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戦場に消えた織田家有力部将 

2009.01.15 - 戦国史 其の一
塙(原田)直政(ばん なおまさ ?~1576年)


直政の生年は不明であるが、尾張の出身で、早くから織田家に仕えた。織田信長の馬廻(主君の護衛、側近、小部隊指揮官)として長く仕え、その後、信長の親衛隊とも言える赤母衣衆に抜擢されている。しかし、一軍を率いる部将になるまでには到らず、身上は小さいままであった。だが、直政には優れた実務能力があったらしく、
永禄11年(1568年)、信長が京を掌握すると、その能力を見込まれて吏僚(行政官)に抜擢され、明智光秀・羽柴秀吉・島田秀満・村井貞勝ら織田家を代表する部将や吏僚と、肩を並べて京都の行政を担う様になった。


天正2年(1574年)5月、直政は、これまでの実績を買われて大抜擢され、山城国の守護に任ぜられる。山城国は当時の日本の首都である京を擁しており、直政はその枢要な地の軍事指揮権と統治権を委ねられたのである。更に天正3年(1575年)3月には、大和守護も兼任するようになった。この他、河内国でも直政は所領安堵、課役免除などの行政に携わっていたので、この地の支配権も委ねられていたらしい。直政は僅か数年で、小部隊指揮官である馬廻から一躍、数ヶ国を束ねる織田家の大部将に出世したのである。


信長は、来たるべき石山本願寺攻めに備えて、南山城と大和の国衆を束ねる役割を直政に期待していた。その内、大和国は、室町時代を通して大寺院の興福寺が、1国の支配権を握っていた特殊な地域であった。しかし、戦国時代に入ると、興福寺の支配力は衰え、傘下にあった寺社勢力や国人達は自らの勢力伸張を図って、群雄割拠状態となった。大和国の国人、寺社は互いに争いながらも、外部からの支配者は跳ね付けんとするので、なんとも統治し難い国となっていた。
直政は、その大和の諸勢力を束ねるために赴任してきたのだが、無論、その命に服する者はほとんどいなかった、直政はまず山城の槙島に本拠を置き、そこから頻繁に大和に赴いては、反抗する国人を攻めつぶしたり、説得して懐柔していった。直政の働きは精力的で、織田家の支配を大和のみならず南山城にも浸透させていった。直政の働きはこれらの国だけに止まらず、一軍を率いて、織田家の命運を左右する重大な戦役にも参戦するようになる。


天正3年(1575年)5月21日、武田家と織田家の間で行われた史上有名な「長篠の戦い」では、直政は佐々成政・前田利家らと共に鉄砲奉行を務めて、その勝利に貢献した。同年7月3日には原田備中守に任官され、これをもって原田直政とも称される様になる。任官を受けた織田家臣は極少数であり、これは織田家の重鎮として認められた証であった。同年8月、織田軍による越前一向一揆討伐戦にも直政は参戦して、一揆勢数多を斬り捨てた。この時、越前に赴いていた奈良興福寺大乗院の僧、尋憲(じんけん)は、織田軍が行っていた凄まじい弾圧の一部始終を目撃して、それを記録に残している。尋憲は、用があって直政の陣を訪れると、そこに一揆勢と目された農民200人余が連行されてきた。そして、目の前で次々に首を刎ねられ始めたので、尋憲は肝をつぶして驚き、直ちに農民達の助命を直政に願い出た。直政はこれを受け入れ、残った農民は助けられたとか。このように直政は一軍を率いて信長の統一戦に加わるようになり、行政面だけで無く、武略の面でも存在が増すようになる。


天正4年(1576年)2月21日、直政は、大和の有力者である筒井順慶と松永久通を両脇に従えて、興福寺で薪能(たきぎのう)を見学した。これは大和の第一の実力者が、直政であると云う事を視覚的に示している。この瞬間こそ、直政の絶頂期であったあろう。これから先の直政には、石山本願寺と云う大敵が立ちはだかる事となる。同年4月、本願寺と信長の間で結ばれていた講和が破れると、信長は、明智光秀・細川藤孝・荒木村重・塙直政の4将に本願寺攻撃を命じた。そして、織田軍は三手に分かれて、本願寺攻略に取り掛かった。光秀・藤孝軍は東南の守口・森河内に砦を築き、村重軍は海上から攻め寄せて北方の野田に砦を築き、直政軍は南方から進んで天王寺に砦を築いた。


まずは各軍、砦を築いて本願寺を包囲する態勢を取った。 しかし、これだけで、本願寺を封じ込めるには不十分であった。本願寺は大阪湾の岸沿いに幾つもの砦を構えて、毛利、雑賀水軍からの支援を何時でも受けられる体制を取っていたからである。信長としては早々に決着を付けたかったであろうが、天険の要害に大兵力で篭もっている相手に、すぐさま強攻を加えるのはさすがに無理があった。そこで信長は、本願寺を支援する城砦群から潰していって補給路を断ち切り、孤立無援に追い込もうと考えた。そして、石山本願寺から程近く、海沿いにある三津寺砦に目を付けて、その奪取を直政に命じたのだった。


直政は勇躍、天王寺砦から出陣し、それに代わって明智光秀、佐久間信栄らが天王寺砦の留守を預かった。直政の軍は大和、山城、和泉の3カ国から召集した1万人余の兵力で、信長はこの直政の軍を本願寺攻めの主力と見なしていたようである。そして、5月3日早朝、直政軍は三好康長を先鋒として、三津寺砦に対する攻撃を開始する。三好康長は和泉と根来寺の兵を率いて攻め掛かり、その後ろには直政率いる山城、大和の兵が本隊として控えた。
本願寺もこれは一大事と見て、近接する楼岸砦から援兵を差し向けて来たので、合戦は大規模なものに発展した。向かってきた本願寺勢は1万人余で、これに対する直政軍も1万人余であった。兵数では互角であったが、本願寺勢には雑賀衆を始めとする数千丁もの鉄砲があった。その凄まじい乱射を受けて、先鋒の三好康長は崩れ立ち、康長は逃走してしまう。 勢いに乗った本願寺勢は、続いて直政の本隊に襲い掛かった。


崩れそうになる陣容を直政はなんとか立て直し、本願寺勢と数刻の間、激しい干戈を交えた。しかし、形勢は悪くなるばかり、支え切る限界を超え、ついには総軍崩壊となった。直政も本願寺勢に取り囲まれ、一族郎党諸共、討死してしまう。この後、本願寺勢は勝ちに乗じて、明智光秀らが守る天王寺砦にまで押し寄せ、一気に攻め落とさんと力攻めを加えて来た。この天王寺砦は急造の砦であり、防御も物資も不十分であった。ここに閉じ込められた光秀ら織田軍は、全滅の危機に直面する。5月4日、京都にあった信長は直政敗死と天王寺砦の危機を知ると、すぐさま諸国に触れを出して兵を募った。5月5日早朝、信長は陣触れ後、軍勢の集結を待たず、自身は明衣姿(ゆかたびら)の軽装に、百騎余りの共廻りの兵を率いて京を出立する。同日中に若江に到着し、ここで後続の兵を待ったが、急な事で兵はなかなか集まらなかった。翌6日になって主な部将は集まってきたが、兵はようやく3千人余でしかなかった。しかし、天王寺砦からは矢のように注進が届き、3~5日以上はもたないと知らせてくる。


信長は、「かの者共を死なせれば、天下の面目を失う」と述べ、まだ兵は少なかったものの、即時攻撃を決意する。そして、翌7日払暁、信長は3千の兵を3段に分けると、1万5千人余の本願寺勢に突入していった。信長公記では織田軍3千人余とあるが、急な事とは言え、大身の部将がこぞって集結しているので7,8千人はいたのではなかろうか。それでも、織田軍が劣勢なのに変わりはなかったろう。織田軍の先鋒は佐久間信盛・松永久秀・細川藤孝・若江衆らで、2段目は滝川一益・蜂屋頼隆・羽柴秀吉・丹羽長秀・稲葉一鉄・氏家直通・安藤守就らが務め、3段目は信長自らが、馬廻りを率いて指揮を執った。少ない兵力で敵陣突破を図るため、鋒矢(ほうし)の陣を採ったと思われる。信長は足軽に混じって戦場を駆け巡り、下知を飛ばしつつ、総軍をまとめた。


本願寺勢は数千丁もの鉄砲を撃ち放ち、弾丸を雨あられの如く、織田軍に浴びせかけた。織田軍は非常な苦戦に陥ったが、それでも砦に近づかんとして、本願寺勢に斬り込んで行く。その混戦の最中、信長自身も弾丸を足に受けて、危うく討死するところであった。織田軍は本願寺勢の只中を切り開いて、ついに天王寺砦に入った。だが、本願寺勢もそれに怯む事無く、多勢を頼りに砦の攻囲を継続しようとする。このままでは砦に封じ込まれると見た
信長は、時を置かず、再び敵陣に突入すると諸将に告げた。それを聞いた諸将は驚き、兵力不足を考慮して口々に、「合戦はご無用」と諌めるが、信長の決意が揺らぐ事は無く、織田軍を2段に構えて、砦から打って出た。織田軍の再突入は、本願寺勢の意表を突くものだったらしく、これを散々に切り崩し、2700余を討ち取って、本願寺の城門まで追撃を加えたのだった。天正5年(1576年)5月3日~7日間に起こった本願寺勢との戦いは苦戦の連続であったが、信長は辛うじて勝利を収め、本願寺勢を寺内に押し返す事に成功した。


信長はこの合戦後、本願寺の力を改めて見直し、宿将の佐久間信盛を大将として、七ヶ国の与力を付与した3~4万人に及ぶ大軍団を編成して、石山本願寺を囲ませた。そして、信長は、自身が討死の危機に陥るほどの苦戦を招いたのは、直政の敗戦にあると見なし、塙一族に対して苛烈な処置を申し渡した。すなわち、直政の所領は全て没収され、その腹心であった丹羽二介・塙孫四郎は罪人として捕縛され、残る一族郎党も織田領国内において寄宿厳禁となった。 つまり、塙一族は裸一貫になって、追放されたのである。


信長としては、直政の敗北が余りにも無様に感じたのかもしれない。そして、このような失策は、二度とあってはならないとの思いから厳罰を下したものと思われる。しかし、この措置を聞いた織田家部将達は、譜代の重臣であっても、敗北を喫すれば全てを失うと、戦慄した事だろう。
本願寺との戦いで歴史から消えていった直政であるが、あの敗北が無ければ、本願寺を担当する軍団長格になっていただろう。そのまま、本願寺を屈服させる事に成功したなら、直政は畿内を統括する実力者となって、明智光秀が台頭する事も難しくなったかもしれない。


当時、軍団長と云う役職はなかったのであるが、現在から見れば、そう呼ぶのが相応しいと思われる。織田家の軍団長は数ヶ国に渡る国衆の軍事指揮権を委ねられており、それを任されると云うことは、織田家の宿老として認められた証左であろう。織田家臣の最上位に位置する彼らの戦力は、各国の有力戦国大名に匹敵、あるいは上回るほどであり、並大抵の器量の者では務まらない。直政はその軍団長格であったのだから、相応の器量はあったのだろう。 その彼にとって不幸だったのは、敵とした相手が、信長でさえ手を焼く、大敵本願寺であった事である。そして、直政は、地位と栄誉と命を、一度の敗北で全て失ったのであった。 運が悪かったと言えばそれまでであるが、大規模な軍勢を動かすには、まだ経験不足であったのかもしれない。




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