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諸葛亮、対、司馬懿  稀代の智将2人の対決と生き様 2

2015.05.02 - 三国志・中国史



↑三国志地図(中国のウィキより)


227年3月、諸葛亮は出師の表を高らかに掲げ、5万人余の兵を率いて蜀の前線基地、漢中(秦嶺山脈より南の盆地)に進出する。そして、魏を東西から挟撃する事を画策して、魏の新城群(荆州北部の上庸)太守、孟達に働きかけて内応を促した。しかしながら、孟達の決断は鈍く、今だに心は揺れ動いていた。諸葛亮は業を煮やして、わざと孟達離反の情報を流して決起を促した。司馬懿はこの報に接すると、時間を稼がんとして、孟達に疑いはもたれていないとの手紙を送って油断を誘い、そうしておいて宛から密かに軍を発した。孟達はようやく腹を固めて兵を挙げたものの、まだ防備は整っていなかった。宛から上庸までは1200里もの距離があり、通常の行軍ならば1ヶ月はかかると見られていた。だが、司馬懿は昼夜兼行の強行軍で、僅か8日で駆け抜ける。上庸は要害の地であるが、司馬懿は不意を突いて一気に城下に攻め寄せ、それから半月余り休まず猛攻を加えて、孟達を討ち取った。孟達の死によって東の攻勢点は失われ、諸葛亮は西から攻める他、無くなった。そして、作戦を練り直す必要に迫られ、そのまま年が過ぎた。この第一次北伐において、司馬懿が諸葛亮と直接対決する機会は無かったが、間接的にその戦略意図を打ち砕いた意義は大きい。


228年春、諸葛亮は再び動き出した。目指すは、魏の西方における重要都市、長安である。だが、これを落とすには、幾つもの難関が待っている。まず、蜀と魏の間には峻険な秦嶺(しんれい)山脈が横たわっており、進撃も撤退も困難なら、補給も困難であった。ようやく魏領に進出しても、そこで魏の主力を打ち破らねば、長安には攻めかかれない。首尾よく魏の主力を打ち破る事が出来れば、長安を降伏に追い込む事も出来るだろう。しかし、戦意の高い将が長安を守り、食料も豊富にあれば数ヶ月以上の攻防戦になる事も有り得る。攻城戦が長引けば、再び魏軍が来援する事も考えられるし、蜀の細い補給がこれに耐え切れるかどうかも問題である。行く手には数々の不確定要素が待っているが、ともかく賽は投げられた。


漢中から長安に至るには、秦嶺山脈を南北に貫く5本の細い桟道(さんどう)、東から子午道、駱谷(らくこく)道、斜谷道、故道、関山道のいずれかを通らねばならない。 長安への最短路は最も東にある子午道で、蜀の勇将、魏延はこの道を通っての奇襲作戦を提案している。その概要は、魏延率いる1万の兵は子午道を通って長安を奇襲占領し、諸葛亮率いる主力は斜谷道を通って奇襲部隊と合流するというものだった。その流れは、長安を奇襲占領→奇襲部隊と主力の合流→魏軍主力の撃退→長安以西の涼州、雍州制圧といった具合で、短期決戦を指向したものだろう。これが成功すれば、面倒な攻城戦をする事なく長安が手に入るが、奇襲が成功する保障はどこにもなく、失敗すれば、長安城の魏軍、西の涼州方面の魏軍、東から来援してくる魏の主力軍と、三方を敵に回して苦境に陥る事になる。仮に長安占領に成功したとしても、急戦であるがゆえに、蜀から長安までの占領地は細く長いものとなり、補給路も寸断されやすくなる。


諸葛亮は、この案は危険性が高いと見て採用せず、まず長安の西部一帯を制圧して涼州を遮断し、背後を固めてから長安攻略に乗り出すという、堅実な作戦を取った。その流れは、魏軍主力の撃退→涼州を遮断→長安攻略→涼州、雍州の制圧といった具合で、長期戦を想定したものだろう。長安の西部一帯を占領すれば、補給路が安定すると共に、兵糧の現地調達もある程度見込める。もしくは、魏軍主力を撃退した後、先に涼州を制圧して、後顧の憂いを完全に取り除いてから長安攻略に乗り出したかもしれない。 涼州と雍州西部を確保すれば、背後を気にする必要はなくなり、長安への侵攻が楽になる。それに、この地にはシルクロードの交易路が走っているので、これを押さえれば、魏の財政に打撃を与えると共に、自らがその恩恵に与れる。ただ、涼州は西北に長く突き出した辺境で、しかも異民族に囲まれた厳しい地勢にあるので、制圧と維持には手間がかかる事が予想される。それに、この地の攻略に時間をかけ過ぎれば、長安には更なる増援が到来して、再び主力決戦を強いられる事になるだろう。


長安か、それとも涼州か、諸葛亮がいずれを優先したかは、今となっては分からない。どちらにせよ、前提となるのは魏の主力野戦軍の撃退である。228年春、諸葛亮は、ついに作戦を発動する。まず、斜谷道を進んで郿(び・長安西方の都市)を襲うと喧伝し、実際に趙雲、鄧芝の軍を斜谷道に差し向けて、魏軍の注意を引き付けさせた。魏の対蜀方面司令官、曹真はこの陽動作戦に引っかかって、全軍をもって趙雲軍の迎撃に向かう。その隙に諸葛亮は主力を率いて最も西にある関山道を進み、戦略上の要衝、祁山(きざん)に進撃した。 全軍隊伍は整い、賞罰は厳正、命令は末端まで行き届いていた。天水・南安・安定の3群は、魏に反旗を翻して諸葛亮に呼応し、関中(秦嶺山脈より北の長安一帯の地域)は恐慌状態に陥った。この報は魏の朝野を震撼させ、魏帝、曹叡は自ら5万余の兵を率いて長安防衛に向かった。


ちなみに、曹叡は206年生まれでこの時23歳、蜀の皇帝、劉禅は207年生まれで22歳、ほぼ同年代である。曹叡は情勢を判断して自ら前線に赴かんとしたが、劉禅はどのような情勢であっても、戦場に赴く事は最後まで無かった。長安に本営を置いた曹叡は、歴戦の名将、張郃(ちょうこう)に軍を授けて、諸葛亮迎撃を命じた。これに対して諸葛亮は、愛弟子で才気活発な馬謖を先鋒の指揮官に抜擢し、街亭で迎え撃たせた。ところが、馬謖は経験不足を露呈して、山上に陣取ったところ、張郃に水手を断たれて散々に打ち破られてしまう。先鋒が壊滅的打撃を被った事から、これ以上の進撃は困難となり、諸葛亮はせっかく手にした3郡も放棄して、空しく漢中に引き揚げざるを得なかった。別道を通っていた趙雲軍も、優勢な曹真軍を相手にして敗れたが、趙雲自ら殿軍を務めて、大きな損害を出すことなく引き揚げた。


戦後、諸葛亮は、馬謖を泣いて斬って軍紀を正し、自らも丞相から右将軍に3階級降格して、全軍に不明を詫びた。ここまでが第一次北伐である。もし、街亭で勝利を収める事が出来ていたなら、魏の郡県は更に諸葛亮に呼応して、長安を窺う形勢になっていただろう。この第一次北伐の際は、魏の防衛態勢も整っておらず、最も可能性の高い作戦であった。しかし、諸葛亮は痛恨の人選失敗によって、 長蛇を逸する形となった。同228年8月、同盟国、呉が石亭にて魏と会戦し、これを大いに打ち破った。魏は、この方面に援軍を次々に送り込んだので、長安周辺の防備は薄くなった。同年11月、これを好機と見た諸葛亮は再び出兵、西寄りの故道を進んで、陳倉城を囲んだ。しかし、魏の曹真は、諸葛亮が次に狙うのは陳倉であると読んで、郝昭(かくしょう)に守備を固めさせていた。 諸葛亮率いる蜀軍数万は、郝昭以下千人余が守る陳倉城に猛攻を加えるも、これを攻めあぐねた。


攻防20日余、早くも兵糧が欠乏しだし、魏の曹真率いる援軍も迫ってきたので、蜀軍は撤退に入った。すかさず魏将、王双が騎兵をもって追撃してきたが、諸葛亮はこれを迎撃して討ち取った。この退却行の間に年は明ける。229年春、諸葛亮は、陳式に一軍を授けて武都、陰平の2群に攻め入らせた。これに対して、魏の雍州刺史、郭淮(かくわい)が救援に向かったが、諸葛亮自ら建威まで出撃して背後を襲う姿勢を見せると、戦わずして撤退していった。こうして武都、陰平は平定され、その功をもって諸葛亮は再び丞相に復された。ここまでが、第二次北伐である。諸葛亮は陳倉では敗れたものの、辺境とはいえ武都、陰平の二郡を平定して、蜀の版図を広げた事は一応、評価できるだろう。曹真が何故、二郡の救援に向かわなかったのかは不明であるが、諸葛亮の再攻撃に備えて陳倉に留まっていたのかもしれないし、向かおうとして間に合わなかったのかもしれない。


230年8月、諸葛亮は尚も漢中に留まって攻撃準備を整えていたところ、今度は魏の曹真が機先を制して、大軍をもって漢中に攻め入らんとした。曹真軍の主力は長安から、別軍は郿から、張郃は祁山から、司馬懿は宛から漢水を遡って、それぞれ漢中を目指さんとした。魏の名将3人による4方向からの同時攻撃には、然しもの諸葛亮と言えども苦戦は免れなかったろう。だが、この時は天候が諸葛亮に味方した。折からの大雨によって桟道が寸断され、魏軍は立ち往生して、戦う事なく疲弊して引き揚げていった。諸葛亮は、この間隙を突いて反撃に出た。歴戦の将、魏延と呉懿に軍を授けて、祁山の東から涼州深く攻め入らせたのである。魏延と呉懿は西方の羌中まで進撃し、そこで魏の郭淮と費耀(ひよう)と遭遇して、会戦となった。魏延は陽谿(ようけい)で郭淮を打ち破り、呉懿も南安で費耀を打ち破って、蜀軍が勝利を収めた。


だが、蜀軍は魏の駐屯軍を打ち破りながらも、一角の土地も占領する事なく撤退していった。涼州に長く留まっていては、曹真や張郃に退路を断たれる恐れがあったからだろう。一撃離脱と言葉にすれば簡単であるが、敵中深く進攻して、そこで敵軍を打ち破り、無事帰還を果たすと言うのは、実際には難しい事である。魏延と呉懿はなかなかの将才の持ち主で、蜀軍にも人材は居た事を証明している。ここまでが、第三次北伐である。 231年2月、諸葛亮は四度、北伐の徒に就いた。諸葛亮はこれまで兵站に悩んできたので、一兵士に付き半年分の兵糧輸送が可能な、木牛と呼ばれる輸送車を考案して今回の遠征に用いた。諸葛亮は最も西にある関山道を通って祁山に進出、魏将、賈詡(かく)と魏平が守る出城を包囲した。それに合わせて、北方の鮮卑族の首領、軻比能(かひのう)に働きかけ、長安の北方を撹乱させた。


この時、魏では、対蜀方面司令官であった曹真が死の床にあったので、急遽、司馬懿が後任に起用されて、蜀軍迎撃に向かった。長安に駆け付けた司馬懿は休む間もなく、一軍を割いて上邽(じょうけい)の守備に当たらせ、自らは主力を率いて祁山救援に向かった。諸葛亮も司馬懿の接近を知ると、一軍を割いて祁山包囲を続けさせ、自らは主力をもって司馬懿迎撃に向かった。諸葛亮は、郭淮、費耀(ひよう)率いる魏の先鋒と遭遇するも、これを打ち破って上邽一帯の麦を刈り取らせた。そこへ、司馬懿率いる魏の主力が現れ、上邽の東で諸葛亮と対峙する形となった。 天下で一、二を競う稀代の智将、諸葛亮と司馬懿は、ここに直接対決の時を迎える。だが、司馬懿は要害に立て篭もって、積極的に戦おうとはしなかった。司馬懿は、蜀軍が兵站に弱点を抱えているのを知っており、いずれ撤退せざるを得なくなるのだから、あえて危険を冒す必要はないと考えていた。戦うのは、相手が撤退に移り、背後を晒してからでも遅くはない、と。


諸葛亮は相手が決戦に応じようとしないので、引き揚げに入った。司馬懿はその後を追ったが、祁山付近で諸葛亮と遭遇すると、再び高地に上って陣を固めた。しかし、その消極姿勢に指揮下の将軍達から不満の声が上がる。特に、祁山の出城で篭城を続けている将軍達の攻勢を求める声は大きく、これを無視する訳にはいかなかった。司馬懿は困り果てたが、将軍達の突き上げを受けて、ついに戦う決意を固めた。恐らく諸葛亮は、魏軍主力を祁山に引き込んで叩くため、あえて出城を落とさなかったのだろう。出城が包囲されている以上、後詰めの魏軍は現地まで出向いて、包囲を解除する義務を負うからだ。 同年5月10日、司馬懿は、張郃に一軍を授けて祁山の南に陣取る蜀将、王平を攻撃させ、自らは正面の諸葛亮を攻め立てた。これに対して諸葛亮は、魏延、高翔、呉班らを繰り出して魏軍を迎撃、首級3千、鎧5千、弩3千百を得る大勝を収め、王平も張郃の攻撃を退けた。戦いの模様は、堅固な陣地に寄った蜀軍を、魏軍が前後から強襲する形であったのだろう。だが、魏軍は蜀軍の陣地を打ち破れず、逆に手痛い打撃を被った。


司馬懿は破れはしたものの、余力は残していたようだ。そして、陣地を固めて、従来の持久戦に立ち戻った。諸葛亮は優勢にあったが、要害に立て篭もっている魏軍への強攻は難しく、そのまま対峙する状況が続いた。両者の根競べとなったが、やはり、先に兵糧が尽きたのは蜀軍の方だった。諸葛亮は、国内の兵站責任者である李厳(りげん)に再三に渡って催促するも、長雨による輸送の滞りがあって無理との返事であった。諸葛亮は、致し方なく撤退に入った。司馬懿はこれを好機と見て張郃に追撃させたが、諸葛亮が配した伏兵と交戦となり、歴戦の名将、張郃は流れ矢を受けて戦死した。諸葛亮は、司馬懿に痛撃を与えたものの止めを刺すまでには到らず、兵糧不足に泣いて無念の撤退となった。ここまでが第四次北伐で、「漢晋春秋」の記述から見た戦いの模様である。


しかし、司馬懿の伝記、「晋書・宣帝紀」によれば、司馬懿は、祁山において諸葛亮の陣を打ち破り、夜陰に乗じて逃走する蜀軍を追撃して1万余を討ち取ったとある。「晋書・宣帝紀」は、問題のある史書であるが、この後、3年間、蜀の軍事活動が無くなるのを見れば、司馬懿もまた、諸葛亮に痛撃を与えたのかもしれない。戦後、李厳は責任逃れしようとして、「諸葛亮は食料が足りているのに撤退したのだ」と強弁した。だが、残された文書から矛盾を暴かれ、李厳は庶民の身に落とされた。これは死刑になってもおかしくない罪であったが、李厳は、諸葛亮と共に劉備から後事を託された重鎮の身であったのと、蜀の豪族との繋がりが深かった点を考慮して、死を免ぜられたのだろう。ちなみに、李厳はかつて、諸葛亮に「九錫(きゅうしゃく)の恩典を受けて、王を称してはどうか」と言って、暗に簒奪を勧めている。これに対して諸葛亮は、「魏を滅ぼした後には九錫と言わず、十錫でも受けよう」と言って受け流したと云う。


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