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諸葛亮、対、司馬懿   稀代の智将2人の対決と生き様 4

2015.05.04 - 三国志・中国史

蜀の巨星は落ちたが、魏の巨星は尚も輝き続ける。(ここから先は主に、「晋書・宣帝紀」の記述に拠る)。


237年、遼東の半独立勢力、公孫淵が燕王と称して魏に反旗を翻す事態が起こった。曹叡は司馬懿に討伐を命じたが、この時、魏の人民は、曹叡による宮殿造営の負担に加えて、遼東遠征の戦費が重なって、二重の負担に喘いでいた。そこで司馬懿は、今は危急に集中するのが先決で、宮殿造営の方は当面、見合わせるよう曹叡に諫言した。そして、翌238年春、司馬懿は歩騎兵4万余を率いて出撃し、同年6月、遼東に達した。これに対して公孫淵は、将軍の卑衍(ひえん)、楊祚(ようそ)に魏軍を上回る数万の兵を授けて、魏軍の迎撃に向かわせた。卑衍ら率いる公孫淵軍は、遼河(満州南部の大河)の東岸に、南北60、70里に渡る堅固な陣地を築いて、魏軍を待ち受けた。それを見た司馬懿は迂回攻撃を思い立ち、まず防衛線の南部に旗指物を並べ立てて、大部隊がいるように見せかけた。 公孫淵軍がそれにひっかかって主力を南部に集中すると、司馬懿は、その隙を突いて北部から密かに渡河、そこから真っ直ぐ相手の本拠、襄平に向かわんとした。そうと知った公孫淵軍は、魏軍の前進を阻まんと、陣地を飛び出て挑みかかった。


司馬懿は、「敵陣攻撃を避けた狙いは、まさにここにある。この機を逃すな」と全軍を叱咤、公孫淵軍と切り結んで、散々に打ち破った。これより先、公孫淵は、呉の孫権に救援を依頼していた。孫権はこれに応えて、遠く朝鮮半島まで派兵して魏を牽制し、合わせて公孫淵に書簡を送った。「司馬懿は用兵が巧みで、神のような変幻自在さで、向かうところ敵はいない。貴君の行く末を深く憂いている」。 司馬懿は公孫淵を追って、襄平を囲んだ。しかし、折り悪く長雨が降りしきって、濁流が魏の陣営を浸した。将兵達はしきりに陣地の移動を願い出たが、司馬懿は決して許さず、都督令史(参謀格)の張静が違反すると、これを容赦なく斬り捨てた。この断固たる処置を受け、軍の動揺は静まった。


長雨が上がると魏軍は包囲網を完成させ、攻城に取り掛かった。そして、土山を築き、櫓を立てて、矢を雨のように浴びせかけた。攻城は昼夜を問わず行われ、敵わずと見た公孫淵は降伏を願い出たが、司馬懿はこれを許さず、8月23日、逃れ出たところを斬り捨てた。襄平に入城した司馬懿は、ここで恐るべき事をやってのける。すなわち、15歳以上の男子7千人余を殺し、その死体を埋めた巨大な塚を築いて、己の武功を示したのである。更に、公孫淵が任命した大臣を皆殺しとし、将軍畢盛(ひっせい)以下、武官2千人余も誅殺した。この地で、二度と反抗の気は起こさせぬとの、強烈な意思表示であった。


かつて、225年には、司馬懿の好敵手である諸葛亮も、益州南部で起こった反乱を鎮圧するため、自ら遠征している。その際、諸葛亮は、首謀者である雍闓(ようがい)、高定らは討ち取っているが、孟獲を始めとする現地人の有力者は懐柔して自治を委ねるなど、比較的穏当な処置を取っている。司馬懿の場合は、苛烈な処置をもって反乱の芽をつぶし、魏の強力な支配下に置いたのだった。両者は同じ雄才を有しながらも、性格も統治手法も大いに異なっていた。かくして遼東は平定され、戸数4万、人口30万人余の地域が、新たに魏の版図に加わった。 今回の遠征では、魏軍の方が兵力は少なく、公孫淵軍の方が兵力は多かったが、司馬懿は攻めの姿勢を貫いて、見事にこれを打ち破った。司馬懿にとって、公孫淵の軍略など取るに足らず、ただ天候だけが敵であったろう。兵力は少なくとも確かな軍略を有していた諸葛亮の方が、余程やり難い相手であったに違いない。司馬懿が凱旋の徒についていた時、曹叡から、直ちに参内せよとの使者がもたらされた。


239年1月、司馬懿が駆け付けると、曹叡は死の床についており、司馬懿の手を握り締めると、幼い曹芳を見やって、「くれぐれもこれを頼む」と言って息を引き取った。遺言によって、司馬懿と曹爽(曹真の息子)の2人が曹芳の後見役となって、魏の政権と軍権を分け合った。功績を積み重ねた司馬懿は、とうとう曹一族と並ぶ位置にまで登りつめたのである。後、一歩上がったなら、頂点である。司馬懿が何時から、簒奪の野心を抱いていたのは定かではない。明敏な曹操、曹丕、曹叡が生きていた頃は、司馬懿に簒奪の意志があったとしても手出し出来なかったであろうが、今は違っていた。後を継いだ曹芳は幼く、曹爽を始めとする曹一族にもこれといった実力者は存在しなかった。それに比べて、自らの実力と声望は他を圧倒している。この時、司馬懿ははっきりと簒奪の決意を固めたであろう。 だが、先手を打ってきたのは、曹爽の方だった。曹爽は、司馬懿を太傅(たいふ)と言う名誉職に祭り上げて、権力の中枢から遠ざけんとしたのである。これを受けて司馬懿は政権から外され、軍権だけは曹爽と分け合う形になった。


241年5月、呉の孫権は、朱然、諸葛謹、全琮らに兵を授けて、3方面から魏に侵攻させた。朱然は荊州の樊城を、諸葛謹は同じく荊州の柤中を、全琮は揚州の魏の拠点、寿春を襲った。同年6月、司馬懿はこれを防ぐため、諸軍を率いて樊城救援に向かった。朱然は、魏の援軍接近を見ると撤退を開始したが、司馬懿はこれを追撃して、斬首、捕虜1万人余を得たと云う。他の2方面の呉軍もそれぞれ、退けられた。同年7月、この功をもって司馬懿は、2県を加増され、これまでの4県と合わせて戸数は1万戸に達し、一族子弟11人が列候となった。 242年、司馬懿は、黄河の水を汴水(べんすい)に引き入れる用水路の建設を上奏し、この結果、淮北地方が大規模に開拓された。243年9月、呉の諸葛恪が揚州の六安に進出してきたので、司馬懿が迎撃に向かうと、戦わずして撤退していった。司馬懿はこの機会に中国第3の大河、淮河流域を視察して回り、呉撃滅の鍵は食料の備蓄にあると確信した。そして、屯田村、用水路、堤防を新たに建設して、1万余頃の農地を得た。


「晋書・宣帝紀」からは、司馬懿が曹操在世中から、度々、農業振興策を具申しているのが見て取れる。司馬懿は国家の基礎は農業にあると見て、そこから生み出される食料こそが、人民と軍を養い育てると言う事を、誰よりも深く理解していたのだろう。この様に司馬懿は軍事でも内政でも着々と実績を積み上げていったが、政敵である曹爽はこれといった実績はなく、焦りを募らせていた。そこで曹爽は、自らも功績を打ち立てるべく、245年、蜀討伐の軍を起こした。司馬懿の反対を押し切って強攻されたこの遠征は、無残な失敗に終わり、かえって曹爽の声望を低める結果となった。そして、これを機に司馬懿と曹爽の対立は深まっていった。 247年4月、曹爽は、司馬懿を信頼していた永寧皇太后(曹叡の妻)を宮殿に押し込め、近臣を重用して、朝政を壟断するようになった。曹爽は己の権力に酔って享楽の限りを尽くし、その取り巻き達も虎の威を借って、私腹を肥やした。同年5月、朝政が大いに乱れる中、司馬懿は病気と称して、政治から身を引いた。


だが、曹爽は警戒を怠らず、248年、取り巻きの1人である李勝を見舞いにやって、司馬懿の様子を探らせた。すると、司馬懿はいかにも重病に伏せているように見せかけ、更に痴呆老人を装った。李勝はまんまと騙され、「司馬公は最早、魂の抜け殻で、御心配には及びません」と報告したので、曹爽は安堵して警戒を解いた。 明けて249年正月、皇帝、曹芳が曹叡の陵墓を参拝するに当たって、曹爽も供となり、兄弟揃って都を留守にした。司馬懿は、この一瞬の隙を逃さなかった。司馬懿は挙兵して宮廷を押さえると、永寧皇太后の元に参上し、曹爽兄弟の官位を剥奪するよう奏上する。そして、老臣の高柔に大将軍代行を命じて、曹爽の軍を掌握させた。司馬懿は、皇帝を宮中に迎えるため洛水の畔に陣を構え、そこから曹爽の不忠を弾劾する上奏文を奉った。曹爽は届けられた上奏文を握り潰し、そのまま皇帝を擁して伊水の南に宿営し、屯田兵数千人を動員して守りを固めた。曹爽は軍権を失ったが、まだ皇帝という切り札を擁していた。曹爽の謀臣、桓範は、「皇帝を擁して許昌に赴き、天下に檄を飛ばして兵を集めましょう」と司馬懿との決戦を促した。これを採用したなら、魏は真っ二つとなって、三国志ならぬ四国志が現出したであろう。


しかし、曹爽は、躊躇して決断がつかなかった。桓範は、「今となっては、あなた方は貧民になってでも生きたいと願っても、それは叶わない」と重ねて挙兵を促した。司馬懿が一世一代の博打を打っているのに対し、そこまでの覚悟が無い曹爽は、やはり逡巡するのであった。そして、許允と陳泰を使者に立てて、司馬懿に内意を打診する始末であった。司馬懿はその罪を責め立てたが、処分は免職するに止めると約束して、許允と陳泰を送り返した。更に司馬懿は、曹爽の信頼篤い尹大目(いんだいもく)を送って説得せしめ、約束に二言は無いと言い含めた。司馬懿と言えども、皇帝を立てて挙兵されるのは、やはり避けたかったに違いない。そこで、曹爽を安堵させるため、重ねて約束したのだろう。


曹爽はこれを信じて、膝を屈する事を決したが、桓範は、「貴様に荷担したために、わしまで一族皆殺しだ」と地団駄踏んで慟哭した。かくして曹爽は罷免されて、自宅蟄居となった。ところが、曹爽と結託していた宦官、張当が逮捕され、曹爽が簒奪を計画していたと自白する(させられた?)に到って、曹爽一味は全て捕らえられた。そして、曹爽、曹羲(そうぎ)、曹訓ら曹兄弟に、何晏(かあん)、丁謐(ていひつ)、鄧颺(とうよう)らの側近に、李勝、桓範、張当も一族諸共、皆殺しとなった。これで魏の政権と軍権は、司馬懿の一手に握られる事となった。同年2月、曹芳は、司馬懿を丞相に任命し、4県を加増して、領地はこれまでの8県と合わせて2万戸とした。司馬懿は丞相就任は辞退したが、領地加増は受け取った。



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