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鬼武蔵の覚悟 

2009.02.09 - 戦国史 其の一

永禄元年(1558年)、森長可は、織田家の重臣、森可成の次男として生まれた。弟には、かの有名な森乱丸がいる。元亀元年(1570年)4月25日、 兄、可隆(よしたか)は、越前手筒山城攻めの際、討死し、同年9月20日には、父、可成も近江坂本にて討死してしまう。そこで、まだ若干13歳であった長可が、家督と所領の美濃金山(兼山とも)城を受け継ぐ形となった。元亀4年(1573年)3月、伊勢長嶋の一向一揆攻めに加わって16歳で初陣を飾り、その後も長篠の戦いや石山本願寺攻めにも参戦するなど、若くして武功を挙げた。戦場での勇ましい戦い振りに加え、度々見せる傍若無人な振る舞いから、人々から鬼武蔵と称された。 織田信長は、この暴れん坊の若武者をいたく気に入って、度々の重大な軍令違反にも目をつむった。おそらく信長は、自らの若かりし頃の面影を長可に見出したのであろうし、気質的にもうまが合ったのだろう。



天正10年(1582年)2月6日、武田攻めが開始されると、長可は同僚の団忠正と共に織田軍の先陣を切って信濃に攻め入った。そして、信長の嫡男、信忠を大将とする高遠城攻めに参加して、これを攻め落とすのに重要な働きを示した。しかし、この時、長可は忠正と競い合って、上司の川尻秀隆に無断で前進して武田方を攻めるなどしたので、信長から書簡で注意を受けている。信長は長可の軽率な行動を戒めようとしたのだが、長可に改めた様子はなく、そのまま関東の上野国まで猛進する事になる。長可の働きを一言で表せば猪突猛進であったが、結果的には、この急進撃が武田家に立ち直る隙を与えず、早期崩壊に導く事になった。そして、同年3月11日、武田勝頼は天目山にて自刃し、これにて戦国の強豪、武田家は滅亡となった。 同年3月28日、長可は、その武田攻めの功をもって、信長より信濃北部、更級・高井・水内・埴科の四郡を加増され、20万石余の所領を宛てがわれた。


これで長可は、25歳にして大名身分となり、織田家中にて一目、置かれる存在となった。同年4月5日、長可は晴れて川中島の海津城に入城したが、すぐさま領主として大きな試練に立たされる事となった。平定間もない川中島は治安が不安定で、しかも隣接する越後の大名、上杉景勝が策動を仕掛けて、大規模な一揆が発生したのである。一揆軍は8千人余、大将は芋川親正で、上杉景勝と結び付いて、大倉の古城を修復して立て篭もった。同年4月7日、一揆軍が進撃してくると、長可は海津城から打って出て、兵3千余をもって一気呵成に攻め立て、一揆勢1,200人余を討ち取る大勝を得た。続いて大倉古城も攻め落とし、城内に残っていた女、子供1,000人余を容赦なく切り捨てた。


長可はこの一揆鎮圧の功をもって、信忠より感状を受けた。同年5月27日、 長可は領地経営に意を注ぐ間もなく、信長より越後進出を命ぜられ、兵5千を率いて北上する。同年6月初旬、越後に侵攻した長可が上杉景勝と対峙していた時、驚愕すべき知らせが届けられた。天正10年(1582年)6月2日、上方にて本能寺の変が起こり、そこで主君、信長と3人の弟が戦死したとの事であった。だが、長可にはそれを悲しむ余裕も、逡巡する時間もなかった。今、居るのは敵地のど真ん中であって、すぐさま兵をまとめて脱出せねば全滅する恐れがあった。長可は川中島へと舞い戻ったが、そこは既に敵地と化していた。川中島の国人達は長可を見限って、再び一揆を起こしたのである。 折角、手にした領土であったが、最早、維持するのは困難で、長可は旧領、金山への帰還を決意した。


長可は国人達から人質を取っていたので、これを盾にしつつ、信濃からの脱出を図った。しかし、それでも一揆勢が前に立ちはだかったので、長可は一戦交えてこれを撃ち破り、松本に到着した時点で人質を残らず処刑した。長可は続いて木曽谷を抜けんとしたが、地元の領主、木曽義昌の動向は不明で、長可を亡き者にせんとの風聞も流れていた。そこで長可は予定を早めて夜間、木曽福島城に押し入り、義昌の嫡男、義利を捕らえて人質とした。これで義昌は手が出せなくなり、長可はようやく金山城への帰還を果たしたのだった。尚、義利は美濃国の大井宿(おおいじゅく)まで来たところで、解放されている。


織田信長、信忠の死を受けて、美濃は無主の地となり、各地の国人達がそれぞれ勢力の伸張を図る、群雄割拠状態に陥った。そして、長可も金山帰還後、近隣の切り取りを開始した。天正10年(1582年)6月27日、織田家の宿老が集まって清洲会議が行われ、信長の三男、信孝が美濃の主となるが、長可はこれに叛いて尚も近隣の切り取りを続け、信孝の重臣、斎藤利堯が守る加治田城をも攻め落とした。これにより、東美濃の諸城の多くが長可に属する事となった。清洲会議後、羽柴秀吉と柴田勝家の対立が激化し、戦に発展すると長可は秀吉方に付いて、柴田方となった信孝の諸城を攻め立てた。信孝は足元で起きている、東美濃での長可の働きや、西美濃の重鎮、稲葉一徹の離反を受けて岐阜城からまったく動く事が出来なかった。


そして、天正11年(1583年)4月20日、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が破れ、北ノ庄で滅亡すると、孤立した信孝は岐阜城を開け渡し、まもなく切腹を命ぜられた。 天正12年(1584年)、羽柴秀吉と徳川家康、織田信雄が対立を深め、「小牧・長久手の戦い」へと発展すると、長可は舅の池田恒興と共に秀吉方で参戦する。同年3月13日、恒興が織田信雄の支城、犬山城を奪取すると、これに歩調を合わせる形で、3月16日、長可も3千人余を率いて尾張羽黒へと進軍し、小牧山城の奪取を狙った。しかし、この動きは家康に読まれており、3月17日早朝、長可は家康家臣の酒井忠次、榊原康政ら5千人余の奇襲を受けて、300人余を討ち取られる敗北を喫した(羽黒の戦い) 。長可は、この敗北に深い恥辱を覚える。この後、家康は小牧山城に入り、周囲に砦や土塁を築いて秀吉の来襲に備えた。


3月28日、秀吉は大軍を率いて楽田に着陣し、家康と向かい合うが、小牧山を中心とした徳川方の防備が堅いのを見て、楽田を中心に城砦群を築く。こうして厳重に守りを固めた両軍は、迂闊に手を出せなくなり、戦線は膠着状態に陥った。秀吉は兵力では勝っているので、別働隊を編成して、徳川方の陣地帯を迂回しつつ、三河方面に侵攻する計画を立てた。別働隊の編成は、本隊の羽柴秀次が8千、三番隊の堀秀政が3千、二番隊の森長可が3千、先鋒の池田恒興、元助父子が6千で、合計2万人余の大軍団であった。長可はこの作戦に参加するにあたり、羽黒での敗退を挽回すべく心に期するものがあった。そして、自筆の遺言状を、秀吉の近臣である尾藤甚右衛門に宛てて送った。


4月6日夜、秀次別働隊は三河に向けて出陣するが、練達の家康はすぐさま、その動きと意図を読んで動き出した。そして、榊原康政ら4,500を先鋒として出立させると、自らも織田信雄と共に先鋒に続いて、秀次別働隊の追跡を開始する。4月9日、秀次別働隊は行軍中、岩崎城近辺を通過するが、ここで岩崎城兵の妨害を受けたので、池田隊が応戦し、これに森隊も加わって攻城戦が開始された。城方は圧倒的な寄せ手相手に善戦したものの、衆寡敵せず、16歳の丹羽氏重以下200人余の城兵が全滅して、岩崎城は落ちた。城を落としたものの池田隊の疲労は大きく、休憩を兼ねて配下の論功行賞を始めた。そのため秀次本隊も停止して、敵地で別働隊全体の動きが止まった。しかし、その間に徳川軍は背後に忍び寄り、最後尾の秀次隊に狙いを定めると、一斉に襲い掛かった。


不意を突かれた秀次隊は壊乱し、総大将の秀次はからくも長久手方面に逃れた。 三番隊の堀秀政は沈着冷静で、後方の銃声ですぐさま徳川軍の追撃と判断し、隊を返して秀次を収容し、備えを固めて徳川軍を待ち受けた。家康先鋒隊は勢いよく堀隊に攻めかかったが、待ちかまえていた堀隊に鉄砲の一斉射撃を受けて冷や水を浴びせられた挙句、槍隊の逆襲を受けてたまらず崩れたった。先鋒の敗走を知った家康は直ちに救援に向かい、御旗山(長久手にある丘陵)に上って、頂上に自らの所在を示す金扇の馬印を打ち立てた。秀政はこの金扇を見て、難敵、家康の着陣を悟る。しかし、堀隊は井伊直政隊の攻撃を受けて打撃を受けた事に加え、主将の秀次を無事逃す必要もあって、秀政は家康の着陣を先鋒の池田、森隊に通報してから、戦場を離脱した。


一方、恒興と長可は秀次隊の敗報を受けて、すぐさま引き返しにかかったが、その途上で、御旗山に陣取る徳川、織田連合軍と遭遇した。森隊、池田隊は合わせて9千人余で、徳川軍は織田信雄隊を含む1万人余であった。森隊、池田隊は家康に帰路を塞がれて、戦って押し通るしか方策は無かった。両軍、しばしの睨み合いの後、4月9日午前10時頃、ついに戦いの火蓋が切って落とされた。双方、戦歴を積んだ武将同士で、人数もほぼ互角とあって、両軍入り乱れての激闘が続き、どちらに軍配が上がるかわからない状況であった。そして、長可も前線に立って、鬼武蔵の名に相応しい猛戦を続ける。 だが、激戦の最中、一発の銃弾が長可の眉間を撃ち抜いた。長可は馬上から崩れ落ち、その首は徳川方によって掻き切られた。森長可、享年27。この長可の討死を切っ掛けとして、池田隊も崩れ始め、恒興も勇戦空しく、嫡男、元助と共に討ち取られる。


こうして、秀次別働隊は前後共とも壊滅した。この小牧・長久手の戦いで秀吉方は2,500人余り、家康方は550人余りの戦死者を出したとされている。長可の討死後、遺言状の内容は尾藤甚右衛門を通じて、秀吉や長可の家族に伝えられた。 長可討死の13日前に書かれた遺言状の内容はこうである。

「宇治にある名物の沢姫の茶壷と、山城の仏陀寺にある台天目茶碗、いずれも秀吉様に進上する。もしも自分が討死したならば、母上は秀吉様から生活費を頂いて京都に住んでもらいたい。末弟の千丸は今のまま秀吉様に奉公せよ。自分の後継者をたてることはくれぐれもいやである。しかしこの金山城は要地であるから、しっかりとした人物を秀吉様から置いてもらえ。女達は急ぎ大垣の池田家に帰らせよ。粗末な茶道具や刀や脇差、仏陀寺にある物の他はみな千丸に与える。ついで、京都の本阿弥家に預けてある秘蔵の脇差二つも千丸にやる。おこうは京都の町人か医者に嫁がせよ。母上は必ず必ず京都にいていただきたい。千丸にこの金山城を継がせるのはいやだ。けれども万が一総負けになったなら、皆々火をかけて死んでほしい。」


長可の兄、可隆は元亀元年(1570年)に越前敦賀・手筒山城を攻めた際に討死しており、同年には父、可成も近江坂本合戦で討死している。更に、天正10年(1582年)、本能寺の変の折には森乱丸・坊丸・力丸の弟3人を一挙に失った。長可は戦場に於いては命知らずの猛者であるが、戦国の世の苛烈さは身をもって味わっており、自分が討死した際には、残された遺族はもう戦乱に巻き込きこまれないでほしいと願っていた。 それでも、戦乱に巻き込まれたなら、せめて武家らしい最後を遂げてもらいたいと言っている。長可の遺書を読んで、妙向尼(長可の母)は嘆き悲しんだ事であろう。夫と4人の息子を失い、今また長可を失ったのである。 その後、女達(おそらく妻とその侍女達)は妻の生家である池田家に帰り、おこう(おそらく長可の娘)は遺言通りに商人に嫁いだものと思われる。


だが、金山城は、千丸こと忠政が継ぐ事になった。長可は忠政に城を継いでもらいたくはなく、秀吉の近習として仕えてもらいたいと望んでいたが、この措置は、森家を存続させてやりたいという秀吉なりの配慮であったのか。それとも、大勢の家臣を抱える大名としての森家の責務であったのか。その後、忠政は関ヶ原の戦いの折には家康方に付き、加増を受けて森家を存続させることに成功する。そして、森家は紆余曲折はあったものの、大名として明治までその名を残す事となる。 戦国時代、大勢力を誇る一族であっても、一敗地にまみえれば、族滅する事も日常茶飯事であった。その中で、多くの犠牲を払いながらも大名として存続できた森家は、まだこれでも幸運な方であったのかもしれない。

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