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秦始皇帝陵

2017.01.15 - 三国志・中国史

紀元前210年7月21日(おそらくは8月21日)、中国史上初の皇帝、秦始皇帝は巡行中、病を得て急死した。嬴 政(えい せい)、49歳。始皇帝の死は秘され、その棺は車馬に載せられて、首都、咸陽へと運ばれていった。しかし、暑い時期であったため、車馬からは悪臭が漂い始めた。それを紛らわすため、塩漬けの魚が積みこまれた。行列が咸陽に着くと、喪が発せられ、公子の嬴 胡亥(えい こがい)が二世皇帝に即位した。同年9月、始皇帝の遺体は、西安の東方25キロにある、驪山(りざん)の地に埋葬された。



この山の麓に、始皇帝のために築造中であった陵墓があった。そして、遺体は地下宮殿に安置され、その上に巨大な墳丘が築かれた。陵墓の建設は、前246年、始皇帝が13歳で王位を継承した時から始まっており、二世皇帝の時代を迎えて、ようやく最終工程に入った。ここまで、38年の歳月が費やされていた。しかし、その最中の前209年7月、陳勝、呉広の反乱を受けて、工事は中断を余儀なくされる。そして、前206年、秦は滅亡を迎え、結局、始皇帝陵は未完のまま終わった。



しかしながら、秦が国力を傾けて築いただけはあって、始皇帝陵の壮大さは他の追従を許さず、中国史上最大の陵墓となっている。陵墓は、版築(黄土を突き固めただけの、簡単な工法)によって築かれた二重の城壁に囲まれ、外城は南北2,165メートル、東西940メートル、内城は南北1,355メートル、東西580メートルあった。そして、内城の中に、南北350メートル、東西345メートル、高さ76メートルの墳丘と、その地下30メートルに宮殿と始皇帝の墓室があった。



地上には、始皇帝の魂が日常生活を送るための寝殿や、休息のための便殿、食事をするための建物も建造されていた。陵墓の官吏は、毎日、食事を捧げていた。しかし、前209年、陳勝、呉広の反乱軍が陵墓に侵入し、兵馬俑を破壊して火を放った。続いて、前206年、項羽によって陵墓は暴かれ、この時も兵馬俑は破壊された。その後、陵墓に迷い込んだ羊飼いが地下宮殿を焼いて、その火は90日間も消えなかったと云う。



始皇帝の死から100年後の歴史家、司馬遷の記述を載せたい。


「始皇帝が秦王に即位して間もなく、驪山にて、その陵墓の築造が始まった。彼が天下を統一した後、全国から70万人の刑徒がここに集められて苦役に従事した。そして、3度、地下水脈を掘り抜いて、棺を覆う部屋を銅で固め、地下に宮殿、楼閣を築き、百官の席を設け、美しい器具や珍奇な財宝で墓室を満たした。器械仕掛けの弩と矢を備え付けて、盗掘者が近づけば発射するようにした。水銀で、全国の多くの川や長江、黄河、大海を再現し、器械仕掛けで流れるようにした。天井には天文の図、床には地理を描いた。永遠に燃え続けるよう、人魚(鯨との説)の膏(あぶら)で燭台の火が灯された。二世皇帝が即位すると、「先帝の宮女の内、子の無い者は後宮から出すべきではない」と言って、殉死を命じた。多数の殉死者を埋葬した後、官吏の1人は、「器械仕掛けをこしらえた工匠達は、墓の内部を知り過ぎており、それを漏らす危険があります」と建議した。そこで、始皇帝の棺を墓室に安置し、様々な財宝を収めた後、墓道の中と外の門が下ろされ、陵墓の建設に携わった人々を悉く閉じ込めて、誰1人出られないようにした。その上で、陵墓に草木を植え、丘陵の様に見せかけた」



1974年、陵墓から東に1・5キロの地点から、兵馬俑が発見された。俑(よう)とは陶器で作られた人形で、死者への副葬品とされた。始皇帝陵では、兵士、軍馬、戦車、指揮官、文官、力士、水鳥など、様々な俑が発見されている。中でも、人間を模(かたど)った俑は、非常に写実的で、今にも動き出しそうな迫力を醸し出している。実在した兵士を模して作られているので、身長、体格も実物大で、それぞれ容貌も違っており、同じ容貌の者は今だ発見されていない。また、額の皺(しわ)や顎の髭(ひげ)、鎧の金具、衣服の皺といったところまで再現されている。



容貌からは、関中、巴蜀、隴東(ろうとう)といった秦出身の兵から、北方騎馬民族系、西域系、秦が滅ぼした東方6ヵ国系の顔が見てとれた。これによって秦の軍隊は、様々な地域の人々から成り立っている事が分かった。兵士達は盾を持っておらず、鎧も胴体を覆うのみであった。これは秦の軍隊が、機動性を重視した攻撃的性格を持っていた事を示唆している。秦の軍隊の獰猛さは史書にも記されており、その精鋭部隊がそのまま再現されていた。 彩色が施された兵馬俑が発見された事から、制作時には鮮やかな彩色が施されていた事も分かった。しかし、兵乱を受けて焼かれたり、長らく地中に埋もれている間に、彩色は失われていった。彩色が残っている兵馬俑も、適切な処置を施さないと、空気に触れた途端、急速に劣化してしまう。この様に彩色の保存は難しく、現存する兵馬俑のほとんどは、土色となっている。



実物大の人間や馬の陶器を作るには、高度な技術と大変な手間が必要であった。まず、材料として黄土を捏ねるが、粘り気を増すため、何種類かの土も加える。次に、薄手の粘土で全身を形作っていくが、頭から足まで内部は空洞とし、焼成時の破裂を防ぐため、空気孔も作っておく。立たせて安定させるため、下半身は太めにして、重心を下げておく。ひび割れや歪みを防ぐため、収縮する度合いも考慮しておく。十分乾燥させてから、窯に立たせ、1000度丁度ぐらいの温度を保ちながら長時間、慎重に焼成する。出来上がった俑は生漆を塗られ、その上に何種類も色を重ねて、色合いに深みをもたせていった。



完成なった兵士俑の多くは、青銅製の実物の武器を持たされた。しかし、秦末の混乱時、兵馬俑に突入した反乱軍や、これを鎮圧する秦軍自身によって、武器の多くは持ち去られた。それでも保存状態の良い剣、矛、戟(げき)、弩(ど)、鏃(やじり)が数千点、兵馬俑から発掘された。大部分は青銅製で、鉄製は僅かしか出土しなかった。これらの武器は、公開するにあたって取り上げられ、別に保存されている。発見された武器の幾つかからは、腐食耐性のあるクロムが検出され、今だ往時の光沢と切れ味を保っていた。それを受けて当時の考古学会では、1937年に発明されたクロムメッキの技術を、それより2千年も昔の秦が既に習得していたとの説が唱えられた。しかし、現在ではこの説は否定され、兵馬俑周辺の土壌の特性(細かい粒子、適度のアルカリ性、少量の有機物質)によって、金属の腐食が免れていたとの見方が有力である。



兵馬俑は1号坑、2号坑、3号坑、4号坑からなっているが、4号坑は未完となっており、何も入っていない。1号坑からは、焼却された跡が残る兵士傭が多く見つかっており、3号坑からは、頭部を砕かれた兵士傭が多く見つかった。これらは、陳勝、呉広の反乱軍と、項羽の軍による破壊を物語っている。兵馬俑は、全てが発掘された訳ではなく、今だ多くが地中に埋もれたままとなっている。その密度から計算すると、8千体が存在すると考えられている。



2000年には、外城の東北に水鳥坑が発見され、青銅製の鶴6羽、白鳥20羽、雁(がん)20羽、それに飼育係の官吏の俑も発見された。地下に河川が作られて、その畔にこれらは配置されていた。秦の次の王朝、漢の時代にも、秦を見習ったと思われる兵馬俑が作られているが、その大きさは3分の1程度で、写実性にも欠けている。秦ほど規模の大きな陵墓と兵馬俑は、後にも先にも存在しない。しかしながら、後の王朝は、秦が一大陵墓を築かんとして、国が傾いていった事を知っており、これを反面教師として大規模な陵墓は築かなかったとも言える。



始皇帝陵は、驪山(りざん)の山麓にある事から、土石流に襲われる危険性があった。そのため、陵墓の東南に版築工法による堤防を築いて、土石流から守った。現在、その施設は五嶺遺跡と呼ばれており、長さ1キロ、幅40メートル、高さ2~8メートルほどの版築が残されている。また、陵墓の内城、外城には、排水施設が設けられており、陶製の下水管を敷き詰めて、雨水の排出が行われていた。下水管は五角形の構造で、上面の三角形によって上からの圧力を緩和し、平らな広い底面によって沈み込まない様にしていた。これら陶製の下水管は大量に制作されて、陵墓全体の地下に埋め込まれていた。それによって、地下宮殿への浸水を防いでいたと考えられる。



1976年、外城の東350メートルの地点で、整然と並んだ17基の墓が発見された。その内、8基を発掘したところ、男性5人、女性2人の遺骨が見つかった。印賞も見つかった事から、これらは始皇帝の公子であると推測された。1人の頭骨には銅の鏃(やじり)が刺さっており、遺骨はばらばらに分断されていた。始皇帝には20数人の子供がいたが、二世皇帝は大部分を殺害して、陵墓に殉葬したとされている。李斯(りし、秦の丞相)伝によれば、公子12人と公女10人が殺害されたとあり、秦始皇帝本紀では、公子6人が殺害され、公子3人が自殺に追い込まれたとある。その血生臭い故事を、裏付けるかのような発見であった。



1978年、1979年には、陵墓の西南1・5キロの地点で、刑徒の墓地が2ヶ所見つかった。103基あった墓の内、32基を発掘したところ、100体の遺骨が見つかった。それは、竪穴の小さな墓で、1人を埋葬したものから、2,3人、多い所では14人がまとめて葬られていた。鑑定したところ、女性は3体、男性は6~12歳の子供のものが2体、その他は20~30歳のものであったようだ。遺骨の上に置かれていた瓦片には、姓名、本籍、力役が記されていた。



1981年、始皇帝陵の墳丘を調査したところ、表面の土から水銀が検出された。墳丘の周辺では30ppbの濃度であったが、墳丘中央では平均205ppb、多い所で1,500ppbに達していた。2千年以上の歳月を経て、地下にあった水銀が蒸発し、それが地表に現れたと見られる。司馬遷の記述にあった、水銀の川と海の存在を裏付ける調査結果となった。2002年から2003年9月にかけて、考古学者達は墓を掘る事なく、地中レーダー、赤外線、磁気探知などの科学的手法をもって、墳丘を調査した。その結果、地下宮殿の空間は、南北145メートル、東西170メートルである事が判明した。



墓室は、地下30メートルにあって、南北50メートル、東西80メートルあった。墓室は石灰岩で守られ、空間の高さは15メートルあって、周囲は16~22メートルの厚い壁に覆われていた。墓室は浸水しておらず、崩れてもいないようだった。棺は、防腐作用と、湿度調整機能がある木炭で覆われていると考えられている。また、地下30メートルにあって、地熱は10~15度程度で安定している事から、始皇帝の遺体は、現在でも形を留めている可能性がある。古代技術の粋を極めた財宝や壁画も、そこにあるだろう。しかしながら、現在の技術で陵墓を発掘すると、空気に触れた瞬間、遺物が損壊する恐れがある事から、確かな保存技術が確立されるまで、中国の考古学会は発掘を容認しない方針である。始皇帝と地下宮殿は、神秘のベールに包まれたまま、今だ眠りについている。




 
↑秦始皇帝陵の地図(ウィキより)



↑秦始皇帝陵の墳丘(ウィキより)  




↑往時の鋭さを保つ青銅剣(ウィキより)




↑兵馬俑坑(ウィキより)


 

↑兵馬俑(ウィキより)




↑兵馬俑(ウィキより)


主要参考文献
鶴間和幸著、「中国の歴史 ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国」
「始皇帝の地下帝国」



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諸葛亮、対、司馬懿   稀代の智将2人の対決と生き様 終

2015.05.05 - 三国志・中国史

251年、淮南の軍権を司る実力者、王凌(おうりょう)は、司馬懿の権力増大に危機感を強め、曹操の庶子である曹彪を擁立して、司馬懿打倒を画策した。だが、味方を募る過程で、計画は洩れ伝わってしまう。同年4月、司馬懿は、王凌を油断させるため、その罪を許すといった手紙を送ってから、自ら大軍を率いて討伐に向かった。司馬懿は水路を用い、強行軍をもって、僅か9日で淮南に進出する。王凌は、目の前に突如として現れた大軍に驚愕し、敗北を悟って司馬懿の陣に出頭した。王凌は、先の免罪にするとの手紙に淡い期待を抱いていたが、司馬懿に助ける気が無いと知ると、都に護送される途中、毒を仰いで自害した。


司馬懿は、王凌の一族はもとより、謀議に加わった者の一族も皆殺しとし、続いて曹彪も誅殺した。更に、曹一族の王候達を鄴(ぎょう)に集めて厳重な監視下に置き、互いの連絡を禁じた。ここに来て司馬懿は、内に秘めた野心を露にした。 かつて、曹操は一群雄だった時代から野心を露にして、度々、暗殺未遂を起こされている。しかし、司馬懿は同じ轍は踏まず、長らく野心を隠し通し、ここまで暗殺とは無縁であった。これは、曹操を反面教師としたのだろう。もう一つ、曹操から学んだものは、漢の皇帝を傀儡として、新王朝樹立の算段を整えた手法で、これをそっくりそのまま実践しようとした。


操り人形と化した曹芳は、司馬懿が帰還すると、相国(廷臣の最高職)に任命し、領地を加増して5万戸とした。司馬懿は今回も名より身を取り、相国は辞退したが加増は受け取った。 かつて、司馬懿が平定した遼東は、戸数4万、人口30万人余であったので、司馬懿は公孫淵以上の領地と兵力を有した事になる。しかも、魏の中央の軍権も握っている事から、最早、国内に対抗できる人間は、存在しなかった。 もし、これを打倒せんとするなら、地方の軍司令官が一斉に蜂起して、尚且つ、呉と蜀の援護を受けねばならかったろう。ちなみに、249年の曹爽誅殺の時、司馬懿は71歳で、251年の王凌討伐は、司馬懿73歳の出来事である。老人とは思えぬ、恐るべき頭の冴えと実行力だと言わざるを得ない。


だが、司馬懿は長らく中風(脳血管障害)を患う身であったらしく、それに加えて最後の遠征の無理が祟ったのか、251年6月、病に倒れ、同年8月、この世を去った。司馬懿仲達、享年73。 司馬懿の代で、新王朝を打ち立てる事は叶わなかったが、長男、司馬師と次男、司馬昭は共に国家を担う大器であり、意志を実現してくれる事を信じて疑わなかったであろう。実際には、司馬師と司馬昭の代では、まだ地盤固めの戦いを強いられたが、孫の司馬炎の時代を迎える頃には、その権力は不動のものとなり、魏帝、曹奐を禅譲させて、晋王朝を樹立するに到った。既に司馬昭の時代に蜀は滅んでおり、司馬炎は残る呉を滅ぼして、中国全土を統一した。三国志の最終勝利者は司馬懿であった、と言えるのではないか。


「晋書・宣帝記」は司馬懿を、こう評している。

司馬懿は内心では相手を嫌悪していても、表面は寛大に振る舞った。猜疑心が強く、権謀術数に長けていた。曹操は、司馬懿の内に秘めた野心を察して、太子の曹丕にこう注意を促した。「司馬懿は、臣下として大人しく仕えるような人間ではない。必ずやお前の家を乗っ取るぞ」。だが、曹丕は、かねてから司馬懿と親しく、何かにつけてかばってくれたので、事無きを得た。これ以降、司馬懿は、寝食を忘れて職務に精励し、どんなつまらぬ仕事であっても自ら進んでこなしたので、曹操も気を許すようになった。司馬懿は、公孫淵討伐の際には大量殺戮を行い、曹爽誅殺の際には一族郎党を老若男女の区別なく三族皆殺しとし、他家に嫁いだ者まで討ち漏らす事は無かった。かくして、魏の帝位を奪うに到ったのである。


この評を見ると、司馬懿は陰険な野心家にしか映らないが、司馬懿にも言い分はあろう。魏王朝において、曹爽が実権を握っていた時、政治は大いに乱れていた。曹爽が私欲で国富を浪費しているにも関わらず、皇帝、曹芳はなんの手立ても取れなかった。曹爽に関しては、歴史の勝者である司馬氏によって、不当に評価を陥れられている可能性はあるが、時期を得ない蜀遠征を行って失敗したり、最終的には司馬懿によって謀殺されているのは事実であって、有能な人物であったとは思えない。蜀の劉禅や呉の孫皓(そんこう)の例を見ても分かる通り、暗君や暴君を上に奉ると国家は衰亡し、やがては滅亡の憂き目を見るのである。曹爽の政治が続いたなら、魏も自壊していったかもしれない。 無能な人物が権力を握り続ける事ほど、国家と人民にとっての不幸は無い。


司馬懿は、天下の権を握りたいと言う己の野心もさる事ながら、曹爽の乱行を見過ごす訳にはいかないと言う司馬懿なりの正義感も働いて、政権簒奪に及んだのだろう。それに、曹爽との権力抗争は互いの浮沈を賭けた熾烈なものであって、相手の命脈を絶たない限り安心は出来なかった。この時、陳泰、高柔といった魏の重臣も司馬懿の側に立っているので、群臣の多くはこの政権交代を支持したと思われる。司馬懿は魏朝四代に仕える大功臣であり、その力をもって政道を正してもらいたいと群臣は期待したのだろう。だが、彼らもまさか司馬懿が魏の乗っ取りを謀っているとまでは、読めなかった。権勢を極めた司馬一族に、群臣達は戦々恐々であったろうが、司馬一族が指導力を発揮して、263年に蜀を滅ぼし、280年には呉を滅ぼして天下を統一するに当たっては、最早、心服するしか無かった。天下統一は、曹一族も成し得なった偉業であった。


晋を家に例えれば、司馬懿が設計し、司馬師が基礎を築き、司馬昭が柱を建て、司馬炎が家を完成させたと言えようか。司馬懿が行ってきた行為は、人間として臣下としては間違いであろう。だが、国家と人民の立場から見れば、正しかったと言える。司馬懿は、外面は鷹揚な忠臣であったが、内面は酷薄な野心家であった。耐えるべき時は徹底して耐え忍びながらも、好機と見るや即座に行動した。司馬懿と同質の野心を持っていた曹操は、雄才を有しながらもどこか抜けたところがあり、度々、失策を犯し、大敗を喫しているが、司馬懿には隙が無く、失敗らしい失敗も、敗北も諸葛亮との一戦以外には無い。


恐るべき周到さと、洞察力を備えていた。 しかし、表裏があって、容易に本心は明かさず、人としての魅力と、仁愛には欠けていた。司馬懿の日常に関する逸話は伝わっていないが、当時としては長寿を全うしているので、無理のない生活を送り、執務も基本方針は自らが決定して、細部は人に任せるなどしていたのだろう。国家を担うに足る政治家であったが、指揮官としての活躍はより引き立っており、英傑多い三国志において、五本の指に入る軍略家であろう。遺言によって遺骸は首陽山に埋葬され、文と諡(おくりな)された。後に、孫の司馬炎が晋の皇帝となった時、宣皇帝と追号される。


ここまで、諸葛亮と司馬懿の実績を概略してみたが、軍略面においては、司馬懿が一枚上手であったように思える。司馬懿は、諸葛亮との対戦では臆病に見られるほど防御に徹しているが、孟達や王陵の討伐では、電光石火の進軍でこれを打ち破り、公孫淵の討伐でも、果敢な攻めの姿勢を見せている。これを見ても分かる通り、司馬懿は、相手の力量や置かれた状況に合わせて、変幻自在の軍略を繰り出している。諸葛亮も陽動、引き込み等の作戦を用いているが、基本的には堅実で、その政治姿勢のように正道を行くものだった。諸葛亮の軍略からは、電光石火や変幻自在といった言葉は見出せなず、司馬懿のみならず、他の魏将にもその行動を読まれていた節がある。ただ、何分、国力と地形に大きな制約を受けていたので、慎重にならざるを得ない事情はあった。もし、蜀が、魏と同じくらいの国力と兵力を有していたなら、諸葛亮の軍略も大胆なものに変わっていたかもしれない。


政治面においては、諸葛亮の方が上手であったと思われる。諸葛亮は蜀の法律である蜀科を制定して、国家の骨組みを作っただけでなく、その公正な政治姿勢は当時から賞賛を受け、後世にも長く伝わるほどであった。それに対して司馬懿からは、賞賛を受けるほどの政治実績は伝わってこない。だが、司馬懿は、曹叡の宮殿造営を諌めて、民の負担を軽減しようとしたり、再三、農業振興策を具申して、国力増強に寄与しているので、並々ならぬ政治的力量は備えていただろう。政治というのは、軍事と比べると地味で伝わりにくいので、司馬懿が残した政治的実績も多くが埋もれてしまっているのだろう。 歴史に残した実績においては、より長生きして活躍した、司馬懿に分が上がるだろう。


司馬懿も諸葛亮も国家の礎を築いたという点では同じであるが、蜀は地方政権のまま滅亡したのに対し、晋は全土統一を果たした点で上回っている。生き様においては、これは非常に対照的で、両者に甲乙は付け難い。諸葛亮は乞われて仕官し、その後は忠義一筋に生きたが、司馬懿の方は無理やり仕官させられ、その後は内に秘めた野心の実現に邁進した。方向性は違えども、両者共に大志があり、信念があった。後世への聞こえ、人気と言った点においては、これは圧倒的に諸葛亮に分があるだろう。人間の感情というものは正直で、多くの人々は、司馬懿の生き様にはどす黒いものを感じ、諸葛亮の生き様には一陣の涼風を感じるのではなかろうか。


諸葛亮、対、司馬懿   稀代の智将2人の対決と生き様 4

2015.05.04 - 三国志・中国史

蜀の巨星は落ちたが、魏の巨星は尚も輝き続ける。(ここから先は主に、「晋書・宣帝紀」の記述に拠る)。


237年、遼東の半独立勢力、公孫淵が燕王と称して魏に反旗を翻す事態が起こった。曹叡は司馬懿に討伐を命じたが、この時、魏の人民は、曹叡による宮殿造営の負担に加えて、遼東遠征の戦費が重なって、二重の負担に喘いでいた。そこで司馬懿は、今は危急に集中するのが先決で、宮殿造営の方は当面、見合わせるよう曹叡に諫言した。そして、翌238年春、司馬懿は歩騎兵4万余を率いて出撃し、同年6月、遼東に達した。これに対して公孫淵は、将軍の卑衍(ひえん)、楊祚(ようそ)に魏軍を上回る数万の兵を授けて、魏軍の迎撃に向かわせた。卑衍ら率いる公孫淵軍は、遼河(満州南部の大河)の東岸に、南北60、70里に渡る堅固な陣地を築いて、魏軍を待ち受けた。それを見た司馬懿は迂回攻撃を思い立ち、まず防衛線の南部に旗指物を並べ立てて、大部隊がいるように見せかけた。 公孫淵軍がそれにひっかかって主力を南部に集中すると、司馬懿は、その隙を突いて北部から密かに渡河、そこから真っ直ぐ相手の本拠、襄平に向かわんとした。そうと知った公孫淵軍は、魏軍の前進を阻まんと、陣地を飛び出て挑みかかった。


司馬懿は、「敵陣攻撃を避けた狙いは、まさにここにある。この機を逃すな」と全軍を叱咤、公孫淵軍と切り結んで、散々に打ち破った。これより先、公孫淵は、呉の孫権に救援を依頼していた。孫権はこれに応えて、遠く朝鮮半島まで派兵して魏を牽制し、合わせて公孫淵に書簡を送った。「司馬懿は用兵が巧みで、神のような変幻自在さで、向かうところ敵はいない。貴君の行く末を深く憂いている」。 司馬懿は公孫淵を追って、襄平を囲んだ。しかし、折り悪く長雨が降りしきって、濁流が魏の陣営を浸した。将兵達はしきりに陣地の移動を願い出たが、司馬懿は決して許さず、都督令史(参謀格)の張静が違反すると、これを容赦なく斬り捨てた。この断固たる処置を受け、軍の動揺は静まった。


長雨が上がると魏軍は包囲網を完成させ、攻城に取り掛かった。そして、土山を築き、櫓を立てて、矢を雨のように浴びせかけた。攻城は昼夜を問わず行われ、敵わずと見た公孫淵は降伏を願い出たが、司馬懿はこれを許さず、8月23日、逃れ出たところを斬り捨てた。襄平に入城した司馬懿は、ここで恐るべき事をやってのける。すなわち、15歳以上の男子7千人余を殺し、その死体を埋めた巨大な塚を築いて、己の武功を示したのである。更に、公孫淵が任命した大臣を皆殺しとし、将軍畢盛(ひっせい)以下、武官2千人余も誅殺した。この地で、二度と反抗の気は起こさせぬとの、強烈な意思表示であった。


かつて、225年には、司馬懿の好敵手である諸葛亮も、益州南部で起こった反乱を鎮圧するため、自ら遠征している。その際、諸葛亮は、首謀者である雍闓(ようがい)、高定らは討ち取っているが、孟獲を始めとする現地人の有力者は懐柔して自治を委ねるなど、比較的穏当な処置を取っている。司馬懿の場合は、苛烈な処置をもって反乱の芽をつぶし、魏の強力な支配下に置いたのだった。両者は同じ雄才を有しながらも、性格も統治手法も大いに異なっていた。かくして遼東は平定され、戸数4万、人口30万人余の地域が、新たに魏の版図に加わった。 今回の遠征では、魏軍の方が兵力は少なく、公孫淵軍の方が兵力は多かったが、司馬懿は攻めの姿勢を貫いて、見事にこれを打ち破った。司馬懿にとって、公孫淵の軍略など取るに足らず、ただ天候だけが敵であったろう。兵力は少なくとも確かな軍略を有していた諸葛亮の方が、余程やり難い相手であったに違いない。司馬懿が凱旋の徒についていた時、曹叡から、直ちに参内せよとの使者がもたらされた。


239年1月、司馬懿が駆け付けると、曹叡は死の床についており、司馬懿の手を握り締めると、幼い曹芳を見やって、「くれぐれもこれを頼む」と言って息を引き取った。遺言によって、司馬懿と曹爽(曹真の息子)の2人が曹芳の後見役となって、魏の政権と軍権を分け合った。功績を積み重ねた司馬懿は、とうとう曹一族と並ぶ位置にまで登りつめたのである。後、一歩上がったなら、頂点である。司馬懿が何時から、簒奪の野心を抱いていたのは定かではない。明敏な曹操、曹丕、曹叡が生きていた頃は、司馬懿に簒奪の意志があったとしても手出し出来なかったであろうが、今は違っていた。後を継いだ曹芳は幼く、曹爽を始めとする曹一族にもこれといった実力者は存在しなかった。それに比べて、自らの実力と声望は他を圧倒している。この時、司馬懿ははっきりと簒奪の決意を固めたであろう。 だが、先手を打ってきたのは、曹爽の方だった。曹爽は、司馬懿を太傅(たいふ)と言う名誉職に祭り上げて、権力の中枢から遠ざけんとしたのである。これを受けて司馬懿は政権から外され、軍権だけは曹爽と分け合う形になった。


241年5月、呉の孫権は、朱然、諸葛謹、全琮らに兵を授けて、3方面から魏に侵攻させた。朱然は荊州の樊城を、諸葛謹は同じく荊州の柤中を、全琮は揚州の魏の拠点、寿春を襲った。同年6月、司馬懿はこれを防ぐため、諸軍を率いて樊城救援に向かった。朱然は、魏の援軍接近を見ると撤退を開始したが、司馬懿はこれを追撃して、斬首、捕虜1万人余を得たと云う。他の2方面の呉軍もそれぞれ、退けられた。同年7月、この功をもって司馬懿は、2県を加増され、これまでの4県と合わせて戸数は1万戸に達し、一族子弟11人が列候となった。 242年、司馬懿は、黄河の水を汴水(べんすい)に引き入れる用水路の建設を上奏し、この結果、淮北地方が大規模に開拓された。243年9月、呉の諸葛恪が揚州の六安に進出してきたので、司馬懿が迎撃に向かうと、戦わずして撤退していった。司馬懿はこの機会に中国第3の大河、淮河流域を視察して回り、呉撃滅の鍵は食料の備蓄にあると確信した。そして、屯田村、用水路、堤防を新たに建設して、1万余頃の農地を得た。


「晋書・宣帝紀」からは、司馬懿が曹操在世中から、度々、農業振興策を具申しているのが見て取れる。司馬懿は国家の基礎は農業にあると見て、そこから生み出される食料こそが、人民と軍を養い育てると言う事を、誰よりも深く理解していたのだろう。この様に司馬懿は軍事でも内政でも着々と実績を積み上げていったが、政敵である曹爽はこれといった実績はなく、焦りを募らせていた。そこで曹爽は、自らも功績を打ち立てるべく、245年、蜀討伐の軍を起こした。司馬懿の反対を押し切って強攻されたこの遠征は、無残な失敗に終わり、かえって曹爽の声望を低める結果となった。そして、これを機に司馬懿と曹爽の対立は深まっていった。 247年4月、曹爽は、司馬懿を信頼していた永寧皇太后(曹叡の妻)を宮殿に押し込め、近臣を重用して、朝政を壟断するようになった。曹爽は己の権力に酔って享楽の限りを尽くし、その取り巻き達も虎の威を借って、私腹を肥やした。同年5月、朝政が大いに乱れる中、司馬懿は病気と称して、政治から身を引いた。


だが、曹爽は警戒を怠らず、248年、取り巻きの1人である李勝を見舞いにやって、司馬懿の様子を探らせた。すると、司馬懿はいかにも重病に伏せているように見せかけ、更に痴呆老人を装った。李勝はまんまと騙され、「司馬公は最早、魂の抜け殻で、御心配には及びません」と報告したので、曹爽は安堵して警戒を解いた。 明けて249年正月、皇帝、曹芳が曹叡の陵墓を参拝するに当たって、曹爽も供となり、兄弟揃って都を留守にした。司馬懿は、この一瞬の隙を逃さなかった。司馬懿は挙兵して宮廷を押さえると、永寧皇太后の元に参上し、曹爽兄弟の官位を剥奪するよう奏上する。そして、老臣の高柔に大将軍代行を命じて、曹爽の軍を掌握させた。司馬懿は、皇帝を宮中に迎えるため洛水の畔に陣を構え、そこから曹爽の不忠を弾劾する上奏文を奉った。曹爽は届けられた上奏文を握り潰し、そのまま皇帝を擁して伊水の南に宿営し、屯田兵数千人を動員して守りを固めた。曹爽は軍権を失ったが、まだ皇帝という切り札を擁していた。曹爽の謀臣、桓範は、「皇帝を擁して許昌に赴き、天下に檄を飛ばして兵を集めましょう」と司馬懿との決戦を促した。これを採用したなら、魏は真っ二つとなって、三国志ならぬ四国志が現出したであろう。


しかし、曹爽は、躊躇して決断がつかなかった。桓範は、「今となっては、あなた方は貧民になってでも生きたいと願っても、それは叶わない」と重ねて挙兵を促した。司馬懿が一世一代の博打を打っているのに対し、そこまでの覚悟が無い曹爽は、やはり逡巡するのであった。そして、許允と陳泰を使者に立てて、司馬懿に内意を打診する始末であった。司馬懿はその罪を責め立てたが、処分は免職するに止めると約束して、許允と陳泰を送り返した。更に司馬懿は、曹爽の信頼篤い尹大目(いんだいもく)を送って説得せしめ、約束に二言は無いと言い含めた。司馬懿と言えども、皇帝を立てて挙兵されるのは、やはり避けたかったに違いない。そこで、曹爽を安堵させるため、重ねて約束したのだろう。


曹爽はこれを信じて、膝を屈する事を決したが、桓範は、「貴様に荷担したために、わしまで一族皆殺しだ」と地団駄踏んで慟哭した。かくして曹爽は罷免されて、自宅蟄居となった。ところが、曹爽と結託していた宦官、張当が逮捕され、曹爽が簒奪を計画していたと自白する(させられた?)に到って、曹爽一味は全て捕らえられた。そして、曹爽、曹羲(そうぎ)、曹訓ら曹兄弟に、何晏(かあん)、丁謐(ていひつ)、鄧颺(とうよう)らの側近に、李勝、桓範、張当も一族諸共、皆殺しとなった。これで魏の政権と軍権は、司馬懿の一手に握られる事となった。同年2月、曹芳は、司馬懿を丞相に任命し、4県を加増して、領地はこれまでの8県と合わせて2万戸とした。司馬懿は丞相就任は辞退したが、領地加増は受け取った。



諸葛亮、対、司馬懿  稀代の智将2人の対決と生き様 3

2015.05.03 - 三国志・中国史

234年2月、諸葛亮は五度、北伐の徒に就いた。今回のために3年間、兵糧の備蓄に努め、蜀の総力を挙げた10万余の兵を動員した。ただし、半数近くは、輜重兵であったろう。先年、魏延が長安奇襲を進言した時、1万の兵力を要求しているが、その打ち分けは、精兵5千に輜重兵5千であったようだ。これを蜀軍全体に当てはめたなら、実戦兵力は5万で、輜重兵は5万となる。輜重兵は、積極的に戦闘に参加する訳ではないので、一般の人夫が多数、含まれていただろう。今回、諸葛亮は兵糧輸送を効率化するため、一兵士に付き一年分の兵糧が輸送可能な、流馬という輸送車を新たに投入した。


一方、司馬懿もこの時あるを予期して、上邽に農民を送り込んで農業を振興させ、更に京兆、天水、南安の三郡で武器を増産させていた。諸葛亮率いる蜀軍は、5本ある桟道の内、真ん中の斜谷道を進んで、渭水(いすい・黄河の支流)の南岸に達し、そこにある高さ120メートル程の台地、五丈原に陣取った。諸葛亮は長期戦に備えて、兵を分けて屯田させた。兵は渭水南岸の農民に混じって暮らしたが、軍紀は行き届いており、問題は生じなかった。 今回、諸葛亮は陽動作戦などは用いず、全軍をもって長安寄りの地に陣取った事から、そこに強い決戦意欲を感じ取れる。


魏帝、曹叡も事態を重く見て、秦朗率いる2万の兵を送って、司馬懿の軍を増強させた。輜重兵を除く両軍の実戦兵力は、蜀軍は5、6万で、魏軍は7、8万といったところでなかろうか。司馬懿は渭水の北岸を進んで、五丈原付近に達すると、河を押し渡って南岸に砦を築いた。将軍達の多くは、渭水北岸に陣を置く事を主張したが、司馬懿は南岸には大量の兵糧が備蓄されているとして、あえて背水の陣を取った。諸葛亮は会戦の形に持ち込もうとして、盛んに挑発したが、司馬懿は決して乗って来ようとしなかった。蜀からすれば、魏の主力軍が存在する限り、長安には攻めかかれない。逆に魏からすれば、主力の喪失は長安の喪失にも繋がるので、無闇な決戦は避けたかった。それに相手の方が、先に兵糧が尽きるのが分かっているから、決して無理をする必要は無い。まずは守備を徹底的に固めて相手の鋭気を逸らし、兵糧不足になって退却に取り掛かったところをすかさず追撃する。これが、魏帝、曹叡と司馬懿の一致した作戦であった。


「晋書 宣帝紀」によれば、諸葛亮が女性用の髪飾りを送りつけて侮辱してくるに到ると、さすがの司馬懿も怒って、決戦したいと朝廷に上奏した。しかし、曹叡は決して許さず、硬骨漢として知られる辛毗(しんぴ)を勅命全権軍師として送り込み、司馬懿の目付け役とした。司馬懿は部下の手前、怒った振りをしたに過ぎず、曹叡もその辺りの事情を察した上で、勅使を送ったのだろう。曹叡は史実を見る限り、かなり軍事に明るい人物だったようだ。魏の防衛の要点は、「合肥、襄陽、祁山」にあると認識しており、呉や蜀がこの要点を狙う度、素早くも適切な処置を取っている。軍略を識る曹叡と司馬懿は、諸葛亮が並々ならぬ力量の持ち主であると認識していたが、同時にその限界も見極めていた。曹叡は、蜀の相手は専ら司馬懿に任せ、自らは呉に備えていた。言わば、二人三脚で魏を守っていた。


234年5月、呉帝、孫権が自ら兵を率いて、魏の東の重要拠点、合肥新城に攻めかかった。これが成功すれば、膠着した五丈原の戦況が動くかもしれず、諸葛亮も大いに期待した。だが、孫権は合肥新城を攻めあぐね、曹叡率いる援軍が接近して来ると、早々に撤退してしてしまう。諸葛亮は落胆したであろうが、尚も五丈原に踏み止まって、決戦の機会を窺った。諸葛亮は軍を渡河させ、東にある魏の拠点、北原を奪おうとしたが、魏将、郭淮に思惑を見破られ、守備を固められたので断念した。諸葛亮はいたずらに対峙していた訳ではなく、様々な策を講じて、会戦の形に持ち込もうとしていた。だが、司馬懿は決してこれに応じようとせず、対陣は100日余に渡った。先の第二次北伐の際には、作戦開始から僅か1月余で兵糧が尽きて撤退に追い込まれているが、今回は半年を持ちこたえ、尚も作戦継続可能であった。ここに、諸葛亮の努力の一旦が窺える。だが、司馬懿の方も諸葛亮の攻勢を予測して、長安一帯を開発して食料の備蓄に努めており、抜かりは無かった。


ここから、諸葛亮と司馬懿にまつわる逸話を幾つか載せたい。

ある日、司馬懿の弟、司馬孚(しばふ)が前線の様子を尋ねてくると、司馬懿はその返書に、「諸葛亮という奴、志は遠大だが機を見るに敏とは言えぬ。智謀は巡らすが、決断力が無い。兵法好きだが、融通が利かぬ。10万の兵を率いてはいても、既に我が薬籠中のもので、勝利は疑いない」と豪語した。また、ある日、蜀の使者が魏の陣営を訪ねてくると、司馬懿は軍事には一切触れずに、諸葛亮の近況を尋ねた。使者は、「諸葛公は、朝は早くに起きられ、夜は遅くに床に就かれます。鞭打ち20以上の刑罰は全て、ご自身で決裁なされ、お食事は1日に3、4升(当時の中国の1升は0.2ℓ)です」と答えた。使者が帰った後、司馬懿は側の者に、「諸葛亮の命も長くはないな」と言った。有名な逸話であるが、蜀臣である楊顒(ようぎょう)の伝記にも、諸葛亮の多忙な精勤振りを、楊顒が諌めるという話が載っているので、諸葛亮の日常は事実この様なものだったのだろう。


諸葛亮は、蜀の最高指導者にして総指揮官、技術官、裁判官をも兼ねていた。そして、無理を重ねた諸葛亮は病に倒れ、234年8月23日、五丈原の戦野で没した。諸葛亮孔明、54歳。偉大な統率者を失った蜀軍は、その死を秘して撤退に入ったが、そうと知った司馬懿はすかさず追撃を開始する。ところが蜀軍が一転して、反撃の構えを見せると、司馬懿は罠だと思って、慌てて軍を返した。後に人々は、死せる孔明、生ける仲達を走らせると囃し立てた。司馬懿は、もぬけの殻となった蜀の陣営を検分して回り、「天下の奇才なり」と感嘆の声を上げた。当時、天下で最も優れた軍略家は、蜀の諸葛亮、魏の司馬懿、呉の陸孫の3人であった。その司馬懿をして唸らせるほど、諸葛亮の布陣は、隙の無い完璧なものだったのだろう。


正史、三国志の著者、陳寿は、諸葛亮をこう評している。

「諸葛亮は相国(廷臣の最高職)になると、人民の暮らしを保障し、規律を明確にし、官吏の職務を規定し、主君の裁断に従って、誠心をもって、正しい政治を行った。忠を尽くして人民の利益をはかった者は、対立していても厚く賞し、法を犯し怠慢な者は親族であっても必ず罰した。進んで罪を認め反省した者は、重罪であっても必ず許し、言葉巧みに言い逃れようとする者は、軽罪であっても必ず処刑した。些細な善行であっても賞せられない事はなく、微小な悪行であっても罰せられない事はなかった。庶事に精通し、日常業務を把握し、言行一致を要求し、虚嘘の言行をなす者とは同席しようとしなかった。かくして蜀の国内では、皆が彼を敬愛し、刑法や政治が厳格であったにも関わらず、これを恨む者がいなかったのは、配慮が公正で信賞必罰がはっきりしていたからである。政治の本質を知る良才で、管中、蕭何(しょうか)に匹敵する者と言えよう。然れども、毎年のように軍を動かしながら、目的を達する事が出来なかったのは、臨機応変の軍略に長じていなかったからであろうか」

陳寿は、諸葛亮の政治の才は手放しで賞賛しているが、軍略に関してはやや疑問を投げかけている。確かに、諸葛亮の軍略は慎重で、臨機応変さには欠けていたかもしれない。だが、慎重にならざるを得ない事情があったのも確かである。


諸葛亮が、先帝、劉備から後事を託された時、蜀は主力を喪失して、ほとんど滅亡寸前であった。そこから軍を再建し、鍛え上げ、北伐までもっていっただけでも、只者ではないと言える。諸葛亮は軍紀に関しても厳格で、みだりに騒いだり、命令に逆らう者があれば、これを斬ると言明している。諸葛亮によって鍛え上げられた蜀軍は規律正しく、その動きは指揮者の思うままであった。だが、諸葛亮の智謀と、蜀軍の精鋭をもってしても、魏という壁は余りにも大きかった。蜀の総兵力は10万であったが、魏の推定総兵力は40万で、1対4の格差がある。もし、仮に双方、3万を失う大激突となれば、蜀の残兵は7万で、魏は37万となり、格差は1対5に広がる事になる。しかも、損害回復にかかる時間も、国力に劣る蜀の方が長くなる。つまり、蜀が数万の兵を失う様な敗北を喫すれば、そのまま国家の滅亡に繋がるのだ。


諸葛亮は自軍の損害を最小にして、相手の損害を最大にする難しい戦いを強いられていた。 なので諸葛亮は、長安急襲などの冒険は避け、祁山や五丈原などの戦略上の要点を抑えて進軍する、堅実な軍略を取ったのだろう。そして、陣を固めて、なるべく相手から攻撃させるように仕向けた。総合的に見れば、限られた条件で、諸葛亮は良く健闘したと言えるのではないか。諸葛亮は、王佐の才(君主を補佐する才能の持ち主)を自任しており、丞相として国家の大権を握っても、あくまで主君への忠節を貫いた。その無私と誠実さは、人の心を動かすものがあった。清廉かつ潔癖で、清濁併せ呑む事は出来なかった。欠点を挙げるとすれば、細部にまで目を通し、全ての事をこなそうとするなど、完璧主義のきらいがあったところだろう。将来を見通す優れた戦略眼を有し、指揮官としても非凡な才を発揮したが、なにより峻厳と公平を併せ持つ稀代の名宰相であった


諸葛亮はかつて、劉禅に奉呈した上奏文で、次のように述べている。「私には成都に桑800株と、薄田(痩せた土地)が15項(けい)あり、家族が生活してゆくには十分です。私の外征に当たりましては、特別の支出をして頂く必要はなく、日常の衣食は官給のもので十分です。他に手段を講じて、財産を蓄える機は毛頭ございません。私がもし死んだ場合、内外に過分な財産を残して、陛下の信任に背くようなことは、決していたしません」。死に至ると、実際、その通りであった。 遺言によって遺骸は漢中の定軍山に葬られ、朝廷からは忠武侯と諡(おくりな)された。

諸葛亮、対、司馬懿  稀代の智将2人の対決と生き様 2

2015.05.02 - 三国志・中国史



↑三国志地図(中国のウィキより)


227年3月、諸葛亮は出師の表を高らかに掲げ、5万人余の兵を率いて蜀の前線基地、漢中(秦嶺山脈より南の盆地)に進出する。そして、魏を東西から挟撃する事を画策して、魏の新城群(荆州北部の上庸)太守、孟達に働きかけて内応を促した。しかしながら、孟達の決断は鈍く、今だに心は揺れ動いていた。諸葛亮は業を煮やして、わざと孟達離反の情報を流して決起を促した。司馬懿はこの報に接すると、時間を稼がんとして、孟達に疑いはもたれていないとの手紙を送って油断を誘い、そうしておいて宛から密かに軍を発した。孟達はようやく腹を固めて兵を挙げたものの、まだ防備は整っていなかった。


宛から上庸までは1200里もの距離があり、通常の行軍ならば1ヶ月はかかると見られていた。だが、司馬懿は昼夜兼行の強行軍で、僅か8日で駆け抜ける。上庸は要害の地であるが、司馬懿は不意を突いて一気に城下に攻め寄せ、それから半月余り休まず猛攻を加えて、孟達を討ち取った。孟達の死によって東の攻勢点は失われ、諸葛亮は西から攻める他、無くなった。そして、作戦を練り直す必要に迫られ、そのまま年が過ぎた。この第一次北伐において、司馬懿が諸葛亮と直接対決する機会は無かったが、間接的にその戦略意図を打ち砕いた意義は大きい。


228年春、諸葛亮は再び動き出した。目指すは、魏の西方における重要都市、長安である。もし、長安を落とす事に成功すれば、その西方にある雍州、涼州も手に入る事になり、蜀は呉に匹敵する国力を有する事になる。そうなれば、天下の形勢も変わって来るだろう。だが、これを落とすには、幾つもの難関が待っていた。まず、蜀と魏の間には峻険な秦嶺(しんれい)山脈が横たわっており、進撃も撤退も困難なら、補給も困難であった。ようやく魏領に進出しても、そこで魏の主力を打ち破らねば、長安には攻めかかれない。首尾よく魏の主力を打ち破る事が出来れば、長安を降伏に追い込む事も出来るだろう。しかし、戦意の高い将が長安を守り、食料も豊富にあれば数ヶ月以上の攻防戦になる事も有り得る。攻城戦が長引けば、再び魏軍が来援する事も考えられるし、蜀の細い補給がこれに耐え切れるかどうかも問題である。行く手には数々の不確定要素が待っているが、ともかく賽は投げられた。



漢中から長安に至るには、秦嶺山脈を南北に貫く5本の細い桟道(さんどう)、東から子午道、駱谷(らくこく)道、斜谷道、故道、関山道のいずれかを通らねばならない。 長安への最短路は最も東にある子午道で、蜀の勇将、魏延はこの道を通っての奇襲作戦を提案している。その概要は、魏延率いる1万の兵は子午道を通って長安を奇襲占領し、諸葛亮率いる主力は斜谷道を通って奇襲部隊と合流するというものだった。その流れは、長安を奇襲占領→奇襲部隊と主力の合流→魏軍主力の撃退→長安以西の涼州、雍州制圧といった具合で、短期決戦を指向したものだろう。これが成功すれば、面倒な攻城戦をする事なく長安が手に入るが、奇襲が成功する保障はどこにもなく、失敗すれば、長安城の魏軍、西の涼州方面の魏軍、東から来援してくる魏の主力軍と、三方を敵に回して苦境に陥る事になる。仮に長安占領に成功したとしても、急戦であるがゆえに、蜀から長安までの占領地は細く長いものとなり、補給路も寸断されやすくなる。


諸葛亮は、この案は危険性が高いと見て採用せず、まず長安の西部一帯を制圧して涼州を遮断し、背後を固めてから長安攻略に乗り出すという、堅実な作戦を取った。その流れは、魏軍主力の撃退→涼州を遮断→長安攻略→涼州、雍州の制圧といった具合で、長期戦を想定したものだろう。長安の西部一帯を占領すれば、補給路が安定すると共に、兵糧の現地調達もある程度見込める。もしくは、魏軍主力を撃退した後、先に涼州を制圧して、後顧の憂いを完全に取り除いてから長安攻略に乗り出したかもしれない。 涼州と雍州西部を確保すれば、背後を気にする必要はなくなり、長安への侵攻が楽になる。それに、この地にはシルクロードの交易路が走っているので、これを押さえれば、魏の財政に打撃を与えると共に、自らがその恩恵に与れる。ただ、涼州は西北に長く突き出した辺境で、しかも異民族に囲まれた厳しい地勢にあるので、制圧と維持には手間がかかる事が予想される。それに、この地の攻略に時間をかけ過ぎれば、長安には更なる増援が到来して、再び主力決戦を強いられる事になるだろう。


長安か、それとも涼州か、諸葛亮がいずれを優先したかは、今となっては分からない。どちらにせよ、前提となるのは魏の主力野戦軍の撃退である。228年春、諸葛亮は、ついに作戦を発動する。まず、斜谷道を進んで郿(び・長安西方の都市)を襲うと喧伝し、実際に趙雲、鄧芝の軍を斜谷道に差し向けて、魏軍の注意を引き付けさせた。魏の対蜀方面司令官、曹真はこの陽動作戦に引っかかって、全軍をもって趙雲軍の迎撃に向かう。その隙に諸葛亮は主力を率いて最も西にある関山道を進み、戦略上の要衝、祁山(きざん)に進撃した。 全軍隊伍は整い、賞罰は厳正、命令は末端まで行き届いていた。天水・南安・安定の3群は、魏に反旗を翻して諸葛亮に呼応し、関中(秦嶺山脈より北の長安一帯の地域)は恐慌状態に陥った。この報は魏の朝野を震撼させ、魏帝、曹叡は自ら5万余の兵を率いて長安防衛に向かった。


ちなみに、曹叡は206年生まれでこの時23歳、蜀の皇帝、劉禅は207年生まれで22歳、ほぼ同年代である。曹叡は情勢を判断して自ら前線に赴かんとしたが、劉禅はどのような情勢であっても、戦場に赴く事は最後まで無かった。長安に本営を置いた曹叡は、歴戦の名将、張郃(ちょうこう)に軍を授けて、諸葛亮迎撃を命じた。これに対して諸葛亮は、愛弟子で才気活発な馬謖を先鋒の指揮官に抜擢し、街亭で迎え撃たせた。ところが、馬謖は経験不足を露呈して、山上に陣取ったところ、張郃に水手を断たれて散々に打ち破られてしまう。先鋒が壊滅的打撃を被った事から、これ以上の進撃は困難となり、諸葛亮はせっかく手にした3郡も放棄して、空しく漢中に引き揚げざるを得なかった。別道を通っていた趙雲軍も、優勢な曹真軍を相手にして敗れたが、趙雲自ら殿軍を務めて、大きな損害を出すことなく引き揚げた。


戦後、諸葛亮は、馬謖を泣いて斬って軍紀を正し、自らも丞相から右将軍に3階級降格して、全軍に不明を詫びた。ここまでが第一次北伐である。もし、街亭で勝利を収める事が出来ていたなら、魏の郡県は更に諸葛亮に呼応して、長安を窺う形勢になっていただろう。この第一次北伐の際は、魏の防衛態勢も整っておらず、最も可能性の高い作戦であった。しかし、諸葛亮は痛恨の人選失敗によって、 長蛇を逸する形となった。同228年8月、同盟国、呉が石亭にて魏と会戦し、これを大いに打ち破った。魏は、この方面に援軍を次々に送り込んだので、長安周辺の防備は薄くなった。同年11月、これを好機と見た諸葛亮は再び出兵、西寄りの故道を進んで、陳倉城を囲んだ。しかし、魏の曹真は、諸葛亮が次に狙うのは陳倉であると読んで、郝昭(かくしょう)に守備を固めさせていた。 諸葛亮率いる蜀軍数万は、郝昭以下千人余が守る陳倉城に猛攻を加えるも、これを攻めあぐねた。


攻防20日余、早くも兵糧が欠乏しだし、魏の曹真率いる援軍も迫ってきたので、蜀軍は撤退に入った。すかさず魏将、王双が騎兵をもって追撃してきたが、諸葛亮はこれを迎撃して討ち取った。この退却行の間に年は明ける。229年春、諸葛亮は、陳式に一軍を授けて武都、陰平の2群に攻め入らせた。これに対して、魏の雍州刺史、郭淮(かくわい)が救援に向かったが、諸葛亮自ら建威まで出撃して背後を襲う姿勢を見せると、戦わずして撤退していった。こうして武都、陰平は平定され、その功をもって諸葛亮は再び丞相に復された。ここまでが、第二次北伐である。諸葛亮は陳倉では敗れたものの、辺境とはいえ武都、陰平の二郡を平定して、蜀の版図を広げた事は一応、評価できるだろう。曹真が何故、二郡の救援に向かわなかったのかは不明であるが、諸葛亮の再攻撃に備えて陳倉に留まっていたのかもしれないし、向かおうとして間に合わなかったのかもしれない。


230年8月、諸葛亮は尚も漢中に留まって攻撃準備を整えていたところ、今度は魏の曹真が機先を制して、大軍をもって漢中に攻め入らんとした。曹真軍の主力は長安から、別軍は郿から、張郃は祁山から、司馬懿は宛から漢水を遡って、それぞれ漢中を目指さんとした。魏の名将3人による4方向からの同時攻撃には、然しもの諸葛亮と言えども苦戦は免れなかったろう。だが、この時は天候が諸葛亮に味方した。折からの大雨によって桟道が寸断され、魏軍は立ち往生して、戦う事なく疲弊して引き揚げていった。諸葛亮は、この間隙を突いて反撃に出た。歴戦の将、魏延と呉懿に軍を授けて、祁山の東から涼州深く攻め入らせたのである。魏延と呉懿は西方の羌中まで進撃し、そこで魏の郭淮と費耀(ひよう)と遭遇して、会戦となった。魏延は陽谿(ようけい)で郭淮を打ち破り、呉懿も南安で費耀を打ち破って、蜀軍が勝利を収めた。


だが、蜀軍は魏の駐屯軍を打ち破りながらも、一角の土地も占領する事なく撤退していった。涼州に長く留まっていては、曹真や張郃に退路を断たれる恐れがあったからだろう。一撃離脱と言葉にすれば簡単であるが、敵中深く進攻して、そこで敵軍を打ち破り、無事帰還を果たすと言うのは、実際には難しい事である。魏延と呉懿はなかなかの将才の持ち主で、蜀軍にも人材は居た事を証明している。ここまでが、第三次北伐である。 231年2月、諸葛亮は四度、北伐の徒に就いた。諸葛亮はこれまで兵站に悩んできたので、一兵士に付き半年分の兵糧輸送が可能な、木牛と呼ばれる輸送車を考案して今回の遠征に用いた。諸葛亮は最も西にある関山道を通って祁山に進出、魏将、賈詡(かく)と魏平が守る出城を包囲した。それに合わせて、北方の鮮卑族の首領、軻比能(かひのう)に働きかけ、長安の北方を撹乱させた。


この時、魏では、対蜀方面司令官であった曹真が死の床にあったので、急遽、司馬懿が後任に起用されて、蜀軍迎撃に向かった。長安に駆け付けた司馬懿は休む間もなく、一軍を割いて上邽(じょうけい)の守備に当たらせ、自らは主力を率いて祁山救援に向かった。諸葛亮も司馬懿の接近を知ると、一軍を割いて祁山包囲を続けさせ、自らは主力をもって司馬懿迎撃に向かった。諸葛亮は、郭淮、費耀(ひよう)率いる魏の先鋒と遭遇するも、これを打ち破って上邽一帯の麦を刈り取らせた。そこへ、司馬懿率いる魏の主力が現れ、上邽の東で諸葛亮と対峙する形となった。 天下で一、二を競う稀代の智将、諸葛亮と司馬懿は、ここに直接対決の時を迎える。だが、司馬懿は要害に立て篭もって、積極的に戦おうとはしなかった。司馬懿は、蜀軍が兵站に弱点を抱えているのを知っており、いずれ撤退せざるを得なくなるのだから、あえて危険を冒す必要はないと考えていた。戦うのは、相手が撤退に移り、背後を晒してからでも遅くはない、と。


諸葛亮は相手が決戦に応じようとしないので、引き揚げに入った。司馬懿はその後を追ったが、祁山付近で諸葛亮と遭遇すると、再び高地に上って陣を固めた。しかし、その消極姿勢に指揮下の将軍達から不満の声が上がる。特に、祁山の出城で篭城を続けている将軍達の攻勢を求める声は大きく、これを無視する訳にはいかなかった。司馬懿は困り果てたが、将軍達の突き上げを受けて、ついに戦う決意を固めた。恐らく諸葛亮は、魏軍主力を祁山に引き込んで叩くため、あえて出城を落とさなかったのだろう。出城が包囲されている以上、後詰めの魏軍は現地まで出向いて、包囲を解除する義務を負うからだ。 同年5月10日、司馬懿は、張郃に一軍を授けて祁山の南に陣取る蜀将、王平を攻撃させ、自らは正面の諸葛亮を攻め立てた。これに対して諸葛亮は、魏延、高翔、呉班らを繰り出して魏軍を迎撃、首級3千、鎧5千、弩3千百を得る大勝を収め、王平も張郃の攻撃を退けた。戦いの模様は、堅固な陣地に寄った蜀軍を、魏軍が前後から強襲する形であったのだろう。だが、魏軍は蜀軍の陣地を打ち破れず、逆に手痛い打撃を被った。


司馬懿は破れはしたものの、余力は残していたようだ。そして、陣地を固めて、従来の持久戦に立ち戻った。諸葛亮は優勢にあったが、要害に立て篭もっている魏軍への強攻は難しく、そのまま対峙する状況が続いた。両者の根競べとなったが、やはり、先に兵糧が尽きたのは蜀軍の方だった。諸葛亮は、国内の兵站責任者である李厳(りげん)に再三に渡って催促するも、長雨による輸送の滞りがあって無理との返事であった。諸葛亮は、致し方なく撤退に入った。司馬懿はこれを好機と見て張郃に追撃させたが、諸葛亮が配した伏兵と交戦となり、歴戦の名将、張郃は流れ矢を受けて戦死した。諸葛亮は、司馬懿に痛撃を与えたものの止めを刺すまでには到らず、兵糧不足に泣いて無念の撤退となった。ここまでが第四次北伐で、「漢晋春秋」の記述から見た戦いの模様である。


しかし、司馬懿の伝記、「晋書・宣帝紀」によれば、司馬懿は、祁山において諸葛亮の陣を打ち破り、夜陰に乗じて逃走する蜀軍を追撃して1万余を討ち取ったとある。「晋書・宣帝紀」は、問題のある史書であるが、この後、3年間、蜀の軍事活動が無くなるのを見れば、司馬懿もまた、諸葛亮に痛撃を与えたのかもしれない。戦後、李厳は責任逃れしようとして、「諸葛亮は食料が足りているのに撤退したのだ」と強弁した。だが、残された文書から矛盾を暴かれ、李厳は庶民の身に落とされた。これは死刑になってもおかしくない罪であったが、李厳は、諸葛亮と共に劉備から後事を託された重鎮の身であったのと、蜀の豪族との繋がりが深かった点を考慮して、死を免ぜられたのだろう。ちなみに、李厳はかつて、諸葛亮に「九錫(きゅうしゃく)の恩典を受けて、王を称してはどうか」と言って、暗に簒奪を勧めている。これに対して諸葛亮は、「魏を滅ぼした後には九錫と言わず、十錫でも受けよう」と言って受け流したと云う。

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