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安史の乱 4

2013.10.16 - 三国志・中国史
乾元2年(759年)秋、唐軍の最高指揮官であった郭子儀は、先の敗北を受けて長安に召還され、代わって李光弼が全軍の指揮官となった。郭子儀も李光弼も名指揮官である事に変わりはないが、両者の性格は大いに異なっていた。郭子儀は寛容で多少の不法は見逃したが、李光弼は厳格で軍紀に反した者は誰であろうと容赦しなかった。


乾元2年(759年)9月、史思明は出兵して黄河を渡り、洛陽から程近い汴州(べんしゅう・現在名、開封)を攻めた。史思明はたちまち汴州を攻略すると、更に西に兵を進めて、洛陽に迫った。李光弼も唐軍を率いて洛陽に駐屯したが、勢いは史思明にあって洛陽は守りきれないと判断し、北の孟州に撤退した。同年9月27日、史思明は空城となった洛陽を占領し、続いて李光弼が拠る孟州に攻め寄せたが、手痛い反撃を食らって撤退を余儀なくされた。


上元元年(760年)2月、李光弼は懐州に進撃し、これを救援に来た史思明を打ち破った。史思明も優れた指揮官であったが、李光弼にだけはどうしても勝てなかった。
上元元年は唐軍と史思明の間で大規模な会戦は起こらなかったが、双方、軍を各地に派遣して取ったり、取られたりの攻防が続いた。安史の乱勃発以来、戦場となった地域では田畑が荒れて飢饉が頻発し、また、双方の兵士によって略奪と虐殺が繰り広げられたので、数百万から数千万もの民衆が死に追いやられる事になる。


上元2年(761年)2月、唐の粛宗は洛陽再奪還を命じ、李光弼ら節度使4人の軍団を送り出した。同年2月23日、李光弼は邙山(ぼうざん・洛陽北の丘陵)に布陣したが、味方節度使との連携が噛み合わず、陣立てに手間取った。史思明はその隙を逃さず、速攻をかけて唐軍を打ち破り、数千人余を斬った。李光弼らは黄河を渡って撤退し、孟州、懐州は史思明の手に落ちた。これで史思明は李光弼に雪辱を晴らし、長安も窺う形勢となった。史思明は勝ちに乗じて陝州(せんしゅう)に攻め入り、潼関の攻略を目論んだ。


同年3月9日、史思明は長子の史朝義に先鋒を命じて、唐軍を攻撃させたが、史朝義は敵陣を突破できずに後退してきた。史思明は、史朝義が怖気づいたと考え、「史朝義に大事は任せられない」と言い放った。
3月11日、次に史思明は、期限を定めて兵糧貯蔵庫の建設を史朝義に命じたが、これにも遅れをとったので、史思明は激怒して面罵した。史朝義は陝州攻略後には軍法にかけられる事になり、大いに恐れを抱いた。史思明は、末子の史朝清を偏愛して皇太子に立てたいと考えていたので、これを機会に史朝義を誅殺せんとしたのだった。


だが、先手を打ったのは史朝義の方だった。同日、史朝義は武装兵を率いて、史思明の宿舎を囲み、これを拘束した。史思明は、「まだわしを殺すのは早い。どうして長安攻略を待たなかったのだ。もう大業は成し遂げられぬ」と無念そうに言った後、絞殺された。
史朝義は帝位に上り、部下をやって范陽にいる史朝清とその取り巻きを抹殺させた。しかし、この後、范陽では史朝清派が蜂起して内戦が勃発し、数千人余の死者を出した挙句、2ヵ月後にようやく落ち着きを取り戻した。


安禄山と史思明の最後はまったく同じで、錯乱して妾の子を立てようとした挙句、嫡子によって殺害されるという無残な最後を遂げたのだった。成り上がり者は栄華を極めた途端に慢心し、破滅に至ったのであろうか。しかし、これらの出来事は唐側の視点で書かれた記録が歴史となって、今に伝わっている事なので、注意が必要である。勝者が敗者の記録を抹消し、必要以上に悪し様に書き換えて、自らの正義を強調する事は何時の世にも存在するからだ。


唐の詳細な歴史を書き綴っている、「資治通鑑(しじつがん」にしても、王朝史観に則って唐朝に同情的で、それに反旗を翻した安禄山や史思明は、常に悪辣で粗暴な人物に描かれている。しかし、安史の乱を取り上げようとすれば、どうしても資治通鑑の記述に頼る他無いのが、現状である。
宝応元年(762年)4月5日、玄宗は78歳の波乱の生涯を閉じ、4月18日には、乱終結に執念を燃やした粛宗も52歳で死去し、代わって代宗が即位した。


同年8月、史朝儀はウイグルに使者を送り、「唐では皇帝が相次いで死去して、皇帝不在の状況である。ウイグル王は我々と組んで、唐の国富を手に入れるべきだ。」と誘いをかけた。ウイグル王はその気になり、王自ら10万と号する大軍を動員して南進を開始する。ウイグル騎兵の精強さと容赦のない略奪行為は世に知られており、唐朝は上も下も恐怖に慄いた。
滅亡の危機に瀕した唐の代宗はウイグル王に使者を送り、これまでの協力関係を訴えかけ、毎年、絹数万匹を送っている事も伝えて必死に説得した。


しかし、それでもウイグル王は首を縦に振らなかったので、史朝儀の支配地での略奪に加えて、唐の支配地での略奪まで許可して何とか翻意させる事に成功した。
そして、同年10月、唐とウイグルは再び一体となって、史朝儀が支配する洛陽へと向かった。 10月28日、唐、ウイグル軍は洛陽近郊に達し、陣地線を張る史朝儀軍と向き合った。唐とウイグルは騎兵をもって陣地を迂回すると、挟み撃ちにして史朝儀軍の前線部隊を撃滅した。史朝儀は本隊10万人を率いて救援に駆け付け、唐軍の前に布陣した。


唐軍はすぐさま猛攻をかけたが、史朝儀軍は容易には崩れず、激戦が展開された。唐軍はひたすら突撃して突破口を開き、そこに全軍を投入して、史朝儀軍を打ち破る事に成功した。史朝儀は6万人余の兵を失って大敗し、洛陽を捨てて東に逃れ去った。ウイグル軍は洛陽に入ると略奪、強姦、殺人、放火の限りを尽くし、死者は数万人に達して、洛陽は数十日間燃え続けた。唐としては、ウイグルに略奪を許可している以上、この蛮行を見守る他無かった。
史朝儀は残兵を糾合して、唐軍の進撃を食い止めんとしたが、最早どうにもならず、連戦連敗して次々に支配地を失っていった。


同年11月22日、史朝儀の有力部将であった張忠志が、支配下にある五州諸共、唐朝に投降した。唐、ウイグル軍は追撃の手を緩めず、史朝儀を北に北に追い詰めていった。広徳元年(763年)1月、史朝儀の有力部将、田承嗣や李懐仙は諸州を挙げて唐朝に帰順し、ついに史朝儀は孤立無援となった。本拠の范陽城に入る事すら拒否され、更に北を目指したが、そこで李懐仙の部隊に追いつかれ、絶望して自殺した。同年1月30日、史朝儀の首は長安に送り届けられ、唐の群臣はそれを確認して、ようやく乱は終結したと安堵した。


天宝14載(755年)11月9日の安禄山の挙兵以来、7年2ヶ月に渡る大乱であった。これで再び唐の時代が戻ったのであるが、以前の勢威は決して取り戻せなかった。安史の乱勃発直前の754年の調査によれば、唐の戸数は907万戸、人口は5288万人であったが、乱終結直後の764年の調査によれば、戸数は293万戸、人口は1692万人にまで減少していた。戦乱によって、戸数は614万戸、人口は3596万人も失われた事になる。


この失われた3600万人余の人々は、全てが死者となった訳ではなく、難民となって戸籍から外れたり、唐朝の領域が縮小して、その支配から外れた人々も多く含まれているが、それでも、数千万もの人命が失われたと見られる。人口の減少はそのまま税収と軍事力の減少を意味しており、乱終結後の唐の力は、盛期の三分の一に低下したに等しい。
中国の戸数が再び900万台に戻るのはこれから250年後、宋代の1014年まで待たねばならない。人口も1010年代になってから、5千万人に戻ったと推測される。


乱の影響がいかに凄まじかったかを、この人口数と戸数の推移が物語っている。
乱の最中、唐は節度使を次々に新設していったが、乱が終結すると、それらは自立して藩鎮(はんちん)と呼ばれる地方軍閥となった。唐は豊かな江南を保持していたから、尚も中国最大の勢力であり続けたが、地方軍閥を滅ぼすまでの力は無かった。特に安禄山の本拠地であった河北一帯では、河朔三鎮(かさくさんちん)と呼ばれる三つの地方軍閥が唐の支配を拒否して、自立する事になる。


この河朔三鎮は、かつての安禄山の部将、張忠志、田承嗣、李懐仙らで、彼らは中央への納税を拒否し、官吏も自ら定めた。唐は河朔三鎮の反抗的な態度に悩み続けるが、それでも穆宗(ぼくそう)の時代にある程度、勢いを取り戻し、武力をもって藩鎮の大半を従属させる事に成功する。だが、これも藩鎮に対する優位性を確保しただけで、直接支配には至らなかった。この穆宗(ぼくそう)の軍事的成功が唐の最後の輝きであると同時に、当時の唐の力の限界でもあった。安史の乱で受けた傷は、それほど深かったのだ。


以降の唐王朝では宦官が跋扈して内部抗争に明け暮れ、衰亡の一途を辿る事となる。やがて、反乱が頻発する様になり、止めとなる黄巣の乱が勃発して唐の国家機構はずたずたになった。そして、天佑4年(907年)、後梁の朱元忠によって唐朝最後の皇帝、哀帝が廃され、滅亡とあいなった。618年の創立以来、300年弱の命脈であった。だが、安史の乱を受けて滅亡の危機に瀕しながらも、巻き返して乱を終結させ、尚も150年余、王朝を保ちえたのは、さすがとも言えようか。


未曾有の大乱を起こした安禄山と史思明であるが、以降の中国史では悪逆無道の賊として、現在にまで伝えられている。中国の民衆は、この二者の引き起こした乱によって塗炭の苦しみを味わったのだから、それも理解できよう。だが、漢文資料は基本的に、異民族の反乱には、悪意を込めて書きたてる傾向があるのも事実である。安禄山と史思明は共に異民族の血を引き、しかも皇帝に反逆しているので尚更である。だが、安禄山らの本拠があった范陽一帯では逆に人々に慕われており、死後、廟が建てられて二聖と尊称されたと伝わっている。実際、史思明の死を悼んで書かれた、史思明哀札と呼ばれる木簡が幽州から出土している。


「資治通鑑」では、安禄山は早くから叛心があって、周到な謀反計画を立てたとあるが、実際には、楊国忠に追い詰められた挙げ句の、破れかぶれの挙兵だった可能性もある。安禄山は挙兵以前から、病身の可能性が高く、どうせ死ぬなら最後の花を咲かせようとしたのかもしれない。また、この反乱は単純な謀反ではなく、ソグド人を始めとする少数民族らによる独立運動であったと見る向きもある。安禄山からは長期的な構想力は見出せず、勢いで突っ走った感はあるが、多種多様な人々の心を掴み、それを巨大な力に変えて歴史を揺り動かしたのだから、並々ならぬ器量の持ち主であった事は間違いないだろう。その功罪は別として、乱の影響は、中国のみならず、周辺国家、ひいては東アジア全体にまで及んだ。
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