮を受けた3人であったが、その反面、この仇討ちからは決して逃れられない身となった。すなわち、人生の枷となって重く圧し掛かって来るのである。


仇討ちには守るべき内規が定められており、その幾つかを挙げてみる。
仇討ちには公許が必要であり、追跡が藩外に及ぶ場合、幕府に届け出る必要がある。宮中、江戸城内、寺社の境内での仇討ちはご法度である。一度、仇討ちの旅に出たならば、本懐を遂げずに生国に帰る事はできない。探す敵が死んでいた時は、その証拠となるものを持ち帰らねばならない。仇討ちの繰り返しである重敵(じゅうがたき)は、再現なく恨みが続くため禁止である。主君の手討ちは誰も復讐できない。また、親が子の内、兄を手討ちにした場合、その弟は兄の仇を討つ事はできない。一方、敵と狙われる方は、卑怯者と言われようと、あくまで討たれないように工夫し、逃げおおせるのが武士の誉れとされた。返り討ちをして、さらに逃亡する事も卑怯ではない。仇討ちは、敵にめぐり合うまでが実に大変であった。仇討ちの成功率は、実に百分の一であったらしい。


3人は幕府に届けを出し、いよいよ仇討ちの旅へと乗り出した。こうした旅の場合、虚無僧に身を変えるのが便利であったので、3人は秀峰山明暗寺を訪れると、そこに入門を願い出た。3人は明暗寺にしばらく滞在して、尺八を習い覚えた。一通りの修行を終えると、3人は黒衣の袈裟をかけ、明暗寺発行の通行手形を手にして山門を出た。この通行手形が有れば、関所の通過は容易となる。3人は東北一円を巡りながら、人の集まる場所に顔を出しては休右衛門の人相画を差し出し、その特徴を語って熱心に情報を求めた。


3人はさらに全国をほぼ一回りしながら、仇を捜し求める。そして、10年の歳月が流れた。留六郎は53歳、幸太郎は28歳、盛次郎は25歳となった。留六郎と同輩の者達は、楽隠居をしていたであろう。兄弟も妻を娶っていてもおかしくない年頃であったが、このような境遇ではそれも叶わなかった。この間、仇討ちの為に貯めてきた費用や、藩主から下賜された45両の金も底を突いてしまう。3人は代わる代わる病気に罹り、長期間、寝込んだ事もあった。


凶事の日から、21年の歳月が流れ、仇の滝沢休右衛門は63歳になっているはずであった。最早、生きているかどうかも定かではない。これからは休右衛門の生死を確かめる事も急務となってきた。3人は話し合って、武蔵にある普化宗鈴法寺(ふけしゅうりほうじ)に再入門する事にした。明暗寺で得た僧籍は金銭で買える仮印可であり、正式の僧として認められた訳ではなかった。そこで3人は鈴法寺で正式な印可をもらい受けようと、修行に励んだ。これは、路銀が底を突いた今、生活の手段として托鉢をする必要があったのと、各地の寺院を訪ねてその協力を仰ぎ、墓地を調べて休右衛門の生死を確かめる必要に迫られた為であった。3人は所定の修行を終えると、正式な僧として法号を得た。


3人は托鉢をしつつ仇を尋ね、無縁仏の墓を調べる旅がさらに10年続いた。留六郎は63歳、幸太郎は38歳、盛次郎は35歳となった。この間、幸太郎は医者を開業し、盛次郎は習字の塾を開いた事もあった。留六郎は老齢となって体が弱り、旅が困難になっていた。嘉永4年(1851年)、隠居して健斎と号していた前藩主、溝口直諒は、まだ本懐を遂げれずに諸国放浪を続けている久米兄弟を哀れんで一文を綴っている。


安政4年(1857年)、弥五朗が殺されてから、40年の歳月が流れた。留六郎は72歳、幸太郎は47歳、盛次郎は44歳となった。この頃になると3人の結束も乱れ、三者三様の考えを持つ様になっていた。あくまで仇討ちの執念に燃えているのは長男、幸太郎1人だけであった。仇討ち40年の歳月は、3人の間に亀裂を作っていたのかもしれない。3人は別行動を取るようになっていたが、連絡場所だけは決め合っていた。


その頃、伊達領、仙台城下のはずれにある曹洞宗金剛寺では、久米兄弟の事が話題に上っていた。そこの住職、大雲和尚には、久米兄弟の仇である滝沢休右衛門に良く似た怪しい人物が思い浮かんできた。その人物とは、伊達領、牡鹿半島にある洞福寺の住職を務める黙照(もくしょう)という老僧であった。この黙照は新発田出身のようであるが、何故かその事に触れられるのをひどく嫌うのであった。檀家の話では、黙照は昔から他国者を異様なほど警戒して、滅多に外に出ないと云う事であった。さらに黒衣の懐に、短刀を忍ばせているのを目撃した人もいた。大雲和尚は、この事を久米兄弟に知らせた。


吉報を聞きつけ、真っ先に駆けつけたのは、やはり幸太郎であった。幸太郎は洞福寺を訪れ、密かに黙照をかいま見たが、面体を知らないので休右衛門とは断定出来なかった。休右衛門の顔を知っている頼みの伯父、留六郎はまだ未着であった。そこで、幸太郎は新発田に戻り、休右衛門の顔を見知っている老齢の親戚、板倉貞次と渡辺戸矢右衛門に同行を願い、再び洞福寺を訪れた。渡辺戸矢右衛門は洞福寺に紛れ込み、黙照が休右衛門である事を確認した。だが、寺内での決闘はご法度であったので、本懐を遂げるには用心深い黙照を寺から誘き出す必要があった。そこで幸太郎は、洞福寺の本山にあたる海渓寺の住職に懇願して、黙照を呼び出してもらう事にした。


安政4年(1857年)10月9日正午頃、3人は牡鹿半島、祝田浜の林に身を潜めて待ち受けていたところ、老僧が足取りもおぼつかずに歩み寄ってきた。幸太郎は躍り出て長刀を振り上げると、名乗りを挙げた。老僧は驚いて、「拙僧は出羽の生まれの黙照と申す者、老いた出家に御無体なされますな」と言って震えながら手を合わせた。その哀れな姿に、幸太郎の心に迷いが生じる。相手は仇とはいえ、82歳の老齢である。それに40年もの歳月の間に、怨恨はほとんど消えてしまっていた。あるのは義務感だけであった。老僧は、幸太郎がひるむのを見ると喜色を浮かべ、「人違いである事が、お分かりか」と云って立ち去ろうとする。だが、その前に、「滝沢、よもや我らを忘れはしまい」と板倉貞次と渡辺戸矢右衛門が立ち塞がった。


老僧は旧知の出現にしばし唖然としていたが、ついに観念したのか、「いかにも、わしが滝沢休右衛門である」と告げた。そして、板倉貞次が、「幸太郎、討て!」と叱咤した。幸太郎は夢中で刀を振り下ろすと、無抵抗の休右衛門は血飛沫をあげて倒れた。実に40年もの辛苦が報われた瞬間であった。この瞬間のため、果てしない闇夜に一点の灯火を求めるような旅を、数十年に渡って続けてきた。風雨に打たれつつ諸国を巡り、托鉢で物乞いして糊口を凌ぐ毎日であった。少年は青春も知らず、人間らしい生活も送れないまま、中年となった。余りにも多くのものを失ってきた幸太郎に、この時、どのような思いが去来したであろう。辛苦と責務からようやく解き放たれたという開放感であったのか、それとも言い様の無い虚無感であったのか。この時、久米幸太郎47歳、弟盛次郎44歳、叔父板倉留六郎72歳、滝沢休右衛門82歳であった。


この後、新発田に帰国した幸太郎は家名を再興した上、250石に加増された。間に合わなかった弟、盛次郎と伯父、留六郎にも長年の労苦を賞され、それぞれ扶持が下された。仇討ちの手助けをした、板倉貞次と渡辺戸矢右衛門にも褒賞が与えられた。宮城県石巻市祝田浜には、「久米幸太郎仇討の地」と書かれた碑が置かれている。
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