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戦国史・第二次大戦史・面白戦国劇場など
梅津政景(1581年~1633年)
慶長8年(1603年)徳川家康が江戸に幕府を開府すると、時代は戦国から近世へと大きく転換してゆく。そして、時代は武勇に長けた人物から、実務に長けた人物を必要としていったのである。梅津政景はそういった大きな時代の転換期に活躍した人物である。
天正9年(1581年)、政景は、下野の戦国大名、宇都宮氏の陪臣であった梅津道金の子として生まれ、兄に9歳年上の梅津憲忠(1572~1630)がいる。しかし、政景がまだ幼時であった時、父道金は浪人となり、父子は常陸国に移り住む。やがて憲忠・政景は兄弟揃って常陸の戦国大名、佐竹義宣に近習として仕えるようになり、両者共、高い実務能力をもって重く用いられるようになる。
関ヶ原合戦後、慶長7年(1602年)、佐竹氏が常陸54万5800石から、出羽国20万5800石に移転、減封されると政景もこれに従って任地に赴く。
慶長8年(1603年)政景は佐竹義宣の命により、譜代家老、河合忠遠を刺殺し、これを出世の足掛かりとする。
慶長14年(1609年)政景は院内銀山奉行となる。
慶長17年(1612年)政景は二度目の院内銀山奉行となると、この年から日記を記し始め、寛永10年(1633年)3月6日、政景が死を迎える4日前まで記載は続く。これが梅津政景日記であり、近世初期に書かれた資料の中では、最良のものの一つとされている。
慶長18年(1614年)領内の諸鉱山を統括する惣山奉行となる。
慶長19年(1615年)5月、大坂夏の陣に参戦し、金銀出納の任にあたって佐竹軍の兵站を管理した。戦後、この功績をもって佐竹藩の財政を担当する勘定奉行を任される。
元和2年(1616年)、檜山群藤琴・比井野に新田開発を申し出て許可される。
元和5年(1619年)、家老格となり、藩政実務の中枢を担う。
元和6年(1620年)11月、新田開発に成功し、義宣より藤琴4ヵ村に300石、比井野村に200石、計500石の開知行を与えられる。檜山群藤琴・比井野(秋田県、藤里町と二ツ井町)には岩堰用水が引かれ、この地に広大な新田が切り開かれたのである。このように政景は秋田藩の領内発展に尽力した人物であった。この岩堰用水は現在でも用いられており、二ツ井町全地域の水田を潤している。時代が下ると、その地の農民は感謝の意味を込めて政景を大明神として祀り、その功績を讃えた。
寛永7年(1630年)、政景の兄、梅津憲忠が死去する。享年58歳。憲忠も政景同様、高い実務能力を有しており、右筆を勤めた経歴もある。浪人から、佐竹義宣の近習となり、家老にまで出世した有能な人物であった。また、馬術や鉄砲にも長けており、大坂の陣に参戦して重傷を負った経歴もある武功の士でもあった。現在、政景の肖像画は現存していないが、憲忠のものは現存している。同年、政景は家老及び、久保田町奉行となる。
寛永10年(1633年)1月25日、藩主、佐竹義宣が死去する。享年64歳。義宣の事を、屋形様、大殿様と呼んで、常にその側に仕えてきた政景にとってその死の衝撃は大きかったのであろう。同年3月10日、義宣の後を追うように政景も死去する。享年53歳。この年から政景の体調は優れなかったのであるが、その突然ともいえる死は殉死であったかもしれない。この主従は強い絆で結ばれていたのであろう。
院内銀山は、秋田県と山形県の県境にあたる雄勝峠の近くにある銀山である。慶長11年(1606年)に発見された直後から秋田藩によって積極的に開発が進められ、石見銀山・生野銀山と並ぶ、日本有数の銀山へと発展する。そして、極めて短期間に大勢の人々が集まって、山中に1万人近い鉱山町が出現する。これは、秋田藩において、久保田の城下町に次ぐ大規模な都市であった。秋田藩は院内銀山に奉行を派遣し、直接の支配下に置いた。秋田藩にとって鉱山経営は、財政面で非常に重要な位置を占めていた。それも銀山から産出する銀より、鉱山町そのものがより重要な意味を持っていた。
近世における、大名の主な収入源は米である。しかし、米のままでは勿論、財源として使用できないので、大名はそれを市場で売りさばき、換金する必要があった。秋田藩の場合、領内の市場は狭く、その米を換金するには大市場である畿内まで運んで換金する必要があった。しかし、秋田から畿内までの遠距離輸送には多額の経費がかかる事から、大きな負担となっていた。それが、秋田藩領内に大規模な人口を擁する鉱山町が出現した事で、米を独占的に安定した高値で販売できるようになったのである。また、銀山では銀の精錬過程に不可欠の材料である鉛の専売も行われて、これも秋田藩に多額の利益をもたらす事となった。院内銀山は、この様に銀そのものより、大規模な市場としての価値の方が高かったのである。
当時、世界的に銀の需要が高まっており、日本はその主要輸出国となっていた。江戸初期には、年間120トンもの銀を輸出していた模様である。出羽国に突如として出現した都市は、当時の世界情勢とも結び付いていた。院内銀山は深い山に囲まれた閉鎖都市で、唯一の出入口には番所が設置され、人と物の出入は厳重に管理されていた。それでも、銀山には日本全国から採掘請負人、労働者、商人、職人、遊女が集まって、非常な活況を呈していた。しかし、米と鉛は秋田藩による専売制で販売されていたため、住民と精錬業者は市場価格を上回る高値で購入せぜるを得なかった。その上、生活必需品も、番所にて商品代金の十分の一が税として徴収されて持ち込まれるので、住民は生活必需品も高値での購入を余儀なくされていた。
梅津政景日記は慶長17年(1612年)2月28日、政景が院内銀山に到着した日から記載が始まる。その日記には銀山における出来事も書き込まれている。慶長18年(1613年)3月17日、1人の商人が十分一番所で処刑された。この商人は若狭彦二郎と云い、泥鰌(どじょう)を販売するために横手から院内銀山にやってきた者であった。3月2日、彦二郎は番所で検問を受け、手に房判という判を捺されて通過する。
房判とは銀山から出る際に番所で確認される判の事であり、これがなければ銀山から外に出る事は許されなかった。ところが彦二郎は滞在中に房判が消えてしまい、そこで銀山から出る際、偽造の判を捺して番所を通過しようとしたのである。3月4日、これを番所の者に見咎められ、彦二郎は牢屋に入れられる事となる。そして、3月17日、彦二郎は鼻と耳を削がれたうえ、見せしめとして町中を引き回され、その挙句、番所にて処刑された。 これは政景の命によるものであろう。このように政景には容赦のない統治者としての一面もあった。
院内銀山の操業はその後も長く続けられ、昭和29年(1954年)に閉山されるまで続く事になる。その間、多くの労働者、遊女達が過酷な生活の中で、早死にしていった。院内銀山は最盛期には1万5千人もの人々が住んでいたそうだが、現代では全く無人の地となり、人の気配はない。かつての賑わいはどこへやら、静まり返った山中にあるのは、名も無き無数の墓石のみとなっている。
(余談)ちなみに院内銀山は東北随一の心霊スポットであるとか・・・