1590年から1599年までの10年間に豊臣政権は、政権を支え得る人材を多数、失っている。 その彼らが、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いまで生きていたらと仮定してみた。
この10年の間で、私が知っている限りの主な人物を挙げてみると。
●堀 秀政(1553年~1590年)
美濃郡茜部の小豪族の家柄に生まれたが、能力重視の織田信長によって取り立てられ、やがて、菅谷長頼と並んで、信長の側近筆頭の位置にまで立つ。秀政は政務だけでなく、戦場でもその力を如何なく発揮し、名人久太郎と称された。秀吉にもその才を愛され、天正10年(1582年)の段階で羽柴性を賜っている。
以後、秀吉の最有力部将として、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、九州攻め、小田原攻め、等に参陣し、それぞれで重要な働きを示している。このように秀政は秀吉の天下取りに大いに貢献して、一門格の待遇を受けていた。小田原参陣中に38歳の若さで惜しくも病没するが、長生きしていれば100万石級の大大名になっていた可能性が高い。関ヶ原まで存命だったなら、西軍の総大将となっていたかもしれない。
●豊臣 秀長(1540年~1591年)
秀長は政務、軍務ともに優れているだけでなく、人望厚い人格者でもあった。常に兄、秀吉を立てて、その天下統一事業を影から支えた。秀吉の代理として政務や交渉を司ったり、軍を率いて遠征に赴く事も度々で、特に四国攻めでは病気で動けない秀吉に代わって、総指揮官として活躍している。豊臣政権の大黒柱的な存在であったが、天正19年(1591年)1月22日、多くの人々に惜しまれながら、52歳で病没した。そして、翌文禄元年(1592年)、豊臣政権に深刻な打撃を与える事になる、朝鮮出兵が行われる事になる。秀長が長生きしていたとしても朝鮮出兵は実施されただろうが、その結果、生じるであろう政権内の対立は、彼が存命だったなら抑えられていただろう。慶長5年(1600年)以降も存命だったなら、政権分裂は起こらず、豊臣家が今後も日本を主導していったであろう。豊臣政権にとって、彼の死は最も大きな痛手であった。
●加藤 光泰(1537年~1593年)
一般的には知名度は低いが、秀吉からは、関東の徳川家に隣接する重要な国、甲斐一国を任されるほどの信頼を受けていた。秀吉の数少ない譜代家臣の1人で、職務に忠実かつ、一徹な性格の持ち主であった。 ここに挙げている人物の中で加藤光泰は最も地味な存在だが、一浪人から国持ち大名にまで上り詰めた器量人である。文禄2年(1592年)、朝鮮出兵中に光泰は重病に罹り、秀吉に一通の遺言状を残して57歳で病没した。その遺言には、息子はまだ年少であり、甲斐の国を任せるには心許ないため、その領地は召し上げて秀吉の近習として使ってもらいたいとあり、それは実行されている。
大半の大名は、手に入れた領土と財産をそのまま可愛い息子に残そうとしていたが、光泰は公を重んじて、領土の返還を申し出たのだった。私利私欲無く、秀吉への忠義を貫き通した生涯だった。関ヶ原の戦いまで存命で甲斐の国を任されていたならば、西軍側に立って、東軍の足止めをしていただろう。そうなれば、家康の西上は困難に見舞われ、その間に西軍は足場を固めることが出来ていたかもしれない。
●豊臣 秀次(1568年~1595年)
秀次は、秀吉の姉、智子の子である。秀吉がなかなか実子に恵まれなかった事もあって、後継候補として引き立てられた。その後は、数々の重要な戦役に参戦して、それなりの戦果を上げている。天正19年(1591年)11月に正式に秀吉の養子となり、同年12月には24歳にして関白となった。若くしてこれほどの地位に就けたのは勿論、秀吉の親族であったからだが、そこそこの能力は持っていたと思われる。しかし、秀吉に実子である秀頼が誕生すると、精神的に不安定となり、問題行動を起こしたとある。そして、文禄4年(1595年)、謀反の嫌疑をかけられて、28歳で切腹となった。殺生関白と罵しられるほどの悪行を本当にしていたかどうかは疑問であり、これは秀次粛清を正当化するための後付けであろう。秀頼が成人するまで、秀次が後見役として収まる事が出来ていれば、豊臣政権は長続きしたかもしれない。しかし、政権が秀頼派と秀次派に分かれ、秀吉死後に内紛が起こる可能性も否定できない。
●蒲生 氏郷(1556年~1595年)
織田信長に近習として仕えていた頃、早くもその器量の片鱗を見せ、信長は娘の冬姫を宛てがって、一門に迎え入れている。その期待に応えて、氏郷は信長の主要な戦いのほとんどに参戦して、武功を上げた。その次の天下人、秀吉にも秀吉にも重く用いられて、ついには会津92万石の大大名にまでなった。秀吉は氏郷に、東北の驍勇、伊達政宗と関東の大実力者、徳川家康を押さえ込む役割を期待していた。しかし、逆に言えば、会津は一癖も二癖もある両実力者に挟まれる形ともなる。
このような難しい地勢の会津を任された事こそ、氏郷が政戦両略に優れていた何よりの証である。また、氏郷は茶の湯にも深い造詣があって、千利休の七哲(高弟)の筆頭でもあった。この氏郷が関ヶ原まで存命だったなら、豊臣政権の大老に名を連ねていただろう。そして、越後の上杉景勝や常陸の佐竹義宣と協力して、徳川家康、伊達政宗を牽制していたのではないか。この3人が組めば家康、政宗は動こうにも動けなかっただろう。
●小早川 隆景(1533年~1597年)
小早川隆景は毛利元就の三男であり、政戦両略で才能を発揮して、毛利家の発展に尽力した名将である。元就死後には、家中の指導者的存在となるが、豊臣秀吉にもその才を愛され、政権中枢に迎え入れられて、五大老の1人となっている。1595年には養子、小早川秀秋に家督を譲って三原に隠遁するが、関ヶ原まで存命だったなら、毛利家を影から指導し、小早川秀秋もその意向に従って動いたかもしれない。
毛利一門を合わせると、毛利輝元120万石・吉川広家14万石・小早川秀秋34万石・小早川秀包13万石・安国寺恵瓊6万石の合計187万石という戦力となる。この戦力が隆景の指導の下、結集して睨みをきかせれば、家康もおいそれとは動けない。もっとも、隆景は老年であり、隠退の身でもあったので関ヶ原まで存命であったとしても、どれだけの指導力を発揮できたかは分からない。
●前田 利家(1538年~1599年)
信長の一部将から始まって武功を重ね、能登国の大名となった。若かりし頃は血気盛んで、己の槍1本で成り上がって来たが、老成すると学問を習得し、茶の湯や能にも通じた、正に文武両道の武将となった。信長死後は柴田勝家に組したが、賤ヶ岳の戦いでは勝家を見限って無断撤退し、秀吉の勝利に大きく貢献する。その後は秀吉に付き従って昇進を重ね、やがては徳川家康に次ぐ官位を得るまでになった。秀吉に近しい関係と、その人柄を見込んで諸大名から取次ぎ役として頼りにされた。
家康には実力では及ばなかったが、人望では上回っていたと云う。秀吉とは古くからの付き合いでその信頼も篤く、秀吉が死を迎える際には、嫡子、秀頼の傅役(もりやく)を委ねられた。 慶長5年(1600年)以降も存命だったなら、家康と協調しつつ政権内の対立を抑える事に尽力したのではなかろうか。もし、戦いに発展したならば、西軍の総大将となっていただろう。そうなれば、史実よりも多くの武将が彼の元に参集し、その結束も固くなっていただろう。
豊臣秀吉はなかなか実子に恵まれず、しかも親族も少なかったため、力量があって自らに忠誠を誓う武将は、一族の様に貴重な存在であっただろう。これらの人物を失ったのは豊臣政権にとって大きな損失であり、その寿命を縮める結果となった。これらの人物の内、一人でも長生きしていれば、家康の天下取りは困難に見舞われていただろう。しかし、家康を止められるほどの力量がある人物でも慶長5年(1600年)から数年ほどで亡くなってしまえば、やはり家康は天下取りに動き出すだろう。それに加えて、豊臣政権内では武断派と文治派の対立が頂点に達しており、これを抑えられる実力者がいなければ、遅かれ早かれ内乱状態に陥ったと思われる。
上記に挙げた人物に関わりなく、関ヶ原で西軍が勝利を収め、家康を倒していたと仮定しても、豊臣政権は安定しなかっただろう。豊臣家は血の通った親族を全国の要所に配置したいが、その親族がいない。そうなると要所にも外様大名を配置せざるを得なくなり、全国に親藩や譜代藩を配置した徳川政権よりも不安定な政権になる。それに豊臣秀頼もまだまだ幼い事から、指導力など発揮しようもない。豊臣家は勝利によって石高こそ増えるだろうが、当面は象徴的な存在として祭り上げられるだけだろう。
それに、西軍が勝利したとすると石田三成はもちろんだが、毛利家、上杉家も大きな役割を果たした事になり、両者は150~200万石級の大大名に成長する事になる。この東西の大実力者は石高の増大に比例して、発言力も大きくなるだろう。そして、西軍勝利後の新生豊臣政権は、これら雄藩の実力者を集めた連合政権にならざるを得ない。その中で石田三成が豊臣家の権威を背景に、政権を主導していくのだろうが、雄藩の実力者とどれだけ協力し合えるだろうか?政権運営に行き詰まれば、実力者の力を削ぐ必要が出て来て、天下にもう一波乱か二波乱、起きそうである。
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無題 - 重家
秀吉恩顧の叩き上げで駿府と鳥取の太守になった中村一氏と宮部継潤も惜しくも関ヶ原の前年に没していますよね。
また、蜂須賀小六と一緒に活躍した前野長康が秀次事件で切腹して戦国生き残りの世代が払底したのが痛い。
宇喜多秀家・毛利秀元・小早川秀秋・長宗我部盛親など、実は西軍の主力は二十代でしたからね!!
若すぎる。そりゃ百戦錬磨の家康に巧いことしてやられる訳だ。
Re:コメントありがとうございます - 管理者からの返答
中村一氏は関ヶ原の戦いでは東軍側であったようで、本戦の直前に病死してますね。一方、宮部継潤が生きていれば西軍側に立っていたと思います。宮部継潤は知名度こそ低いですが、政戦両略に優れ、秀吉の腹心とも言える存在でありましたね。ただ、老齢であったので関ヶ原本戦まで存命であったとしても、軍を率いるのは難しかったかもしれません。しかし、この百戦錬磨の老将が政略や作戦に参加していれば、また違った展開になったかもしれません。前野長康は秀吉の数少ない譜代家臣であったので、その死は惜しまれますね。関ヶ原本戦まで存命だったなら、この人は西軍側に立っていた事でしょう。石高と兵力はそれほどでもないでしょうが、西軍側にとって信頼の置ける貴重な戦力と成り得たでしょうね。