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秦始皇帝陵

2017.01.15 - 三国志・中国史

紀元前210年7月21日(おそらくは8月21日)、中国史上初の皇帝、秦始皇帝は巡行中、病を得て急死した。嬴 政(えい せい)、49歳。始皇帝の死は秘され、その棺は車馬に載せられて、首都、咸陽へと運ばれていった。しかし、暑い時期であったため、車馬からは悪臭が漂い始めた。それを紛らわすため、塩漬けの魚が積みこまれた。行列が咸陽に着くと、喪が発せられ、公子の嬴 胡亥(えい こがい)が二世皇帝に即位した。同年9月、始皇帝の遺体は、西安の東方25キロにある、驪山(りざん)の地に埋葬された。



この山の麓に、始皇帝のために築造中であった陵墓があった。そして、遺体は地下宮殿に安置され、その上に巨大な墳丘が築かれた。陵墓の建設は、前246年、始皇帝が13歳で王位を継承した時から始まっており、二世皇帝の時代を迎えて、ようやく最終工程に入った。ここまで、38年の歳月が費やされていた。しかし、その最中の前209年7月、陳勝、呉広の反乱を受けて、工事は中断を余儀なくされる。そして、前206年、秦は滅亡を迎え、結局、始皇帝陵は未完のまま終わった。



しかしながら、秦が国力を傾けて築いただけはあって、始皇帝陵の壮大さは他の追従を許さず、中国史上最大の陵墓となっている。陵墓は、版築(黄土を突き固めただけの、簡単な工法)によって築かれた二重の城壁に囲まれ、外城は南北2,165メートル、東西940メートル、内城は南北1,355メートル、東西580メートルあった。そして、内城の中に、南北350メートル、東西345メートル、高さ76メートルの墳丘と、その地下30メートルに宮殿と始皇帝の墓室があった。



地上には、始皇帝の魂が日常生活を送るための寝殿や、休息のための便殿、食事をするための建物も建造されていた。陵墓の官吏は、毎日、食事を捧げていた。しかし、前209年、陳勝、呉広の反乱軍が陵墓に侵入し、兵馬俑を破壊して火を放った。続いて、前206年、項羽によって陵墓は暴かれ、この時も兵馬俑は破壊された。その後、陵墓に迷い込んだ羊飼いが地下宮殿を焼いて、その火は90日間も消えなかったと云う。



始皇帝の死から100年後の歴史家、司馬遷の記述を載せたい。


「始皇帝が秦王に即位して間もなく、驪山にて、その陵墓の築造が始まった。彼が天下を統一した後、全国から70万人の刑徒がここに集められて苦役に従事した。そして、3度、地下水脈を掘り抜いて、棺を覆う部屋を銅で固め、地下に宮殿、楼閣を築き、百官の席を設け、美しい器具や珍奇な財宝で墓室を満たした。器械仕掛けの弩と矢を備え付けて、盗掘者が近づけば発射するようにした。水銀で、全国の多くの川や長江、黄河、大海を再現し、器械仕掛けで流れるようにした。天井には天文の図、床には地理を描いた。永遠に燃え続けるよう、人魚(鯨との説)の膏(あぶら)で燭台の火が灯された。二世皇帝が即位すると、「先帝の宮女の内、子の無い者は後宮から出すべきではない」と言って、殉死を命じた。多数の殉死者を埋葬した後、官吏の1人は、「器械仕掛けをこしらえた工匠達は、墓の内部を知り過ぎており、それを漏らす危険があります」と建議した。そこで、始皇帝の棺を墓室に安置し、様々な財宝を収めた後、墓道の中と外の門が下ろされ、陵墓の建設に携わった人々を悉く閉じ込めて、誰1人出られないようにした。その上で、陵墓に草木を植え、丘陵の様に見せかけた」



1974年、陵墓から東に1・5キロの地点から、兵馬俑が発見された。俑(よう)とは陶器で作られた人形で、死者への副葬品とされた。始皇帝陵では、兵士、軍馬、戦車、指揮官、文官、力士、水鳥など、様々な俑が発見されている。中でも、人間を模(かたど)った俑は、非常に写実的で、今にも動き出しそうな迫力を醸し出している。実在した兵士を模して作られているので、身長、体格も実物大で、それぞれ容貌も違っており、同じ容貌の者は今だ発見されていない。また、額の皺(しわ)や顎の髭(ひげ)、鎧の金具、衣服の皺といったところまで再現されている。



容貌からは、関中、巴蜀、隴東(ろうとう)といった秦出身の兵から、北方騎馬民族系、西域系、秦が滅ぼした東方6ヵ国系の顔が見てとれた。これによって秦の軍隊は、様々な地域の人々から成り立っている事が分かった。兵士達は盾を持っておらず、鎧も胴体を覆うのみであった。これは秦の軍隊が、機動性を重視した攻撃的性格を持っていた事を示唆している。秦の軍隊の獰猛さは史書にも記されており、その精鋭部隊がそのまま再現されていた。 彩色が施された兵馬俑が発見された事から、制作時には鮮やかな彩色が施されていた事も分かった。しかし、兵乱を受けて焼かれたり、長らく地中に埋もれている間に、彩色は失われていった。彩色が残っている兵馬俑も、適切な処置を施さないと、空気に触れた途端、急速に劣化してしまう。この様に彩色の保存は難しく、現存する兵馬俑のほとんどは、土色となっている。



実物大の人間や馬の陶器を作るには、高度な技術と大変な手間が必要であった。まず、材料として黄土を捏ねるが、粘り気を増すため、何種類かの土も加える。次に、薄手の粘土で全身を形作っていくが、頭から足まで内部は空洞とし、焼成時の破裂を防ぐため、空気孔も作っておく。立たせて安定させるため、下半身は太めにして、重心を下げておく。ひび割れや歪みを防ぐため、収縮する度合いも考慮しておく。十分乾燥させてから、窯に立たせ、1000度丁度ぐらいの温度を保ちながら長時間、慎重に焼成する。出来上がった俑は生漆を塗られ、その上に何種類も色を重ねて、色合いに深みをもたせていった。



完成なった兵士俑の多くは、青銅製の実物の武器を持たされた。しかし、秦末の混乱時、兵馬俑に突入した反乱軍や、これを鎮圧する秦軍自身によって、武器の多くは持ち去られた。それでも保存状態の良い剣、矛、戟(げき)、弩(ど)、鏃(やじり)が数千点、兵馬俑から発掘された。大部分は青銅製で、鉄製は僅かしか出土しなかった。これらの武器は、公開するにあたって取り上げられ、別に保存されている。発見された武器の幾つかからは、腐食耐性のあるクロムが検出され、今だ往時の光沢と切れ味を保っていた。それを受けて当時の考古学会では、1937年に発明されたクロムメッキの技術を、それより2千年も昔の秦が既に習得していたとの説が唱えられた。しかし、現在ではこの説は否定され、兵馬俑周辺の土壌の特性(細かい粒子、適度のアルカリ性、少量の有機物質)によって、金属の腐食が免れていたとの見方が有力である。



兵馬俑は1号坑、2号坑、3号坑、4号坑からなっているが、4号坑は未完となっており、何も入っていない。1号坑からは、焼却された跡が残る兵士傭が多く見つかっており、3号坑からは、頭部を砕かれた兵士傭が多く見つかった。これらは、陳勝、呉広の反乱軍と、項羽の軍による破壊を物語っている。兵馬俑は、全てが発掘された訳ではなく、今だ多くが地中に埋もれたままとなっている。その密度から計算すると、8千体が存在すると考えられている。



2000年には、外城の東北に水鳥坑が発見され、青銅製の鶴6羽、白鳥20羽、雁(がん)20羽、それに飼育係の官吏の俑も発見された。地下に河川が作られて、その畔にこれらは配置されていた。秦の次の王朝、漢の時代にも、秦を見習ったと思われる兵馬俑が作られているが、その大きさは3分の1程度で、写実性にも欠けている。秦ほど規模の大きな陵墓と兵馬俑は、後にも先にも存在しない。しかしながら、後の王朝は、秦が一大陵墓を築かんとして、国が傾いていった事を知っており、これを反面教師として大規模な陵墓は築かなかったとも言える。



始皇帝陵は、驪山(りざん)の山麓にある事から、土石流に襲われる危険性があった。そのため、陵墓の東南に版築工法による堤防を築いて、土石流から守った。現在、その施設は五嶺遺跡と呼ばれており、長さ1キロ、幅40メートル、高さ2~8メートルほどの版築が残されている。また、陵墓の内城、外城には、排水施設が設けられており、陶製の下水管を敷き詰めて、雨水の排出が行われていた。下水管は五角形の構造で、上面の三角形によって上からの圧力を緩和し、平らな広い底面によって沈み込まない様にしていた。これら陶製の下水管は大量に制作されて、陵墓全体の地下に埋め込まれていた。それによって、地下宮殿への浸水を防いでいたと考えられる。



1976年、外城の東350メートルの地点で、整然と並んだ17基の墓が発見された。その内、8基を発掘したところ、男性5人、女性2人の遺骨が見つかった。印賞も見つかった事から、これらは始皇帝の公子であると推測された。1人の頭骨には銅の鏃(やじり)が刺さっており、遺骨はばらばらに分断されていた。始皇帝には20数人の子供がいたが、二世皇帝は大部分を殺害して、陵墓に殉葬したとされている。李斯(りし、秦の丞相)伝によれば、公子12人と公女10人が殺害されたとあり、秦始皇帝本紀では、公子6人が殺害され、公子3人が自殺に追い込まれたとある。その血生臭い故事を、裏付けるかのような発見であった。



1978年、1979年には、陵墓の西南1・5キロの地点で、刑徒の墓地が2ヶ所見つかった。103基あった墓の内、32基を発掘したところ、100体の遺骨が見つかった。それは、竪穴の小さな墓で、1人を埋葬したものから、2,3人、多い所では14人がまとめて葬られていた。鑑定したところ、女性は3体、男性は6~12歳の子供のものが2体、その他は20~30歳のものであったようだ。遺骨の上に置かれていた瓦片には、姓名、本籍、力役が記されていた。



1981年、始皇帝陵の墳丘を調査したところ、表面の土から水銀が検出された。墳丘の周辺では30ppbの濃度であったが、墳丘中央では平均205ppb、多い所で1,500ppbに達していた。2千年以上の歳月を経て、地下にあった水銀が蒸発し、それが地表に現れたと見られる。司馬遷の記述にあった、水銀の川と海の存在を裏付ける調査結果となった。2002年から2003年9月にかけて、考古学者達は墓を掘る事なく、地中レーダー、赤外線、磁気探知などの科学的手法をもって、墳丘を調査した。その結果、地下宮殿の空間は、南北145メートル、東西170メートルである事が判明した。



墓室は、地下30メートルにあって、南北50メートル、東西80メートルあった。墓室は石灰岩で守られ、空間の高さは15メートルあって、周囲は16~22メートルの厚い壁に覆われていた。墓室は浸水しておらず、崩れてもいないようだった。棺は、防腐作用と、湿度調整機能がある木炭で覆われていると考えられている。また、地下30メートルにあって、地熱は10~15度程度で安定している事から、始皇帝の遺体は、現在でも形を留めている可能性がある。古代技術の粋を極めた財宝や壁画も、そこにあるだろう。しかしながら、現在の技術で陵墓を発掘すると、空気に触れた瞬間、遺物が損壊する恐れがある事から、確かな保存技術が確立されるまで、中国の考古学会は発掘を容認しない方針である。始皇帝と地下宮殿は、神秘のベールに包まれたまま、今だ眠りについている。




 
↑秦始皇帝陵の地図(ウィキより)



↑秦始皇帝陵の墳丘(ウィキより)  




↑往時の鋭さを保つ青銅剣(ウィキより)




↑兵馬俑坑(ウィキより)


 

↑兵馬俑(ウィキより)




↑兵馬俑(ウィキより)


主要参考文献
鶴間和幸著、「中国の歴史 ファーストエンペラーの遺産 秦漢帝国」
「始皇帝の地下帝国」



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