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2026.05.09 - 
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豊臣政権、損失の10年

2009.01.02 - 戦国史 其の一
1590年から1599年までの10年間に豊臣政権は、政権を支え得る人材を多数、失っている。 その彼らが、慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いまで生きていたらと仮定してみた。


この10年の間で、私が知っている限りの主な人物を挙げてみると。



●堀 秀政(1553年~1590年)

美濃郡茜部の小豪族の家柄に生まれたが、能力重視の織田信長によって取り立てられ、やがて、菅谷長頼と並んで、信長の側近筆頭の位置にまで立つ。秀政は政務だけでなく、戦場でもその力を如何なく発揮し、名人久太郎と称された。秀吉にもその才を愛され、天正10年(1582年)の段階で羽柴性を賜っている。


以後、秀吉の最有力部将として、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦い、九州攻め、小田原攻め、等に参陣し、それぞれで重要な働きを示している。このように秀政は秀吉の天下取りに大いに貢献して、一門格の待遇を受けていた。小田原参陣中に38歳の若さで惜しくも病没するが、長生きしていれば100万石級の大大名になっていた可能性が高い。関ヶ原まで存命だったなら、西軍の総大将となっていたかもしれない。



●豊臣 秀長(1540年~1591年)

秀長は政務、軍務ともに優れているだけでなく、人望厚い人格者でもあった。常に兄、秀吉を立てて、その天下統一事業を影から支えた。秀吉の代理として政務や交渉を司ったり、軍を率いて遠征に赴く事も度々で、特に四国攻めでは病気で動けない秀吉に代わって、総指揮官として活躍している。豊臣政権の大黒柱的な存在であったが、天正19年(1591年)1月22日、多くの人々に惜しまれながら、52歳で病没した。そして、翌文禄元年(1592年)、豊臣政権に深刻な打撃を与える事になる、朝鮮出兵が行われる事になる。秀長
が長生きしていたとしても朝鮮出兵は実施されただろうが、その結果、生じるであろう政権内の対立は、彼が存命だったなら抑えられていただろう。慶長5年(1600年)以降も存命だったなら、政権分裂は起こらず、豊臣家が今後も日本を主導していったであろう。豊臣政権にとって、彼の死は最も大きな痛手であった。



●加藤 光泰(1537年~1593年)

一般的には知名度は低いが、秀吉からは、関東の徳川家に隣接する重要な国、甲斐一国を任されるほどの信頼を受けていた。秀吉の数少ない譜代家臣の1人で、職務に忠実かつ、一徹な性格の持ち主であった。 ここに挙げている人物の中で加藤光泰は最も地味な存在だが、一浪人から国持ち大名にまで上り詰めた器量人である。
文禄2年(1592年)、朝鮮出兵中に光泰は重病に罹り、秀吉に一通の遺言状を残して57歳で病没した。その遺言には、息子はまだ年少であり、甲斐の国を任せるには心許ないため、その領地は召し上げて秀吉の近習として使ってもらいたいとあり、それは実行されている。


大半の大名は、手に入れた領土と財産をそのまま可愛い息子に残そうとしていたが、光泰は公を重んじて、領土の返還を申し出たのだった。私利私欲無く、秀吉への忠義を貫き通した生涯だった。関ヶ原の戦いまで存命で甲斐の国を任されていたならば、西軍側に立って、東軍の足止めをしていただろう。そうなれば、家康の西上は困難に見舞われ、その間に西軍は足場を固めることが出来ていたかもしれない。



●豊臣 秀次(1568年~1595年)

秀次は、秀吉の姉、智子の子である。秀吉がなかなか実子に恵まれなかった事もあって、後継候補として引き立てられた。その後は、数々の重要な戦役に参戦して、それなりの戦果を上げている。天正19年(1591年)11月に正式に秀吉の養子となり、同年12月には24歳にして関白となった。若くしてこれほどの地位に就けたのは勿論、秀吉の親族であったからだが、そこそこの能力は持っていたと思われる。しかし、秀吉に実子である秀頼が誕生すると、精神的に不安定となり、問題行動を起こしたとある。そして、文禄4年(1595年)、謀反の嫌疑をかけられて、28歳で切腹となった。殺生関白と罵しられるほどの悪行を本当にしていたかどうかは疑問であり、これは秀次粛清を正当化するための後付けであろう。秀頼が成人するまで、秀次が後見役として収まる事が出来ていれば、豊臣政権は長続きしたかもしれない。しかし、政権が秀頼派と秀次派に分かれ、秀吉死後に内紛が起こる可能性も否定できない。



●蒲生 氏郷(1556年~1595年)

織田信長に近習として仕えていた頃、早くもその器量の片鱗を見せ、信長は娘の冬姫を宛てがって、一門に迎え入れている。その期待に応えて、氏郷は信長の主要な戦いのほとんどに参戦して、武功を上げた。その次の天下人、秀吉にも
秀吉にも重く用いられて、ついには会津92万石の大大名にまでなった。秀吉は氏郷に、東北の驍勇、伊達政宗と関東の大実力者、徳川家康を押さえ込む役割を期待していた。しかし、逆に言えば、会津は一癖も二癖もある両実力者に挟まれる形ともなる。


このような難しい地勢の会津を任された事こそ、氏郷が政戦両略に優れていた何よりの証である。また、
氏郷は茶の湯にも深い造詣があって、千利休の七哲(高弟)の筆頭でもあった。この氏郷が関ヶ原まで存命だったなら、豊臣政権の大老に名を連ねていただろう。そして、越後の上杉景勝や常陸の佐竹義宣と協力して、徳川家康、伊達政宗を牽制していたのではないか。この3人が組めば家康、政宗は動こうにも動けなかっただろう。



●小早川 隆景(1533年~1597年)

小早川隆景は毛利元就の三男であり、政戦両略で才能を発揮して、毛利家の発展に尽力した名将である。元就死後には、家中の指導者的存在となるが、豊臣秀吉にもその才を愛され、政権中枢に迎え入れられて、五大老の1人となっている。1595年には養子、小早川秀秋に家督を譲って三原に隠遁するが、関ヶ原まで存命だったなら、毛利家を影から指導し、小早川秀秋もその意向に従って動いたかもしれない。


毛利一門を合わせると、毛利輝元120万石・吉川広家14万石・小早川秀秋34万石・小早川秀包13万石・安国寺恵瓊6万石の合計187万石という戦力となる。この戦力が隆景の指導の下、結集して睨みをきかせれば、家康もおいそれとは動けない。もっとも、隆景は老年であり、隠退の身でもあったので関ヶ原まで存命であったとしても、どれだけの指導力を発揮できたかは分からない。



●前田 利家(1538年~1599年)

信長の一部将から始まって武功を重ね、能登国の大名となった。若かりし頃は血気盛んで、己の槍1本で成り上がって来たが、老成すると学問を習得し、茶の湯や能にも通じた、正に文武両道の武将となった。信長死後は柴田勝家に組したが、賤ヶ岳の戦いでは勝家を見限って無断撤退し、秀吉の勝利に大きく貢献する。その後は秀吉に付き従って昇進を重ね、やがては徳川家康に次ぐ官位を得るまでになった。秀吉に近しい関係と、その人柄を見込んで諸大名から取次ぎ役として頼りにされた。


家康には実力では及ばなかったが、人望では上回っていたと云う。秀吉とは古くからの付き合いでその信頼も篤く、秀吉が死を迎える際には、嫡子、秀頼の傅役(もりやく)を委ねられた。 慶長5年(1600年)以降も存命だったなら、家康と協調しつつ政権内の対立を抑える事に尽力したのではなかろうか。もし、戦いに発展したならば、西軍の総大将となっていただろう。そうなれば、史実よりも多くの武将が彼の元に参集し、その結束も固くなっていただろう。


豊臣秀吉はなかなか実子に恵まれず、しかも親族も少なかったため、力量があって自らに忠誠を誓う武将は、一族の様に貴重な存在であっただろう。これらの人物を失ったのは豊臣政権にとって大きな損失であり、その寿命を縮める結果となった。これらの人物の内、一人でも長生きしていれば、家康の天下取りは困難に見舞われていただろう。しかし、家康を止められるほどの力量がある人物でも慶長5年(1600年)から数年ほどで亡くなってしまえば、やはり家康は天下取りに動き出すだろう。それに加えて、豊臣政権内では武断派と文治派の対立が頂点に達しており、これを抑えられる実力者がいなければ、遅かれ早かれ内乱状態に陥ったと思われる。


上記に挙げた人物に関わりなく、関ヶ原で西軍が勝利を収め、家康を倒していたと仮定しても、豊臣政権は安定しなかっただろう。豊臣家は血の通った親族を全国の要所に配置したいが、その親族がいない。そうなると要所にも外様大名を配置せざるを得なくなり、全国に親藩や譜代藩を配置した徳川政権よりも不安定な政権になる。それに豊臣秀頼もまだまだ幼い事から、指導力など発揮しようもない。豊臣家は勝利によって石高こそ増えるだろうが、当面は象徴的な存在として祭り上げられるだけだろう。


それに、西軍が勝利したとすると石田三成はもちろんだが、毛利家、上杉家も大きな役割を果たした事になり、両者は150~200万石級の大大名に成長する事になる。この東西の大実力者は石高の増大に比例して、発言力も大きくなるだろう。そして、西軍勝利後の新生豊臣政権は、これら雄藩の実力者を集めた連合政権にならざるを得ない。その中で石田三成が豊臣家の権威を背景に、政権を主導していくのだろうが、雄藩の実力者とどれだけ協力し合えるだろうか?政権運営に行き詰まれば、実力者の力を削ぐ必要が出て来て、天下にもう一波乱か二波乱、起きそうである。

 
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大和高取城

奈良県高市郡、高取町にある日本3大山城の一つ、高取城に行って来た時の写真をアップします。


高取城は、標高583メートル(比高350メートル)の山上に築かれた壮大な山城です。現地説明板によりますと、高取城は、この一体を治める越智氏という豪族が南北朝時代に築城したのが始まりとされています。しかし、戦国時代になると越智氏は衰亡し、城は一時廃城となります。その後、筒井順慶が城を復興、拡張して出城として用います。


この高取城が本格的に発展するのは百万石の大名として郡山城に入った豊臣秀長・秀次・秀保の時代になってからであり、大規模な近世城郭として生まれ変わります。徳川幕府の世になっても高取城は用いられ続け、天主を始めとする建物群は明治の世を迎えるまで現存していたのですが、明治中頃になって建物群は惜しくも取り壊されてしまいます
現存していれば、間違いなく国宝として扱われていたでしょう。残念な事です。



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↑壺阪口中門跡



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↑本丸の石垣

この城はとにかく石垣が立派の一言です。特にこの本丸石垣は高さがあって迫力があります。

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↑本丸石垣上からの眺め



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↑高取城の石碑

記念写真はここでどうぞ。




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↑大手門跡

城好きな方が、奈良県を訪れる事があれば是非、高取城を訪れてみてください。城に興味がない方でも古代遺跡の中を探索しているような感覚になって楽しめると思います。

丹波黒井城

2008年10月、兵庫県丹波市にある黒井城に登って来ました。この城は標高356メートル、比高242メートルの山城であります。


黒井城は、建武年(1335年)、播磨の実力者、赤松円心の次男、貞範が猪ノ口山山頂に砦を築いたのが始まりであるとされている。戦国時代に至ると、地元の有力者、赤井氏(荻野)が城を支配する様になる。天正7年(1579年)、織田信長の部将、明智光秀によって黒井城は落城し、光秀の持ち城となる。天正10年(1582年)、本能寺の変で明智光秀が滅亡すると、代わって羽柴秀吉の部将、堀尾吉晴が城主となる。


天正12年(1584年)、羽柴秀吉と徳川家康が尾張長久手の地で激突した時、赤井直正の末弟、時直が徳川家に通じて一揆を起こし、黒井城に立て篭もる。しかし、一揆はほどなくして鎮圧されたと見られる。慶長6年(1601年)、関ヶ原合戦後、川勝秀氏が城主となるが、ほどなくして廃城になったと見られる。



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↑黒井城全景

猪ノ口山と言う、山全体が城域となっており、遠めにも堂々たる風格があります。 この城を大規模な城に改修したのは、丹波の赤鬼と呼ばれた傑物、赤井(荻野)直正(1529年~1578年)です。直正は丹波6群26万石の内、3群13万石余り?を支配した丹波最大の勢力であった模様です。直正が織田信長と敵対するに至ると、武田・毛利・本願寺はこの地に使者を遣わして、直正と誼を結び、共に織田家に対抗します。


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↑八分くらい登った所にある休憩所。

登り始めると角度の強い坂道が続き、息が切れたので、ここで一服。


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↑休憩所の下には、アリ地獄の巣がありました。

私はアリ地獄や食虫植物などの罠を張るような生物が好きなんですよね。このアリ地獄を持ち帰って「さあ、このアリをお食べ」と言って、怪しく微笑む私の姿が思い浮かぶ様です。しかし、持って帰る手立てもないので、愛しいアリ地獄達はそのままにしておきました。


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↑東曲輪跡

なかなか立派な石垣ですが、これは織田家が黒井城を支配していた時に作られたものだと思われます。


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↑手前が二の丸で奥が本丸


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↑本丸

休み休み登って行きましたが、30分くらいで登頂出来ました。 ここからの眺めは素晴らしく、「やったどー!おらは天下を取ったどー!」と叫びたくなりました。


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↑黒井城から北方を望む

手前の山も城の一角です。
天正3年(1575年)明智光秀の第一次黒井城攻めの際、こちら北方から進攻して来たと思われます。天正4年(1576年)1月、光秀は黒井城包囲中、波多野秀治の裏切りに遭って軍勢は総崩れとなり、命からがらで丹波から脱出し、第一次黒井城攻めは失敗となります。


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↑頂上から、京都亀岡方面を望む

下にタンクが見えますが、かつてはそこにも砦がありました。 明智光秀の第二次黒井城攻めの際は、この方面から進攻して来たと思われます。天正7年(1579年)6月、光秀は波多野秀治の居城、八上城を攻め落とすと、余勢をかって、一挙に丹波を平定しようと、この黒井城にも攻め掛かります。この時、赤井家では、柱石である赤井直正が前年天正6年(1578年)に病死してしまっており、求心力を失っていました。そのため、黒井城はろくな抵抗も出来ないまま、天正7年(1579年)8月9日、城は落城してしまいます。


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↑黒井城の麓にある興禅寺

ここは黒井城の下館跡であり、赤井氏は普段ここに居住して政務を執っていたと伝わります。明智光秀が丹波を拝領すると、その重臣、斉藤利三が黒井城を任されます。天正7年(1579年)、この斉藤利三を父として、後の春日局ことお福がこの地で生まれます。

置塩城

2008年11月初旬、姫路市にある標高370メートルの山城、置塩城に登って来ました。この城は戦国大名、赤松氏の居城でありまして、播磨最大級の山城でもあります。


室町時代、赤松氏は播磨・備前・美作の3カ国を統治する有力守護大名であった。しかし、嘉吉元年(1441年)6月、赤松満祐の代の時、満祐は時の将軍、足利義教を暗殺する大事件を起こす(嘉吉の乱)。そのため満祐は山名宗全を始めとする幕府軍の討伐を受ける事となる。満裕は領内の守りを固めるが、三方から攻め入った幕府軍に敗れ、9月10日、最後は城山城にて一族諸共、滅亡する。


赤松惣領家は完全に滅亡したかに見えたが、辛うじて生き延びた一族と残党の者達の尽力によって、やがて御家を再興し、赤松政則の代になって、再び播磨・備前・美作の3カ国の守護にまで返り咲く。この政則という人物は、応仁の乱でも活躍した相当な傑物であったようだ。文明元年(1469年)、政則は置塩城を築いたと伝わる。


置塩城は戦国期中頃、赤松政村(晴政)・義裕・則房の時代に大規模な山城へと改修される。しかし、戦国期になると周辺では浦上・別所といった諸家の力が強まり、赤松氏は衰亡してゆく。置塩城も、度々襲撃されたと伝わる。天正8年(1580年)、赤松氏は、中国攻めで播磨に進出してきた織田家に降り、置塩城は羽柴秀吉の城割令によって廃城となる。天正13年(1585年)、秀吉によって、赤松氏は阿波1万石に移封される。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの折、赤松氏は西軍側に加担したため所領は召し上げられ、古くからの名門、赤松氏はここに滅亡する。



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↑案内板。画像をクリックすると大きくする事が出来ます。

山頂まで、だいたい40分ほどかかります。山深い城なので誰とも出会わないのではないか?と思っていましたが、意外にも家族連れ・夫婦・初老の方々のグループなど結構、大勢の人とすれ違いました。姫路市が近いので、そこから人が訪れるのでしょう。


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↑茶室跡


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↑三の丸の土塁


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↑二の丸付近の石垣

石垣の下にはブルーシートが被せられていました。現在でも発掘作業中のようで、土器など、1万点以上に及ぶ生活遺物が発見されているそうです。


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↑二の丸の大広間

置塩城は、この二の丸付近が城の中枢であったようです。往時には立派な建物が立ち並んでいたのでしょう。

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↑本丸からの眺め 北

本丸付近は樹木が多く、あまり眺めは良くなかったです。本丸付近には瓦の破片が散らばっていましたが、持ち帰りは禁止であります。往時には天守閣的な性格をもった建物が建てられていたそうです。



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↑本丸からの眺め 南

姫路市街の方向ですが、さすがに姫路城は見えなかったです。
右側に見える山には書写山円教寺がありまして、映画「ラストサムライ」が 撮影された場所でもあります。

赤松氏関連サイト「落穂ひろい」

http://homepage2.nifty.com/OTIBO_PAGE/index.htm

梅津政景と院内銀山

2008.12.29 - 戦国史 其の一

梅津政景(1581年~1633年)

慶長8年(1603年)徳川家康が江戸に幕府を開府すると、時代は戦国から近世へと大きく転換してゆく。そして、時代は武勇に長けた人物から、実務に長けた人物を必要としていったのである。梅津政景はそういった大きな時代の転換期に活躍した人物である。


天正9年(1581年)、政景は、下野の戦国大名、宇都宮氏の陪臣であった梅津道金の子として生まれ、兄に9歳年上の梅津憲忠(1572~1630)がいる。しかし、政景がまだ幼時であった時、父道金は浪人となり、父子は常陸国に移り住む。やがて憲忠・政景は兄弟揃って常陸の戦国大名、佐竹義宣に近習として仕えるようになり、両者共、高い実務能力をもって重く用いられるようになる。


関ヶ原合戦後、慶長7年(1602年、佐竹氏が常陸54万5800石から、出羽国20万5800石に移転、減封されると政景もこれに従って任地に赴く。


慶長8年(1603年)政景は佐竹義宣の命により、譜代家老、河合忠遠を刺殺し、これを出世の足掛かりとする。


慶長14年(1609年)政景は院内銀山奉行となる。


慶長17年(1612年)政景は二度目の院内銀山奉行となると、この年から日記を記し始め、寛永10年(1633年)3月6日、政景が死を迎える4日前まで記載は続く。これが梅津政景日記であり、近世初期に書かれた資料の中では、最良のものの一つとされている。


慶長18年(1614年領内の諸鉱山を統括する惣山奉行となる。


慶長19年(1615年)5月
、大坂夏の陣に参戦し、金銀出納の任にあたって佐竹軍の兵站を管理した。戦後、この功績をもって佐竹藩の財政を担当する勘定奉行を任される。


元和2年(1616年)、檜山群藤琴・比井野に新田開発を申し出て許可される。


元和5年(1619年)、家老格となり、藩政実務の中枢を担う。


元和6年(1620年)11月、新田開発に成功し、義宣より藤琴4ヵ村に300石、比井野村に200石、計500石の開知行を与えられる。檜山群藤琴・比井野(秋田県、藤里町と二ツ井町)には岩堰用水が引かれ、この地に広大な新田が切り開かれたのである。このように政景は秋田藩の領内発展に尽力した人物であった。この岩堰用水は現在でも用いられており、二ツ井町全地域の水田を潤している。時代が下ると、その地の農民は感謝の意味を込めて政景を大明神として祀り、その功績を讃えた。


寛永7年(1630年)、政景の兄、梅津憲忠が死去する。享年58歳。憲忠も政景同様、高い実務能力を有しており、右筆を勤めた経歴もある。浪人から、佐竹義宣の近習となり、家老にまで出世した有能な人物であった。また、馬術や鉄砲にも長けており、大坂の陣に参戦して重傷を負った経歴もある武功の士でもあった。現在、政景の肖像画は現存していないが、憲忠のものは現存している。同年、政景は家老及び、久保田町奉行となる。


寛永10年(1633年)1月25日、藩主、佐竹義宣が死去する。享年64歳。義宣の事を、屋形様、大殿様と呼んで、常にその側に仕えてきた政景にとってその死の衝撃は大きかったのであろう。同年3月10日、義宣の後を追うように政景も死去する。享年53歳。この年から政景の体調は優れなかったのであるが、その突然ともいえる死は殉死であったかもしれない。この主従は強い絆で結ばれていたのであろう。 


院内銀山は、秋田県と山形県の県境にあたる雄勝峠の近くにある銀山である。慶長11年(1606年)に発見された直後から秋田藩によって積極的に開発が進められ、石見銀山・生野銀山と並ぶ、日本有数の銀山へと発展する。そして、極めて短期間に大勢の人々が集まって、山中に1万人近い鉱山町が出現する。これは、秋田藩において、久保田の城下町に次ぐ大規模な都市であった。秋田藩は院内銀山に奉行を派遣し、直接の支配下に置いた。秋田藩にとって鉱山経営は、財政面で非常に重要な位置を占めていた。それも銀山から産出する銀より、鉱山町そのものがより重要な意味を持っていた。


近世における、大名の主な収入源は米である。しかし、米のままでは勿論、財源として使用できないので、大名はそれを市場で売りさばき、換金する必要があった。秋田藩の場合、領内の市場は狭く、その米を換金するには大市場である畿内まで運んで換金する必要があった。しかし、秋田から畿内までの遠距離輸送には多額の経費がかかる事から、大きな負担となっていた。それが、秋田藩領内に大規模な人口を擁する鉱山町が出現した事で、米を独占的に安定した高値で販売できるようになったのである。また、銀山では銀の精錬過程に不可欠の材料である鉛の専売も行われて、これも秋田藩に多額の利益をもたらす事となった。院内銀山は、この様に銀そのものより、大規模な市場としての価値の方が高かったのである。



当時、世界的に銀の需要が高まっており、日本はその主要輸出国となっていた。江戸初期には、年間120トンもの銀を輸出していた模様である。出羽国に突如として出現した都市は、当時の世界情勢とも結び付いていた。
院内銀山は深い山に囲まれた閉鎖都市で、唯一の出入口には番所が設置され、人と物の出入は厳重に管理されていた。それでも、銀山には日本全国から採掘請負人、労働者、商人、職人、遊女が集まって、非常な活況を呈していた。しかし、米と鉛は秋田藩による専売制で販売されていたため、住民と精錬業者は市場価格を上回る高値で購入せぜるを得なかった。その上、生活必需品も、番所にて商品代金の十分の一が税として徴収されて持ち込まれるので、住民は生活必需品も高値での購入を余儀なくされていた。
 

梅津政景日記は慶長17年(1612年)2月28日、政景が院内銀山に到着した日から記載が始まる。その日記には銀山における出来事も書き込まれている。慶長18年(1613年)3月17日、1人の商人が十分一番所で処刑された。この商人は若狭彦二郎と云い、泥鰌(どじょう)を販売するために横手から院内銀山にやってきた者であった。3月2日、彦二郎は番所で検問を受け、手に房判という判を捺されて通過する。


房判とは銀山から出る際に番所で確認される判の事であり、これがなければ銀山から外に出る事は許されなかった。ところが彦二郎は滞在中に房判が消えてしまい、そこで銀山から出る際、偽造の判を捺して番所を通過しようとしたのである。3月4日、これを番所の者に見咎められ、彦二郎は牢屋に入れられる事となる。そして、3月17日、彦二郎は鼻と耳を削がれたうえ、見せしめとして町中を引き回され、その挙句、番所にて処刑された。 これは政景の命によるものであろう。このように政景には容赦のない統治者としての一面もあった。


院内銀山の操業はその後も長く続けられ、昭和29年(1954年)に閉山されるまで続く事になる。その間、多くの労働者、遊女達が過酷な生活の中で、早死にしていった。院内銀山は最盛期には1万5千人もの人々が住んでいたそうだが、現代では全く無人の地となり、人の気配はない。かつての賑わいはどこへやら、静まり返った山中にあるのは、名も無き無数の墓石のみとなっている。



(余談)ちなみに院内銀山は東北随一の心霊スポットであるとか・・・




 プロフィール 
重家 
HN:
重家
性別:
男性
趣味:
史跡巡り・城巡り・ゲーム
自己紹介:
歴史好きの男です。
このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
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