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「殺すか、殺されるか」 ドイツ軍狙撃兵が見た、独ソの最前線  前

ドイツ軍狙撃兵、ヨーゼフ・アラーベルガーの凄絶な体験談。愛称はゼップ。


1924年12月24日、オーストリアのザルツブルクに生まれる。1943年、ドイツ国防軍に入隊し、6ヶ月の訓練を受けた後、東部戦線に運ばれ、第3山岳師団の軽機関銃手となった。1943年7月18日、初めて戦場に立ち、そこから無我夢中で戦ったが、すぐに軽機関銃手が決死隊に近い存在であると悟った。そして、自らも7月22日に軽傷を負う。軽機関銃は歩兵戦において重要な位置を占めるが、その分、敵からも狙われやすく、死傷率は飛び抜けて高かった。そのため、ゼップは生き残りを図って、狙撃兵への転向を申し出る。


当時、ドイツ軍は、自軍の狙撃兵不足を痛感していた事から、この転向はすんなり受け入れられた。いかにも俄仕込みであったが、ゼップは天性の射撃の才能を発揮して、たちまちドイツ軍屈指の狙撃兵へと成長してゆく。彼が手にしたのは、ソ連製狙撃銃モシン・ナガン91/30であった。銃と弾薬は、ソ連軍から鹵獲(ろかく)したものを使用した。狙撃兵は歩兵戦のエースであるが、敵からすれば憎悪の対象であり、捕まれば拷問と惨殺は免れなかった。尚、狙撃を証明するには、結果をノートに記して、それを下士官、士官に説明し、署名をしてもらう必要があった。また、陣地を巡る、両軍入り乱れての攻防における狙撃は、数には入らないとされた。


●避けられない道

1943年8月初旬、新米狙撃兵ゼップは早速、仕事を頼まれる。ゼップの所属する中隊は、数日前からソ連の狙撃兵によって付け狙われており、その排除を要請されたのだった。ゼップは、塹壕の隙間から様子を窺う。相手は射撃の腕は良かったが、一箇所に身を止めて射撃を繰り返していたので、すぐに居場所を特定する事が出来た。これは、狙撃兵として致命的な誤りであった。そして、ゼップは照準スコープの中に相手の体を捉える。軽機関銃手であった時は、ただ、無我夢中で撃ち続けていただけだが、今回は意識的に殺害せねばならない。初めての恐るべき任務を前にして、躊躇いが走り、動悸が高まって、体が震え出す。一度、狙いを外して大きく息を吸い、心を落ち着かせようとした。そして、再び照準を定めるが、また逡巡する。しかし、そんな最中にも、相手は獲物を探し求めている。


ゼップが狙われずにすんだのは、ただ、運が良かったからに過ぎない。もどかしく思った友軍兵士からは、「さっさと一発ぶっ放せ」との声が上がった。ゼップは体の力を抜き、夢の中にいるような心地で息を止め、思い切って引き金を引いた。銃声が轟き、兵士から、「やったぜ大当たり、お陀仏だ!」との声が上がった。これを合図にドイツ軍の攻撃が始まり、ソ連軍を追い出して、相手の塹壕を乗っ取る事に成功した。戦闘終了後、ゼップと仲間の兵士達は、首尾を確認するため、ソ連軍狙撃兵の死体を探し求めた。隠れ場所から死体を引き摺り出すと、弾丸は右目から入って、後頭部に抜け、そこに大穴を空けていた。相手は初々しさの残る、16歳ぐらいの少年兵だった。ゼップは、晴れがましさに恐ろしさ、それに良心の呵責とがない交ぜになって、倒れた相手を見つめていた。突然、吐き気が込み上げてきて、嘔吐せずにはいられなかった。そして、兵士達の目の前で、胃の中の物を全て吐き出した。


ゼップは醜態を晒したと思ったが、兵士達は平然とした顔で、理解を示してくれた。そして、年長の伍長が、「恥じる事はない。ここにいる誰もが通ってきた道だ。どうしたってくぐり抜けるしかない。ちびってズボンを汚すより、吐いてすっきりした方が良いさ」と言うと、火酒を取り出して、一杯飲むよう勧めた。ゼップはそれを手に取り、一杯ぐいっと飲み干した。これで新米兵士は、東部戦線の冷徹な戦士となった。この一件で、「戦争は殺すか、殺されるかである。敵への同情は自殺行為に等しく、迷った次の瞬間に敵が自分を殺すだろう。敵に対して兵士としての行動を徹底し、冷徹になればなるほど、生存の機会は増す」と悟った。そこからの14日間で、ゼップは合計27人の狙撃に成功する。もう、躊躇う事も吐く事も無かった。しかし、若者らしい純真さも、急速に失われていくのだった。


●東部戦線の衛生状態

東部戦線のドイツ兵のほとんどは、下痢を患っていた。勿論、不衛生な環境から来るものである。前線に張り付いている兵士達の悩みの1つが、その便の始末であった。塹壕の狭い空間に便を排出すれば、臭いはおろか、伝染病が広がる恐れもあるので、それは避けねばならない。そのため、兵士達は缶詰の空き缶を取り置いておいて、それに大小を放出すると、塹壕の外に投げ捨てるようにしていた。しかし、経験の浅い者は、便が自分に降りかからないよう、大きく体を乗り出すので、狙撃兵に撃たれる例が絶えなかった。戦闘中に便意を催せば、もうズボンの中に垂れ流す他無かった。戦闘が小康状態になった時、近くに川があれば、ズボンにこびり付いた便をこそぎ取った。また、兵士達は絶えず、虱(しらみ)にたかられており、暇さえあれば体や衣類を隅々まで調べ上げて、一心不乱に取った。補給も安定せず、数日間、食うや食わずの状態に置かれるのも日常茶飯事であった。飲料水不足になると、兵士達は度々、小川や水溜りの水を飲んだので、赤痢や黄疸に罹る者が絶えなかった。


●砲撃の恐怖

1943年9月26日午前8時、ソ連軍は戦線突破を図って、第3山岳師団に猛攻を加えてきた。手始めに、何百門もの火砲や、カチューシャロケットが火を噴いて、ドイツ軍陣地に砲弾の雨を浴びせかける。ソ連軍の砲撃の凄まじさは有名で、ドイツ兵の誰もが、恐怖を覚えている。うなりを上げた砲弾が次から次に着弾して、耐え難い轟音を轟かせ、破片と土埃をそこら中に撒き散らす。兵士達は少しでも深く塹壕に潜り込まんとして、身を屈め、必死に祈りの言葉をつぶやく。気が動転した兵士が、塹壕から飛び出さんとして、それを仲間が必死になって抑え込む。ゼップもまた、幼児のように怯えて穴の壁にしがみ付き、「神よ、ここから救い出してください、助けてください、天にまします我らの神よ!」と叫んだ。すぐ近くで爆発が起こったかと思うと、黒い物体が目の前に転がり落ちてきた。ゼップは思わず、恐怖に身がすくんだ。それは、隣の穴にいた戦友の血まみれの胴体だった。手足は千切れ、ずたずたになった頭部と胸だけを残していた。


それなのに言葉を発し、「どうなったんだ、何が起こったんだ。なぜ急に暗くなったんだ、どうして体の感覚がなくなったんだ」と呻き出した。続いて、「目が見えない、ああ、目が見えない、ああ、手はどこだ、ああ!」と叫んで、泥の中を転がり出した。この世のものとは思えない光景を目の当たりにして、ゼップは気が変になりそうだった。そして、体を震わせながら、「ああ神様、この男を死なせてください、ひどすぎます、どうか死なせてやってください!」と悲鳴を上げた。血まみれの戦友は、最後に断末魔の悲鳴を上げて、ようやく事切れた。その間は、恐るべき砲撃音さえ、耳に入らなかった。30分ほどしてソ連軍の砲撃は終わり、続いて戦車や歩兵による接近戦が始まると、ゼップはむしろ、ほっとした。戦闘の興奮に身を投じる事で、心の内に芽生えかけた狂気を発散する事が出来たからだ。


●将校の存在

東部戦線のドイツ軍は、消耗に補給、補充が追い付かず、その戦力は衰える一方だった。しかし、ソ連軍は、アメリカ、イギリスから莫大な援助を受け取ると共に、懐の深い国土から絶えず人員と兵器をおくり込んで、その戦力は増す一方だった。第3山岳師団も絶え間ない防御戦闘によって、師団としての戦闘力を失いつつあった。止む事のない戦闘と、日増しに募る不安感から、残存兵の間に動揺が広がり始めていた。1人や2人だけで塹壕陣地を守るのも珍しくなく、そうした孤立状況に置かれた兵士達は、取り残された様な孤立感や不安感を覚える。そして、仲間の顔を見たい、後方の安全地帯に逃れたいという、強い欲求に駆られるのだった。もし、部隊全体がそんな恐慌状態に陥ったなら、抵抗はおろか、前線の維持すら不可能となって、容易に敵の蹂躙を許す事になる。そうなれば、部隊の壊滅は免れない。


1943年12月30日、ゼップが所属する144連隊において、ソ連軍の重圧に耐えられず、戦区の一部が恐慌の兆しを見せ始めた。この危機を鎮めるべく、連隊本部付きの大尉が前線に赴いた。兵士達を激励すべく、バイクと足を使って前線を駆け巡っている最中、大尉は、後方に向かって走り出した兵士5人の姿を認めた。大尉はすぐさまMP40短機関銃を構えると、その頭上に向かって威嚇射撃した。兵士達は驚いて立ち止まり、目を大きく見開いて大尉を凝視した。しかし、動転していた1人は、大尉目掛けてライフルを発射する。弾は危うく逸れたが、大尉は毅然としたまま、その兵士に照準を定め、「銃を下ろして陣地へ戻るんだ、ばか者め!」と諭した。正気を取り戻した兵士達は、大尉に引き連れられて、元の陣地へと戻っていった。


砲弾が降り注ぐ中、大尉は匍匐前進をして、ゼップの元にも立ち寄り、激励の言葉をかけ、チョコレート缶を1つ置いていくと、また次の陣地へと向かっていった。この大尉の勇気ある行動によって、連隊に再び秩序と信頼がもたらされた。最前線で兵士と共に戦う将校は、士気に大きな影響を及ぼすのだった。逆にそんな将校を失った場合、兵士達に動揺と混乱が現れ、戦意を喪失させる効果をもたらした。なので、独ソの狙撃兵達は、こぞって指揮官を狙い撃ちにした。尚、戦争末期のドイツ軍将校の損失は目を覆うばかりで、ゼップの所属連隊でも、1944年11月の時点で、通常は中尉か大尉が200人前後の中隊を率いるところを、軍曹が率い、通常は少佐か中佐が1,000人前後の大隊を率いるところを、大尉が率い、通常は大佐が3,000人前後の連隊を率いるところを、少佐が率いていた。兵員も定数を大きく割り込んでおり、おおむね3分の1以下だった。


●捕虜となる恐怖

1944年3月6日、ドイツ軍の前線が突破され、第3山岳師団も包囲の危機に直面した。味方戦線との繋がりは断ち切られる寸前で、幅1キロほどの回廊状の防衛地帯が唯一、逃れる道だった。ゼップが所属する144連隊も戦いつつ、この回廊を撤退していった。その際、ソ連軍に蹂躙された師団の中央救護所から、憔悴しきった衛生兵4名が逃れてきた。しかし、彼らは強い精神的ショックを受けており、明らかに言動がおかしかった。そこで、食事と酒を与えて落ち着かせると、自らが体験した恐るべき出来事を話し始めた。中央救護所には、軍医1人と衛生兵7人、それに動けない重傷者多数が残されていた。非武装である事を示すため、白旗と赤十字の旗を掲げ、良く見える場所に武器もまとめ置いていた。そこに、ソ連のモンゴル人部隊が現れた。


衛生兵の1人が、たどたどしいロシア語で、「我々は武器を持っていない。ここにいるのは怪我人だけだ。我々は投降する」と伝えた。しかし、モンゴル人達に寛容の心は無かった。 1人のモンゴル兵が近寄ってきたかと思うと、その衛生兵を銃床で殴りつけ、蹴飛ばした挙句、短機関銃を撃ち放って、止めを刺した。続いて、モンゴル兵達は、重傷者達が横たわっているテントに押し入ると、突然、1人の胸にナイフを突き立てた。それを見た衛生兵達は戦慄して、次に起きる事態を予感した。衛生兵達は併設するテントに押しやられ、見張りを1人付けられた。横たわる重傷者達を前にして、モンゴル兵の軍曹は、「母なるロシアに攻め込んで女子供を殺したら、どうなるか思い知らせてやる!」と叫び、部下達に、「羊と同じ要領で、こいつらの首を切れ」と命じた。それを受けて、モンゴル人達は手馴れた手つきで、次々に重傷者の首を掻き切っていった。


軍医は、現場の余りの凄惨さにへたりこんでしまったところ、モンゴル兵に、「臆病者!」と罵られ、銃床で殴り殺された。重傷者の処刑を終えるとモンゴル兵達は、救護所の略奪に取り掛かった。それが済めば、6人の衛生兵が殺されるのは明白だった。6人は意を決して、脱出を図る。そして、1人の衛生兵が見張りの背後から近づくと、引きずり倒して腎臓に短剣を突き刺した。それを合図に全員が走り出したが、騒動に気付いたモンゴル兵達は銃火を浴びせかけてきた。短剣を突き立てた最後尾の衛生兵と、その前を行く兵が撃たれて死んだ。残った4人は銃弾がかすめる中、必死に走ってその場を逃れた。そして、2日間走り通して、ようやく味方と合流したのだった。彼らの話を聞いたゼップらは、ロシアの捕虜になった場合を想像して、怖気を振るった。ゼップ自身も以前、ドイツ兵捕虜が首を切り裂かれた状態で殺されていたのを目撃しており、今回の件も合わせて、生きてロシアの捕虜にはなるまいと心に誓うのだった。





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