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「殺すか、殺されるか」 ドイツ軍狙撃兵が見た、独ソの最前線 後

●東部戦線の負傷兵

負傷兵は、治療と移送に多くの人手を要し、乏しい薬品や食料も消費するので、兵站に負担を与える存在だった。そのため、衛生兵は、助かる見込みの無い患者を冷徹に選別する。「痛い!助けてくれ!」と叫ぶ瀕死の重傷者に対し、衛生兵は傷を見て手に負えないと判断すると、「こいつはもう助からん」とさじを投げ、ここからは神の仕事と、従軍牧師の祈りの手に委ねた。死に行く者は、運が良ければモルヒネ注射を打ってもらって、朦朧としたまま死を迎える事が出来たが、大半は苦痛に悶えながら1人寂しく死んでいった。


独ソ戦前半、ドイツ軍が進撃中であった時、死者は、鉄十字の墓標、もしくは木枠の十字架に姓名と生没年を刻まれて、埋葬されていった。しかし、独ソ戦後半、ソ連軍が反撃に転じると、ドイツ兵の墓は見つかり次第、戦車で踏み均(なら)されたり、ロシア兵に引き倒されるなどして、破壊されていった。そのため、ドイツ軍は、死者が出ると、樹下や草原に誰にも分からないように埋葬していった。それは、十字架や石碑も無く、弔う者さえいない墓であった。ただ、死者の安息だけが願われた。しかし、急な撤退戦においては、死者を埋葬する間もなく、そのまま打ち捨てられていった。


東部戦線では、先に書いた兵站の問題と、双方の深い憎しみから、動けない負傷兵が捕虜となった場合、大半はその場で殺される運命にあった。その時に拷問を受ける事も稀では無い。1944年4月2日、ソ連軍は強大な装甲兵力をもって、ドイツ軍戦線を突破した。第3山岳師団は包囲の危機に直面し、吹雪の中を撤退していった。兵達が所持しているのは小火器と手榴弾のみで、ソ連の機械化部隊に対抗しようがなく、移送用の車両も無かった。こうした切羽詰った撤退行動で、何時も悲惨な目に遭うのが負傷兵であった。まだ歩ける者は仲間の手を借り、ロシア兵による捕虜虐殺への恐怖を原動力に、最後の力を振り絞って前進した。


しかし、動けない負傷兵も大勢いた。彼らの多くは、ピストルを所望した。過酷な戦闘を助け合ってきた、かけがえのない仲間である。だが、どうする事も出来ない。別れの際、動ける者と動けない者、お互い深い悲しい目で見つめ合う。そして、家族への伝言を頼んだり、写真や普段の愛用品を遺品として、故郷に託す者もいた。最後の握手を交わした後、兵士達は歩き出し、負傷兵達の姿は吹雪の中に掻き消えていった。やがて、後ろからピストルの銃声が響いてきた。


●名誉の戦死

1944年4月6日、第3山岳師団はソ連軍の包囲を逃れるべく、撤退行動を続けていたが、ソ連の装甲部隊が先行して退路を断っていた。第3山岳師団を含む、5個師団がソ連軍の包囲網に捕われた。時を経れば包囲網は強化され、逃れる術は無くなる。この危機を逃れる唯一の方策は、現有戦力を結集して、迅速に突破する事であった。ドイツ軍は、撤退に次ぐ撤退で疲労しきっていたが、死力を振り絞って突破攻勢を行った。ゼップの所属する144連隊が殿(しんがり)を受け持って、戦いつつ撤退に入った。


その際、鉄道トンネルを抜けていったが、ソ連軍の追撃を食い止めるべく、工兵隊が爆破準備を進めていた。ゼップの上官、クロース大尉は、自部隊の工兵隊が後から続いてくるので、それを待ってから爆破するよう、爆破班に指示を出した。ところが、爆破班は、ソ連軍の追撃に怯えていたのか、それを待つ事なく爆破を実行してしまう。トンネルを通過中であった工兵隊は、爆発に巻き込まれ、先頭を歩いていた2名を残して全滅した。そうと知ったクロース大尉と兵士達は、怒り心頭になりながらも、先を進んだ。


部隊の集合場所に差し掛かると、警戒歩哨が、「止まれ、動くんじゃない、合言葉!」と叫んだ。兵士達は疲れ切って、苛立っている。先頭を行く兵士は、「合言葉ってなんだい」と、歩哨に毒を吐きかけながら、通過しようとした。すると、軽機関銃が発射され、その兵士の上半身を撃ち砕いた。兵士達は、信じられないといった顔をして、すぐさま身を隠した。クロース大尉は匍匐前進しつつ、「武器をしまえ、ばか者!我々はクロース大隊である。すぐに上官を呼び出してこい」と呼びかけた。やがて、1人の中尉がやってきて、クロースと応対した。


中尉は事情を知ると、歩哨に軽機関銃を向け、「仲間を撃つとはどういう奴だ!」と怒鳴り散らした。歩哨は若い兵士で、恐怖に震えていた。しかし、中尉は益々、激高して自分を抑えられなくなり、叫びながら弾倉が空になるまで軽機関銃を撃ち尽くした。上官に射殺された歩哨、その歩哨に殺された兵士、いずれも公式には、「偉大なるドイツのために戦死」となった。真相は、遺族には明かされない。先に、味方によって爆殺された工兵隊も同じく、名誉の戦死か、行方不明扱いであった。


●狙撃兵の仕事

ゼップは狙撃兵として戦いながら、次の事を学んだ。確実に捉えた目標以外は撃たない、1つの潜伏地点から撃つのは1発のみとし、すぐに次の潜伏地点に移動する。同じ場所から何発も発射すれば、すぐさま狙撃や砲撃の的となるからだ。擬装はなるべく簡便に済ませ、その材料も、軽量かつ、身近な物で済ませる。絶えず流動する戦場において、全身擬装は時間と材料を食うばかりか、動きも悪くなるので役には立たなかった。ゼップは、骨組みにした折り畳み傘に、枝や草を織り込んで利用した。


1日の活動を始める前に、排便を済ませておく。狙撃兵は、何時間もその場に潜伏する場合があるからだ。位置を特定されて迫撃砲の攻撃を受けた場合、思い切って飛び出し、ジグザグに走って自軍陣地に駆け込む。未熟な狙撃兵は、砲撃を受けると恐怖に身をすくませ、そのまま砲撃の餌食となっていた。だが、時と場合によっては、ジッと身を潜め続ける必要もある。狙撃兵同士の対決となって、相手に所在地を悟られた場合、僅かなりとも動く事は許されず、夜の闇を迎えるまで身を潜める必要があった。また、1人で狙撃するより、専門の観測員と連携する方が効率が上がる事を知った。そのため、必要に応じて、経験豊富な兵士に観測員を頼むようにした。


戦線が小康状態の時、ゼップは朝晩、前線より前に出て、敵情視察と狙撃を行った。狙撃をする事によって、敵の活動を抑え込み、士気を喪失させる効果をもたらした。また、目にした敵情は、相手の動向を特定するのに役立った。ゼップは、指揮官など重点狙撃目標を認めた場合、相手を確実に仕留めるべく、炸裂弾を用いる事があった。炸裂弾は文字通り、炸裂して相手に致命傷を負わせる。例え助かったとしても、酷い大きな傷跡を残す。そのため、携帯火器に炸裂弾を用いる事は、ジュネーブ条約で禁じられていた。しかし、ソ連軍は戦争初期からこの弾を使っていたので、ドイツ軍も対抗上、用いるようになった。ゼップは、ソ連製狙撃銃を使用している間は、ソ連軍の遺棄兵器から炸裂弾を調達していたが、後にドイツ製狙撃銃を支給されると、炸裂弾もドイツ製を使用した。


ロシア兵による集団攻撃が成された場合、敵は次から次にやってくるので、一発撃って、また次の地点に移動するといった悠長な真似は出来ず、射界が取れて体を隠せる潜伏地点から、出来る限り射撃を繰り返した。そして、敵の攻撃が正確さを増してきたり、戦況が変化してくると、予め定めておいた次の潜伏地点に移動した。300メートルまでの距離なら、出来るだけ胴体を狙い撃って、生きたまま戦闘力を奪うようにした。そうすると、重傷者が苦痛の叫びを上げて、敵の士気と勢いを削ぐ効果があった。50メートル以内に入ろうとした場合、即座に戦闘力を奪うべく、頭部または心臓を狙い撃った。だが、30メートル以内まで接近を許した場合、最早、狙撃銃は役には立たず、MP40短機関銃に取り替えて応射した。こうした陣地を巡る戦闘では、ゼップの殺害数は跳ね上がるが、狙撃の数には入らない。


1945年4月20日、ゼップは、ドイツ国防軍最高の叙勲の1つである、騎士十字賞を受賞する。公認狙撃数は、257人(実数は遥かに多い)に達していた。しかし、戦争は敗北に終わり、5月8日、ドイツは降伏する。ゼップの所属する第3山岳師団は、この報をチェコスロバキアで聞いた。翌5月9日、第3山岳師団は解散し、兵士達は少数に別れて、それぞれ西側を目指して歩き出した。ソ連の捕虜になる事だけは、避けたかった。しかし、チェコスロバキアの住民達は武装蜂起していたので、極力、人目を避けて横断せねばならなかった。ゼップは昼間は身を潜め、夜間に行動する事にした。


隠密の逃避行となるので、持っていくのは護身用の短機関銃のみでよく、狙撃銃はもう必要無かった。それに、捕まって狙撃兵と分かれば惨殺されるため、ゼップは辛い気持ちを堪えて、狙撃銃を処分した。この逃避行では、尚も大勢の戦友が命を失った。1945年6月5日、ゼップは、250キロの距離を走破して、無事、オーストリアの故郷、ザルツブルクに帰り着く事が出来た。ゼップは、常に戦場の渦中に身を置き続けたが、類まれな幸運に恵まれて、幾度かの軽傷だけで済んだ。だが、心には決して消える事の無い傷を負い、それからの人生において、悪夢となって蘇ってくるのだった。2010年3月2日、オーストリアのヴァルス・ズィーツェンハイムにて死去。ヨーゼフ・アラーベルガー、85歳。



主要参考文献、アルブレヒト・ヴァッカー著、「最強の狙撃手」



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Comment

無題 - 重家

2017.05.25 Thu 00:03  [ EDIT ]

第二次世界大戦の記事しか読めてませんが、とてもわかりやすく興味深い記事ばかりで感激です。
投稿大変だと思いますがこれからも頑張って下さい!

Re:無題 - 管理者からの返答

2017.05.26 Thu 18:33

感想、どうもありがとうございます!このブログでは、知られざる史実を、なるべく詳しく分かりやすく、紹介していきたいと思っているので、我が意を得たりの思いです。あと、本を読んだ時、これは覚えておきたいなという出来事を書き留めておく、自分の備忘録でもあります。ぼちぼち、マイペースでやっていきますんで、また、気が向いた時にお越しください。

無題 - 田宮

2017.06.16 Fri 17:21  [ EDIT ]

独ソ戦記よむと背筋が寒くなります。
ヒトラー閣下はユダヤ人を利用して国力増大を図るべきだったと思いました。戦車・飛行機の生産数が桁違いに少なく敗北は当然かと。

Re:無題 - 管理者からの返答

2017.06.16 Fri 19:20

>田宮さん


>ヒトラー閣下はユダヤ人を利用して国力増大を図るべきだったと思いました。

ヒトラーは、反ユダヤを掲げて政権を打ち立てており、ヒトラーとユダヤ人が組むというのは、自己否定に繋がるので、これは大変、難しいでしょう。私は、ドイツにとって、ソ連侵攻が致命的であったと思います。ドイツは、ソ連との戦いに陸上戦力の70パーセントを投入したとされており、この国との消耗戦によって、国力と兵力を磨り潰してしまいました。1941年の時点では、ソ連はドイツと敵対する気は無かったでしょう。その間、対イギリスに戦力を集中して、エジプトを奪取していれば、イギリスはかなり追い詰められていたでしょう。

しかし、時間が経てばアメリカが参戦してきますし、数年経ってドイツの敗色が濃厚になってくれば、ソ連はすかさず背後を襲ったでしょう。

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