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置塩城

2008年11月初旬、姫路市にある標高370メートルの山城、置塩城に登って来ました。この城は戦国大名、赤松氏の居城でありまして、播磨最大級の山城でもあります。


室町時代、赤松氏は播磨・備前・美作の3カ国を統治する有力守護大名であった。しかし、嘉吉元年(1441年)6月、赤松満祐の代の時、満祐は時の将軍、足利義教を暗殺する大事件を起こす(嘉吉の乱)。そのため満祐は山名宗全を始めとする幕府軍の討伐を受ける事となる。満裕は領内の守りを固めるが、三方から攻め入った幕府軍に敗れ、9月10日、最後は城山城にて一族諸共、滅亡する。


赤松惣領家は完全に滅亡したかに見えたが、辛うじて生き延びた一族と残党の者達の尽力によって、やがて御家を再興し、赤松政則の代になって、再び播磨・備前・美作の3カ国の守護にまで返り咲く。この政則という人物は、応仁の乱でも活躍した相当な傑物であったようだ。文明元年(1469年)、政則は置塩城を築いたと伝わる。


置塩城は戦国期中頃、赤松政村(晴政)・義裕・則房の時代に大規模な山城へと改修される。しかし、戦国期になると周辺では浦上・別所といった諸家の力が強まり、赤松氏は衰亡してゆく。置塩城も、度々襲撃されたと伝わる。天正8年(1580年)、赤松氏は、中国攻めで播磨に進出してきた織田家に降り、置塩城は羽柴秀吉の城割令によって廃城となる。天正13年(1585年)、秀吉によって、赤松氏は阿波1万石に移封される。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの折、赤松氏は西軍側に加担したため所領は召し上げられ、古くからの名門、赤松氏はここに滅亡する。



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↑案内板。画像をクリックすると大きくする事が出来ます。

山頂まで、だいたい40分ほどかかります。山深い城なので誰とも出会わないのではないか?と思っていましたが、意外にも家族連れ・夫婦・初老の方々のグループなど結構、大勢の人とすれ違いました。姫路市が近いので、そこから人が訪れるのでしょう。


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↑茶室跡


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↑三の丸の土塁


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↑二の丸付近の石垣

石垣の下にはブルーシートが被せられていました。現在でも発掘作業中のようで、土器など、1万点以上に及ぶ生活遺物が発見されているそうです。


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↑二の丸の大広間

置塩城は、この二の丸付近が城の中枢であったようです。往時には立派な建物が立ち並んでいたのでしょう。

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↑本丸からの眺め 北

本丸付近は樹木が多く、あまり眺めは良くなかったです。本丸付近には瓦の破片が散らばっていましたが、持ち帰りは禁止であります。往時には天守閣的な性格をもった建物が建てられていたそうです。



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↑本丸からの眺め 南

姫路市街の方向ですが、さすがに姫路城は見えなかったです。
右側に見える山には書写山円教寺がありまして、映画「ラストサムライ」が 撮影された場所でもあります。

赤松氏関連サイト「落穂ひろい」

http://homepage2.nifty.com/OTIBO_PAGE/index.htm
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