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2020.06.01 - 
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諸葛亮、対、司馬懿  稀代の智将2人の対決と生き様 1

2015.05.01 - 三国志・中国史

三国志において名高い2人の智将を、主に軍略面から比較したい。まずは両者が誕生してから、227年の諸葛亮の北伐に至るまでの簡単な略歴を紹介する。


181年、諸葛亮は、泰山群の副長官を務めていた諸葛珪の子として生まれた。幼い頃に両親を亡くし、その後は親族によって養育される。少年時代、叔父で、豫章太守に任ぜられた諸葛玄に伴われて、南方へと移り住んだが、その地で戦乱を受け、諸葛玄も殺されたので、荊州(けいしゅう)へと逃れた。晴耕雨読の生活に入った諸葛亮は、身の丈8尺(約184センチ)の偉丈夫に成長し、知識も蓄えて、自らを古の名臣、管仲と楽毅になぞらえた。周囲の人間は皆、大風呂敷であると見なしていたが、学識ある知人である崔州平や徐庶だけがその通りであると、才を認めていた。


206年、劉表の客将として、荊州北部に駐屯していた劉備は、広く人材を求めていた。そこへ、家臣となっていた徐庶から、諸葛亮の才気の程を聞き付け、劉備は三顧の礼をもって陣営に迎え入れた。この時、諸葛亮は26歳の書生で、まだ一部の者にしか名は知られていなかった。一方、劉備は46歳で流亡の身ではあったが、その名は天下に知られていた。劉備は、諸葛亮の人物を見込んで、粗末な草廬(そうろ)に三度も出向き、年下と侮る事なく、礼節をもって迎え入れた。この時の感激と恩義を、諸葛亮は生涯忘れる事はなく、その後の働きの原動力となった。


劉備も諸葛亮に全幅の信頼を置き、戦略面、政治面でその才を存分に発揮させると共に、自らが出征する際には留守全般を任せた。隙あらば、敵の侵攻や反乱が相次いでいた当時、君主の留守を預かるという任は非常に重要で、信頼が置けて相当な力量の持ち主でなければ、任されなかった。また、諸葛亮は、天下三分の計を発案して蜀の建国まで導いただけでなく、法律を制定して統治面でも多大な功績を残した。223年、劉備が死去する際には枕元に呼ばれ、国家と、太子の劉禅、それに天下の統一を託された。しかし、この時、蜀が置かれていた状況は非常に厳しかった。


219年の関羽の敗死と荊州の失陥、222年の夷陵の大敗と蜀軍主力の壊滅、223年の劉備の死去と益州南部の反乱、引き続く魏と呉の強大な圧力、まさに蜀は存亡の危機に立っていた。全ては、諸葛亮の双肩にかかっていた。まず、諸葛亮は呉との関係修復に乗り出し、これを成功させて戦略面での負担を大きく軽減する。そして、225年には、益州南部の反乱鎮圧に自ら向かい、これを平定した。こうして国内を安定させ、軍を再建した諸葛亮は、劉備との遺命を果たすべく、227年、満を持して北伐を開始する。



司馬懿の生涯を辿るには、「晋書・宣帝紀」に拠るところが大きいが、この書には多くの俗説が含まれている事を予め、断わっておく。


179年、司馬懿は、漢朝の高官を務めていた司馬防の子として生まれた。司馬防の息子8人は皆、俊才を謳われていたが、その中でも司馬懿は特に優れていて、頭が非常に切れる上、並外れた胆力を備え、遠大な大望を抱いていた。人物鑑定の名人として知られていた楊俊は、彼を見て、並々ならぬ大器であると太鼓判を押している。201年、司馬懿は、河内郡の会計官の属官に推挙された。


才能を聞き付けた曹操から陣営に加わるようにとの誘いが来たが、曹操に屈従するのを望んでいなかった司馬懿は、中風を理由にしてこれを断わった。208年、丞相となって一段と権力の高みにたった曹操は、再び司馬懿に出仕を求めた。曹操は前回の経緯を知っているだけに、今度は引っ捕えてでも連れて来いと使者に言い含めており、身の危険を感じた司馬懿は已む無く承諾した。司馬懿は最初、太子のお相手役を勤めた後、文官職を歴任していったが、やがては軍事にも参画するようになる。


215年、曹操が漢中を征した際には従軍して、勢いに乗じて蜀の劉備を征討するよう献策したり、219年、関羽が北上してきた際には、呉の孫権を動かして背後を突かせるよう献策している。前者は採用されず、劉備は窮地を逃れたが、後者は採用されて、関羽を討ち取る事に成功した。曹操が魏王になると、司馬懿は太子、曹丕付きの書記官となり、重大な問題には必ず質問を受け、その度、非凡な策を献じたので、深い信頼を受けるようになる。220年、曹操が死去して、曹丕が帝位に付くと、司馬懿は近臣として重く用いられ、政治の中枢で働く事となった。


曹丕からの信頼は絶大で、将軍と宰相の兼務を命じられる共に、「留守を任せられるのはそなたをおいて他にはいない。私が東征する際には、そなたが西の蜀に備え、私が西征する際には、そなたが東の呉に備えるのだ」とまで言わしめた。226年、曹丕が危篤になると、司馬懿は曹真、陳羣、曹休らと共に枕元に呼ばれて、後事を託された。司馬懿は次の皇帝、曹叡にも深く信頼され、227年には宛に駐屯して、魏、呉、蜀の勢力が接する重要な係争地、荊州、予州の軍事の全権を委ねられた。そして、この年から、諸葛亮の北伐が始まり、歴史に残る対決が始まる事となる。





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安史の乱 4

2013.10.16 - 三国志・中国史
乾元2年(759年)秋、唐軍の最高指揮官であった郭子儀は、先の敗北を受けて長安に召還され、代わって李光弼が全軍の指揮官となった。郭子儀も李光弼も名指揮官である事に変わりはないが、両者の性格は大いに異なっていた。郭子儀は寛容で多少の不法は見逃したが、李光弼は厳格で軍紀に反した者は誰であろうと容赦しなかった。


乾元2年(759年)9月、史思明は出兵して黄河を渡り、洛陽から程近い汴州(べんしゅう・現在名、開封)を攻めた。史思明はたちまち汴州を攻略すると、更に西に兵を進めて、洛陽に迫った。李光弼も唐軍を率いて洛陽に駐屯したが、勢いは史思明にあって洛陽は守りきれないと判断し、北の孟州に撤退した。同年9月27日、史思明は空城となった洛陽を占領し、続いて李光弼が拠る孟州に攻め寄せたが、手痛い反撃を食らって撤退を余儀なくされた。


上元元年(760年)2月、李光弼は懐州に進撃し、これを救援に来た史思明を打ち破った。史思明も優れた指揮官であったが、李光弼にだけはどうしても勝てなかった。
上元元年は唐軍と史思明の間で大規模な会戦は起こらなかったが、双方、軍を各地に派遣して取ったり、取られたりの攻防が続いた。安史の乱勃発以来、戦場となった地域では田畑が荒れて飢饉が頻発し、また、双方の兵士によって略奪と虐殺が繰り広げられたので、数百万から数千万もの民衆が死に追いやられる事になる。


上元2年(761年)2月、唐の粛宗は洛陽再奪還を命じ、李光弼ら節度使4人の軍団を送り出した。同年2月23日、李光弼は邙山(ぼうざん・洛陽北の丘陵)に布陣したが、味方節度使との連携が噛み合わず、陣立てに手間取った。史思明はその隙を逃さず、速攻をかけて唐軍を打ち破り、数千人余を斬った。李光弼らは黄河を渡って撤退し、孟州、懐州は史思明の手に落ちた。これで史思明は李光弼に雪辱を晴らし、長安も窺う形勢となった。史思明は勝ちに乗じて陝州(せんしゅう)に攻め入り、潼関の攻略を目論んだ。


同年3月9日、史思明は長子の史朝義に先鋒を命じて、唐軍を攻撃させたが、史朝義は敵陣を突破できずに後退してきた。史思明は、史朝義が怖気づいたと考え、「史朝義に大事は任せられない」と言い放った。
3月11日、次に史思明は、期限を定めて兵糧貯蔵庫の建設を史朝義に命じたが、これにも遅れをとったので、史思明は激怒して面罵した。史朝義は陝州攻略後には軍法にかけられる事になり、大いに恐れを抱いた。史思明は、末子の史朝清を偏愛して皇太子に立てたいと考えていたので、これを機会に史朝義を誅殺せんとしたのだった。


だが、先手を打ったのは史朝義の方だった。同日、史朝義は武装兵を率いて、史思明の宿舎を囲み、これを拘束した。史思明は、「まだわしを殺すのは早い。どうして長安攻略を待たなかったのだ。もう大業は成し遂げられぬ」と無念そうに言った後、絞殺された。
史朝義は帝位に上り、部下をやって范陽にいる史朝清とその取り巻きを抹殺させた。しかし、この後、范陽では史朝清派が蜂起して内戦が勃発し、数千人余の死者を出した挙句、2ヵ月後にようやく落ち着きを取り戻した。


安禄山と史思明の最後はまったく同じで、錯乱して妾の子を立てようとした挙句、嫡子によって殺害されるという無残な最後を遂げたのだった。成り上がり者は栄華を極めた途端に慢心し、破滅に至ったのであろうか。しかし、これらの出来事は唐側の視点で書かれた記録が歴史となって、今に伝わっている事なので、注意が必要である。勝者が敗者の記録を抹消し、必要以上に悪し様に書き換えて、自らの正義を強調する事は何時の世にも存在するからだ。


唐の詳細な歴史を書き綴っている、「資治通鑑(しじつがん」にしても、王朝史観に則って唐朝に同情的で、それに反旗を翻した安禄山や史思明は、常に悪辣で粗暴な人物に描かれている。しかし、安史の乱を取り上げようとすれば、どうしても資治通鑑の記述に頼る他無いのが、現状である。
宝応元年(762年)4月5日、玄宗は78歳の波乱の生涯を閉じ、4月18日には、乱終結に執念を燃やした粛宗も52歳で死去し、代わって代宗が即位した。


同年8月、史朝儀はウイグルに使者を送り、「唐では皇帝が相次いで死去して、皇帝不在の状況である。ウイグル王は我々と組んで、唐の国富を手に入れるべきだ。」と誘いをかけた。ウイグル王はその気になり、王自ら10万と号する大軍を動員して南進を開始する。ウイグル騎兵の精強さと容赦のない略奪行為は世に知られており、唐朝は上も下も恐怖に慄いた。
滅亡の危機に瀕した唐の代宗はウイグル王に使者を送り、これまでの協力関係を訴えかけ、毎年、絹数万匹を送っている事も伝えて必死に説得した。


しかし、それでもウイグル王は首を縦に振らなかったので、史朝儀の支配地での略奪に加えて、唐の支配地での略奪まで許可して何とか翻意させる事に成功した。
そして、同年10月、唐とウイグルは再び一体となって、史朝儀が支配する洛陽へと向かった。 10月28日、唐、ウイグル軍は洛陽近郊に達し、陣地線を張る史朝儀軍と向き合った。唐とウイグルは騎兵をもって陣地を迂回すると、挟み撃ちにして史朝儀軍の前線部隊を撃滅した。史朝儀は本隊10万人を率いて救援に駆け付け、唐軍の前に布陣した。


唐軍はすぐさま猛攻をかけたが、史朝儀軍は容易には崩れず、激戦が展開された。唐軍はひたすら突撃して突破口を開き、そこに全軍を投入して、史朝儀軍を打ち破る事に成功した。史朝儀は6万人余の兵を失って大敗し、洛陽を捨てて東に逃れ去った。ウイグル軍は洛陽に入ると略奪、強姦、殺人、放火の限りを尽くし、死者は数万人に達して、洛陽は数十日間燃え続けた。唐としては、ウイグルに略奪を許可している以上、この蛮行を見守る他無かった。
史朝儀は残兵を糾合して、唐軍の進撃を食い止めんとしたが、最早どうにもならず、連戦連敗して次々に支配地を失っていった。


同年11月22日、史朝儀の有力部将であった張忠志が、支配下にある五州諸共、唐朝に投降した。唐、ウイグル軍は追撃の手を緩めず、史朝儀を北に北に追い詰めていった。広徳元年(763年)1月、史朝儀の有力部将、田承嗣や李懐仙は諸州を挙げて唐朝に帰順し、ついに史朝儀は孤立無援となった。本拠の范陽城に入る事すら拒否され、更に北を目指したが、そこで李懐仙の部隊に追いつかれ、絶望して自殺した。同年1月30日、史朝儀の首は長安に送り届けられ、唐の群臣はそれを確認して、ようやく乱は終結したと安堵した。


天宝14載(755年)11月9日の安禄山の挙兵以来、7年2ヶ月に渡る大乱であった。これで再び唐の時代が戻ったのであるが、以前の勢威は決して取り戻せなかった。安史の乱勃発直前の754年の調査によれば、唐の戸数は907万戸、人口は5288万人であったが、乱終結直後の764年の調査によれば、戸数は293万戸、人口は1692万人にまで減少していた。戦乱によって、戸数は614万戸、人口は3596万人も失われた事になる。


この失われた3600万人余の人々は、全てが死者となった訳ではなく、難民となって戸籍から外れたり、唐朝の領域が縮小して、その支配から外れた人々も多く含まれているが、それでも、数千万もの人命が失われたと見られる。人口の減少はそのまま税収と軍事力の減少を意味しており、乱終結後の唐の力は、盛期の三分の一に低下したに等しい。
中国の戸数が再び900万台に戻るのはこれから250年後、宋代の1014年まで待たねばならない。人口も1010年代になってから、5千万人に戻ったと推測される。


乱の影響がいかに凄まじかったかを、この人口数と戸数の推移が物語っている。
乱の最中、唐は節度使を次々に新設していったが、乱が終結すると、それらは自立して藩鎮(はんちん)と呼ばれる地方軍閥となった。唐は豊かな江南を保持していたから、尚も中国最大の勢力であり続けたが、地方軍閥を滅ぼすまでの力は無かった。特に安禄山の本拠地であった河北一帯では、河朔三鎮(かさくさんちん)と呼ばれる三つの地方軍閥が唐の支配を拒否して、自立する事になる。


この河朔三鎮は、かつての安禄山の部将、張忠志、田承嗣、李懐仙らで、彼らは中央への納税を拒否し、官吏も自ら定めた。唐は河朔三鎮の反抗的な態度に悩み続けるが、それでも穆宗(ぼくそう)の時代にある程度、勢いを取り戻し、武力をもって藩鎮の大半を従属させる事に成功する。だが、これも藩鎮に対する優位性を確保しただけで、直接支配には至らなかった。この穆宗(ぼくそう)の軍事的成功が唐の最後の輝きであると同時に、当時の唐の力の限界でもあった。安史の乱で受けた傷は、それほど深かったのだ。


以降の唐王朝では宦官が跋扈して内部抗争に明け暮れ、衰亡の一途を辿る事となる。やがて、反乱が頻発する様になり、止めとなる黄巣の乱が勃発して唐の国家機構はずたずたになった。そして、天佑4年(907年)、後梁の朱元忠によって唐朝最後の皇帝、哀帝が廃され、滅亡とあいなった。618年の創立以来、300年弱の命脈であった。だが、安史の乱を受けて滅亡の危機に瀕しながらも、巻き返して乱を終結させ、尚も150年余、王朝を保ちえたのは、さすがとも言えようか。


未曾有の大乱を起こした安禄山と史思明であるが、以降の中国史では悪逆無道の賊として、現在にまで伝えられている。中国の民衆は、この二者の引き起こした乱によって塗炭の苦しみを味わったのだから、それも理解できよう。だが、漢文資料は基本的に、異民族の反乱には、悪意を込めて書きたてる傾向があるのも事実である。安禄山と史思明は共に異民族の血を引き、しかも皇帝に反逆しているので尚更である。だが、安禄山らの本拠があった范陽一帯では逆に人々に慕われており、死後、廟が建てられて二聖と尊称されたと伝わっている。実際、史思明の死を悼んで書かれた、史思明哀札と呼ばれる木簡が幽州から出土している。


「資治通鑑」では、安禄山は早くから叛心があって、周到な謀反計画を立てたとあるが、実際には、楊国忠に追い詰められた挙げ句の、破れかぶれの挙兵だった可能性もある。安禄山は挙兵以前から、病身の可能性が高く、どうせ死ぬなら最後の花を咲かせようとしたのかもしれない。また、この反乱は単純な謀反ではなく、ソグド人らによる新国家建設運動であったとの見方もある。安禄山からは長期的な構想力は見出せず、勢いで突っ走った感はあるが、多種多様な人々の心を掴み、それを巨大な力に変えて歴史を揺り動かしたのだから、並々ならぬ器量の持ち主であった事は間違いないだろう。その功罪は別として、乱の影響は、中国のみならず、周辺国家、ひいては東アジア全体にまで及んだ。

安史の乱 3

2013.10.16 - 三国志・中国史
至徳元年(756年)7月12日、霊武に逃れていた皇太子の李亨(りこう)が即位して粛宗となり、玄宗は上皇に追いやられた。この霊武は唐の最有力部将、郭子儀の本拠地であり、粛宗はここから反抗の機会を窺った。粛宗は郭子儀の力を大いに頼りとしたが、それでも戦力不足は否めず、北方の遊牧帝国であるウイグルに協力を求めた。ウイグルは中国進出を露骨に狙っていたが、一応、唐への協力を約束する。


同年10月22日、史思明は平原を落として、この方面の主将であった顔真卿を黄河以南に追いやった。更に安禄山の一軍は黄河を渡り、山東半島や長江流域を目指さんとした。長江流域は唐の経済基盤であり、この地を失えば、唐は立ち枯れする事になる。この様に安録山側に情勢が傾こうとしていた時、ウイグルは唐へ加勢する事を決した。そして、大臣に騎兵数千人を授けて、安禄山の本拠、范陽を攻撃せしめた。この范陽襲撃の報を受け、長江を目指していた安禄山軍は撤退を余儀なくされた。


ウイグルは、唐と
安禄山を天秤にかけて、まだ唐の方が御しやすく、こちらに味方した方がより利が得られると踏んだのだろう。同年11月11日、安禄山軍の一派が数万の兵をもって霊武に進撃したが、ウイグルは加勢を送って、唐の郭子儀と協力してこれを撃退した。安禄山は霊武こそ落とせなかったが、長安、洛陽の両都を手中に収め、その勢力は絶頂に達した。あと一押しで、唐に止めを刺せるというところまで来ていたが、ここに来て安禄山が崩壊する。


この頃、安禄山の心身は酷く変調を来たしており、その苛立ちをぶつけるように暴虐武人の振る舞いを見せていた。極度の肥満であったから事から糖尿病を患い、それが悪化したものと思われる。糖尿病壊疽と思われる腫瘍が体のあちこちに生じ、目はほぼ失明して、錯乱状態に陥っていた。そして、至徳2載(757年)1月5日、安禄山は皇太子に任じていた次男の安慶緒を廃し、妾の三男の子を太子に立てんとしたので、これを憂慮した安慶緒から刺客を送られ、腹を割かれて惨死した。


こうして稀代の謀反人、安禄山はあっけなくこの世を去った。生年は定かではなく、享年は53から55であったらしい。決起の日から、1年2ヶ月ばかりの栄光であった。安禄山の死は、表向きは病死と発表され、大上皇と諡号(しごう)された。そして、安慶緒が帝位につき、大燕国第二代皇帝となった。しかし、ほどなくして死の真相は内外に漏れ伝わったと思われる。
この頃、史思明は黄河中流東寄りにある太源を攻めていたが、李光弼の前に敗北を喫したので、安慶緒より范陽に戻る様、命じられた。


史思明は、第二代皇帝となった安慶緒に表向きは従ったものの、内心では盟友の安禄山を殺害された事に怒りを覚えていた。それに安禄山の本拠であった范陽には、唐から略奪した莫大な財宝と、軍需物資が蓄えられていた事から、ここを手にした史思明はたちまち強大な勢力となって、次第に安慶緒の言う事を聞かなくなった。
安禄山の死を受けて、その帝国、大燕は内部より揺らぎ始め、それに合わせて唐の反抗も本格化してゆく。


至徳2載(757年)8月23日、唐の粛宗は群臣を集めて盛大な宴を開き、総力を挙げて長安を奪回すると表明した。同年9月、唐の要請を受けて、ウイグルも精鋭騎兵4千余を送ってきた。唐はウイグルに大変、気を使い、指揮官のウイグル王子に貴重品を授与すると共に、3日間、宴を開いてその軍を手厚くもてなした。こうしてウイグル軍の気を良くしたところで唐軍は出撃し、同年9月27日、長安奪還戦を開始した。唐、ウイグル軍は合わせて15万人余で、総指揮官は郭子儀が務めた。


長安を守る安慶緒軍は10万人余であったが、安慶緒自身はおらず、その部将が指揮を執っていた。緒戦は安慶緒軍優勢で進み、唐軍を破って陣所にまで攻め入った。だが、ここで唐軍随一の勇将、李嗣業(りしぎょう)が奮戦して安慶緒軍を押し返し、更にウイグル軍と共に背後に回り込んで切り崩していった。安慶緒軍は6万人が戦死して壊滅、長安は再び唐の手に戻った。
郭子儀は勝利の余勢を駆って、潼関まで安慶緒軍を追撃した。唐軍が洛陽にまで迫ったので、安慶緒も危機感を覚え、総力を結集した15万人余の軍を送り出して、迎撃せんとした。


同年10月15日、唐、ウイグル連合軍と安慶緒軍は、洛陽の西で激突した。緒戦は安慶緒軍が優勢であったが、ここでもウイグル騎兵が威力を発揮し、その機動力をもって安慶緒軍を背後から突いた事で勝敗は決した。同年10月16日、この敗報を受けて、安慶緒は洛陽を捨て、河北の鄴(ぎょう)に逃れた。同年10月18日、唐、ウイグル軍は洛陽に入城するが、勝利の暁には洛陽を存分に略奪して良いとの唐の約束があったので、ウイグル軍は遠慮なく財宝や婦女を襲って、略奪の限りを尽くした。


今回の長安、洛陽の奪回戦では、いずれもウイグル軍が決定的な役割を果たしていた。唐はその実力を大いに頼りとしたが、逆に恐れもしていた。唐の粛宗は、ウイグルの心を繋ぎとめておくため、絹2万匹を毎年進呈する事を約し、翌年には、まだ幼少の皇女をウイグルに降嫁する事までした。唐は、辺境防備を担っていた兵を掻き集めて、安慶緒との戦いを優勢に進めていたが、その反面、辺境の防備は手薄となり、外部勢力の進出を許す結果ともなっていた。


唐の西方領土は、チベット高原の大国、吐蕃(とばん)によって蚕食され、南でも、チベットビルマ系の南詔が雲南地方(中国南西部)を制圧していった。
一方、安慶緒は長安、洛陽を失って権威を大いに失墜させていた。それでも、鄴を中心に7群と7万人余の兵力を保持していた。しかし、洛陽で敗れた際、精鋭騎兵を含む敗残兵数万人は、史思明の支配する范陽に逃れて、その配下に収まっていた。史思明は、范陽を中心とする13郡と13万人の兵力を有する強大な勢力に成長しており、これに危機感を覚えた安慶緒は、人を送って史思明の暗殺を試みる。


だが、史思明はこの企てを察知し、暗殺者を捕らえて拘禁すると共に、唐朝に使者を送って帰順を申し出た。
唐の粛宗は、史思明の投降を喜び、范陽節度使に任ずると共に、安慶緒討伐を命じた。これを受け、史思明は唐朝の権威を利用しつつ、安慶緒支配下の諸州を次々に服属させていった。乾元元年(758年)、安慶緒は急速に孤立感を深めて疑心暗鬼に陥り、離反しようとした配下を一族諸共、次々に処刑していった。史思明は唐のために働いているかのようであったが、心から服した訳ではなく、あくまで安慶緒への対抗上、帰順したに過ぎなかった。


史思明と度々、対戦してその性質を見抜いていた唐の名将、李光弼は、史思明が再び反旗を翻すと見て、謀殺する様、粛宗に上奏した。粛宗はこれに同意したので、李光弼は、史思明の腹心の鳥丞恩に働きかけて暗殺を試みたが、史思明はこれも察知して、鳥丞恩を一族諸共、処刑した。史思明はこの企てに激怒して、唐朝から再び離反した。
乾元元年(758年)9月、唐の粛宗は、郭子儀、李光弼ら各節度使を集めて安慶緒討伐を命じ、これを受けて唐軍20万人余が河北に進撃した。


安慶緒も自ら7万人余の兵を率いて迎撃せんとしたが、郭子儀率いる唐軍に痛烈な敗北を喫して3万人余の兵を失い、たまらず鄴城に逃げこんだ。唐軍は鄴城を包囲すると、二重の堡塁を築き、三重の堀を掘って、安慶緒を完全に封鎖した。追い詰められた安慶緒は形振り構わず、暗殺を試みた史思明に使者を送り、皇帝位を譲るので救援してもらいたいと伝えた。史思明はこれに応じて13万人余を動員したが、軽々しく進軍せず、まず先遣隊1万人余を鄴城近辺に送って安慶緒軍を鼓舞し、主力は手元に置いて情勢を窺った。


同年11月、唐の一軍が安慶緒支配下にあった魏州を占領すると、史思明はこれを好機と見て、大挙して南下した。そして、まだ防衛態勢が整っていない唐軍に襲い掛かって3万人余を斬り、同年12月29日に魏州を攻略する。乾元2年(759年)1月1日、史思明は魏州城北に祭壇を設け、ここに大聖燕王を自称した。一方、鄴城に篭もる安慶緒軍と唐軍の攻防は引き続いており、同年1月28日には、唐軍の李嗣業が流れ矢に当たって戦死した。李嗣業はかつて、西域で名を馳せた名将、高仙芝の部下として働き、遥か、タラス河畔まで遠征した事もある唐軍随一の勇将であった。


安慶緒が篭もる鄴城は、既に半年余りも包囲されており、糧食は尽きて、将兵達はやつれ切っていた。誰もが落城は近いと感じていたが、長期の滞陣によって唐軍も疲れ切っていた。こうした状況を見て魏州にあった史思明が動き、主力を率いて鄴城に急行した。史思明は鄴城から50里の距離に陣取ると、300張の軍鼓を打ち叩いて、遥か鄴城の安慶緒に援軍到来を知らせると共に、唐軍を威嚇した。続いて史思明は、軍中から精鋭の騎兵を選抜して、唐軍の輸送部隊を毎日の様に襲撃させた。唐軍は長期の滞陣で疲れ切っていた上、食料も不足してきたので、兵士達の間に動揺が広がった。


乾元2年(759年)3月6日、史思明は好機到来と見て、精兵5万人を率いて、唐軍20万人余に決戦を挑んだ。唐軍の郭子儀、李光弼らはこれを迎え撃ったが、自ら先陣に立って突撃する史思明の勢いに押されて、散々に打ち破られた。唐の歴史を書き綴っている資治通鑑(しじつがん)によれば、激闘の最中、突然、嵐が巻き起こって唐軍、史思明軍共に驚き慌てて敗走したとあるが、実際には唐軍は全面撤退に追いやられているので、大敗北を嵐で糊塗したのであろう。


史思明は唐軍を打ち破って鄴城に到着したが、安慶緒は、唐軍が遺棄していった糧食を城に運び入れると、城門を閉ざして、史思明を拒否する姿勢を見せた。だが、この処置に安慶緒の将軍達から次々に異論が挙がったので、安慶緒はやむなく城を出て、史思明に頭を下げた。安慶緒は長安、洛陽を失陥した事を詫び、史思明の救援に感謝の意を述べた。だが、史思明は激怒して、「長安、洛陽の失陥など取るに足らぬ。ただ、お前の許されざるところは、父を殺め、皇帝位を奪い盗ったことにある。私が太上皇(安禄山)に代わって逆賊を討つ!」と叫んで、衛兵に命じて安慶緒を斬らせた。


それから史思明は軍を整えて鄴城に入城し、安慶緒の軍と支配下にあった州を接収した。領域が大幅に広がった事から、史思明は支配を固めなおす必要に迫られ、一旦、范陽に戻った。乾元2年(759年)夏、史思明は大燕皇帝を名乗り、范陽を燕京と改名した。大燕皇帝とは安禄山が最初に自称したものであり、史思明は名実共にその意志を継いだ事になる。

安史の乱 2

2013.10.15 - 三国志・中国史
玄宗の治世の末期、皇帝の親族である李林甫(りりんぽ)が、宰相として国政を取り仕切っていた。李林甫は国家の安寧より、自らの地位の安寧を望む人物で、競争相手や反対者を次々に粛清し、例えそれが皇太子であろうとも容赦しない、恐るべき権勢家であった。唐の政界を事実上、牛耳っていたのがこの李林甫で、それに次ぐ権勢を誇ったのが、楊貴妃の従兄弟と言うだけで成り上がってきた楊国忠(ようこくちゅう)と、地方の大実力者となっていた安禄山であった。


安禄山は、楊国忠の方は小馬鹿にしていたが、李林甫には恐れを抱いていた。安禄山は機知に富んでいたが、それでも李林甫の狡猾さには敵わなかった。李林甫は、安禄山の 心底を見透かしていたので、彼と会見する度、冷や汗をかいたそうである。だが、その李林甫が、天宝11載(752年)に死去した事で、政界の勢力図は大きく塗り替えられた。すなわち、楊国忠が宰相の地位に付いて、国政を壟断するようになったのである。ところが、安禄山にも国政を独占したいという強い野心があった事から、両者は譲らず、急速に対立が深まっていった。


楊国忠は玄宗に密奉して、安禄山から兵権を取り上げんとしたが、玄宗はまだ、安禄山を信頼していた事から、受け合わなかった。
安禄山も楊国忠を倒すべき敵と定めたが、玄宗からは篤い寵愛を受けていたので、さすがに気が引けて、その死後に兵を挙げようと思っていたようだ。しかし、楊国忠からの挑発は激しさを増すばかりで、両者の対立は抜き差しならぬものとなる。楊国忠は安禄山を挙兵に追い込んで、最大の政敵を葬り去ろうと目論んだ。この様に事態は緊迫の度合いを深めていったが、国家の最高権力者たる玄宗はそれに目もくれず、楊貴妃との宴の日々を楽しむのみだった。


天宝13載(754年)1月、楊国忠が、「安禄山に謀反の企みあり」と盛んに訴えるので、玄宗もやむなく安禄山に入朝を促した。この時点で兵を挙げる気の無かった安禄山は直ちに入朝し、玄宗に謁見して変わりなき忠誠を誓ったので、その信頼はより篤いものとなった。玄宗は安禄山を同平章事(準宰相)に任命しようとしたが、楊国忠の、「軍功はあっても文字の読めない者に宰相は務まらない」との反対を受けて、取りやめた。安禄山はかねがね、宰相の地位に就きたいと願っていたが、その道は断たれる事となった。政治で楊国忠を倒す見込みがなくなったので、これで安禄山は武力による打倒、すなわち謀反の腹を固めたと云われている。



安禄山は、玄宗に群牧知総監事(国営牧場長官)になる事を願い出て許可を得た。そして、安禄山は部下を牧場に送り、軍用に耐えうる良馬数千頭を選び抜き、それを支配下に移して飼わせた。天宝14載(755年)、安禄山は自軍にいる漢人将軍は柔弱なので、子飼いの異民族の将32人に代えてもらえたいと玄宗に訴え、これも許可を得た。これで20万人余の大軍が、完全に安禄山の私兵と化した。同年4月、安禄山は挙兵を前に、背後の安全を確保せんとしてか、契丹と奚を攻め叩いた。この頃になると、安禄山の叛心も半ば露わとなり、朝廷からの使者が訪れても臣下の礼を取らず、武装兵を従えて謁見した。


一方、楊国忠も安禄山謀反の証拠を得ようとして、長安の安禄山邸を囲み、その賓客を捕らえて殺害した。同年6月、安禄山の長男、安慶宗と玄宗の娘である栄義群主との成婚式が開かれる事となり、安禄山も参列する様、促されたが、病と称して入朝しなかった。この頃になると安禄山への注意を促す注進が相次ぎ、玄宗もさすがに疑いを抱くようになっていたので、安禄山も挙兵計画を実行に移す事とした。
安禄山は20万人余の大兵を有していたが、それでも唐軍全体の三分の一に過ぎない。時間をかければ、唐は残り40万人余の兵力を結集させて、安禄山を押しつぶしにかかるだろう。事は、電撃的に進めねばならなかった。


安禄山は信を置く5人の重臣だけに胸中を明かし、周到に作戦を練った。そして、武器、糧食を整え、行軍路を事前調査し、作戦日程を立てた。唐朝では、安禄山謀反の噂は流れていたものの、さしたる対策はまったく取られていなかった。安禄山は挙兵するにあたって、ソグド人から莫大な経済援助を受けていたと考えられる。ソグド人はシルクロードの主要商人にして、騎馬を駆る強力な武装集団でもあった。ソグド人は、その経済力と軍事力をもって、当時のシルクロードを支配していたと考えられる存在である。


また、安禄山の本拠地である范陽にも、ソグド人らによる行(商業ギルド)が多数建ち並んでいた。安禄山自身にもソグド人の血が流れており、若い頃から彼らと密接な関係を持っていたので、その援助を受けるのは容易であったろう。
天宝14載(755年)11月9日、安禄山は、ついに范陽にて挙兵した。安禄山軍の中核を成すのは、敵として戦った契丹族を含む多種族混合の精鋭騎兵8千人で、それに范陽、平蘆、河東から募った歩騎兵、合わせて15万人余であった。これは全軍では無く、本拠の范陽を保持すべく、次男の安慶緒に数万人余の軍を授けて留守を守らせていた。


安禄山軍は様々な民族で構成された雑多な集団であったが、安禄山自身が異民族の育ちであった事から、彼らの心を掴んで、父子軍と称する程、その絆と統制を誇った。
安禄山は、「唐王朝を牛耳る楊国忠という奸人を取り除く」との大義名分を掲げ、怒涛の進撃を開始した。一方、副将の史思明は、安禄山の側背の安全を確保すべく、河北、河東方面の制圧を開始する。未曾有の規模となるこの乱は、安禄山とその盟友、史思明によって引き起こされたものなので、両者の一字を取って安史の乱と呼ばれる事になる。


安禄山は鉄の車に乗って指揮を執り、その大軍が巻き起こす土煙は千里に及んだと云う。同年
11月10日、安禄山挙兵の報が長安に届いたが、玄宗はまだそれを信じず、安禄山を憎む者が流した噂に過ぎないと思っていた。11月15日、次々に続報が入り、玄宗もようやく確報だと悟り、群臣を集めて討議を行った。この席で楊国忠は得意げに、「安禄山の首は10日を経ずして届けられるでしょう」と豪語したと云われている。11月16日、安西節度使の封常清が入朝したので、玄宗が方策を尋ねると、封常清は「勇猛な士卒を募って、蛮族の首を討ち取ってみせます」と大言壮語したので、玄宗は喜び、安禄山から范陽、平盧節度使を取り上げた上で、それを封常清に与えた。


封常清は直ちに洛陽に向かい、そこで6万人余を募兵して安禄山軍に備えた。常山太守の顔杲卿(がんこうけい)は、安禄山軍が迫ってくると自ら出迎えて降参した。安禄山は喜んで、顔杲卿をそのまま常山群太守とした。しかし、顔杲卿は心から服した訳ではなく、頃合を見計らって挙兵する事を決していた。11月21日、玄宗は、唐朝で預かっていた安禄山の長男、安慶宗を斬首し、その妻の栄義群主も自殺させた。11月22日、玄宗は西域で名を馳せた大将軍、高仙芝を召して、安禄山討伐を命じた。12月1日、高仙芝は官戸を開いて11万人余の兵を募り、それに周辺各地から集めた軍を糾合して、長安を進発した。


12月2日、安禄山軍は黄河を渡河し、12月5日には陳留城に達して、そこの太守と将兵を降伏に追い込んだ。だが、ここで安禄山は長男の安慶宗の死を知って激怒し、捕虜としていた太守と将兵1万人余を斬殺した。12月8日、安禄山軍の先鋒は洛陽防衛の重要拠点、武牢関(虎牢関)に達し、ここに陣取っていた封常清軍と干戈を交えて、これを苦も無く撃破した。封常清軍は市井の素人集団で構成されており、長年、契丹と激闘を交えて、戦い慣れした安禄山軍の敵ではなかった。


12月12日、封常清は残兵を率いて洛陽の城門を固めんとしたが、安禄山軍はこれも打ち破って洛陽を陥落せしめた。安禄山は挙兵から僅か1ヶ月余で、唐の副首都を手にした事になる。楊国忠は、安禄山を挙兵に追い込むまでは予定通りであったが、その力は大きく見誤っていた。洛陽から敗残した封常清は陝州(せんしゅう)まで撤退したところで、高仙芝率いる唐軍と合流した。封常清は、「賊軍の勢いは凄まじく、ここは潼関まで退くべきです」と進言し、これに高仙芝も同意したので、共に潼関を守る事となった。 




↑安禄山の侵攻図 (ウィキペディアより)


潼関は洛陽と長安の中間にあって、古来からの交通、軍事上の要衝であった。安禄山軍に洛陽を抜かれた今、更にこの潼関も抜かれれば、唐の首都たる長安も陥落の危機に瀕する。安禄山もその重要性は理解しており、直ちに軍を差し向けたものの、高仙芝らに守備を固められて、抜く事は叶わなかった。だが、ここで玄宗は、高仙芝と封常清に恨みを含む宦官の讒言を真に受けて、12月18日に、この優秀な指揮官2人を死罪とした。高仙芝と封常清の刑死後、潼関には哥舒翰(かじょかん)という将軍が増援を率いて入る事になったが、この時は病身の上、到着もまだ先であった。


これで潼関は一時的に指揮官不在となり、安禄山もこの隙に乗じて、自ら潼関を攻撃せんとした。だが、ここにきて背後で一大変事が起こって、安禄山は攻撃を断念せねばならなかった。12月21日、安禄山に従っているかに見えた、河北の常山群太守、顔杲卿(がんこうけい)が、反安禄山を掲げて挙兵したのである。しかも、顔杲卿の挙兵に合わせて河北の17群が一斉に唐に帰順し、安禄山に残されたのは本拠の范陽を始めとする6群のみとなる。これを放置すれば、安禄山軍の退路は断たれてしまう。そのため、何としても、背後の敵を鎮圧せねばならなかった。


そこで、安禄山の盟友、史思明が迅速に軍を取って返し、まだ防備の整っていない常山城に達すると、直ちに猛攻を加えた。顔杲卿は必死に防戦に努めたが、安禄山軍もまた必死であった。
天宝14載(755年)末の安禄山軍の全体状況は、主力は潼関の唐軍と対峙して動けず、別軍を率いる史思明は常山城を攻撃中であった。安禄山軍は背後に起こった反乱の平定に追われ、その戦線も伸びきって、当初の勢いは失われていた。それでも安禄山は唐の副都、洛陽をその手に収めて、広大な領域を支配するに至ったので、天宝15載(756年)1月1日、安禄山は皇帝の位に上がり、国名を大燕、年号を聖武と定めた。


安禄山は、奸人、楊国忠を取り除くという大義名分はかなぐり捨て、唐朝に取って代わる事を宣言したのである。安禄山の野望は極大に達した感があるが、この頃から安禄山の心身は変調を来たし始めていて、視力も日々失われていった。同年1月8日史思明は常山城を攻め落とし、顔杲卿とその一族を捕虜とした。顔杲卿とその一族は安禄山の前に引っ立てられて、公開処刑される事となった。顔杲卿は手足をノコギリで断ち切られながらも、安禄山に罵声を浴びせ続けて絶命したと云われている。史思明は常山を落とした後も、河北に転戦して諸群の平定を進めた。



2月16日、安禄山は唐の経済基盤である江南を攻め取らんとして、一軍を差し向けたが、県令の張巡が挙兵して雍丘に立て篭もり、激烈な抵抗を見せたので、そこから南に進む事は出来なかった。また、顔杲卿の従兄弟で、平原太守であった顔真卿(がんしんけい)が北海太守と合わせて挙兵し、安禄山を東から脅かした。更に、唐側の名将、郭子儀(かくしぎ)と李光弼(りこうひつ)が河北に攻め入って、4月11日5月29日と二度に渡って史思明を撃ち破り、安禄山を北から脅かした。この頃から唐軍の反抗は本格化して、巨大な包囲の輪が安禄山を徐々に締め付けつつあった。


安禄山が主力をこれらの方面に差し向けようにも、潼関には哥舒翰を指揮官とする18万人余の唐軍が篭もっていたので、これを動かす訳にはいかなかった。この様に、安禄山軍の主力が潼関に釘付けになっているのに乗じて、河北では郭子儀と李光弼が戦線を拡大して、安禄山の本拠、范陽に迫りつつあった。その動きに呼応してか、契丹、奚も范陽に攻め入って打撃を与えた。安禄山は八方塞がりの苦境に陥り、洛陽を放棄して范陽に引き返す事も検討した。だが、ここで、唐側から、わざわざ活路を開いてくれる事態が起こった。


潼関の哥舒翰が打って出て、安禄山軍に決戦を挑んできたのである。
実は、哥舒翰と対立していた楊国忠が、玄宗にたきつけて出撃する様、仕向けた結果であった。これより前、哥舒翰は、「河北で転戦中の郭子儀と李光弼が安禄山の本拠地、范陽を落とすまで潼関を堅守すべし」と反論し、これに郭子儀と李光弼も賛意を表明していた。しかし、楊国忠は、哥舒翰が大軍ごと反旗を翻すのではないかと危惧して、あくまで出撃を主張し、玄宗もこれを支持して勅令を下したので、哥舒翰は出撃せざるを得なくなった。


同年6月8日、哥舒翰は18万余の兵をもって攻めかかったが、安禄山軍の将、崔乾祐(さいけんゆう)は伏兵と火計をもって、これを大いに打ち破った。18万余の軍勢の大半は殺戮され、生き残ったのは8千人余と云う惨敗であった。哥舒翰は投降し、潼関は安禄山軍の手に落ちた。安禄山は唐の反撃を受けて苦境に陥っていたが、この勝利によって一挙に展望が開かれた。唐軍主力惨敗の報を受け、河北で優勢を誇っていた郭子儀、李光弼の軍も後退せざるを得なくなる。


6月11日潼関陥落の凶報が長安に届くと、玄宗も庶民も顔面蒼白となった。それは、安禄山軍を止める手段が失われ、間もなく長安が蹂躙される事を意味していたからだ。長安の人々は上も下も恐慌状態となり、取るものも取りあえず都から脱出せんとした。 
6月13日、楊国忠の進言を受けて、玄宗も長安を脱出し、蜀(四川省)に向かわんとした。しかし、蜀へと通じる道は非常に険阻な上、食料も乏しかったので、従軍の将兵は飢えと疲労に苛まされた。6月14日、将兵達は不満を爆発させてこれ以上の前進を拒否し、怨嗟の的となっていた楊国忠に襲い掛かって、これを滅多切りにした。


楊国忠の妻子や一族も皆殺しとなったが、将兵の怒りはそれでも収まらず、今度は玄宗の宿舎を囲んで楊貴妃の死を迫った。これを受け、73歳の玄宗は泣く泣く、楊貴妃に死を賜るしかなかった。楊貴妃の享年は38であったが、今だ妖艶な美しさを保っていた。
玄宗は蜀に難を逃れたが、その皇太子、李亨(りこう)は長安の西北部にある霊武に逃れた。安禄山は潼関の勝利を受けても、体調が思わしくなかったのか洛陽に留まり、代わって部下を派遣して長安を占領せしめた。そして、挙兵時に処刑された長男、安慶宗の報復のため、捕らえた皇族を皆殺しにさせた。


安禄山軍は長安で略奪、暴行の限りを尽くし、方々に火を放ったので、花の都は無残な廃墟に変わり果てた。中国史上最高とされる詩人、杜甫も長安で捕らえられ、軟禁中にかの有名な五言律詩を作った。


国破山河在   国破れて山河在り 
城春草木深   城春にして草木深し 
感時花濺涙   時に感じては花にも涙を濺(そそ)ぎ 
恨別鳥驚心   別れを恨んでは鳥にも心を驚かす 
烽火連三月   烽火(ほうか) 三月に連なり 
家書抵万金   家書 万金に抵(あた)る 
白頭掻更短   白頭 掻けば更に短く 
渾欲不勝簪   渾(すべ)て簪(かんざし)に勝えざらんと欲す 
  

国は滅んでしまったが山や河は昔のままであり、 
都城には春が訪れて草や木が深々と生い茂っている。 
世の無常を感じて花を観ても涙が流れ、 
別れた家族を思って鳥の声を聞いても心が痛む 
戦の火は3ヵ月経っても燃え続けている。 
家族からの便りは万金にも勝る。 
白髪だらけの頭を掻けば、更に短くなり 
簪を挿すのも無理なようだ。 

安史の乱 1

2013.10.15 - 三国志・中国史
(618年)、中国では一大王朝、隋が倒れ、代わって鮮卑系の李氏が唐王朝を打ち立てた。唐は、旧来の制度を刷新して国力を強化すると共に、外征を繰り返しては強大化していった。また、唐朝を立てた李氏は遊牧民の鮮卑系出身である事から、異民族への偏見がなく、才能さえあれば取り立てていった。従って唐朝では、政治、軍事、経済の様々な分野で異民族が活躍し、その首都たる長安も国際色豊かなものとなった。日本人の阿倍仲麻呂(698~770年)も留学生から、唐の高官にまで取り立てられている。(712年)、玄宗皇帝が即位した時、唐朝は最盛期を迎え、その勢力範囲は、西は中央アジアのアラル海、北はシベリア、東は朝鮮半島、南はベトナムにまで至り、隋を上回る一大帝国となった。 




↑唐とその周辺国

回鶻(かいこつ)はウイグルで、吐蕃(とばん)はチベット、契丹(きったん)はキタイの事である。


唐が最盛期を迎えんとしていた(705年頃)、中国東北部、営州柳城にて1人の男子が生まれた。その男子はイラン系のソグド人の父と、トルコ系の突厥(とっけつ)を母とし、長じて安禄山と名乗った。漢人は、この様な異民族の血が混ざり合った人間を、卑しみを込めて雑胡と呼んでいた。この雑胡の子、安禄山は突厥(とっけつ)の下で少年時代を過ごしたが、やがて突厥内で乱が生じたので、唐朝の支配化にある幽州に逃れた。この頃、同郷、同年生まれで、同じソグド系の史思明(ししめい)と知り合い、意気投合して生涯の盟友となる。


安禄山は多くの民族が行き交う幽州の地で逞しく成長し、やがて6ヶ国から9ヶ国もの民族言語を覚え、さらに騎馬と弓射に長じた偉丈夫となった。盟友の史思明も、安禄山に劣らない才の持ち主で、数カ国の民族言語を解し、人並みはずれた武勇を誇った。2人は漢族と諸民族とが交易する市場で、書蕃互市牙朗(貿易仲介人)として働き、ここで多種多様な商人相手に縦横の駆け引きをした。この時の経験が、安禄山を機知に富んだ人物に成長させる事となる。 
そして、開元20年(732年)頃、安禄山は范陽(はんよう)節度使(中国東北部の守備司令官)の張守珪に見出されて、捉生将(捕縛隊長)になった。


この張守珪との運命的な出会いが、安禄山が世に出る切っ掛けとなる。安禄山は史思明と連れ立って戦場に赴き、幾度となく数十人の契丹人を捕らえて帰った。安禄山はその功績と機知をもって、張守珪にいたく気に入られ、養子に迎え入れられた。そして、開元24年(736年)を迎える頃には、安禄山は左驍衛将軍になって、一軍を率いるまでになっていたが、ここにきて大きな失態を冒す。安禄山は張守珪から兵を授けられて、北方騎馬民族の契丹、奚(けい)の討伐に向かったのだが、安禄山は勇に頼んで軽々しく前進し、その結果、大敗を喫したのである。


安禄山は、張守珪の前に引っ立てられ、死罪を告げられる。安禄山はここで、「張大夫は、契丹、奚を滅ぼしたいと思わないのですか!何故、壮士を無駄に殺してしまうのですか!」と叫んで、助命を請うた。張守珪は安禄山の類い稀な武勇を惜しいと思ったので、長安に送り届けて玄宗の判断に委ねる事とした。玄宗も安禄山の武勇を惜しんで、免官にするだけで済まそうとしたが、ここで唐の名臣と謳われる張九齢が意見して、「安禄山は軍法に照らし合わせて、死罪にすべきです。それに彼は反骨の面相をしているので、今、処刑しなければ、必ず災禍を招くでしょう」と述べた。それでも玄宗は安禄山を許して、范陽に戻した。 



一時、免官となった安禄山であるが、その後も張守珪に重用され、節度使に次ぐ節度副使にまで取り立てられた。だが、安禄山はその地位に満足せず、朝廷の使者が訪れる度に多額の賄賂を渡し、その甲斐あって天宝元年(742年)には平盧節度使に任命された。これで安禄山は一地方の支配者に栄達した訳であるが、更なる高みを望んで、今度は唐の中央政界に目を向け始める。時の皇帝玄宗は、初期においては政治に意欲を燃やし、賢臣の補佐も得てその治世は安定していた。しかし、麒麟(きりん)も老いては駑馬(どば)に劣り、絶世の美女、楊貴妃に心奪われて、政治への関心も失われていった。


安禄山は楊貴妃に目を付け、世辞を並べ、しきりに贈り物をしてその歓心を買った。事は安禄山の思惑通りに運び、楊貴妃を通じて玄宗の知己を得る事に成功し、たちまちお気に入りの人物となった。玄宗の寵愛を得た安禄山は、天宝3載(744年)には、平盧節度使を兼ねたまま、范陽の節度使に任ぜられた。平盧節度使と范陽節度使には、北方騎馬民族の契丹、奚(けい)を抑え込む役割が期待されており、安禄山も度々、兵を率いて北方に攻め入る事になる。そして、天宝4載(745年)3月、安禄山は軍を率いて契丹、奚を攻撃して、これを打ち破る事に成功した。また、安禄山は契丹、奚の酋長を度々、宴席に招いては毒酒を飲ませ、謀殺していった。


しかし、これらをもっても契丹、奚の覆滅には程遠く、その後も両部族との戦いは引き続く事になる。 
安禄山は節度使としての仕事をこなしながらも、中央からは決して目を逸らさず、合間を見ては長安に赴いて玄宗の寵愛と歓心を買わんとした。
安禄山は大兵肥満の巨漢で体重は200キロあったと云うが、俊敏な動作を必要とする胡旋舞を舞っては、玄宗や楊貴妃の目を楽しませたと云う。胡旋舞とは旋舞と付く通り、高速で回転しつつ、両手に持った細長い帯を泳がせる華麗な舞踊である。安禄山は大きな体を揺らしながら、これを舞ったというのである。


安禄山は自分を低く見せて、相手を持ち上げるのが巧みであった。ひょうきん者の様に振舞い、愚者を装っては人々を笑わせた。ある時、玄宗から、「その大きな腹には何が入っているのか?」と訪ねられると、「ただただ、陛下への赤心(忠誠心)のみが入っております」と答えて、玄宗から益々気に入られるのだった。その甲斐あってか、天宝十載(751年)には河東の節度使職も委ねられた。これで安禄山は三つの節度使を兼ねる事となり、唐朝随一の軍事力を帯びる事となる。安禄山は玄宗の前では愛嬌ある人物を演じていたが、内面には満々たる野心を宿していた。
 

ここで節度使と呼ばれる、職の説明をしておきたい。 
唐の皇帝、玄宗は辺境防備と異民族対策のため、節度使と呼ばれる軍事指揮官と行政官を兼ねた職を創設した。節度使は、地方においては皇帝に等しい権力を振るったと云う。 

  
「安西節度使・拠点亀茲」
兵力2万4千・軍馬5千5百  


「北庭節度使・拠点庭州」
兵力2万・軍馬5千 


「河西節度使・拠点涼州」
兵力7万3千・軍馬7千9百 


「朔方(さくほう)節度使・拠点霊州」
兵力6万4千7百・軍馬1万3千3百 


●「河東節度使・拠点太原」
兵力5万5千・軍馬1万4千 


●「范陽(はんよう)節度使・拠点幽州」
兵力9万1千4百・軍馬6千5百 


●「平盧節度使・拠点営州」
兵力3万7千5百・軍馬5千5百 


「隴右(ろうゆう)節度使・拠点鄯州(ぜんしゅう)」
兵力7万5千・軍馬1万 


「剣南節度使・拠点成都」
兵力3万9百・軍馬2千 


「嶺南五府節度使・拠点広州」
兵力1万5千4百 



●で示したのが、安禄山が兼務した節度使 


この10節度使の兵力を合計すると約49万人、軍馬は8万頭余となる。この他に首都、皇帝防衛軍として長安に駐屯する、右左羽林軍10万人があった。これらの総計、60万人余が唐軍の全兵力となる。この中で、安禄山は河東・范陽・平盧の3節度使を兼ねていた事から、その兵力は18万3千9百人(この内、騎兵が2万6千9百人)に達しており、唐軍全体の三分の一を占めていた。


安禄山軍は数が多いだけでなく、契丹族と激闘を重ねている事から実戦経験も豊富な精鋭軍団であった。それに比べて、首都防衛軍たる右左羽林軍は金持ちの子弟で占められており、ろくに訓練も施されていなかった。唐の軍事力の大半は北方と西北の辺境にあって、内地は手薄な状況にあった。これでもし、野心のある節度使が唐に反旗を翻したなら、ただではすまない事になる。 



天宝十載(751年)、安禄山は6万人余の兵を動員して、長躯、契丹の本拠地へと攻め入った。しかし、慣れぬ土地で軍は困窮し、そこに契丹と奚の挟み撃ちを受けて軍は壊滅、安禄山も命からがら逃げ帰ると云う惨敗を喫した。この戦いには敗れたものの、安禄山は投降してきた契丹族の騎兵をも取り込んで、更に軍事力を拡充させてゆく。天宝11載(752年)3月、安禄山は昨年の雪辱を晴らさんとして、20万人余を大動員して契丹と奚を叩かんとしたが、味方節度使の協力を得られず、攻撃を断念した。


これ以降も、安禄山と契丹は勝ったり負けたりの攻防が続き、両者は不倶戴天の間柄となった。余談となるが、この契丹族は10世紀に契丹(遼)という大国家を建設する事になる。安禄山は契丹対策に悩まされ続けるが、逆に見れば安禄山の武力が、この強力な騎馬民族の国家創設を押さえ込んでいたとも云える。 
 プロフィール 
重家 
HN:
重家
性別:
男性
趣味:
史跡巡り・城巡り・ゲーム
自己紹介:
歴史好きの男です。
このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
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