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高仙芝、パミールを越えた勇将 2

2011.07.17 - 三国志・中国史
天宝9載(750年)2月、高仙芝は吐蕃の属国、朅師(けっし)を討ち、その王を捕らえた。更に同年12月、属国の礼を取らなかったとの名目で、石国(タシュケント)へ遠征する。この遠征は、高仙芝が更なる功名を立てんとして、自ら申し出たものであった。この時、高仙芝は一旦、石国と和議を結んでおきながら、不意討ちをかけて老若男女を皆殺しとし、財宝、良馬を全て我が物とした。そして、先に捕らえていた朅師王や、石国王を長安に連行して、大いに面目を施したのだった。だが、この不義の行為は、高仙芝に災いを呼び込む。石国の王子が、西方のイスラム大国アッバースに逃げ込んで、高仙芝の横暴を訴えて、軍事援助を求めたのである。アッバースはそれに応えて、ズイヤード・イブン・サーリフ将軍を長として、諸国の軍を加えた数万の大軍を送り込まんとした。
 


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↑8世紀のアジアの勢力図(ウィキペディアより)


アッバース軍動くと知った高仙芝は、逆に機先を制して攻撃せんとした。そして、漢族、異民族を合わせた3万人余の軍勢を率いて亀茲から北進すると、天山山脈を越え、アッバース領内に350キロも侵入する。唐軍は、タラス河(カザフスタンとキルギスに跨る河)の畔にあるタラス城に入った。天宝10載(751年)、唐軍とアッバース軍は、タラス河畔にて激突する。5日間に渡って互角の戦いが続けられたが、唐軍の背後で突如、異変が起こった。味方であった葛邏禄(かつらろく)族がアッバース側に寝返って、襲い掛かって来たのである。アッバース軍もこれに合わせて総攻撃を加えてきた為、さしもの高仙芝も成す術無く、大敗を喫した。これが世に云う、「タラス河畔の戦い」である。そして、この時に中国の紙漉き工が捕まって、西方に製紙技術が伝わったとされている。唐軍は数千人にまで討ち減らされ、さらに退路をフェルガーナ軍(ウズベキスタン)が遮った。唐軍は全滅の危機に陥ったが、李嗣業が先頭に立ってこれを斬り抜け、高仙芝らはなんとか危地を脱した。


この敗戦によって、唐の西域支配はタリム盆地にまで後退したが、高仙芝がその責を問われた形跡はなく、昇進して中央に召された。そして、高仙芝の片腕であった、封常清が安西節度使となった。天宝12載(753年)封常清は、吐蕃の属国、大勃律国に攻め入り、これを降伏せしめる功を挙げる。この頃、唐の朝廷では、不穏な空気が漂っていた。玄宗は楊貴妃の魅力に溺れて政治を省みる事はなく、宮中では、楊貴妃の従兄弟と言うだけで成り上がってきた楊国忠と、地方の大権力者、安禄山とが権力を競っていた。天宝14載(755年)11月、中央での権力争いに敗れた安禄山は、ついに実力行使に及んだ。


節度使は強力な軍事力を帯びる事から、1人1職とされていたが、安禄山は玄宗の寵愛を糧に河東・范陽・平盧の3つの節度使の職を兼ねていたから、その軍事力は唐軍随一であった。そして、荒ぶる15万人余の兵を率いて、怒涛の進撃を開始した。唐王朝に激震が走り、折から入朝していた封常清は、玄宗から方策を尋ねられる。すると封常清は、「私が洛陽に赴いて官戸を開き、義勇軍を募集します。その軍で逆賊を討ち取ってご覧にいれます」と大言壮語した。この勇壮な奏上に玄宗は喜び、安禄山から范陽・平盧の節度使の職を取り上げた上で、これを封常清に与えて、洛陽へと送り出した。


封常清は洛陽に着くと、高札を立てて勇壮の者を広く召募した。10日余りで6万人余が集まったが、金目当ての無頼漢が多く、それに訓練を施す時間も無かった。そこへ安禄山軍が精強無比であるとの報告が入ると、封常清は自らの大言壮語を悔いたが、それでも責任を全うすべく、洛陽前面の守りを固めた。その頃、朝廷もようやく事態の深刻さを実感し、一大征討軍を編成する事とした。玄宗の第6子、李琬(りえん)を元帥に、その補佐役として、右金吾(ゆうきんご)大将軍に昇進していた高仙芝が付き、監軍使として辺令誠も付いた。実質的な総指揮官である高仙芝は、官庫を開いて11万人余を集めると天武軍と命名し、安禄山迎撃に向かった。


その頃、封常清率いる6万人余と、安禄山の先鋒は武牢にて激突した。安禄山軍は北方騎馬民族と死闘を繰り広げてきた歴戦の軍であって、その精鋭騎兵1万人余が突進してくると、市井の烏合の衆である封常清の軍は散々に蹂躙され、大敗を喫した。それでも封常清は諦めず、残兵を掻き集めて防戦を試みたが、再び大破され、唐の副都である洛陽は安録山の手に落ちた。封常清は街道の樹木を切り倒して、安禄山軍の進撃を遅滞させつつ、西方の陝郡(せんぐん)まで退いた。その地で、高仙芝と出会った封常清は、「賊軍の勢いは凄まじく、当たる術がありません。次に潼関(どうかん)を破られたら、長安が危機に瀕します。至急、潼関の守りを固めましょう」と訴えた。高仙芝はこの意見に同意し、官庫を開いて食料を兵士に分配し、残ったものは焼き払うと、撤退に入った。


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↑安史の乱系図(ウィキペディアより)


撤退の最中、安禄山軍に追いつかれ、多くの兵士が死んだが、高仙芝と封常清は何とか先んじて潼関に入り、急いで守りを固めた。そこへ安禄山軍が猛攻を加えてきたが、高仙芝と封常清は協力し合って激戦の後、これを撃退する。だが、一息付いたところで、監軍使の辺令誠は、高仙芝と封常清を陥れる密書を朝廷に送った。辺令誠は一度、高仙芝に助け舟を渡した事があるので、度々、高仙芝や封常清にも賄賂を求めていた。しかし、相手にされず、これを恨みに思っていた辺令誠は、「高仙芝と封常清は賊を恐れて、戦わずして陝郡を放棄し、しかも軍需物資を横領した」と誣告(ぶこく)したのである。これを聞いた玄宗は激怒して、「両者を斬れ!」と厳命を下した。玄宗は若かりし頃は臣下の意見を聞き分け、賢明な統治をしていたが、老いては正常な判断力を失い、佞臣の思うがままであった。


辺令誠はまず封常清を捕らえると、皇帝からの詔書を突きつけた。これを受けて封常清は、「敗軍の将は、ついには死罪は免れないものです。しかし、安禄山を軽視してはなりません。臣の死後、是非良将を派遣して討伐の指揮を委ねられますように」と最後の上奏文を認めると、従容と刑を受けいれた。その死体は罪人として、道端に晒された。そこへ、外へ出ていた高仙芝が戻って来ると、盟友とも言える封常清の死体が横たわっており、愕然となった。そして、高仙芝も捕われの身となり、辺令誠が詔書を突きつけて死罪を告げた。


高仙芝は、「私は陛下の許可を得ずに潼関に撤退したので、死罪は覚悟の上である。しかし、軍需物資を横領したというのは冤罪だ」と述べた。そして、兵士達に向かって、「私は長安を守るために潼関に退いた。それを罪だと思うのなら、諸君、私が悪いと言ってくれ。しかし、罪が無いと思うなら冤罪だと言ってくれ」と訴えた。兵士達は一斉に、「冤罪だ!」と叫ぶ。それでも刑は断行される事となり、覚悟を決めた高仙芝は道端に横たわる封常清の死体を見やり、「貴公は私が抜擢した人だ。また、貴公は私の後任を引き受けてくれた。その貴公と共に死ぬのも運命だろうか」と言った。そして、兵士達の大地を揺るがすほどの叫びの中、パミール越えの勇将の命は断たれた。


高仙芝と封常清の生年は不明であるが、享年は50歳前後であろう。 この後、唐軍は安禄山軍に一戦を挑んで大敗し、潼関は打ち破られ、長安も陥落する。この時、辺令誠は安禄山に降伏し、後に唐に帰参したものの、許されずに斬られた。かつての高仙芝の部将、李嗣業はこの後も唐軍の先頭に立って奮戦するが、鄴(ぎょう)を巡る戦いで戦死する。唐は自力で解決する力を無くし、ウイグル国の援助を請うて、ようやく乱を平定するのだった。しかし、この安史の乱で唐の屋台骨は揺らぎ、かつての勢威を取り戻す事は二度と無かった。多大な努力を費やしてきた西域からも撤退し、唐は衰亡の一途を辿る事になる。


高仙芝は優れた武勇を誇り、軍略にも長けていたが、功名にはやって弱国を蹂躙し、私財を溜め込むなど貪欲な一面もあった。その挙句、他民族の反感を食らって一敗地にまみれるなど、政略面においては思慮を欠いていた。だが、衆を引き連れての遠路遥々の行軍、それに加えての困難なパミール越えは、並の指揮官に出来る事では無い。これには士卒の心を確実に掴み、強固な意志で引っ張っていく人物でなければならない。高仙芝が、偉大な統率力の持ち主であった事は、間違いないところである。



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