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大坂夏の陣、影の主役

2008.10.26 - 戦国史 其の一

戦国最後の大戦、大坂夏の陣では、真田信繁(幸村)が大活躍して、現在にまでその名を轟かせている。だが、その影では、毛利吉政もそれに勝るとも劣らない活躍をしていた。尚、この武将は、勝永の名で知られているが、一次資料では吉政としか記されていない。


天正6年(1578年)、毛利吉政は、豊臣秀吉の譜代家臣であった、毛利吉成(勝信)の嫡男として生まれる。吉成は、秀吉の天下制覇の戦いに従軍したり、使者として交渉したり、代官として物資輸送に携わったりと、長きに渡って秀吉に貢献した。天正15年(1587年)には、その活躍と忠節をもって、豊前国の2群6万石余を与えられ、晴れて大名身分となった。この時、吉政も、そこから1万石を与えられたとされている。この恩義を毛利父子は、終生、忘れなかった。慶長5年(1600年)9月、関ヶ原の戦いが起こると、毛利吉成、吉政父子は、豊臣方の西軍に味方する。だが、肝心の西軍主力が敗北してしまったため、毛利父子は所領を没収された挙句、その身は、土佐の大名、山内一豊に預けられてしまう。


失意のどん底にあった毛利父子であったが、山内氏は厚遇して、客分として扱ってくれた。父、吉成は高知城の西郭に住まって、一豊の側近くに仕え、吉政は城から離れた久松に住まっていた。毛利父子は比較的、自由な身で、鷹狩りをしたり、茶の湯をする事もあったようだ。また、吉政は度々、家臣を大阪に差し向けて、大野治長と連絡を取っていた。そのまま長い歳月が流れ、慶長15年(1610年)5月25日には、正室の安姫(龍造寺政家の娘)が死去する。この安姫との間に、嫡男の式部勝家と、次男の太郎兵衛が誕生したと見られる。吉政には側室が1人確認されており、その女性との間に、後に娘が1人誕生している。慶長16年(1611年)、大野治長は、吉政に宛てて、豊臣秀頼と徳川家康が二条城で会見した事を伝えてきた。同年5月7日、父、吉成が死去する。


慶長19年(1614年)、大阪で戦雲が垂れ込み始めると、土佐の吉政の元に豊臣家の使者が現れて、大阪への入城を促される。吉政は山内氏の庇護の下、安定した生活を送っており、このまま留まっていれば、重臣格に取り立てられていただろう。だが、かつての主恩をいささかも忘れていない吉政は、全てを捨てて大阪を目指す決意を固めた。しかし、山内家の当主、忠義は徳川方として出陣するに当たって、吉政を厳しく監視しておくよう、父の康豊に言い含めていた。そのため、吉政はなかなか動きが取れなかった。そこで、忠義の力添えをしたいので、従軍を許してもらいたいと康豊に懇願する。そして、人質として嫡男、勝家と、次男、太郎兵衛を差し出すと述べたので、殊勝な心がけと出陣を許された。


同年10月、吉政は、家臣の宮田甚之丞をやって勝家を配所から連れ出させ、合流してから、夜間、浦戸を出港した。吉政はかねてから自前の船を所有しており、それに乗って大阪を目指さんとした。翌日、勝家の失踪を知って、康豊は吉政の真意を悟り、すぐに後を追わせたが、最早、手遅れであった。同年11月頃、吉政は上陸して、大阪城下に近づいたが、周辺は既に徳川方の統制化に置かれていたらしい。そこで、吉政父子は、馬の飼葉の中に身を潜めて、ようやく城中に入り込んだと云う。入城後、吉政は、真田信繁、長宗我部盛親、後藤基次、明石全登らと共に5人衆の1人として重んぜられた。やがて東軍が押し寄せてくると、吉政は、山内氏の陣所に向けて矢文を射ち込み、篭城に到った子細を説明し、これまでの厚遇に対する礼を述べたと云う。この大坂冬の陣では、幾つか激しい局地戦も起こったが、吉政の受け持った場所は不明で、活躍する場面も無かった。


だが、翌慶長20年(1615年)、大坂夏の陣が始まると、吉政は一世一代の大活躍を見せる事になる。この時の両軍の戦力は、豊臣方5万5千人に対し、徳川方は15万5千人であったとされており、豊臣方、圧倒的不利の状況であった。しかも、大坂城は冬の陣の講和の際、外堀を埋め立てられており、豊臣方は一か八か城を打って出るしか、無かった。同年5月6日、道明寺にて合戦が起こり、後藤基次隊が突出して10倍もの徳川方と戦った。この時、真田隊、毛利隊は遅れて戦場に到着して、1人奮戦していた基次を戦死させてしまう。吉政は後藤隊の敗兵を収容し、信繁が殿軍を務めて味方の撤退を成功させた。この後、毛利隊は天王寺に、真田隊は 茶臼山に野営して翌日の合戦に備えた。


同年5月7日、夏の陣、最終決戦の日、豊臣方は徳川方を引き付けるだけ引き付けてから、豊臣秀頼の出陣をもって乾坤一擲の攻勢をかけて、一気に徳川家康、秀忠父子を討ち取る事とし、各部隊、持ち場に着いた。だが、正午頃、徳川方の本多忠朝、松平忠直の先陣争いから始まった、無秩序な進撃に豊臣方は巻き込まれてしまう。 吉政は兵4千人を率いて天王寺南門に布陣していたが、徳川方の本多忠朝隊1千人に挑まれて麾下の部隊が応戦してしまう。吉政はそれを止めようとしたものの、銃撃戦は激しくなる一方であった。吉政は已む無く攻撃を開始、豊臣方は作戦とは違った形で戦いが始まってしまう。毛利隊は銃撃戦の後に突撃を開始し、たちまち本多隊を切り崩して、本多忠朝を討ち取った。続いて、保科正光、正貞兄弟の隊と交戦を開始するが、正貞に槍傷を負わせた上、これも早々に切り崩した。 この保科隊を援護せんと、今度は小笠原秀政隊が突出してきた。


小笠原隊は、毛利隊先手の竹田永翁の隊を敗走させると、続いて毛利本隊に襲い掛かる。これを見た大野治長の隊は援護に回って、小笠原隊の右備えを攻撃し、吉政も自ら兵を率いて左備えを攻撃した。この挟撃を受けて小笠原隊は崩れ出し、秀政は瀕死の重傷を負って後送され、その嫡男、忠脩(ただなが)は槍衾30本余を受けて戦死、その弟、忠真も重傷を負って後送された。忠真は命を取り留めたが、秀政は、この夜に死亡する。勢いに乗った毛利隊は、真田信吉、信牧兄弟、浅野長重、秋田実季、内藤忠興、松平康長といった諸隊を、片っ端から撃破していった。毛利吉政の嫡男、16歳になる勝家は、初陣ながら鎧武者を1人討ち取って、その首を父の前に披露した。吉政は、「見事である。しかし、その首は捨てよ。この後、敵を討ち取っても、その首は取らずともよい。そのまま打ち捨てにせよ」と言い付けた。再び前線へと戻っていく勝家の後姿を見送りながら、吉政は「惜しき者よ」とつぶやいた。この日、勝家はもう1人、鎧武者を討ち取ったが、父の言葉通り、首は打ち捨てにした。


茶臼山の真田信繁は、毛利隊が戦端を開いた後もしばらくは戦況を窺っていた。だが、毛利隊が徳川諸隊を次々に撃破していくのを見て、ここが戦機と動き出す。そして、信繁は赤備えの精鋭3千5百人を率いて、真向かいの松平忠直隊1万5千人に向かって突撃を敢行した。そして、両軍、入り乱れての激闘の末、真田隊はこれを突破する。真田隊は勢いを保ったまま、徳川本隊1万5千にぶつかって、三度に渡って突撃を敢行した。この激しい攻勢に徳川隊は浮き足立って、混乱する。真田隊は家康の本営まで肉薄し、馬印まで倒した。家康はたまらず後退し、討死も覚悟する程であった。この時、毛利隊も徳川本隊に迫っており、真田隊と共に挟撃した、あるいはその前面の徳川諸隊と渡り合っていたとされる。家康を追い詰めた真田隊であったが、この後、態勢を立て直した松平忠直隊の反撃を受けて、徐々に押し戻されていく。そして、午後15時頃、信繁は、茶臼山北方の安井神社まで辿り着いたところで力尽き、討死してしまう。


真田隊の全滅をもって豊臣方の攻勢は潰え、総崩れとなって城へと引き戻っていく。そんな中、毛利隊は殿を務めて、敗兵の撤退を助けていた。そこへ、徳川方の、藤堂高虎隊と、井伊直孝隊が追撃してくると、吉政は反撃に打って出た。毛利隊は連戦に次ぐ連戦で疲労の極みにあったが、味方の退却を助けるべく、戦場に踏み止まった。そんな毛利隊を見て、大野治長、浅井周防の隊、その他、遊軍となっていた残存部隊も集まってきて、最後の反転攻撃に転じる。井伊隊は苦戦に陥って、旗奉行2人が討ち取られ、藤堂隊も敗走しかかって、激怒した高虎は、「敗走する者は射殺せよ」と喚き叫ぶほどであった。ようやくのところで、井伊隊、藤堂隊は持ちこたえ、細川隊の来援をもって、毛利隊に鉄砲の集中射撃を浴びせかけた。吉政は頃合と見て退却に転じ、大阪城と天王寺の中間にある小橋野(おばせの)という地を通過していった。


藤堂隊は逃すまいと猛追してきたが、ここで吉政は、埋火(まいび、火縄の付いた火薬箱)をもって、食い止めんとした。そして、藤堂隊が接近したところ、堤に並べ置いた埋火を次々に爆発させて、大混乱に陥らせた。その隙に毛利隊は、城へと退き取っていった。 最後の決戦の日を戦い抜いて、吉政は大阪城まで帰り着いた。そして、この時、家臣の宮田甚之丞に遺品を託して、土佐に落とさせている。それは、水牛の兜と、信光作の名刀、豊臣家から拝領したとされる陣羽織であった。これらの遺品は、やがて土佐山内家の預かるところとなって、現在まで残されている。翌5月8日、豊臣家は最後の時を迎え、秀頼と淀殿は自害して果てる。秀頼の介錯を務めたのは、大野治長、速水甲斐守、あるいは吉政であったと云う。


主君の最後を見届けた後、吉政はあの世までもお供せんと、自害して果てた。毛利豊前守吉政、享年38。その嫡男、勝家も豊臣家に殉じて果てた。毛利式部勝家、享年16。豊臣家の象徴たる、大坂城天主は炎を上げて燃え盛り、やがて崩れ落ちていった。100年余に渡る戦国の大乱は、大坂落城をもって終わりとなった。真田信繁ら他の浪人集は、武名を上げんとして、または御家再興を夢見て戦ったのだが、吉政だけは、ただ純粋に豊臣家の為に戦っていたと思われる。土佐には、次男の太郎兵衛、吉政の妻と2歳になる娘が残されていたが、山内氏に身柄を拘束されて上方に送られた。太郎兵衛は処刑されたが、妻と娘は助命されて、家康の側室、お夏の方に預けられた。妻は侍女として長く仕え、娘は長じて有徳人に嫁ぎ、やがて母も呼び寄せて暮らしたと伝わる。



主要参考文献、今福匠著「真田より活躍した男 毛利勝永」

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