文化14年(1817年)12月20日、北越の新発田藩(溝口家5万石)にて、一件の殺人事件が起こった。滝沢休右衛門と言う藩士が、城下町の酒場にて、同じ新発田藩士である、久米弥五朗と口論した挙句、相手を殺害したのである。休右衛門は事件後、逃亡し、行方をくらませた。その結果、滝沢家は喧嘩殺人の上に出奔の罪で断絶となった。そして、被害者である久米家も、主人が斬り殺されたとあって改易となった。
久米家に残された遺族は、妻と一女二男である。娘は10歳、長男、幸太郎は7歳、次男、盛次郎は4歳であった。家禄は没収され、屋敷を追われたが、遺族には年30表の合力米が与えられた。久米家が再び御家を再興するには、仇討ちを果たす必要があった。そこで、弥五朗の弟である、板倉留六郎(32歳)が幼い兄弟を育成し、仇討ちを成就させるために後見人となった。
以後、久米家の遺族、親戚はあらゆる方法で滝沢休右衛門を探索したが、その行方はようとして知れず、空しく11年の歳月が流れた。文政11年(1828年)留六郎は43歳、幸太郎は18歳、盛次郎は15歳となった。同年5月5日、3人は藩主、溝口直諒(みぞぐち・なおあき)に御目見えし、格別の思し召しによって兄弟には刀一振りと金30両、留六郎にも金15両が下賜された。さらに家老からも激励の言葉をかけられ、3人は恐縮して平伏した。藩主と家老からの直接の激励と援助と云う、大変な配慮を受けた3人であったが、その反面、この仇討ちからは決して逃れられない身となった。すなわち、人生の枷となって重く圧し掛かって来るのである。
仇討ちには守るべき内規が定められており、その幾つかを挙げてみる。
仇討ちには公許が必要であり、追跡が藩外に及ぶ場合、幕府に届け出る必要がある。宮中、江戸城内、寺社の境内での仇討ちはご法度である。一度、仇討ちの旅に出たならば、本懐を遂げずに生国に帰る事はできない。探す敵が死んでいた時は、その証拠となるものを持ち帰らねばならない。仇討ちの繰り返しである重敵(じゅうがたき)は、再現なく恨みが続くため禁止である。主君の手討ちは誰も復讐できない。また、親が子の内、兄を手討ちにした場合、その弟は兄の仇を討つ事はできない。一方、敵と狙われる方は、卑怯者と言われようと、あくまで討たれないように工夫し、逃げおおせるのが武士の誉れとされた。返り討ちをして、さらに逃亡する事も卑怯ではない。仇討ちは、敵にめぐり合うまでが実に大変であった。仇討ちの成功率は、実に百分の一であったらしい。
3人は幕府に届けを出し、いよいよ仇討ちの旅へと乗り出した。こうした旅の場合、虚無僧に身を変えるのが便利であったので、3人は秀峰山明暗寺を訪れると、そこに入門を願い出た。3人は明暗寺にしばらく滞在して、尺八を習い覚えた。一通りの修行を終えると、3人は黒衣の袈裟をかけ、明暗寺発行の通行手形を手にして山門を出た。この通行手形が有れば、関所の通過は容易となる。3人は東北一円を巡りながら、人の集まる場所に顔を出しては休右衛門の人相画を差し出し、その特徴を語って熱心に情報を求めた。
3人はさらに全国をほぼ一回りしながら、仇を捜し求める。そして、10年の歳月が流れた。留六郎は53歳、幸太郎は28歳、盛次郎は25歳となった。留六郎と同輩の者達は、楽隠居をしていたであろう。兄弟も妻を娶っていてもおかしくない年頃であったが、このような境遇ではそれも叶わなかった。この間、仇討ちの為に貯めてきた費用や、藩主から下賜された45両の金も底を突いてしまう。3人は代わる代わる病気に罹り、長期間、寝込んだ事もあった。
凶事の日から、21年の歳月が流れ、仇の滝沢休右衛門は63歳になっているはずであった。最早、生きているかどうかも定かではない。これからは休右衛門の生死を確かめる事も急務となってきた。3人は話し合って、武蔵にある普化宗鈴法寺(ふけしゅうりほうじ)に再入門する事にした。明暗寺で得た僧籍は金銭で買える仮印可であり、正式の僧として認められた訳ではなかった。そこで3人は鈴法寺で正式な印可をもらい受けようと、修行に励んだ。これは、路銀が底を突いた今、生活の手段として托鉢をする必要があったのと、各地の寺院を訪ねてその協力を仰ぎ、墓地を調べて休右衛門の生死を確かめる必要に迫られた為であった。3人は所定の修行を終えると、正式な僧として法号を得た。
3人は托鉢をしつつ仇を尋ね、無縁仏の墓を調べる旅がさらに10年続いた。留六郎は63歳、幸太郎は38歳、盛次郎は35歳となった。この間、幸太郎は医者を開業し、盛次郎は習字の塾を開いた事もあった。留六郎は老齢となって体が弱り、旅が困難になっていた。嘉永4年(1851年)、隠居して健斎と号していた前藩主、溝口直諒は、まだ本懐を遂げれずに諸国放浪を続けている久米兄弟を哀れんで一文を綴っている。
安政4年(1857年)、弥五朗が殺されてから、40年の歳月が流れた。留六郎は72歳、幸太郎は47歳、盛次郎は44歳となった。この頃になると3人の結束も乱れ、三者三様の考えを持つ様になっていた。あくまで仇討ちの執念に燃えているのは長男、幸太郎1人だけであった。仇討ち40年の歳月は、3人の間に亀裂を作っていたのかもしれない。3人は別行動を取るようになっていたが、連絡場所だけは決め合っていた。
その頃、伊達領、仙台城下のはずれにある曹洞宗金剛寺では、久米兄弟の事が話題に上っていた。そこの住職、大雲和尚には、久米兄弟の仇である滝沢休右衛門に良く似た怪しい人物が思い浮かんできた。その人物とは、伊達領、牡鹿半島にある洞福寺の住職を務める黙照(もくしょう)という老僧であった。この黙照は新発田出身のようであるが、何故かその事に触れられるのをひどく嫌うのであった。檀家の話では、黙照は昔から他国者を異様なほど警戒して、滅多に外に出ないと云う事であった。さらに黒衣の懐に、短刀を忍ばせているのを目撃した人もいた。大雲和尚は、この事を久米兄弟に知らせた。
吉報を聞きつけ、真っ先に駆けつけたのは、やはり幸太郎であった。幸太郎は洞福寺を訪れ、密かに黙照をかいま見たが、面体を知らないので休右衛門とは断定出来なかった。休右衛門の顔を知っている頼みの伯父、留六郎はまだ未着であった。そこで、幸太郎は新発田に戻り、休右衛門の顔を見知っている老齢の親戚、板倉貞次と渡辺戸矢右衛門に同行を願い、再び洞福寺を訪れた。渡辺戸矢右衛門は洞福寺に紛れ込み、黙照が休右衛門である事を確認した。だが、寺内での決闘はご法度であったので、本懐を遂げるには用心深い黙照を寺から誘き出す必要があった。そこで幸太郎は、洞福寺の本山にあたる海渓寺の住職に懇願して、黙照を呼び出してもらう事にした。
安政4年(1857年)10月9日正午頃、3人は牡鹿半島、祝田浜の林に身を潜めて待ち受けていたところ、老僧が足取りもおぼつかずに歩み寄ってきた。幸太郎は躍り出て長刀を振り上げると、名乗りを挙げた。老僧は驚いて、「拙僧は出羽の生まれの黙照と申す者、老いた出家に御無体なされますな」と言って震えながら手を合わせた。その哀れな姿に、幸太郎の心に迷いが生じる。相手は仇とはいえ、82歳の老齢である。それに40年もの歳月の間に、怨恨はほとんど消えてしまっていた。あるのは義務感だけであった。老僧は、幸太郎がひるむのを見ると喜色を浮かべ、「人違いである事が、お分かりか」と云って立ち去ろうとする。だが、その前に、「滝沢、よもや我らを忘れはしまい」と板倉貞次と渡辺戸矢右衛門が立ち塞がった。
老僧は旧知の出現にしばし唖然としていたが、ついに観念したのか、「いかにも、わしが滝沢休右衛門である」と告げた。そして、板倉貞次が、「幸太郎、討て!」と叱咤した。幸太郎は夢中で刀を振り下ろすと、無抵抗の休右衛門は血飛沫をあげて倒れた。実に40年もの辛苦が報われた瞬間であった。この瞬間のため、果てしない闇夜に一点の灯火を求めるような旅を、数十年に渡って続けてきた。風雨に打たれつつ諸国を巡り、托鉢で物乞いして糊口を凌ぐ毎日であった。少年は青春も知らず、人間らしい生活も送れないまま、中年となった。余りにも多くのものを失ってきた幸太郎に、この時、どのような思いが去来したであろう。辛苦と責務からようやく解き放たれたという開放感であったのか、それとも言い様の無い虚無感であったのか。この時、久米幸太郎47歳、弟盛次郎44歳、叔父板倉留六郎72歳、滝沢休右衛門82歳であった。
この後、新発田に帰国した幸太郎は家名を再興した上、250石に加増された。間に合わなかった弟、盛次郎と伯父、留六郎にも長年の労苦を賞され、それぞれ扶持が下された。仇討ちの手助けをした、板倉貞次と渡辺戸矢右衛門にも褒賞が与えられた。宮城県石巻市祝田浜には、「久米幸太郎仇討の地」と書かれた碑が置かれている。
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