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世界最高峰に埋もれた謎 1924ジョージ・マロリーのエベレスト挑戦 1

2009.03.03 - 歴史秘話 其の一
19世紀から20世紀前半にかけて、世界では未知なるものを求める探検熱が大いに高まっていた。この頃、人類の科学技術は飛躍的な発展を遂げており、その恩恵を受けて大陸の奥地から、太洋の隅々まで探索する事も可能となっていた。新たなる発見は、国威発揚と、経済的利益にも繋がっていたから、各国は熱狂的に探検隊を送り出していった。中でも、経済力と軍事力があった欧米諸国は、地理上の空白地を次々に埋めてゆき、やがて、人類未訪の地は、北極、南極、そして、第3の極地と言われているエベレスト(ネパール名サガルマータ)のみとなる。欧米諸国は、この残された人類未踏の地に自らの国旗を打ち立てるべく、一番乗り競争にやっきとなった。



そして、1906年4月6日)には、アメリカのロバート・ピアリーが北極点に到達し(これには異論もある)、(1911年2月14日)には、ノルウェーのロアルド・アムンゼンが南極点に到達する事に成功する。いずれも、世界史に残る偉業であった。当時の世界大国イギリスも、これに負けじと北極、南極に遠征隊を送り込んでいたが、いずれにおいても遅れをとった。残された未踏の地は、第3の極地にして、世界最高峰であるエベレスト(標高8848メートル)のみとなる。イギリスは今度こそ、世界に先駆けてこの人跡未踏の地を征し、帝国の威信を内外に示さんと試みた。



そして、(1921年)、イギリスは、第1回遠征隊をエベレストに送りこむ。エベレストが生易しい山で無い事は分かっていたから、第1回遠征隊の目的はまずこの山を徹底的に偵察し、一番易しい登頂ルートを見出す事にあった。そして、この遠征には、1人の魅力的な人物が含まれていた。彼の名はジョージ・リー・マロリー、端正な容姿にして、技術と実績を積み重ねた優れた登山家であった。そして、「そこに山があるから」と言う世界的に有名な言葉を発している。 マロリーを含む3人の登山者は苦心の末、北稜の7千メートル地点にまで達した。そこから、マロリーは雪煙たなびくエベレストを見つめた。今回はここまでであったが、マロリーは頂上への登坂可能なルートを見出して満足であった。マロリーの残した言葉、「大胆な想像力で夢に描いたものより遥か高みの空に、エベレストの山頂が現れた」



(1922年)、第2回遠征隊が派遣され、いよいよ本格的にエベレスト征服が試みられる事となる。今回の遠征にも、マロリーが主力の1人として加わっていた。そして、マロリー、サマヴィル、ノートンの3人の登山家が力を合わせ、遥かなる頂を目指して挑戦を開始した。3人は凍傷を負いながらも登坂を続け、酸素吸入器なしで8225メートルの高度にまで達した。だが、ここで信じ難いほどの寒気に襲われたため、一行は引き返さざるをえなかった。後日、マロリーとサマヴィルはそれでも諦めず、最後の挑戦に出る。



だが、アイスフォールの切り立った斜面を登坂中、雪崩が発生して、マロリーを含む登山隊を呑み込んでしまう。マロリーは無事であったが、この雪崩で7名のシェルパが死亡した。この挑戦はマロリーが強く訴えたものであったため、世間では非難の声も挙がり、彼自身深く苦悩した。こうして第二回遠征は、無残な失敗に終った。マロリーの言葉、「これは魔の山だ。冷酷ですぐ裏切る。はっきり言って事はあまり上手くいっていない。やられる危険があまりに大きく、高所で人間が使える力はあまりにも小さい・・・」



(1924年)、第3回遠征が行われる。今回の遠征にもマロリーは加わっていたが、この時、38歳となっており、年齢的に最後の挑戦となる可能性が高かった。マロリーの残した言葉、「打ち負かされて降りてくる自分の姿なぞ、とても想像できない」  「それがどんなに私の心をとらえているか、とうてい説明しきれない」  「ほかの人達が私抜きで頂上の征服に取り掛かるのを見たら、あまり良い気持ちがしないだろう」  「どれほど今年に期待しているか、とても言い表せない」  「もう一度、そして、これが最後。そういう覚悟で私達はロンブク氷河を上へ上へと前進してゆく。待っているものは勝利か、それとも決定的敗北か」  「この冒険はこれまでになく必死なものとなっていきそうな・・・」




Mallory2.jpg









↑出発準備を整えるマロリーとアーヴィン



(1924年6月6日午前8時40分)、マロリーとアーヴィンの2人はノース・コル(標高7066メートル)のキャンプを出発する。2人が出発間近、準備に余念が無いところを登山隊の1人、ノエル・オデールが写真に収めている。マロリーが酸素マスクを気にしている様子を、アーヴィンが側で、少し首を傾けながら眺めている図である。これが、2人が撮られた最後の写真となる。



2人はシェルパ8人を伴って第5キャンプ(標高7710メートル)を目指した。ここに到着すると、マロリーは書き付けを託して4人のシェルパを戻した。書き付けには「ここは風もなく、見通しは明るい」と書かれてあった。(翌6月7日早朝)、マロリーとアーヴィンと4人のシェルパは第6キャンプ(標高8230メートル)に押し進んだ。ここでマロリーは再び書き付けを託して、4人のシェルパを戻した。



遠征隊の撮影係ジョン・ノエルに宛てた書き付け、「親愛なるノエル。この晴天を利して、出発はおそらく明日早朝。当方の姿を探すのに早過ぎる事はないでしょう。午前8時にはピラミッドの下のロックバンド(頂上ピラミッドを取り巻く、灰色の石灰岩の帯)を横切っているか、もしくはスカイラインを登高中の予定」 


ノエル・オデールに宛てた書き付け、「親愛なるオデール。何ともだらしない有様で誠に申し訳ない。出発直前に調理用ストーブを落としてしまった。明日は明るい内に気幕の予定にて、間違いなく早めに第4キャンプへ降ってもらいたい。そちらのテントにコンパスを忘れてきた模様、力添えを頼む。コンパス無しでここに居る。ここまで2日間で90気圧の消費、明日は、おそらく酸素ボンベ2本ずつで頂上へ向かうだろう。これは、クライミングにはえらいお荷物だ。天候の方は理想的だ!」



(6月8日推定午前5時半)、この日は、マロリーが書いたように理想的な晴天に恵まれた。マロリーとアーヴィンは第6キャンプを後にすると、頂上攻勢に出発した。現在、エベレストを目指すにはネパール側からとチベット側からの二通りのルートが開削されているが、ネパール側の方が難度が低いとされており、こちらが一般的に用いられている。しかし、マロリーが挑んだのは、チベット側からのルートであり、行く先には数々の難所が待ち受けている。(イエローバンド)、石灰岩の急な一枚岩の連なりで、砕けやすく、無数の岩屑が乗っている。(ファーストステップ)、高さ30メートル程のほぼ垂直な岩壁である。その後は強風が吹き晒す、危険な山稜ルートが続く。



(セカンドステップ)、高さ30メートルほどの岩壁で、ファーストステップより遥かに難しく、巡洋戦艦の切り立った艦首とも形容される。岩場は特徴のある三つの部分に分かれていて、上部は垂直である。この難所を超えると、技術的に困難な箇所はなくなる。後は広い台地の緩やかな登りとなり、雪に覆われた山頂ピラミッドへと続く。マロリーはコダック社のカメラを持参しており、頂上で記念写真を撮る予定であった。更に、妻ルースの写真を頂上に埋めてくると言っていた。



その頃、オデールはマロリーに頼まれたコンパスと2人のための食料品を届けるため、第6キャンプに向かっていた。(午後12時50分頃)、オデールはふとエベレストを見上げると、頂上を覆っていた雲がにわかに晴れわたって、その全貌が露(あらわ)となった。そこで、オデールは生涯忘れえぬ光景を目撃する。稜線上のとある岩の段差の下、小雪稜上に小さな黒点が一つ浮き上がり、そのまま動いて行く。また一つ黒い点が現れると小雪稜上の黒点に合流すべく、雪の上を進んで行く。これは明らかに人影であった。



その頃、一つ目の黒点は、大きな岩の段差に接近しており、ほどなくその上に現れた。二つ目の黒点も同じような動きであった。幻想的とも言えるその光景はやがて雲に覆われてゆき、まもなく搔き消えた。遠目にも分るほど、2人はてきぱきとした身ごなしで動いていた。そこから山頂に達して第6キャンプに戻るまで、明るい時間がそう長くないと意識していたからだろう。2人が目撃された場所は、頂上ピラミッドの基部からほど近い、よく目立つ岩の段差であった。



オデールは、2人がそこから山頂に辿り着くまで、後3時間はかかるだろうと見なした。2人の下山が遅くなるのは確実だった。だが、オデールは意志堅固なあの2人なら登頂を成し遂げ、「ついに征服した!」と知らせてくれるだろうと思い、さほど心配はしていなかった。オデールは第6キャンプに荷物を届けると、第4キャンプへと降っていった。その夜は晴れ渡っており、オデールは何か動きはないか、救難信号が出ていないか、と夜通し見張ったが何も見えなかった。



一夜明けて(6月9日)、オデールは双眼鏡で第5、第6キャンプの様子を窺ったが、2人の気配はまるでなかった。オデールはこの日の正午、嫌がるシェルパ2人を連れて、第5キャンプまで行って2人を捜索した。しかし、そこには誰もおらず、何も手がつけられていなかった。オデール、「盛んに流れていくちぎれ雲をすかして、嵐を告げるような夕焼けが時折覗き、やがて夜の帳が降りるにつれて、風と寒さが募っていった」。



(翌6月10日)、シェルパ達はこれ以上登るのを拒否したので、オデールは彼らを帰らせると1人で登っていった。第6キャンプに辿り着いたものの、やはり2人の姿はなく、酸素ボンベが一つあるのを発見したのみであった。凄まじい強風が吹き付ける中、オデールは危険を顧みず、ただ1人山頂に向かって2時間進み、2人を捜索した。だが、山稜には暗く重い大気が垂れ込み、強風が吹き荒れるのみで、親しい友人2人の痕跡を見つける事はついに出来なかった。



オデールは捜索を諦め、下山に取り掛かろうとした時、山頂へ振り返った。「それは冷たいよそよそしさで、私というちっぽけな存在を見下ろし、風の咆哮に乗せて、私の切なる願いを嘲笑っていた。秘密を明かしてくれ、2人の我が友にまつわる謎を明かしてくれという私の切なる願いを・・・」


マロリーとアーヴィンは、エベレストに消えた。そして、彼らが頂上に到達したのかどうかは、世界の登山史上に残る謎となった。



エベレスト最大の謎 1924ジョージ・マロリーの頂上挑戦 2に続く・・・



YouTubu動画

ジョージ・マロリーのエベレスト挑戦


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