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高野山

2008.10.26 - 戦国史 其の一
高野山は、和歌山県東北部にある真言密教の大寺院です。

2006年の秋、私は高野山を訪れてきました。車で2時間ほどかけて高野山の麓に着きましたが、ここからがまた長い!4、50分ほど山道をひたすら上がって行ってようやく高野山に到着したと記憶しています。そこはまさに、山上の都市といった観がありました。


金剛峯寺、奥の院、霊宝館、等あちこちを見て回りましたが、私的に一番見応えがあったのは、奥の院に行く道筋の傍らにある有名な戦国武将の墓の数々でした。ここ高野山には、豊臣秀吉、織田信長、武田信玄、上杉謙信、石田三成、伊達政宗など、戦国を代表する錚々たる顔触れの武将達の墓や供養等が建立されています。それは大名の権力を誇示するかのような、巨大な独特の形であったり、質素な小さな墓まで様々でした。それらの墓は大きな杉木立と緑の苔の間にあり、静かで厳かな雰囲気を漂わせていました。


この高野山なんですが、戦国期には17万石余りの寺社領を有する、戦国大名並の戦力を持った勢力であったそうです。宣教師ルイス・フロイスの記述によれば、高野山には坊主、4、5千人が居住しており、一大共和国の様相を呈していたともあります。そして、17万石といえば1万石で250人の兵力を得られたとすると、4250人の兵力を養えるという大体の計算になります。 古くからの歴史がある寺院であり、信者を始めとする多くの人々からの寄進も有るだろうし、実際にはもっと多くの戦力を養う、大きな影響力のある勢力だったのではないかと思われます。事実かどうかはわかりませんが、高野山は数万の僧兵を擁していたとも云われています。


そういった高野山の勢力には、各国の戦国大名も目を付けていた様で、ある者は協力を仰ぎ、ある者は脅威に思ったようです。上杉謙信は天下統一のために是非、高野山の力を借りたいという手紙も残っているそうです。織田信長の場合は、高野山を目障りと感じたのか、これに兵を差し向けています。天下統一の途上にあった織田信長は、自らの御膝元とも言える畿内に、自分の権力が及ばない地域が有る事が許せなかったのでしょう。それと高野山は謀反を起こした荒木村重の残党を匿った事もあって、信長は高野聖を数百人殺害し、天正9年(1581年)には軍を派遣し、高野攻めを行います。その後も両軍は対峙し続け、信長はやがて総攻撃を行う事とし、高野山の包囲を続けます。
 

天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変が起こった事により、織田軍は囲みを解き、高野山は難を逃れます。この本能寺の変が起こらなければ、やがてはこの高野山も、比叡山延暦寺の様に焼き討ちの憂目を免れなかったでしょう。その信長の墓が、高野山に建立されて供養されているのは、何とも皮肉です。その後、高野山は次の天下人、豊臣秀吉とも対立します。秀吉は紀州攻めを決行して、雑賀、根来寺を焼き払い、次に高野攻めを行う準備をします。それを見た高野山は秀吉に和を請い、2万石に減封された上で、武装解除します。こうして、高野山は近世の統治体制に取り込まれてゆきます。


こうした事例は、高野山だけでなく、全国の寺社仏閣に適用されました。次の天下人、徳川家康の時代になると、高野山はその庇護を受けて、後の世まで存続していく事になります。 そして、後世に数多くの文化財を伝え残しています。


高野山のHP




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