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三国志の人口と兵力

2009.05.21 - 三国志・中国史

(153年)、後漢末期、中国の総人口は約4900万人であった。それが、黄巾の乱に始まる戦乱の時代を迎えると、人口は激減する。


●蜀の滅亡時(263年統計)の記録によると、戸数28万戸、人口94万人、将兵10万2千人、官吏4万人。


●呉の滅亡時(280年統計)の記録によると、戸数52万3千戸、人口230万人、将兵23万人、官吏3万2千人。


(263年統計)、魏は、戸数64万戸、人口443万人、兵力の記録は残っておらず、これは推定40万人と見る。



三国の総戸数は144万3千戸で、総人口は767万人となる。しかし、(280年)に三国を統一した晋の統計によると、中国全体の戸数は246万戸となり、総人口も、1616万人となっている。僅かな期間で、戸数は100万戸の増加、人口も849万人増加し、何とも不自然である。実は、三国の総人口767万人という数字は、戸籍に登録されていた人々で、実際には戸籍に登録されていない人々が多数、存在していた。



(196年)、曹操は、兵糧を確保する目的で屯田制を実施する。この屯田民は一般群県民とは異なり、戸籍には載らなかった。ところが、(265年)魏から晋に王朝が代わると、翌266年に屯田制は廃止され、屯田民も新しく戸籍に載るようになった。この屯田民は、一般群県民と同じぐらいの人口がいた。そのために、280年の晋の統計で、一気に二倍の人口となったのだ。 この屯田制は魏だけでなく、呉や蜀も行っていたものと思われる。



尚、晋の戸数、246万戸を、旧三国の領域に当てはめると、魏144万5千戸、呉73万戸、蜀31万8千戸となる。ただし、晋19州を、漢13州に当てはめて統計した結果、多少、数字の重なりが生じている。そして、晋統計(280年)の中国の総人口1616万から戸数246万を割ると、1戸当たりの家族数は約6・5人となる。そして、魏の戸数144万5千戸に6・5をかけると、約939万人となり、呉の戸数73万戸に6・5をかけると、474・5万人、蜀の戸数31万8千戸に6・5をかけると、206・7万人となる。これらを足すと、1620万2千人となった。厳密さには欠けるが、三国志の魏は人口939万人、呉は474万人、蜀は206万人であったのではないか。 



(補足)、三国時代から晋にかけての時代は混乱の時代で、王朝の支配力が弱く、全ての人民を把握していたとは言い難い。王朝が弱体化すると、遊戸と呼ばれる、戸籍に載らない民衆が増えるからだ。晋の総人口、約1616万人は王朝が把握している人民だけで、実際には更に多くの人口が存在していた可能性もある。



上記に三国の兵力は、魏40万(推定)・呉23万・蜀10万であると書いたが、これは防衛の兵力も含めた数で、実際に侵攻に使える兵力は、この半分程度だと思われる。全てを動員すれば、それだけで国力を大きく消耗するし、守備も疎かになってしまうからだ。それと、兵糧輸送にも大量の人員を必要とする。魏は40万の兵力の内、5万は対蜀防衛に、10万は対呉防衛に、5万は三国の係争地である荊州に、10万は北方の長大な国境沿いに、残る10万は中央に留め、状況に応じてこれを派遣したのではないかと推測する。蜀や呉に攻めかかる際には、中央軍と現地防衛軍とが合同で行ったのだろう。魏は強大な国力と兵力を誇るが、呉や蜀に加えて、北方の異民族、鮮卑(せんぴ)や、遼東の公孫氏にも備えておかねばならず、兵力の分散を強いられていた。それに魏は、地形によって兵力の節減が出来る地域が少なかった。



それに対して呉は、前面は長江を天然の堀とし、背後は海によって守られ、側面には同盟国の蜀があったので、兵力の大部分を魏に振り向ける事が出来た。ただ、呉は内部に、山越や蛮といった強力な異民族を抱えていたので、この対策にある程度の兵力は割かねばならなかった。蜀は、ほぼ国全体が山脈によって守られており、側面には同盟国、呉があったので、これまた兵力の大部分を魏に振り向ける事が出来た。しかし、蜀も、西方の羌族や益州南部の異民族対策にある程度は備えなければならなかったし、山脈から打って出れば必ずと言って良い程、兵糧不足に陥った。 魏が強大な国力を誇りながらも、蜀や呉をなかなか滅ぼせなかったのは、相手が天険の要害によって守られていたのもあるが、ほぼ全方位に脅威を抱えて戦力の集中が出来なかった事も大きい。



対して、国力に劣る呉や蜀が攻勢に出る事が出来たのは、地の利と外交の安定から来る、兵力集中によるものだろう。蜀は、10万の総兵力の内、外征に使えるのは5万人といったところだろうが、無理を押せば、6~7万は動員出来たかもしれない。呉は、総兵力23万の内、外征に使えるのは11、2万といったところだろうが、無理を押せば、15~6万は動員出来たかもしれない。これがもし、魏、呉、蜀がそれぞれ争うような事態となれば、呉や蜀は防衛で手一杯となって、遠征どころでは無かったろう。魏が存在する限り、呉と蜀の同盟は必須であった。魏にとっての悪夢は、こうした呉と蜀の兵力集中による連携攻撃に加えて、北方の異民族が敵対する事態であったろう。意外と、魏も苦しかったではないか。だから、魏及び晋は、呉や蜀が十分に弱るまで引導を渡せなかったのだろう。



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赤壁の戦い

2009.01.04 - 三国志・中国史

赤壁の戦いは、三国志のみならず、中国史上でも、最も有名な戦いではないでしょうか。「レッドクリフ」として、映画化もされていますね。さも劇的な戦いが行われたかのようですが、実際にはよく分っていない戦いであります。 この戦いは、曹操軍80万、対、孫権・劉備連合軍5万の激突であると云われていますが、実際には曹操軍15~20万(華北の兵10万・荊州の兵5~10万)ほどで、連合軍は周瑜率いる孫権軍3万と劉備軍1~2万であったらしいです。


なおこの戦いに於いて諸葛亮は祈祷して風を呼んだ・孔明は矢集めをした・敗走した曹操を関羽がわざと見逃した・龐統が曹操軍に連環の計を仕掛けた・などと云われていますがそんな史実はありません。 赤壁の戦いの実情はどうだったのでしょう? 呉の正史「周瑜伝」では、呉の部将、黄蓋が、「今、敵は多勢、味方は無勢で、持ちこたえるのは難しい。けれども、曹操の軍船を観ると舳先を連ねている。火攻めをかければ追い払えよう」と進言したのを周瑜が取り上げ、そして、黄蓋自ら、投降すると偽って火攻めをかけ、曹操軍を敗走せしめたとあり、蜀の正史、「先主伝」では孫権・劉備連合軍は曹操と赤壁で戦い、大いにこれを破り、その船を焼いたとあります。


これに対して、魏の正史「魏書武帝紀」には曹操は連合軍と赤壁で戦ったが、苦戦を強いられ、ここに疫病が流行し、病死する将兵が続出したため、撤退したとあり、その後、曹操が孫権に宛てた手紙にも、「赤壁の戦いは、たまたま疫病が流行り、私は船を焼いて撤退したため、みすみす周瑜に虚名を得させてしまった」と述べています。また、孫権自身も、「曹操が残りの船を自ら焼いて撤退した」と述べているそうです。 諸説あって分りにくいのですが、自分なりにまとめてみれば、曹操軍は連合軍に激しい抵抗や、火攻めに遭うなどして攻めるに攻められなくなった。そして、対峙中に疫病が流行ったため、曹操は理あらずとして残りの船を自ら焼いて、引き揚げていったのでは?と推測します。


レッドクリフは映画なので、曹操軍がただ疫病で撤退したという地味な正史のエピソードは採用出来ず、演義の劇的なエピソードを採用するのはまあ、仕方ない事でしょう。ついでに、222年に行われた蜀の劉備と呉の陸遜との決戦、夷陵の戦いの兵力について述べると、演義では蜀軍75万人とありますが、実際には4万人ほどで、これに味方した異民族を加えると5万人余で、これを迎え撃った呉軍の方は5万人であったそうです。


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