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諸葛亮、対、司馬懿  稀代の智将2人の対決と生き様 1

2015.05.01 - 三国志・中国史

三国志において名高い2人の智将を、主に軍略面から比較したい。まずは両者が誕生してから、227年の諸葛亮の北伐に至るまでの簡単な略歴を紹介する。


181年、諸葛亮は、泰山群の副長官を務めていた諸葛珪の子として生まれた。幼い頃に両親を亡くし、その後は親族によって養育される。少年時代、叔父で、豫章太守に任ぜられた諸葛玄に伴われて、南方へと移り住んだが、その地で戦乱を受け、諸葛玄も殺されたので、荊州(けいしゅう)へと逃れた。晴耕雨読の生活に入った諸葛亮は、身の丈8尺(約184センチ)の偉丈夫に成長し、知識も蓄えて、自らを古の名臣、管仲と楽毅になぞらえた。周囲の人間は皆、大風呂敷であると見なしていたが、学識ある知人である崔州平や徐庶だけがその通りであると、才を認めていた。


206年、劉表の客将として、荊州北部に駐屯していた劉備は、広く人材を求めていた。そこへ、家臣となっていた徐庶から、諸葛亮の才気の程を聞き付け、劉備は三顧の礼をもって陣営に迎え入れた。この時、諸葛亮は26歳の書生で、まだ一部の者にしか名は知られていなかった。一方、劉備は46歳で流亡の身ではあったが、その名は天下に知られていた。劉備は、諸葛亮の人物を見込んで、粗末な草廬(そうろ)に三度も出向き、年下と侮る事なく、礼節をもって迎え入れた。この時の感激と恩義を、諸葛亮は生涯忘れる事はなく、その後の働きの原動力となった。


劉備も諸葛亮に全幅の信頼を置き、戦略面、政治面でその才を存分に発揮させると共に、自らが出征する際には留守全般を任せた。隙あらば、敵の侵攻や反乱が相次いでいた当時、君主の留守を預かるという任は非常に重要で、信頼が置けて相当な力量の持ち主でなければ、任されなかった。また、諸葛亮は、天下三分の計を発案して蜀の建国まで導いただけでなく、法律を制定して統治面でも多大な功績を残した。223年、劉備が死去する際には枕元に呼ばれ、国家と、太子の劉禅、それに天下の統一を託された。しかし、この時、蜀が置かれていた状況は非常に厳しかった。


219年の関羽の敗死と荊州の失陥、222年の夷陵の大敗と蜀軍主力の壊滅、223年の劉備の死去と益州南部の反乱、引き続く魏と呉の強大な圧力、まさに蜀は存亡の危機に立っていた。全ては、諸葛亮の双肩にかかっていた。まず、諸葛亮は呉との関係修復に乗り出し、これを成功させて戦略面での負担を大きく軽減する。そして、225年には、益州南部の反乱鎮圧に自ら向かい、これを平定した。こうして国内を安定させ、軍を再建した諸葛亮は、劉備との遺命を果たすべく、227年、満を持して北伐を開始する。



司馬懿の生涯を辿るには、「晋書・宣帝紀」に拠るところが大きいが、この書には多くの俗説が含まれている事を予め、断わっておく。


179年、司馬懿は、漢朝の高官を務めていた司馬防の子として生まれた。司馬防の息子8人は皆、俊才を謳われていたが、その中でも司馬懿は特に優れていて、頭が非常に切れる上、並外れた胆力を備え、遠大な大望を抱いていた。人物鑑定の名人として知られていた楊俊は、彼を見て、並々ならぬ大器であると太鼓判を押している。201年、司馬懿は、河内郡の会計官の属官に推挙された。


才能を聞き付けた曹操から陣営に加わるようにとの誘いが来たが、曹操に屈従するのを望んでいなかった司馬懿は、中風を理由にしてこれを断わった。208年、丞相となって一段と権力の高みにたった曹操は、再び司馬懿に出仕を求めた。曹操は前回の経緯を知っているだけに、今度は引っ捕えてでも連れて来いと使者に言い含めており、身の危険を感じた司馬懿は已む無く承諾した。司馬懿は最初、太子のお相手役を勤めた後、文官職を歴任していったが、やがては軍事にも参画するようになる。


215年、曹操が漢中を征した際には従軍して、勢いに乗じて蜀の劉備を征討するよう献策したり、219年、関羽が北上してきた際には、呉の孫権を動かして背後を突かせるよう献策している。前者は採用されず、劉備は窮地を逃れたが、後者は採用されて、関羽を討ち取る事に成功した。曹操が魏王になると、司馬懿は太子、曹丕付きの書記官となり、重大な問題には必ず質問を受け、その度、非凡な策を献じたので、深い信頼を受けるようになる。220年、曹操が死去して、曹丕が帝位に付くと、司馬懿は近臣として重く用いられ、政治の中枢で働く事となった。


曹丕からの信頼は絶大で、将軍と宰相の兼務を命じられる共に、「留守を任せられるのはそなたをおいて他にはいない。私が東征する際には、そなたが西の蜀に備え、私が西征する際には、そなたが東の呉に備えるのだ」とまで言わしめた。226年、曹丕が危篤になると、司馬懿は曹真、陳羣、曹休らと共に枕元に呼ばれて、後事を託された。司馬懿は次の皇帝、曹叡にも深く信頼され、227年には宛に駐屯して、魏、呉、蜀の勢力が接する重要な係争地、荊州、予州の軍事の全権を委ねられた。そして、この年から、諸葛亮の北伐が始まり、歴史に残る対決が始まる事となる。





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