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赤壁の戦い

2009.01.04 - 三国志・中国史

赤壁の戦いは、三国志のみならず、中国史上でも、最も有名な戦いではないでしょうか。「レッドクリフ」として、映画化もされていますね。さも劇的な戦いが行われたかのようですが、実際にはよく分っていない戦いであります。 この戦いは、曹操軍80万、対、孫権・劉備連合軍5万の激突であると云われていますが、実際には曹操軍15~20万(華北の兵10万・荊州の兵5~10万)ほどで、連合軍は周瑜率いる孫権軍3万と劉備軍1~2万であったらしいです。


なおこの戦いに於いて諸葛亮は祈祷して風を呼んだ・孔明は矢集めをした・敗走した曹操を関羽がわざと見逃した・龐統が曹操軍に連環の計を仕掛けた・などと云われていますがそんな史実はありません。 赤壁の戦いの実情はどうだったのでしょう? 呉の正史「周瑜伝」では、呉の部将、黄蓋が、「今、敵は多勢、味方は無勢で、持ちこたえるのは難しい。けれども、曹操の軍船を観ると舳先を連ねている。火攻めをかければ追い払えよう」と進言したのを周瑜が取り上げ、そして、黄蓋自ら、投降すると偽って火攻めをかけ、曹操軍を敗走せしめたとあり、蜀の正史、「先主伝」では孫権・劉備連合軍は曹操と赤壁で戦い、大いにこれを破り、その船を焼いたとあります。


これに対して、魏の正史「魏書武帝紀」には曹操は連合軍と赤壁で戦ったが、苦戦を強いられ、ここに疫病が流行し、病死する将兵が続出したため、撤退したとあり、その後、曹操が孫権に宛てた手紙にも、「赤壁の戦いは、たまたま疫病が流行り、私は船を焼いて撤退したため、みすみす周瑜に虚名を得させてしまった」と述べています。また、孫権自身も、「曹操が残りの船を自ら焼いて撤退した」と述べているそうです。 諸説あって分りにくいのですが、自分なりにまとめてみれば、曹操軍は連合軍に激しい抵抗や、火攻めに遭うなどして攻めるに攻められなくなった。そして、対峙中に疫病が流行ったため、曹操は理あらずとして残りの船を自ら焼いて、引き揚げていったのでは?と推測します。


レッドクリフは映画なので、曹操軍がただ疫病で撤退したという地味な正史のエピソードは採用出来ず、演義の劇的なエピソードを採用するのはまあ、仕方ない事でしょう。ついでに、222年に行われた蜀の劉備と呉の陸遜との決戦、夷陵の戦いの兵力について述べると、演義では蜀軍75万人とありますが、実際には4万人ほどで、これに味方した異民族を加えると5万人余で、これを迎え撃った呉軍の方は5万人であったそうです。


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