玄宗の治世の末期、皇帝の親族である李林甫(りりんぽ)が、宰相として国政を取り仕切っていた。李林甫は国家の安寧より、自らの地位の安寧を望む人物で、競争相手や反対者を次々に粛清し、例えそれが皇太子であろうとも容赦しない、恐るべき権勢家であった。唐の政界を事実上、牛耳っていたのがこの李林甫で、それに次ぐ権勢を誇ったのが、楊貴妃の従兄弟と言うだけで成り上がってきた楊国忠(ようこくちゅう)と、地方の大実力者となっていた安禄山であった。
安禄山は、楊国忠の方は小馬鹿にしていたが、李林甫には恐れを抱いていた。安禄山は機知に富んでいたが、それでも李林甫の狡猾さには敵わなかった。李林甫は、安禄山の 心底を見透かしていたので、彼と会見する度、冷や汗をかいたそうである。だが、その李林甫が、天宝11載(752年)に死去した事で、政界の勢力図は大きく塗り替えられた。すなわち、楊国忠が宰相の地位に付いて、国政を壟断するようになったのである。ところが、安禄山にも国政を独占したいという強い野心があった事から、両者は譲らず、急速に対立が深まっていった。
楊国忠は玄宗に密奉して、安禄山から兵権を取り上げんとしたが、玄宗はまだ、安禄山を信頼していた事から、受け合わなかった。安禄山も楊国忠を倒すべき敵と定めたが、玄宗からは篤い寵愛を受けていたので、さすがに気が引けて、その死後に兵を挙げようと思っていたようだ。しかし、楊国忠からの挑発は激しさを増すばかりで、両者の対立は抜き差しならぬものとなる。楊国忠は安禄山を挙兵に追い込んで、最大の政敵を葬り去ろうと目論んだ。この様に事態は緊迫の度合いを深めていったが、国家の最高権力者たる玄宗はそれに目もくれず、楊貴妃との宴の日々を楽しむのみだった。
天宝13載(754年)1月、楊国忠が、「安禄山に謀反の企みあり」と盛んに訴えるので、玄宗もやむなく安禄山に入朝を促した。この時点で兵を挙げる気の無かった安禄山は直ちに入朝し、玄宗に謁見して変わりなき忠誠を誓ったので、その信頼はより篤いものとなった。玄宗は安禄山を同平章事(準宰相)に任命しようとしたが、楊国忠の、「軍功はあっても文字の読めない者に宰相は務まらない」との反対を受けて、取りやめた。安禄山はかねがね、宰相の地位に就きたいと願っていたが、その道は断たれる事となった。政治で楊国忠を倒す見込みがなくなったので、これで安禄山は武力による打倒、すなわち謀反の腹を固めたと云われている。
安禄山は、玄宗に群牧知総監事(国営牧場長官)になる事を願い出て許可を得た。そして、安禄山は部下を牧場に送り、軍用に耐えうる良馬数千頭を選び抜き、それを支配下に移して飼わせた。天宝14載(755年)、安禄山は自軍にいる漢人将軍は柔弱なので、子飼いの異民族の将32人に代えてもらえたいと玄宗に訴え、これも許可を得た。これで20万人余の大軍が、完全に安禄山の私兵と化した。同年4月、安禄山は挙兵を前に、背後の安全を確保せんとしてか、契丹と奚を攻め叩いた。この頃になると、安禄山の叛心も半ば露わとなり、朝廷からの使者が訪れても臣下の礼を取らず、武装兵を従えて謁見した。
一方、楊国忠も安禄山謀反の証拠を得ようとして、長安の安禄山邸を囲み、その賓客を捕らえて殺害した。同年6月、安禄山の長男、安慶宗と玄宗の娘である栄義群主との成婚式が開かれる事となり、安禄山も参列する様、促されたが、病と称して入朝しなかった。この頃になると安禄山への注意を促す注進が相次ぎ、玄宗もさすがに疑いを抱くようになっていたので、安禄山も挙兵計画を実行に移す事とした。安禄山は20万人余の大兵を有していたが、それでも唐軍全体の三分の一に過ぎない。時間をかければ、唐は残り40万人余の兵力を結集させて、安禄山を押しつぶしにかかるだろう。事は、電撃的に進めねばならなかった。
安禄山は信を置く5人の重臣だけに胸中を明かし、周到に作戦を練った。そして、武器、糧食を整え、行軍路を事前調査し、作戦日程を立てた。唐朝では、安禄山謀反の噂は流れていたものの、さしたる対策はまったく取られていなかった。安禄山は挙兵するにあたって、ソグド人から莫大な経済援助を受けていたと考えられる。ソグド人はシルクロードの主要商人にして、騎馬を駆る強力な武装集団でもあった。ソグド人は、その経済力と軍事力をもって、当時のシルクロードを支配していたと考えられる存在である。
また、安禄山の本拠地である范陽にも、ソグド人らによる行(商業ギルド)が多数建ち並んでいた。安禄山自身にもソグド人の血が流れており、若い頃から彼らと密接な関係を持っていたので、その援助を受けるのは容易であったろう。天宝14載(755年)11月9日、安禄山は、ついに范陽にて挙兵した。安禄山軍の中核を成すのは、敵として戦った契丹族を含む多種族混合の精鋭騎兵8千人で、それに范陽、平蘆、河東から募った歩騎兵、合わせて15万人余であった。これは全軍では無く、本拠の范陽を保持すべく、次男の安慶緒に数万人余の軍を授けて留守を守らせていた。
安禄山軍は様々な民族で構成された雑多な集団であったが、安禄山自身が異民族の育ちであった事から、彼らの心を掴んで、父子軍と称する程、その絆と統制を誇った。安禄山は、「唐王朝を牛耳る楊国忠という奸人を取り除く」との大義名分を掲げ、怒涛の進撃を開始した。一方、副将の史思明は、安禄山の側背の安全を確保すべく、河北、河東方面の制圧を開始する。未曾有の規模となるこの乱は、安禄山とその盟友、史思明によって引き起こされたものなので、両者の一字を取って安史の乱と呼ばれる事になる。
安禄山は鉄の車に乗って指揮を執り、その大軍が巻き起こす土煙は千里に及んだと云う。同年11月10日、安禄山挙兵の報が長安に届いたが、玄宗はまだそれを信じず、安禄山を憎む者が流した噂に過ぎないと思っていた。11月15日、次々に続報が入り、玄宗もようやく確報だと悟り、群臣を集めて討議を行った。この席で楊国忠は得意げに、「安禄山の首は10日を経ずして届けられるでしょう」と豪語したと云われている。11月16日、安西節度使の封常清が入朝したので、玄宗が方策を尋ねると、封常清は「勇猛な士卒を募って、蛮族の首を討ち取ってみせます」と大言壮語したので、玄宗は喜び、安禄山から范陽、平盧節度使を取り上げた上で、それを封常清に与えた。
封常清は直ちに洛陽に向かい、そこで6万人余を募兵して安禄山軍に備えた。常山太守の顔杲卿(がんこうけい)は、安禄山軍が迫ってくると自ら出迎えて降参した。安禄山は喜んで、顔杲卿をそのまま常山群太守とした。しかし、顔杲卿は心から服した訳ではなく、頃合を見計らって挙兵する事を決していた。11月21日、玄宗は、唐朝で預かっていた安禄山の長男、安慶宗を斬首し、その妻の栄義群主も自殺させた。11月22日、玄宗は西域で名を馳せた大将軍、高仙芝を召して、安禄山討伐を命じた。12月1日、高仙芝は官戸を開いて11万人余の兵を募り、それに周辺各地から集めた軍を糾合して、長安を進発した。
12月2日、安禄山軍は黄河を渡河し、12月5日には陳留城に達して、そこの太守と将兵を降伏に追い込んだ。だが、ここで安禄山は長男の安慶宗の死を知って激怒し、捕虜としていた太守と将兵1万人余を斬殺した。12月8日、安禄山軍の先鋒は洛陽防衛の重要拠点、武牢関(虎牢関)に達し、ここに陣取っていた封常清軍と干戈を交えて、これを苦も無く撃破した。封常清軍は市井の素人集団で構成されており、長年、契丹と激闘を交えて、戦い慣れした安禄山軍の敵ではなかった。
12月12日、封常清は残兵を率いて洛陽の城門を固めんとしたが、安禄山軍はこれも打ち破って洛陽を陥落せしめた。安禄山は挙兵から僅か1ヶ月余で、唐の副首都を手にした事になる。楊国忠は、安禄山を挙兵に追い込むまでは予定通りであったが、その力は大きく見誤っていた。洛陽から敗残した封常清は陝州(せんしゅう)まで撤退したところで、高仙芝率いる唐軍と合流した。封常清は、「賊軍の勢いは凄まじく、ここは潼関まで退くべきです」と進言し、これに高仙芝も同意したので、共に潼関を守る事となった。
↑安禄山の侵攻図 (ウィキペディアより)
潼関は洛陽と長安の中間にあって、古来からの交通、軍事上の要衝であった。安禄山軍に洛陽を抜かれた今、更にこの潼関も抜かれれば、唐の首都たる長安も陥落の危機に瀕する。安禄山もその重要性は理解しており、直ちに軍を差し向けたものの、高仙芝らに守備を固められて、抜く事は叶わなかった。だが、ここで玄宗は、高仙芝と封常清に恨みを含む宦官の讒言を真に受けて、12月18日に、この優秀な指揮官2人を死罪とした。高仙芝と封常清の刑死後、潼関には哥舒翰(かじょかん)という将軍が増援を率いて入る事になったが、この時は病身の上、到着もまだ先であった。
これで潼関は一時的に指揮官不在となり、安禄山もこの隙に乗じて、自ら潼関を攻撃せんとした。だが、ここにきて背後で一大変事が起こって、安禄山は攻撃を断念せねばならなかった。12月21日、安禄山に従っているかに見えた、河北の常山群太守、顔杲卿(がんこうけい)が、反安禄山を掲げて挙兵したのである。しかも、顔杲卿の挙兵に合わせて河北の17群が一斉に唐に帰順し、安禄山に残されたのは本拠の范陽を始めとする6群のみとなる。これを放置すれば、安禄山軍の退路は断たれてしまう。そのため、何としても、背後の敵を鎮圧せねばならなかった。
そこで、安禄山の盟友、史思明が迅速に軍を取って返し、まだ防備の整っていない常山城に達すると、直ちに猛攻を加えた。顔杲卿は必死に防戦に努めたが、安禄山軍もまた必死であった。天宝14載(755年)末の安禄山軍の全体状況は、主力は潼関の唐軍と対峙して動けず、別軍を率いる史思明は常山城を攻撃中であった。安禄山軍は背後に起こった反乱の平定に追われ、その戦線も伸びきって、当初の勢いは失われていた。それでも安禄山は唐の副都、洛陽をその手に収めて、広大な領域を支配するに至ったので、天宝15載(756年)1月1日、安禄山は皇帝の位に上がり、国名を大燕、年号を聖武と定めた。
安禄山は、奸人、楊国忠を取り除くという大義名分はかなぐり捨て、唐朝に取って代わる事を宣言したのである。安禄山の野望は極大に達した感があるが、この頃から安禄山の心身は変調を来たし始めていて、視力も日々失われていった。同年1月8日、史思明は常山城を攻め落とし、顔杲卿とその一族を捕虜とした。顔杲卿とその一族は安禄山の前に引っ立てられて、公開処刑される事となった。顔杲卿は手足をノコギリで断ち切られながらも、安禄山に罵声を浴びせ続けて絶命したと云われている。史思明は常山を落とした後も、河北に転戦して諸群の平定を進めた。
2月16日、安禄山は唐の経済基盤である江南を攻め取らんとして、一軍を差し向けたが、県令の張巡が挙兵して雍丘に立て篭もり、激烈な抵抗を見せたので、そこから南に進む事は出来なかった。また、顔杲卿の従兄弟で、平原太守であった顔真卿(がんしんけい)が北海太守と合わせて挙兵し、安禄山を東から脅かした。更に、唐側の名将、郭子儀(かくしぎ)と李光弼(りこうひつ)が河北に攻め入って、4月11日、5月29日と二度に渡って史思明を撃ち破り、安禄山を北から脅かした。この頃から唐軍の反抗は本格化して、巨大な包囲の輪が安禄山を徐々に締め付けつつあった。
安禄山が主力をこれらの方面に差し向けようにも、潼関には哥舒翰を指揮官とする18万人余の唐軍が篭もっていたので、これを動かす訳にはいかなかった。この様に、安禄山軍の主力が潼関に釘付けになっているのに乗じて、河北では郭子儀と李光弼が戦線を拡大して、安禄山の本拠、范陽に迫りつつあった。その動きに呼応してか、契丹、奚も范陽に攻め入って打撃を与えた。安禄山は八方塞がりの苦境に陥り、洛陽を放棄して范陽に引き返す事も検討した。だが、ここで、唐側から、わざわざ活路を開いてくれる事態が起こった。
潼関の哥舒翰が打って出て、安禄山軍に決戦を挑んできたのである。実は、哥舒翰と対立していた楊国忠が、玄宗にたきつけて出撃する様、仕向けた結果であった。これより前、哥舒翰は、「河北で転戦中の郭子儀と李光弼が安禄山の本拠地、范陽を落とすまで潼関を堅守すべし」と反論し、これに郭子儀と李光弼も賛意を表明していた。しかし、楊国忠は、哥舒翰が大軍ごと反旗を翻すのではないかと危惧して、あくまで出撃を主張し、玄宗もこれを支持して勅令を下したので、哥舒翰は出撃せざるを得なくなった。
同年6月8日、哥舒翰は18万余の兵をもって攻めかかったが、安禄山軍の将、崔乾祐(さいけんゆう)は伏兵と火計をもって、これを大いに打ち破った。18万余の軍勢の大半は殺戮され、生き残ったのは8千人余と云う惨敗であった。哥舒翰は投降し、潼関は安禄山軍の手に落ちた。安禄山は唐の反撃を受けて苦境に陥っていたが、この勝利によって一挙に展望が開かれた。唐軍主力惨敗の報を受け、河北で優勢を誇っていた郭子儀、李光弼の軍も後退せざるを得なくなる。
6月11日、潼関陥落の凶報が長安に届くと、玄宗も庶民も顔面蒼白となった。それは、安禄山軍を止める手段が失われ、間もなく長安が蹂躙される事を意味していたからだ。長安の人々は上も下も恐慌状態となり、取るものも取りあえず都から脱出せんとした。 6月13日、楊国忠の進言を受けて、玄宗も長安を脱出し、蜀(四川省)に向かわんとした。しかし、蜀へと通じる道は非常に険阻な上、食料も乏しかったので、従軍の将兵は飢えと疲労に苛まされた。6月14日、将兵達は不満を爆発させてこれ以上の前進を拒否し、怨嗟の的となっていた楊国忠に襲い掛かって、これを滅多切りにした。
楊国忠の妻子や一族も皆殺しとなったが、将兵の怒りはそれでも収まらず、今度は玄宗の宿舎を囲んで楊貴妃の死を迫った。これを受け、73歳の玄宗は泣く泣く、楊貴妃に死を賜るしかなかった。楊貴妃の享年は38であったが、今だ妖艶な美しさを保っていた。玄宗は蜀に難を逃れたが、その皇太子、李亨(りこう)は長安の西北部にある霊武に逃れた。安禄山は潼関の勝利を受けても、体調が思わしくなかったのか洛陽に留まり、代わって部下を派遣して長安を占領せしめた。そして、挙兵時に処刑された長男、安慶宗の報復のため、捕らえた皇族を皆殺しにさせた。
安禄山軍は長安で略奪、暴行の限りを尽くし、方々に火を放ったので、花の都は無残な廃墟に変わり果てた。中国史上最高とされる詩人、杜甫も長安で捕らえられ、軟禁中にかの有名な五言律詩を作った。
国破山河在 国破れて山河在り
城春草木深 城春にして草木深し
感時花濺涙 時に感じては花にも涙を濺(そそ)ぎ
恨別鳥驚心 別れを恨んでは鳥にも心を驚かす
烽火連三月 烽火(ほうか) 三月に連なり
家書抵万金 家書 万金に抵(あた)る
白頭掻更短 白頭 掻けば更に短く
渾欲不勝簪 渾(すべ)て簪(かんざし)に勝えざらんと欲す
国は滅んでしまったが山や河は昔のままであり、
都城には春が訪れて草や木が深々と生い茂っている。
世の無常を感じて花を観ても涙が流れ、
別れた家族を思って鳥の声を聞いても心が痛む
戦の火は3ヵ月経っても燃え続けている。
家族からの便りは万金にも勝る。
白髪だらけの頭を掻けば、更に短くなり
簪を挿すのも無理なようだ。
PR