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高仙芝、パミールを越えた勇将 2

2011.07.17 - 三国志・中国史
天宝9載(750年)2月、高仙芝は吐蕃の属国、朅師(けっし)を討ち、その王を捕らえた。更に同年12月、属国の礼を取らなかったとの名目で、石国(タシュケント)へ遠征する。この遠征は、高仙芝が更なる功名を立てんとして、自ら申し出たものであった。この時、高仙芝は一旦、石国と和議を結んでおきながら、不意討ちをかけて老若男女を皆殺しとし、財宝、良馬を全て我が物とした。そして、先に捕らえていた朅師王や、石国王を長安に連行して、大いに面目を施したのだった。だが、この不義の行為は、高仙芝に災いを呼び込む。石国の王子が、西方のイスラム大国アッバースに逃げ込んで、高仙芝の横暴を訴えて、軍事援助を求めたのである。アッバースはそれに応えて、ズイヤード・イブン・サーリフ将軍を長として、諸国の軍を加えた数万の大軍を送り込まんとした。
 


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↑8世紀のアジアの勢力図(ウィキペディアより)


アッバース軍動くと知った高仙芝は、逆に機先を制して攻撃せんとした。そして、漢族、異民族を合わせた3万人余の軍勢を率いて亀茲から北進すると、天山山脈を越え、アッバース領内に350キロも侵入する。唐軍は、タラス河(カザフスタンとキルギスに跨る河)の畔にあるタラス城に入った。天宝10載(751年)、唐軍とアッバース軍は、タラス河畔にて激突する。5日間に渡って互角の戦いが続けられたが、唐軍の背後で突如、異変が起こった。味方であった葛邏禄(かつらろく)族がアッバース側に寝返って、襲い掛かって来たのである。アッバース軍もこれに合わせて総攻撃を加えてきた為、さしもの高仙芝も成す術無く、大敗を喫した。これが世に云う、「タラス河畔の戦い」である。そして、この時に中国の紙漉き工が捕まって、西方に製紙技術が伝わったとされている。唐軍は数千人にまで討ち減らされ、さらに退路をフェルガーナ軍(ウズベキスタン)が遮った。唐軍は全滅の危機に陥ったが、李嗣業が先頭に立ってこれを斬り抜け、高仙芝らはなんとか危地を脱した。


この敗戦によって、唐の西域支配はタリム盆地にまで後退したが、高仙芝がその責を問われた形跡はなく、昇進して中央に召された。そして、高仙芝の片腕であった、封常清が安西節度使となった。天宝12載(753年)封常清は、吐蕃の属国、大勃律国に攻め入り、これを降伏せしめる功を挙げる。この頃、唐の朝廷では、不穏な空気が漂っていた。玄宗は楊貴妃の魅力に溺れて政治を省みる事はなく、宮中では、楊貴妃の従兄弟と言うだけで成り上がってきた楊国忠と、地方の大権力者、安禄山とが権力を競っていた。天宝14載(755年)11月、中央での権力争いに敗れた安禄山は、ついに実力行使に及んだ。


節度使は強力な軍事力を帯びる事から、1人1職とされていたが、安禄山は玄宗の寵愛を糧に河東・范陽・平盧の3つの節度使の職を兼ねていたから、その軍事力は唐軍随一であった。そして、荒ぶる15万人余の兵を率いて、怒涛の進撃を開始した。唐王朝に激震が走り、折から入朝していた封常清は、玄宗から方策を尋ねられる。すると封常清は、「私が洛陽に赴いて官戸を開き、義勇軍を募集します。その軍で逆賊を討ち取ってご覧にいれます」と大言壮語した。この勇壮な奏上に玄宗は喜び、安禄山から范陽・平盧の節度使の職を取り上げた上で、これを封常清に与えて、洛陽へと送り出した。


封常清は洛陽に着くと、高札を立てて勇壮の者を広く召募した。10日余りで6万人余が集まったが、金目当ての無頼漢が多く、それに訓練を施す時間も無かった。そこへ安禄山軍が精強無比であるとの報告が入ると、封常清は自らの大言壮語を悔いたが、それでも責任を全うすべく、洛陽前面の守りを固めた。その頃、朝廷もようやく事態の深刻さを実感し、一大征討軍を編成する事とした。玄宗の第6子、李琬(りえん)を元帥に、その補佐役として、右金吾(ゆうきんご)大将軍に昇進していた高仙芝が付き、監軍使として辺令誠も付いた。実質的な総指揮官である高仙芝は、官庫を開いて11万人余を集めると天武軍と命名し、安禄山迎撃に向かった。


その頃、封常清率いる6万人余と、安禄山の先鋒は武牢にて激突した。安禄山軍は北方騎馬民族と死闘を繰り広げてきた歴戦の軍であって、その精鋭騎兵1万人余が突進してくると、市井の烏合の衆である封常清の軍は散々に蹂躙され、大敗を喫した。それでも封常清は諦めず、残兵を掻き集めて防戦を試みたが、再び大破され、唐の副都である洛陽は安録山の手に落ちた。封常清は街道の樹木を切り倒して、安禄山軍の進撃を遅滞させつつ、西方の陝郡(せんぐん)まで退いた。その地で、高仙芝と出会った封常清は、「賊軍の勢いは凄まじく、当たる術がありません。次に潼関(どうかん)を破られたら、長安が危機に瀕します。至急、潼関の守りを固めましょう」と訴えた。高仙芝はこの意見に同意し、官庫を開いて食料を兵士に分配し、残ったものは焼き払うと、撤退に入った。


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↑安史の乱系図(ウィキペディアより)


撤退の最中、安禄山軍に追いつかれ、多くの兵士が死んだが、高仙芝と封常清は何とか先んじて潼関に入り、急いで守りを固めた。そこへ安禄山軍が猛攻を加えてきたが、高仙芝と封常清は協力し合って激戦の後、これを撃退する。だが、一息付いたところで、監軍使の辺令誠は、高仙芝と封常清を陥れる密書を朝廷に送った。辺令誠は一度、高仙芝に助け舟を渡した事があるので、度々、高仙芝や封常清にも賄賂を求めていた。しかし、相手にされず、これを恨みに思っていた辺令誠は、「高仙芝と封常清は賊を恐れて、戦わずして陝郡を放棄し、しかも軍需物資を横領した」と誣告(ぶこく)したのである。これを聞いた玄宗は激怒して、「両者を斬れ!」と厳命を下した。玄宗は若かりし頃は臣下の意見を聞き分け、賢明な統治をしていたが、老いては正常な判断力を失い、佞臣の思うがままであった。


辺令誠はまず封常清を捕らえると、皇帝からの詔書を突きつけた。これを受けて封常清は、「敗軍の将は、ついには死罪は免れないものです。しかし、安禄山を軽視してはなりません。臣の死後、是非良将を派遣して討伐の指揮を委ねられますように」と最後の上奏文を認めると、従容と刑を受けいれた。その死体は罪人として、道端に晒された。そこへ、外へ出ていた高仙芝が戻って来ると、盟友とも言える封常清の死体が横たわっており、愕然となった。そして、高仙芝も捕われの身となり、辺令誠が詔書を突きつけて死罪を告げた。


高仙芝は、「私は陛下の許可を得ずに潼関に撤退したので、死罪は覚悟の上である。しかし、軍需物資を横領したというのは冤罪だ」と述べた。そして、兵士達に向かって、「私は長安を守るために潼関に退いた。それを罪だと思うのなら、諸君、私が悪いと言ってくれ。しかし、罪が無いと思うなら冤罪だと言ってくれ」と訴えた。兵士達は一斉に、「冤罪だ!」と叫ぶ。それでも刑は断行される事となり、覚悟を決めた高仙芝は道端に横たわる封常清の死体を見やり、「貴公は私が抜擢した人だ。また、貴公は私の後任を引き受けてくれた。その貴公と共に死ぬのも運命だろうか」と言った。そして、兵士達の大地を揺るがすほどの叫びの中、パミール越えの勇将の命は断たれた。


高仙芝と封常清の生年は不明であるが、享年は50歳前後であろう。 この後、唐軍は安禄山軍に一戦を挑んで大敗し、潼関は打ち破られ、長安も陥落する。この時、辺令誠は安禄山に降伏し、後に唐に帰参したものの、許されずに斬られた。かつての高仙芝の部将、李嗣業はこの後も唐軍の先頭に立って奮戦するが、鄴(ぎょう)を巡る戦いで戦死する。唐は自力で解決する力を無くし、ウイグル国の援助を請うて、ようやく乱を平定するのだった。しかし、この安史の乱で唐の屋台骨は揺らぎ、かつての勢威を取り戻す事は二度と無かった。多大な努力を費やしてきた西域からも撤退し、唐は衰亡の一途を辿る事になる。


高仙芝は優れた武勇を誇り、軍略にも長けていたが、功名にはやって弱国を蹂躙し、私財を溜め込むなど貪欲な一面もあった。その挙句、他民族の反感を食らって一敗地にまみれるなど、政略面においては思慮を欠いていた。だが、衆を引き連れての遠路遥々の行軍、それに加えての困難なパミール越えは、並の指揮官に出来る事では無い。これには士卒の心を確実に掴み、強固な意志で引っ張っていく人物でなければならない。高仙芝が、偉大な統率力の持ち主であった事は、間違いないところである。



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高仙芝、パミールを越えた勇将 1

2011.07.17 - 三国志・中国史
8世紀前半、中国は唐の時代、玄宗皇帝の治世の下、唐王朝は最盛期を迎えようとしていた。国都、長安には東西南北から様々な人種が流れ込み、当時、アジア最大の都市として栄えていた。長安の人々は、シルクロードや運河を通じて持ち込まれる外国の鮮やかな物品で体を着飾り、平和と繁栄を謳歌していた。だが、長安から遠く離れた東西南北の国境地帯は平和とは無縁で、唐の守備隊と異民族との間で、血生臭い戦闘が絶え間なく繰り広げられていた。長安の平和は、彼ら国境を守る兵士の血によって保たれているのだった。そういった状況は、長安から遥か西に位置する、西域(中央アジア)でも同様であった。


西域は荒涼とした砂漠地帯であるが、古くから絹の一大交易路(シルクロード)として知られており、唐の経済にとって重要な地域であった。また、この西域を支配する事は、唐の脅威となっている北方騎馬民族の収入源を押さえる事にも繋がっていた。この様に西域は、戦略、経済、交通上の要衝であった。そこで唐は、この地域の支配を永続的なものとすべく、タリム盆地北部にある亀茲(クチャ)に安西都護府を開設し、そこに安西節度使を置いて統治の拠点とした。節度使とは唐が採用した制度で、辺境の統治と守備を一手に担う司令官である。辺境とは言え、節度使は広大な地域の軍権と政権を一手に握っている事から、そこに置ける権力と軍事力は非常に大きなものがあった。安西節度使は、広大なタリム盆地のほぼ全域を守備範囲とし、その兵力は2万4千人で、軍馬は2千7百を数えた。そして、この軍団の中に高仙芝(こう・せんし)と云う若き武人がいた。


高仙芝は高句麗(北朝鮮と中国東北部を含む地域)出身で、20歳余で父に連れられて、亀茲にやってきた。高仙芝の父、高舎鶏(こう・しゃけい)は低い身の上から始まって、そこから己の腕一つで将軍にまで立身した有能な戦士であった。その父の功績の余燼を受けて、高仙芝は20代にして父と同格の将軍に任ぜられた。だが、高仙芝は親の七光りだけで立身したのではない。容貌秀麗な偉丈夫にして、勇猛かつ騎射に長け、確かな将才も備えていた。高仙芝が、安西節度使、夫蒙霊詧(ふもう・れいさつ)の下で度々、武名を轟(とどろ)かせていた頃、封常清(ほう・じょうせい)と云う男がその武名を聞きつけて訪ねて来た。 


封常清は高仙芝の配下となる事を強く願ったが、痩せこけた外見で片足も不自由であった事から、相手にされなかった。
封常清はそれでも諦めず、開元29年(741年)、高仙芝が軍を率いて達奚(たっけい)族制圧に向かった際には、一兵卒として従軍した。そして、封常清は、高仙芝が用いた戦術を分析し、それを詳細に書いた報告書を提出する。その報告書は非の打ち所が無く、しかも高仙芝の意図を悉く見抜いたものであったから、高仙芝は驚いて封常清を召した。実は、封常清は高い志と優れた学識を有する賢人であったのだ。高仙芝は封常清に対する認識を完全に改め、以後は片腕として重用する。そして、高仙芝はこの達奚族制圧に成功した事から、副節度使に任ぜられた。 


西域支配を狙っていたのは、唐だけでは無かった。チベット高原の大勢力、吐蕃(チベット)もまた、虎視眈々と西域を狙っており、開元10年(722年)には、カシミール地方(パキスタン北部)にある、小勃律国(ギルギット)を属国化する事に成功していた。小勃律国は、小国ながら交通の要衝に位置していた。そのため、それより西にある20数カ国も吐蕃に服属を余儀無くされ、唐に対する朝貢も途絶えた。唐も黙ってこの状況を見逃していた訳ではなく、これまで三度に渡って遠征軍を差し向けたものの、悉く失敗に終わっていた。これは、吐蕃の援軍によって阻まれたと言うより、西域の厳しい気候と剣路に阻まれたのが主因だった。天宝6載(747年)、今度は、高仙芝にその小勃律国討伐の大命が下った。高仙芝は勇んでこれを拝命し、片腕の封常清、それに全軍きっての猛将、李嗣業(り・しぎょう)、監軍使の宦官、辺令誠(へん・れいせい)、それに歩騎兵合わせて1万人余を率いて、亀茲を出立する。 


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↑西域(タリム盆地)・(ウィキペディアより) 

写真には写っていないが、疏勒の左側にパミール高原がある。パミール高原を横断すれば、そこに小勃律国があった。 


遠征軍の一番の難題は、パミール高原(平均標高5千メートル)を踏破する事であった。唐軍は、疏勒(カシュガル)を経てパミール高原に入る。そして、行軍100日余、特勒満川(とくろまんがわ)に達したところで、高仙芝は軍を三つに分け、吐蕃の拠点がある連雲堡(れんうんさい)の手前で合流を約した。連雲堡は川に面した崖の上に築かれた城砦で、そこに1千人余りの兵が守りを固め、麓にも9千人余が柵を連ねて配置されていた。このように連雲堡は難攻不落の構えであったが、突如として目の前に現れた唐軍にはさすがに虚を突かれた。高仙芝は間髪おかず、急流を押し渡って総攻撃を加える。 


唐軍は、吐蕃軍の応戦が遅れる間に城の足元に取り付いたが、それでも崖の上から石、丸太、弓矢を雨の様に浴びせられて、苦戦に陥った。ここで高仙芝は、配下の猛将、李嗣業に、「昼までに城を必ず落とせ」と厳命を下した。李嗣業は抜刀した歩兵隊を率い、自ら軍旗を掲げて崖をよじ登り始める。吐蕃軍の投げ落とす岩石や矢に当たって、兵士達は次々に滑落していった。それでも李嗣業は休まず力攻を続け、午前10時頃、ついに崖を上りきって城内に突入する。そして、白兵戦の末、吐蕃軍5千人余を斬殺し、1千人余を捕虜とし、残りは逃走した。大勝利であったが、唐軍の目標は小勃律国であって、連雲堡はその通過点に過ぎない。高仙芝は更に進軍を続けようとしたが、ここで監軍使の辺令誠は臆病風に吹かれて、同行を躊躇した。そこで高仙芝は、足弱の兵3千を割いて辺令誠と共に連雲堡の守りに就かせ、自身は奥地へと踏み込んでいった。 



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↑パミール高原(ウィキペディアより) 


唐軍は酸素が薄く、厳しい寒気が包み込むパミール高原を突っ切り、氷雪に覆われたダルコット峠(標高4575メートル)をも越えた。そこから険しい山路を20キロ下れば、小勃律国の主城、阿弩越城があった。だが、その断崖絶壁の道を前にして、兵士達に不安と不満の声が上がる。すでに遠征は数ヶ月に及び、しかも日夜、厳しい風雪に晒されている事から無理も無かった。そこで高仙芝は一計を案じ、自軍兵士20名を地元民に変装させ、密かに山を下らせた。翌日、阿弩越城からの使者に扮した兵士達は唐軍の下を訪れ、降伏したいと申し出た。これを受けて高仙芝は、「小勃律国は降伏した。城はもう我らのものだ」と全軍に告げた。兵士達は騙されたとも知らず、喜び勇んで高仙芝に付き従うのだった。 


唐軍が再び進撃を開始して3日後、今度は本物の阿弩越城からの使者が来て、高仙芝に降伏を申し出てきた。高仙芝はこれに乗じて精鋭騎兵1千を先行させて、阿弩越城を制圧した。唐軍は小勃律国の国王、大臣を捕虜とし、更に吐蕃に通じる橋も落として援軍の道を断ち切った。この小勃律国制圧の報を受けて、72もの周辺小国が唐への服属を表明する。高仙芝は過去、三度も失敗している困難な遠征を成し遂げ、唐の勢力範囲をタリム盆地より更に西へと押し広げる事に成功したのだった。20世紀初頭の著名な中央アジア探検家スヴェン・ヘディンは、高仙芝のパミール越えを、ハンニバルのアルプス越え(平均標高1700メートル)を凌ぐ壮挙であると賞賛している。 


しかし、高仙芝はこの勝利で、思い上がったようだ。本来ならばこの勝報は高仙芝の上司である、夫蒙霊詧を通じて行うべきだったのだが、自らの部下を直接、長安に送って奏上した。高仙芝の器量を認め、ここまで引き立てたのは夫蒙霊詧であったから、そうと知った彼は、「恩知らずめ!今度こんな無礼な振る舞いをすれば、首を刎ねてやるぞ」と激怒した。これにはさすがの高仙芝も、恐れ慄くしかなかった。だが、これを知った監軍使の辺令誠は、高仙芝を擁護する上奏文を送る。その結果、夫蒙霊詧は都に召還され、代わって高仙芝が安西節度使に任ぜられる事となった。そして、この度の遠征で数々の献策をしたであろう、封常清も判官(副節度使に次ぐ位)となった。封常清は軍律に厳しく、それでいて賞罰は公正であったため、高仙芝は遠征する度、安心して彼に留守を任せる事が出来た。 

三国志・魏の武官、文官達の所領

2010.12.02 - 三国志・中国史
中国の三国時代、功を挙げた人物は、主君より褒美として官位や所領を与えられて、報われていた。日本の戦国時代でも、功を挙げた人物には官位や所領を与えられて、報われている。日本での所領の呼称は石高と呼ばれ、土地の生産性で示されたが、三国時代の中国では戸数と呼ばれ、家の数で示されていた。


従って魏、呉、蜀では、配下の将領達に戸数を与えていたが、国家機能が完全ではなく、途中で滅亡してしまった呉と蜀の諸将達の戸数は、残念ながら分かっていない。しかしながら、三国の中で最も国家機能が充実していた魏では、諸将達の戸数がある程度、分かっている。それでは、魏の有名人物に限って、戸数を取り上げてみたい。


●夏侯惇(かこうとん) (?~220年)

曹操の親戚で、創業期から活躍した宿将である。曹操から最も厚い信頼を受けており、友人としての待遇を受けていた。軍事面だけでなく、統治面でも才を示した。(戸数2,500)


●夏侯淵(かこうえん) (?~219年)

夏侯惇とは従兄弟に当たり、急襲を得意とする猛将である。猪突猛進のきらいはあったが、曹操の信頼は篤く、各地で赫々たる武勲を挙げた。ただ、その活躍と比べると戸数は少なく、216年に(戸数800)となっている。


●曹仁(そうじん) (168~223年)

曹操の従弟で、知勇を兼ね揃えた曹一門きっての名将である。曹操から重要地の守備を託されたり、遠征軍の指揮官を任される事も度々であった。(戸数3,500)


●曹供(そうこう) (?~232年)

曹操の従弟で、その一命を救った事もある勇将である。220年(戸数2,100)。曹丕の時代には疎まれて戸数を削減されたが、232年、曹叡の時代に名誉を回復し(戸数1000)を与えられた。最終的には(戸数1,000?それとも3,100?)


●曹植(そうしょく) (192~232年)

曹操の子息で、その類まれな詩才を愛され、一時はその後継者と目された。しかし、兄、曹丕がその跡を継ぐと、疎まれて各地を転々とさせられると共に戸数も削減されていった。232年(戸数3,500)


●曹真(そうしん) (?~230年頃)

曹操の族子にあたる。三国志演義では無能な人物に描かれているが、実際には忠烈無比で有能な将軍だった。諸葛亮の北伐では、その意図を見抜いて的確な対処を取った。(戸数2,900)


●張遼(ちょうりょう) (169~222年)

魏の五名将の1人。人並みはずれた武勇に加え、冷静な知略も有している。合肥の戦いでは、8千の兵で10万の呉軍を破った。名将多い魏において、その筆頭的な存在にある。(戸数2,600)


●楽進(がくしん) (?~218年)

魏の五名将の1人。小柄ながら豪胆な武将だった。曹操に早くから従って呂布、袁紹、劉備、孫権など名立たる強豪相手に数々の軍功を挙げた。(戸数1,200)


●于禁(うきん) (?~221年)

魏の五名将の1人。192年に曹操に属して以来、30年近くに渡って軍歴を積み重ねた。規律を重んじ、数々の軍功を挙げた名将であったが、219年に関羽に敗れて降伏した事から、晩節を汚す結果となった。(戸数1,200)


●徐晃(じょこう) (?~227年)

魏の五名将の1人。冷静かつ慎重な武将であるが、ここぞと言う時には疾風の様な攻撃を見せた。慎み深い性格で、曹操もその将器を褒め称えた。(戸数3,100)


●張郃(ちょうこう) (?~231年)

魏の五名将の1人。その軍歴は後漢末の黄巾の乱から始まり、以来40年余、諸葛亮の北伐まで続く。その将器は、敵である蜀の劉備や諸葛亮も一目置くほどであった。(戸数4,300)


●荀彧(じゅんいく) (163~212年)

曹操に対し、数多くの有効な進言を行い、その覇業を知略の面から助けた。また、多数の有能な人材を推挙してもいる。曹操は我が張良であると評し、前漢の名軍師となぞらえて重用した。207年(戸数2,000)


●荀攸(じゅんゆう) (157~214年)

思慮深いが、剛腹な人物でもあった。袁紹と曹操の決戦、官渡の戦いでは、参謀として参加し、数々の有効な進言を打ち出して、曹操軍を勝利に導いた。207年(戸数700)


●郭嘉(かくか) (170~207年)

曹操の幕僚中では最も若かったが、将来を見通す洞察力は誰よりも勝っていた。曹操の真意を理解しており、その進言に誤りはなかった。死後に加増される。(戸数1,000)


●賈詡(かく) (?~223年頃)

かつては、敵として曹操を窮地に陥れた事もある知将である。曹操の配下となってからもその知略は冴え渡っていたが、処世術に長けた賈詡は控えめに身を処した。(戸数800)


●程昱(ていいく) (?~220年頃)

立派な風貌と、それに見合う豪胆さも兼ね備えていた。優れた洞察力を有する参謀であったが、指揮官としての才能もあった。呂布や袁紹との戦いでは、指揮官として城の守りに就いている。(戸数800)



●満寵(まんちょう) (?~242年)

192年より曹操に仕えて以来、曹丕、曹叡、曹芳の曹氏4代に渡って活躍した宿将である。地味ながら政治、軍事両面で活躍し、実績を積み上げていた。(戸数9,600)


●司馬懿(しばい) (179~251年)

非常に頭が切れる上に大局観もある人物だった。指揮官としても非常に優秀で、内に大いなる野心を秘めて、東西奔走の働きを見せる。241年、(戸数10,000)。249年、(戸数20,000)。251年(戸数50,000)


こうして見ると、長年に渡って活躍した人物ほど、戸数が多い事が分かる。また、政治、計略に才を発揮する文官よりも、戦場で功績を打ち立てる武官の方が評価が高い傾向にある。それと、曹氏の政権は、一族であっても過剰な戸数は与えず、外様でも有能な人物には同等の処遇を与えている事が分かる。そして、その中でも司馬懿の戸数の上昇振りは異常で、魏の実権を握っていく過程が戸数の面からも伺える。最後の5万戸ともなると、曹一族を始め、太刀打ち出来る者は存在しなかっただろう。



 

 

 

三国志 「淮南の三叛」 後

2010.03.20 - 三国志・中国史

諸葛誕は挙兵を決すると、直ちに諸将を招集した。そして、自ら陣頭指揮をとって揚州刺史、楽綝(がくちん)に襲い掛かって、血祭りに挙げる。続いて、淮南に駐屯していた10万余の官吏、兵士、及び揚州の新兵4万を支配下に収め、1年分の糧食を確保した上で寿春城に立て篭もった。諸葛誕は更に万全を期すべく、長史の呉綱を呉に派遣して、援軍を求めた。呉はこの求めに応じて、降将、文欽とその息子、文鴦、文虎、それに全懌(ぜんえき)全端(ぜんたん)唐咨(とうし)ら3万余の兵を送って、共に城を守らせた。これに対し、司馬昭は自ら26万余の兵を率いて討伐に向かった。



討伐軍は現地に到着すると、まず作戦会議を開いた。将軍達は即座に力攻めにしようと提案してきたが、司馬昭はこれを制し、「寿春城の守りは堅く、力攻めしても攻めあぐねるだろう。その間に呉が駆けつければ、挟撃を受けてしまう。ここは水も漏らさぬ陣を敷き、ゆっくりと敵の自滅を待つべきである」と述べ、長期包囲の作戦を取った。そして、司馬昭は寿春城を何重にも囲ませ、堀を巡らし、土塁を高く築いて鉄壁の包囲網を敷いた。その一方、州泰、石包らに命じて、精鋭を選抜した遊撃軍を編成させ、呉の更なる援軍に備えた。城内の文欽らは何度も打って出て、包囲網の突き崩しを図ったが、その度、手痛い反撃を受けて弾き返された。その頃、蜀の姜維もこの機に乗じて、魏への侵攻を図っていた。



呉は新たに援軍を派遣し、将軍、朱異率いる数万余が寿春城の救援に駆けつけた。だが、呉軍は、強力な魏の遊撃軍の攻撃を受けて、撃退されてしまう。朱異はその後も、幾度となく攻撃を加えたが、どうしてもぶ厚い包囲網を突破する事は出来なかった。呉の大将軍、孫綝(そんちん)はその結果に怒って、朱異を処刑した。こうして寿春城は、救援の望みを断たれてしまう。孤立無援の寿春城では、食料が欠乏し始め、将兵の結束も乱れ始める。諸葛誕の部将2人も見切りを付けて、司馬昭に投降してしまった。司馬昭はさらに切り崩しにかかり、間者を潜入させて、城内を疑心暗鬼の状態に陥れた。それによって呉の援将、全懌、全端ら数千人が城を出て降伏してしまい、この後も投降する者は絶えなかった。



258年正月、寿春城の包囲は、年を越えても続く。諸葛誕、文欽はこのままでは死を待つばかりと見て、総力を挙げて城から打って出る事を決した。そして、反乱軍は、城内で作った数台の攻撃車両を先頭に立てて、遮二無二に突撃する。しかし、高所に陣取った包囲軍も投石車を繰り出し、雨あられの様に投石と火矢を浴びせかける。車両は一台、また一台と破壊され、兵達も次々になぎ倒されていった。それでも反乱軍は攻撃を続行し、激闘は数日に渡って繰り広げられた。戦場にはおびただしいほどの戦死者が横たわり、寿春城の堀は戦死者の血で真っ赤に染まったと云う。多大な被害を受けた反乱軍は、むなしく城内に引き揚げる他なかった。城内の困窮はさらに進み、すでに投降者は数万人に達した。



文欽は、諸葛誕に「この際、食料を節約するためにも、北方の出身者を城から出して、信用できる者と呉の者だけで城を守ろう」と提案する。だが、諸葛誕はこの提案に耳を貸さなかった。そして、この一件を機に、2人の仲は険悪なものとなる。元々、この2人は嫌いあっていたのだが、司馬昭打倒という目的のため、否応無く協力していたに過ぎない。しかし、事態が深刻になるにつれ、亀裂も深まってきたのであった。そういったある日、文欽が作戦提案のため、諸葛誕の元へ赴いたところ、疑念に凝り固まっていた諸葛誕によって、その場で殺されてしまった。



この報を受け、文欽の子である、文鴦、文虎は城を脱出して司馬昭に投降する。司馬昭はこの2人を許し、魏の将軍に取り立てた。その上で、司馬昭はこの2人を寿春城に向けて、「我ら文欽の子でさえ、こうして許されたのだ。諸君らも安心して投降するが良い」と呼び掛けさせた。それを聞いた寿春城の将兵達は、安堵すると同時に戦意も失った。こうして諸葛誕は、益々追い詰められていった。司馬昭は頃合は良しと見て、城の四方から兵を進め始める。討伐軍は一斉に陣太鼓を打ち叩き、城壁を登っていった。しかし、城兵はすでに戦意喪失しており、あえて抵抗しようとする者はほとんどいなかった。



諸葛誕に従うのは、いまや僅かな私兵のみ、寿春城が討伐軍によって飲み込まれてゆく中、万に一つの可能性に賭けて敵陣突破を図った。だが、分厚い包囲陣を突破する事は適わず、殺到する敵兵によって諸葛誕は斬り倒され、あえなく戦場の露と消えた。主将の死を受けて生き残った将兵達も次々に投降し、呉将、唐咨と呉兵1万余も降伏した。その一方、諸葛誕に忠誠を誓っていた将兵数百人余は降伏を拒否し、「諸葛公のために死すならば、本望である!」と叫んで刑死していった。討伐軍の将達は、「淮南では幾度も反乱が企てられており、この際、全ての捕虜を生き埋めにしましょう」と提案した。これに対し、司馬昭は、「元凶さえ滅ぼせば、それで良いのだ」と言って、全員の命を保障した上、周辺地域に居住させた。



 司馬昭はその度量を示した一方、諸葛誕の一族は皆殺しとして禍根を断った。その頃、反乱に乗じて攻め込んできた蜀の姜維は、利あらずとして撤退していった。呉や蜀をも巻き込み、1年余に及んだ大反乱はここに終結した。王稜、毌丘倹、諸葛誕らによる一連の蜂起は、淮南の三叛と呼ばれた。いずれも、司馬一族の専横に対する反抗であったが、皮肉にも、これらの反対勢力が一掃された結果、司馬一族の権力は揺るぎないものとなった。諸葛誕の乱から7年後、265年、司馬昭は皇帝の一歩手前、晋王の位にまで上り詰める。だが、司馬昭は、帝位を目前にして急死した。司馬昭54歳。その跡を継いだ司馬炎は直ちに晋王の位を引き継ぐと、魏帝曹奐に迫って禅譲させ、皇帝の位へと上った。これで曹操が築き上げた魏は滅び、新たに司馬一族の王朝、晋が誕生する。



諸葛誕は、蜀に仕えた諸葛亮、呉に仕えた諸葛謹と比べられて、こう言われた。「呉は其の虎を得、蜀は其の龍を得、魏は其の狗(いぬ)を得た」と。天下を取った司馬一族の国家、晋から見れば、諸葛誕は反逆者に過ぎず、不当に評価が陥れられた可能性がある。確かに、諸葛亮や諸葛謹と比べると、諸葛誕の度量は狭く、猜疑心の深さゆえに身を滅ぼしたと言えよう。しかし、諸葛誕は人材豊富な魏にあって、要職を歴任したのみならず、最重要地の総司令官にまで上り詰めた人物であるから、決して無能な人物ではない。数百人余の兵が諸葛誕を慕って、共に最後を迎えている事からも、人望厚い人物であった事が窺える。享年は不明であるが、50代半ばには達していたと思われる



三国志 「淮南の三叛」 前

2010.03.20 - 三国志・中国史

三国時代後半、240年代、魏王朝では、稀代の策士、司馬懿が皇族である曹一族に代わって、国家の実権を握りつつあった。司馬懿は東西奔走して蜀や呉の北伐を防いできた、魏の大功臣である。しかし、司馬懿は忠臣を装いながらも、内心には大いなる野心を秘めていた。司馬懿は功績を打ち立てる度に昇進を重ね、ついには曹一族と並び立つ位置にまで立った。249年、司馬懿は、最大の政敵であった曹爽を葬り去って、魏の軍権と政権の二つを握った。これによって、魏王朝内で司馬懿に対抗できる者は存在しなくなり、魏の群臣は皆、司馬一族の権勢に慄き、跪(ひざまず)いた。だが、司馬一族の専横を快く思わない気骨ある人物も、幾人かいた。都督揚州諸軍事(呉との最前線、淮南の司令官)であった王凌(おうりょう)もその一人で、司馬一族を取り除く決意を固める。



251年、王凌は、若年の魏帝、曹芳に代わって、年長の曹彪(そうひょう)を立てて司馬懿を討とうと考えた。しかし、同士を募っている過程で、計画は司馬懿に漏れ伝わってしまう。これに対する司馬懿の対処は素早く、王凌に手紙を送って罪を許すと油断させておいてから、自ら討伐軍を率いて、電光石火の速さで淮南に向かった。王凌は突如として現れた司馬懿の大軍に驚愕し、敗北を悟った。王凌は降伏し、司馬懿の陣を訪れたが、自らを助ける気がないと知ると、毒を煽って自害した。王凌の一族は皆殺しとなり、計画に加わった曹彪も自害を強要された。同251年、司馬懿は70代の老齢とは思えぬ頭の冴えと、迅速な行動力をもって王凌を滅ぼしたが、さすがに無理が祟ったのか、その年の内に病没してしまう。司馬懿仲達、73歳。



司馬懿が死去しても、司馬一族の権勢は衰えを知らず、その跡を継いだ司馬師の代になると、その基盤は益々、強固なものとなっていった。254年、魏王朝内で名声を博していた、夏候玄(曹操と共にその覇業を支えてきた、夏候惇、夏候淵ら夏候一族の一人)は現状を憂いていた。この夏候玄を高く買っていた魏の官吏、李豊は、彼を大将軍に任じて司馬師を取り除こうと考えた。この計画には魏帝、曹芳も賛同して、同士が募られた。しかし、この企てもほどなくして司馬師の耳に入り、夏候玄、李豊ら一味の者は皆殺しとなった。同年、司馬師は、計画に加わっていた曹芳を廃し、代わって曹髦(そうぼう)を擁立する。司馬一族にとって、皇族である曹一族など最早、飾り物の人形に過ぎず、首のすげ替えも意のままであった。



255年、この皇帝廃立に憤慨した、鎮東将軍、都督揚州諸軍事(呉との最前線、淮南の司令官)毌丘倹(かんきゅうけん)と揚州刺史、文欽(ぶんきん)は淮南で共に兵を挙げた。この時、毌丘倹、文欽らは、隣接する都督豫州諸軍事の諸葛誕にも誘いをかけたが、諸葛誕は文欽を嫌っていたので、この申し出を峻拒した。反乱の報を受け、司馬師は自ら討伐に向かう事を決意する。この時、司馬師は目に出来た悪性の腫瘍を取り除いたばかりであったが、それを押しての出兵であった。司馬師は10数万の兵を率いて淮南に向かい、それに対して毌丘倹らは寿春城を拠点とし、5、6万余の兵力で立ち向かった。毌丘倹は出城に篭り、文欽は遊軍となって城外に出た。 楽嘉(らくか)の地で、司馬師率いる討伐軍と、文欽率いる遊撃軍は激突した。文欽の子、文鴦(ぶんおう)は18歳の若者ながら、その武勇は全軍一であり、突撃して司馬師の本営にまで迫った。司馬師はこれに驚き、切開した傷跡から片目が飛び出してしまったと云う。司馬師は激痛に耐えながらも指揮を執り、何とか文欽を撃ち破る。



この敗報を受け、毌丘倹は逃れようとしたが途中で討ち取られ、その一族も皆殺しとなった。文欽の方は追っ手を振り切り、息子2人と共に呉へと逃れた。こうして淮南の役は司馬師の勝利に終わり、司馬一族の基盤は一段と強化された。ほどなく、司馬師は49歳で病没してしまうが、その絶大な権勢は、そのまま弟の司馬昭へと引き継がれた。尚、 今回の戦いで大きな役割を果たしたのが、諸葛誕であった。彼は、諸葛亮孔明の族弟にあたり、若い頃は魏帝、曹叡に疎まれて不遇であったが、曹叡死後は、友人である夏候玄によって引き立てられ、要職を歴任していた。毌丘倹、文欽らが挙兵した際には、加担を要請されるも、これをきっぱりと断っている。そして、反乱軍が敗走するや、司馬師の命を受けて直ちに寿春城を制圧した。



その直後、呉はこの機に乗じて寿春城を制圧せんと、孫峻、留賛らを派遣したが、既に寿春城は諸葛誕によって固く守られていた。呉軍は、利なしと見て撤退に取り掛かったところ、諸葛誕はこれを追撃して打ち破り、敵将、留賛の首を取った。これらの功績により、諸葛誕は征東大将軍を拝命し、都督揚州諸軍事となって、この方面の総司令官となった。 諸葛誕は反乱軍鎮定に功を挙げ、新しい実力者、司馬昭の信頼を勝ち取ったかに見えた。しかしながら、諸葛誕は司馬一族に対する、不安や不信を拭い去る事が出来ず、内心は揺れ動いていた。親しい間柄であった夏候玄は司馬師によって殺されており、同じく都督揚州諸軍事となっていた王凌、毌丘倹らも司馬一族によって皆殺しとなっている。次は自分ではないか、そう思い定めた諸葛誕は、自らの基盤を固めるべく動き始める。



諸葛誕は私財を傾けて人心の把握に努め、近親者や揚州の侠客数千人を手厚くもてなして、命知らずの部下とした。256年冬、呉が寿春城に対する攻撃の動きを見せると、諸葛誕は上奏して10万人の増援と、淮水を望む地に築城する許可を求めた。だが、司馬昭はこの上奏を退ける。司馬昭は、諸葛誕の軍だけで呉軍に十分、対処可能であると見ていたし、諸葛誕が反心を抱き、淮南の地を固めるために上奏文を送ってきた事も見抜いていた。257年春、司馬昭は諸葛誕を司空(三公と呼ばれる高位)に任命し、朝廷への召還を命じる。諸葛誕はこの措置を、自分から兵権を取り上げた上で謀殺するものと察した。恐怖に駆られた諸葛誕は、ついに兵を挙げる事を決する。

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重家 
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