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安史の乱 3

2013.10.16 - 三国志・中国史
至徳元年(756年)7月12日、霊武に逃れていた皇太子の李亨(りこう)が即位して粛宗となり、玄宗は上皇に追いやられた。この霊武は唐の最有力部将、郭子儀の本拠地であり、粛宗はここから反抗の機会を窺った。粛宗は郭子儀の力を大いに頼りとしたが、それでも戦力不足は否めず、北方の遊牧帝国であるウイグルに協力を求めた。ウイグルは中国進出を露骨に狙っていたが、一応、唐への協力を約束する。


同年10月22日、史思明は平原を落として、この方面の主将であった顔真卿を黄河以南に追いやった。更に安禄山の一軍は黄河を渡り、山東半島や長江流域を目指さんとした。長江流域は唐の経済基盤であり、この地を失えば、唐は立ち枯れする事になる。この様に安録山側に情勢が傾こうとしていた時、ウイグルは唐へ加勢する事を決した。そして、大臣に騎兵数千人を授けて、安禄山の本拠、范陽を攻撃せしめた。この范陽襲撃の報を受け、長江を目指していた安禄山軍は撤退を余儀なくされた。


ウイグルは、唐と
安禄山を天秤にかけて、まだ唐の方が御しやすく、こちらに味方した方がより利が得られると踏んだのだろう。同年11月11日、安禄山軍の一派が数万の兵をもって霊武に進撃したが、ウイグルは加勢を送って、唐の郭子儀と協力してこれを撃退した。安禄山は霊武こそ落とせなかったが、長安、洛陽の両都を手中に収め、その勢力は絶頂に達した。あと一押しで、唐に止めを刺せるというところまで来ていたが、ここに来て安禄山が崩壊する。


この頃、安禄山の心身は酷く変調を来たしており、その苛立ちをぶつけるように暴虐武人の振る舞いを見せていた。極度の肥満であったから事から糖尿病を患い、それが悪化したものと思われる。糖尿病壊疽と思われる腫瘍が体のあちこちに生じ、目はほぼ失明して、錯乱状態に陥っていた。そして、至徳2載(757年)1月5日、安禄山は皇太子に任じていた次男の安慶緒を廃し、妾の三男の子を太子に立てんとしたので、これを憂慮した安慶緒から刺客を送られ、腹を割かれて惨死した。


こうして稀代の謀反人、安禄山はあっけなくこの世を去った。生年は定かではなく、享年は53から55であったらしい。決起の日から、1年2ヶ月ばかりの栄光であった。安禄山の死は、表向きは病死と発表され、大上皇と諡号(しごう)された。そして、安慶緒が帝位につき、大燕国第二代皇帝となった。しかし、ほどなくして死の真相は内外に漏れ伝わったと思われる。
この頃、史思明は黄河中流東寄りにある太源を攻めていたが、李光弼の前に敗北を喫したので、安慶緒より范陽に戻る様、命じられた。


史思明は、第二代皇帝となった安慶緒に表向きは従ったものの、内心では盟友の安禄山を殺害された事に怒りを覚えていた。それに安禄山の本拠であった范陽には、唐から略奪した莫大な財宝と、軍需物資が蓄えられていた事から、ここを手にした史思明はたちまち強大な勢力となって、次第に安慶緒の言う事を聞かなくなった。
安禄山の死を受けて、その帝国、大燕は内部より揺らぎ始め、それに合わせて唐の反抗も本格化してゆく。


至徳2載(757年)8月23日、唐の粛宗は群臣を集めて盛大な宴を開き、総力を挙げて長安を奪回すると表明した。同年9月、唐の要請を受けて、ウイグルも精鋭騎兵4千余を送ってきた。唐はウイグルに大変、気を使い、指揮官のウイグル王子に貴重品を授与すると共に、3日間、宴を開いてその軍を手厚くもてなした。こうしてウイグル軍の気を良くしたところで唐軍は出撃し、同年9月27日、長安奪還戦を開始した。唐、ウイグル軍は合わせて15万人余で、総指揮官は郭子儀が務めた。


長安を守る安慶緒軍は10万人余であったが、安慶緒自身はおらず、その部将が指揮を執っていた。緒戦は安慶緒軍優勢で進み、唐軍を破って陣所にまで攻め入った。だが、ここで唐軍随一の勇将、李嗣業(りしぎょう)が奮戦して安慶緒軍を押し返し、更にウイグル軍と共に背後に回り込んで切り崩していった。安慶緒軍は6万人が戦死して壊滅、長安は再び唐の手に戻った。
郭子儀は勝利の余勢を駆って、潼関まで安慶緒軍を追撃した。唐軍が洛陽にまで迫ったので、安慶緒も危機感を覚え、総力を結集した15万人余の軍を送り出して、迎撃せんとした。


同年10月15日、唐、ウイグル連合軍と安慶緒軍は、洛陽の西で激突した。緒戦は安慶緒軍が優勢であったが、ここでもウイグル騎兵が威力を発揮し、その機動力をもって安慶緒軍を背後から突いた事で勝敗は決した。同年10月16日、この敗報を受けて、安慶緒は洛陽を捨て、河北の鄴(ぎょう)に逃れた。同年10月18日、唐、ウイグル軍は洛陽に入城するが、勝利の暁には洛陽を存分に略奪して良いとの唐の約束があったので、ウイグル軍は遠慮なく財宝や婦女を襲って、略奪の限りを尽くした。


今回の長安、洛陽の奪回戦では、いずれもウイグル軍が決定的な役割を果たしていた。唐はその実力を大いに頼りとしたが、逆に恐れもしていた。唐の粛宗は、ウイグルの心を繋ぎとめておくため、絹2万匹を毎年進呈する事を約し、翌年には、まだ幼少の皇女をウイグルに降嫁する事までした。唐は、辺境防備を担っていた兵を掻き集めて、安慶緒との戦いを優勢に進めていたが、その反面、辺境の防備は手薄となり、外部勢力の進出を許す結果ともなっていた。


唐の西方領土は、チベット高原の大国、吐蕃(とばん)によって蚕食され、南でも、チベットビルマ系の南詔が雲南地方(中国南西部)を制圧していった。
一方、安慶緒は長安、洛陽を失って権威を大いに失墜させていた。それでも、鄴を中心に7群と7万人余の兵力を保持していた。しかし、洛陽で敗れた際、精鋭騎兵を含む敗残兵数万人は、史思明の支配する范陽に逃れて、その配下に収まっていた。史思明は、范陽を中心とする13郡と13万人の兵力を有する強大な勢力に成長しており、これに危機感を覚えた安慶緒は、人を送って史思明の暗殺を試みる。


だが、史思明はこの企てを察知し、暗殺者を捕らえて拘禁すると共に、唐朝に使者を送って帰順を申し出た。
唐の粛宗は、史思明の投降を喜び、范陽節度使に任ずると共に、安慶緒討伐を命じた。これを受け、史思明は唐朝の権威を利用しつつ、安慶緒支配下の諸州を次々に服属させていった。乾元元年(758年)、安慶緒は急速に孤立感を深めて疑心暗鬼に陥り、離反しようとした配下を一族諸共、次々に処刑していった。史思明は唐のために働いているかのようであったが、心から服した訳ではなく、あくまで安慶緒への対抗上、帰順したに過ぎなかった。


史思明と度々、対戦してその性質を見抜いていた唐の名将、李光弼は、史思明が再び反旗を翻すと見て、謀殺する様、粛宗に上奏した。粛宗はこれに同意したので、李光弼は、史思明の腹心の鳥丞恩に働きかけて暗殺を試みたが、史思明はこれも察知して、鳥丞恩を一族諸共、処刑した。史思明はこの企てに激怒して、唐朝から再び離反した。
乾元元年(758年)9月、唐の粛宗は、郭子儀、李光弼ら各節度使を集めて安慶緒討伐を命じ、これを受けて唐軍20万人余が河北に進撃した。


安慶緒も自ら7万人余の兵を率いて迎撃せんとしたが、郭子儀率いる唐軍に痛烈な敗北を喫して3万人余の兵を失い、たまらず鄴城に逃げこんだ。唐軍は鄴城を包囲すると、二重の堡塁を築き、三重の堀を掘って、安慶緒を完全に封鎖した。追い詰められた安慶緒は形振り構わず、暗殺を試みた史思明に使者を送り、皇帝位を譲るので救援してもらいたいと伝えた。史思明はこれに応じて13万人余を動員したが、軽々しく進軍せず、まず先遣隊1万人余を鄴城近辺に送って安慶緒軍を鼓舞し、主力は手元に置いて情勢を窺った。


同年11月、唐の一軍が安慶緒支配下にあった魏州を占領すると、史思明はこれを好機と見て、大挙して南下した。そして、まだ防衛態勢が整っていない唐軍に襲い掛かって3万人余を斬り、同年12月29日に魏州を攻略する。乾元2年(759年)1月1日、史思明は魏州城北に祭壇を設け、ここに大聖燕王を自称した。一方、鄴城に篭もる安慶緒軍と唐軍の攻防は引き続いており、同年1月28日には、唐軍の李嗣業が流れ矢に当たって戦死した。李嗣業はかつて、西域で名を馳せた名将、高仙芝の部下として働き、遥か、タラス河畔まで遠征した事もある唐軍随一の勇将であった。


安慶緒が篭もる鄴城は、既に半年余りも包囲されており、糧食は尽きて、将兵達はやつれ切っていた。誰もが落城は近いと感じていたが、長期の滞陣によって唐軍も疲れ切っていた。こうした状況を見て魏州にあった史思明が動き、主力を率いて鄴城に急行した。史思明は鄴城から50里の距離に陣取ると、300張の軍鼓を打ち叩いて、遥か鄴城の安慶緒に援軍到来を知らせると共に、唐軍を威嚇した。続いて史思明は、軍中から精鋭の騎兵を選抜して、唐軍の輸送部隊を毎日の様に襲撃させた。唐軍は長期の滞陣で疲れ切っていた上、食料も不足してきたので、兵士達の間に動揺が広がった。


乾元2年(759年)3月6日、史思明は好機到来と見て、精兵5万人を率いて、唐軍20万人余に決戦を挑んだ。唐軍の郭子儀、李光弼らはこれを迎え撃ったが、自ら先陣に立って突撃する史思明の勢いに押されて、散々に打ち破られた。唐の歴史を書き綴っている資治通鑑(しじつがん)によれば、激闘の最中、突然、嵐が巻き起こって唐軍、史思明軍共に驚き慌てて敗走したとあるが、実際には唐軍は全面撤退に追いやられているので、大敗北を嵐で糊塗したのであろう。


史思明は唐軍を打ち破って鄴城に到着したが、安慶緒は、唐軍が遺棄していった糧食を城に運び入れると、城門を閉ざして、史思明を拒否する姿勢を見せた。だが、この処置に安慶緒の将軍達から次々に異論が挙がったので、安慶緒はやむなく城を出て、史思明に頭を下げた。安慶緒は長安、洛陽を失陥した事を詫び、史思明の救援に感謝の意を述べた。だが、史思明は激怒して、「長安、洛陽の失陥など取るに足らぬ。ただ、お前の許されざるところは、父を殺め、皇帝位を奪い盗ったことにある。私が太上皇(安禄山)に代わって逆賊を討つ!」と叫んで、衛兵に命じて安慶緒を斬らせた。


それから史思明は軍を整えて鄴城に入城し、安慶緒の軍と支配下にあった州を接収した。領域が大幅に広がった事から、史思明は支配を固めなおす必要に迫られ、一旦、范陽に戻った。乾元2年(759年)夏、史思明は大燕皇帝を名乗り、范陽を燕京と改名した。大燕皇帝とは安禄山が最初に自称したものであり、史思明は名実共にその意志を継いだ事になる。
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