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木村重成の覚悟

2017.03.22 - 戦国史 其の三

木村重成は、大阪の陣で活躍した、豊臣方の勇将として知られている。生年は不明で、両親もはっきりしておらず、父は、豊臣秀吉の家臣、木村重茲、母は、豊臣秀頼の乳母、宮内卿局(くないきょうのつぼね)であったと云う。秀頼とは乳兄弟の関係であった事から、篤い信頼を受け、若くして側近として重きを成した。慶長16年(1611年)3月、豊臣秀頼と徳川家康が二条城にて会見した際には、替えの脇差持を勤めた。


慶長19年(1613年)11月、大阪冬の陣で、重成は初陣を飾る。大阪城の北東、大和川を渡った低湿地帯に今福という村落があった。豊臣方はこの地に4重の柵を築いて、徳川方の接近阻止を図った。守るのは、矢野正倫と飯田家貞を将とする、6百人の兵であった。一方、徳川家康は、佐竹義宣率いる1,500人の兵を差し向けて、今福攻撃を命じる。11月26日未明、佐竹隊は猛攻をかけて、4重の柵を打ち破り、矢野正倫と飯田家貞を討ち取った。この形勢を見た豊臣方は、木村重成に兵を授けて、反撃させる。佐竹隊は、木村隊の接近を見て後退し、奪取した柵を利用しつつ防戦した。木村隊は、佐竹隊を徐々に追い込んでいったが、南岸の上杉景勝の鉄砲隊が、援護射撃を加えてきたので、攻撃は行き詰った。


そこで、豊臣方は更に後藤基次を援軍に差し向けて、木村隊を援護させた。両隊合わせて3千人余となり、威勢は大いに上がった。後藤隊は、対岸の上杉鉄砲隊に銃撃を加えて、地に伏せさせると、木村隊と合わせて前面の佐竹隊に突撃していった。佐竹隊は防戦に努めたものの、木村隊によって重臣、渋江政光が討ち取られ、梅津憲忠も重傷を負って、本陣も危うくなる。たまらず佐竹義宣は、対岸の上杉景勝に援護を求めた。景勝は求めに応じて、堀尾忠晴や榊原康勝の隊と合わせて大和川の中洲を渡り、援護射撃を加えた。木村、後藤隊は佐竹隊を追い詰めていたが、新手の到来を受けて城に後退した。この戦いは、両者痛み分けと言ったところであった。


大阪冬の陣、豊臣方は善戦したものの、孤立無援の状況である事には変わりなく、徳川方と折り合いを付けねばならなかった。和睦の際、重成が豊臣方の正史として徳川方の陣所に赴き、そこで秀忠と会見して誓詞を受け取った。その時の立ち居振舞いや、礼儀作法が理にかなっていた事から、賞賛を受けた。だが、翌年、和議は脆くも破れ、大阪にて、戦国最後の大決戦が繰り広げられる事となる。慶長20年(1614年)5月6日、大阪夏の陣、重成は、徳川方を迎え撃つべく、八尾、若江に向けて出陣した。戦いを前にして、重成は既に死を決しており、姉婿の猪飼野 左馬之介(いかいの さまのすけ)に宛てて、遺書を送ったとされる。その時の書状の写しが伝わっている。写しの日付けは4月6日であるが、これは5月6日の間違いだと思われる。


「一書を啓(もう)します。まずもって、傷の痛みはいかほど和らいだでしょうか。朝夕心許無く案じています。お聞き及びでしょうが、(敵は)まったく隙がなく、残念ながら城中の有り様ははかばかしくありません。とかく天下は家康にあると存じています。昨夕も石川肥後守(康勝)という私の同輩と、城中の詮議について語り合い、御母公(豊臣茶々)の下知による手分け、手配は承知しない事が尤もだと決めました。私は昨朝七つ(午前4時)に下知を承知せず、摂津鴫野(せっつしぎの)へ出陣し、分相応の働きをして諸人が驚目、致しました。


とかく一日も早く討死をする覚悟です。貴方は昨今の篭城、そのうえ数ヶ所の深手を負われているので、油断なく早々に所領に引き戻られる事が、尤もだと考えています。誰も嗤ったりしないでしょう。私は家康と懇志の筋目(ねんごろな関係)があるので、板倉伊賀(勝重)より度々、内意を伝えてきましたが、当君(秀頼)に対し二心を抱くのは士の本意ではありません。すこしばかり考えたりもしましたが、人並みに月日を送る気はありません。そこで、この香炉を姉君にお届けください。また、この太刀は家康より私が十三の元服の祝いとしてもらったものです。


使者は本多平八郎(忠政?)であり、口上では家康秘蔵の大業物(おおわざもの)にて来国俊(らいくにとし、鎌倉時代の刀工)との由でした。私は数度の戦いに、この太刀で一度も不覚をとった事がありません。ですから、大波と名付け、今日まで所持してきましたが、貴方へ形見に送ります。ご秘蔵ください。一城内にありながら、一時も心を割って話し合う機会もなく、他人同然のようであったのは残念でなりません。さぞ、姉お照殿はお恨みになるでしょう。この件は、私に事情あっての事なので宜しく弁明をしてください。仕方なかったのです。恐惶謹言」


この書状は先にも書いた通り、写しであって本物では無い。しかし、それでも重成本人が書いているかのような、具体的な内容、覚悟の程が伝わってくるので、自筆の書状は確かに存在したのではないか。


この書状が実在したとして話を進める。重成には、兄弟が何人か存在しており、その内の1人が姉の照で、豊臣家臣、猪飼野左馬之介に嫁いでいたようだ。その左馬之介が戦で重傷を負い、重成が案じる様子が伝わってくる。徳川方の大軍が隙無く迫って、城内は動揺していたようだ。そして、重成は、天下の権は既に家康にあって、豊臣方に勝ち目は無いと悟っている。また、大阪城では、女城主、茶々が軍事にあれこれ口出しをして、武士達がそれを苦々しく思っている状況が伝わってくる。重成は、もう命令には従えないと自らの判断で出陣して、5月5日、摂津鴫野にて活躍したと言っている。翌日が本格的な戦いとなるが、この日は、前哨戦の小競り合いに勝ったのだろうか。


家康とは懇意の関係にあったとされるが、詳細は不明である。ただ、重成は秀頼の乳兄弟で、その信頼も篤かったので、取次ぎ役には適任であった。取次ぎ役と良好な関係を結べば、外交交渉も円滑に進めやすい。そういった事情で、家康は早くから重成に目を付けて、贈り物などを送ったのだろう。その家康から、内応を促されたものの、重成は二君には仕えずとの覚悟を定めている。そして、左馬之介に使者を遣わして、形見の品を渡し、城から落ち延びるよう勧めた。城内では、親身な付き合いが出来なかった事を詫びて、手紙を締めている。姉夫婦のその後は不明であるが、この書状が伝わっているのを見れば、生き延びたのではないか。猪飼野左馬之介と照の子孫とされる、木村権右衛門の邸宅跡が大阪に存在している。


5月6日、重成は、最後の戦いに臨む。徳川方は、河内口、大和口、紀伊口の三方から、大阪城に迫っていた。この内、河内口の徳川方が主力で、家康や秀忠の本隊も含まれていた。そこで重成は、河内口の徳川方を迎え撃つべく、大阪城から東方8キロに位置する、八尾、若江方面に向かった。木村隊6千に続いて、長宗我部盛親隊5,300も出陣する。6日午前2時頃に出発したが、道に迷った挙句、沼地で立ち往生するなどして、午前5時にようやく若江に着陣した。重成は、6千人の兵を三手に分けて布陣する。そこへ、徳川方の藤堂高虎隊5千人が接近し、右備の藤堂良勝、藤堂良重ら1千人が、攻撃を仕掛けてきた。木村隊も右備700人が応戦し、数度の激突の後、藤堂良勝、良重の両将を討ち取って撃退した。重成は緒戦に勝利したが、追撃はさせず、玉串川の西側堤防上に鉄砲隊を配して次の敵に備えた。その頃、南西の八尾では 、長宗我部隊と藤堂隊が戦いを始めていた。



↑八尾・若江の戦い(ウィキより)


木村隊の前に、次に現れたのは、井伊直孝勢9千人余であった。井伊勢は数において勝っていたが、若江は川と湿地が広がる地形で、全軍の投入は難しかった。そこで、直孝は直率する5,600人で木村隊に挑む。6日午前7時頃、井伊隊は、玉串川の東側堤防に上がると、鉄砲の一斉射撃を浴びせかけた。木村隊は鉄砲戦に押されたのか、それとも予定通りであったのか、玉串川西岸から後退する。重成は、田んぼが広がる湿地帯の中、味方には足場の良い所に陣取らせ、敵には細い畦道を通らせて、そこを叩くつもりだったようだ。木村隊を追って、井伊隊左備の川手良列が1,200人をもって突撃してきたが、深追いしてきた川手良列を討ち取って、これを撃退する。


次に井伊隊右備の庵原朝昌((いおはら ともまさ)1,200人が突入してきて、混戦となるも、これも撃退した。そうと知った井伊直孝は怒って、自ら本隊3, 200を率いて突撃する。重成も全力でこれを迎え撃ち、両軍入り乱れての激闘となった。人数的にはほぼ互角であったが、井伊隊は徳川方きっての精鋭であり、その猛攻を受けて、木村隊は徐々に押され始める。木村隊は、夜通しの行軍と、藤堂隊、井伊の川手隊、庵原隊、直孝本隊による連続攻撃を受けて、疲れが出てきたのかもしれない。 それまで様子見をしていた榊原康勝、丹羽長重らの隊も、井伊隊の優勢を見て、木村隊左備に攻撃を開始する。6日午後14時頃、味方が総崩れとなる中、重成自身、槍をとって奮戦したものの、ついに力尽きて討たれた。重成の首を取ったのは、安藤重勝、または庵原朝昌であったと云う。


木村隊は重成を始め、350人余が討死した。勝った井伊隊も100人余の討死と多数の負傷者を出して、翌7日の、最終決戦の先鋒は辞退した。八尾では、長宗我部隊が藤堂隊相手に戦いを優勢に進めていたが、木村隊壊滅を受けて撤退を開始する。しかし、そこを藤堂、井伊隊に追撃されて、長宗我部隊も壊滅的打撃を被った。こうして八尾・若江の戦いは、豊臣方の敗北に終わった。重成は戦いを前に、頭髪に香を焚きこんでいたと云われている。家康のもとにその首が運ばれてくると、麗しい香りが漂ってきた。家康は、その覚悟のほどを知り、「稀代の勇士なり、不憫の次第なり」と述べたと云う。木村重成、享年は不明であるが、まだ20代前半であったろう。華も実もある若武者であった。


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