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文化14年(1817年)12月20日、北越の新発田藩(溝口家5万石)にて、一件の殺人事件が起こった。滝沢休右衛門と言う藩士が、城下町の酒場にて、同じ新発田藩士である、久米弥五朗と口論した挙句、相手を殺害したのである。休右衛門は事件後、逃亡し、行方をくらませた。その結果、滝沢家は喧嘩殺人の上に出奔の罪で断絶となった。そして、被害者である久米家も、主人が斬り殺されたとあって改易となった。
久米家に残された遺族は、妻と一女二男である。娘は10歳、長男、幸太郎は7歳、次男、盛次郎は4歳であった。家禄は没収され、屋敷を追われたが、遺族には年30表の合力米が与えられた。久米家が再び御家を再興するには、仇討ちを果たす必要があった。そこで、弥五朗の弟である、板倉留六郎(32歳)が幼い兄弟を育成し、仇討ちを成就させるために後見人となった。
以後、久米家の遺族、親戚はあらゆる方法で滝沢休右衛門を探索したが、その行方はようとして知れず、空しく11年の歳月が流れた。文政11年(1828年)留六郎は43歳、幸太郎は18歳、盛次郎は15歳となった。同年5月5日、3人は藩主、溝口直諒(みぞぐち・なおあき)に御目見えし、格別の思し召しによって兄弟には刀一振りと金30両、留六郎にも金15両が下賜された。さらに家老からも激励の言葉をかけられ、3人は恐縮して平伏した。藩主と家老からの直接の激励と援助と云う、大変な配慮を受けた3人であったが、その反面、この仇討ちからは決して逃れられない身となった。すなわち、人生の枷となって重く圧し掛かって来るのである。
仇討ちには守るべき内規が定められており、その幾つかを挙げてみる。
仇討ちには公許が必要であり、追跡が藩外に及ぶ場合、幕府に届け出る必要がある。宮中、江戸城内、寺社の境内での仇討ちはご法度である。一度、仇討ちの旅に出たならば、本懐を遂げずに生国に帰る事はできない。探す敵が死んでいた時は、その証拠となるものを持ち帰らねばならない。仇討ちの繰り返しである重敵(じゅうがたき)は、再現なく恨みが続くため禁止である。主君の手討ちは誰も復讐できない。また、親が子の内、兄を手討ちにした場合、その弟は兄の仇を討つ事はできない。一方、敵と狙われる方は、卑怯者と言われようと、あくまで討たれないように工夫し、逃げおおせるのが武士の誉れとされた。返り討ちをして、さらに逃亡する事も卑怯ではない。仇討ちは、敵にめぐり合うまでが実に大変であった。仇討ちの成功率は、実に百分の一であったらしい。
3人は幕府に届けを出し、いよいよ仇討ちの旅へと乗り出した。こうした旅の場合、虚無僧に身を変えるのが便利であったので、3人は秀峰山明暗寺を訪れると、そこに入門を願い出た。3人は明暗寺にしばらく滞在して、尺八を習い覚えた。一通りの修行を終えると、3人は黒衣の袈裟をかけ、明暗寺発行の通行手形を手にして山門を出た。この通行手形が有れば、関所の通過は容易となる。3人は東北一円を巡りながら、人の集まる場所に顔を出しては休右衛門の人相画を差し出し、その特徴を語って熱心に情報を求めた。
3人はさらに全国をほぼ一回りしながら、仇を捜し求める。そして、10年の歳月が流れた。留六郎は53歳、幸太郎は28歳、盛次郎は25歳となった。留六郎と同輩の者達は、楽隠居をしていたであろう。兄弟も妻を娶っていてもおかしくない年頃であったが、このような境遇ではそれも叶わなかった。この間、仇討ちの為に貯めてきた費用や、藩主から下賜された45両の金も底を突いてしまう。3人は代わる代わる病気に罹り、長期間、寝込んだ事もあった。
凶事の日から、21年の歳月が流れ、仇の滝沢休右衛門は63歳になっているはずであった。最早、生きているかどうかも定かではない。これからは休右衛門の生死を確かめる事も急務となってきた。3人は話し合って、武蔵にある普化宗鈴法寺(ふけしゅうりほうじ)に再入門する事にした。明暗寺で得た僧籍は金銭で買える仮印可であり、正式の僧として認められた訳ではなかった。そこで3人は鈴法寺で正式な印可をもらい受けようと、修行に励んだ。これは、路銀が底を突いた今、生活の手段として托鉢をする必要があったのと、各地の寺院を訪ねてその協力を仰ぎ、墓地を調べて休右衛門の生死を確かめる必要に迫られた為であった。3人は所定の修行を終えると、正式な僧として法号を得た。
3人は托鉢をしつつ仇を尋ね、無縁仏の墓を調べる旅がさらに10年続いた。留六郎は63歳、幸太郎は38歳、盛次郎は35歳となった。この間、幸太郎は医者を開業し、盛次郎は習字の塾を開いた事もあった。留六郎は老齢となって体が弱り、旅が困難になっていた。嘉永4年(1851年)、隠居して健斎と号していた前藩主、溝口直諒は、まだ本懐を遂げれずに諸国放浪を続けている久米兄弟を哀れんで一文を綴っている。
安政4年(1857年)、弥五朗が殺されてから、40年の歳月が流れた。留六郎は72歳、幸太郎は47歳、盛次郎は44歳となった。この頃になると3人の結束も乱れ、三者三様の考えを持つ様になっていた。あくまで仇討ちの執念に燃えているのは長男、幸太郎1人だけであった。仇討ち40年の歳月は、3人の間に亀裂を作っていたのかもしれない。3人は別行動を取るようになっていたが、連絡場所だけは決め合っていた。
その頃、伊達領、仙台城下のはずれにある曹洞宗金剛寺では、久米兄弟の事が話題に上っていた。そこの住職、大雲和尚には、久米兄弟の仇である滝沢休右衛門に良く似た怪しい人物が思い浮かんできた。その人物とは、伊達領、牡鹿半島にある洞福寺の住職を務める黙照(もくしょう)という老僧であった。この黙照は新発田出身のようであるが、何故かその事に触れられるのをひどく嫌うのであった。檀家の話では、黙照は昔から他国者を異様なほど警戒して、滅多に外に出ないと云う事であった。さらに黒衣の懐に、短刀を忍ばせているのを目撃した人もいた。大雲和尚は、この事を久米兄弟に知らせた。
吉報を聞きつけ、真っ先に駆けつけたのは、やはり幸太郎であった。幸太郎は洞福寺を訪れ、密かに黙照をかいま見たが、面体を知らないので休右衛門とは断定出来なかった。休右衛門の顔を知っている頼みの伯父、留六郎はまだ未着であった。そこで、幸太郎は新発田に戻り、休右衛門の顔を見知っている老齢の親戚、板倉貞次と渡辺戸矢右衛門に同行を願い、再び洞福寺を訪れた。渡辺戸矢右衛門は洞福寺に紛れ込み、黙照が休右衛門である事を確認した。だが、寺内での決闘はご法度であったので、本懐を遂げるには用心深い黙照を寺から誘き出す必要があった。そこで幸太郎は、洞福寺の本山にあたる海渓寺の住職に懇願して、黙照を呼び出してもらう事にした。
安政4年(1857年)10月9日正午頃、3人は牡鹿半島、祝田浜の林に身を潜めて待ち受けていたところ、老僧が足取りもおぼつかずに歩み寄ってきた。幸太郎は躍り出て長刀を振り上げると、名乗りを挙げた。老僧は驚いて、「拙僧は出羽の生まれの黙照と申す者、老いた出家に御無体なされますな」と言って震えながら手を合わせた。その哀れな姿に、幸太郎の心に迷いが生じる。相手は仇とはいえ、82歳の老齢である。それに40年もの歳月の間に、怨恨はほとんど消えてしまっていた。あるのは義務感だけであった。老僧は、幸太郎がひるむのを見ると喜色を浮かべ、「人違いである事が、お分かりか」と云って立ち去ろうとする。だが、その前に、「滝沢、よもや我らを忘れはしまい」と板倉貞次と渡辺戸矢右衛門が立ち塞がった。
老僧は旧知の出現にしばし唖然としていたが、ついに観念したのか、「いかにも、わしが滝沢休右衛門である」と告げた。そして、板倉貞次が、「幸太郎、討て!」と叱咤した。幸太郎は夢中で刀を振り下ろすと、無抵抗の休右衛門は血飛沫をあげて倒れた。実に40年もの辛苦が報われた瞬間であった。この瞬間のため、果てしない闇夜に一点の灯火を求めるような旅を、数十年に渡って続けてきた。風雨に打たれつつ諸国を巡り、托鉢で物乞いして糊口を凌ぐ毎日であった。少年は青春も知らず、人間らしい生活も送れないまま、中年となった。余りにも多くのものを失ってきた幸太郎に、この時、どのような思いが去来したであろう。辛苦と責務からようやく解き放たれたという開放感であったのか、それとも言い様の無い虚無感であったのか。この時、久米幸太郎47歳、弟盛次郎44歳、叔父板倉留六郎72歳、滝沢休右衛門82歳であった。
この後、新発田に帰国した幸太郎は家名を再興した上、250石に加増された。間に合わなかった弟、盛次郎と伯父、留六郎にも長年の労苦を賞され、それぞれ扶持が下された。仇討ちの手助けをした、板倉貞次と渡辺戸矢右衛門にも褒賞が与えられた。宮城県石巻市祝田浜には、「久米幸太郎仇討の地」と書かれた碑が置かれている。
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2009.02.07 - 城跡・史跡訪問記 其の一
彦根城は滋賀県彦根市金亀町にある近世城郭です。日本には天守閣が現存している城が12城ありますが、彦根城もその一つです。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦後、要地である近江北東部を領有していた石田三成に代わって、徳川家の重鎮、井伊直政が入封する。直政は、石田三成が居城としていた佐和山城に代わって、新たな城の築城を計画していたが、関ヶ原の戦傷がもとで慶長7年(1602年)に死去する。
直政の意志は嫡男の直勝とその重臣達に引き継がれ、彦根城の築城が始まる。慶長8年(1604年)から築城が始まり、天守閣は慶長12年(1607年)頃に完成するが、城郭全体の完成を見たのは元和8年(1622年)三代目、井伊直孝の時代だった。

↑彦根城天守閣
小振りですが、国宝に指定されている貴重な建造物です。

↑本丸近くでひこにゃんに出会いました。
私は最初、ひこにゃんの事を快く思っていませんでした。「城にゆるキャラなど似合ぬ!見かけ次第、成敗してくれるわ!」と意気込んでいました。そして、ひこにゃんを見かけるや否や、私は「ひこにゃん、覚悟ぉー!」と近寄ったものの、その可愛ゆさの前に返り討ちに遭い、「ひこにゃーん、こっち向いて~」と、カメラでパシャパシャ撮りだしてしまう始末でありました。

↑ひこにゃん
現在の彦根城主です。笑

↑佐和山城跡
彦根城からは、かつて石田三成の居城であった佐和山城が見渡せました。

↑玄宮園
見応えのある大名庭園でした。どの季節に訪れても目を楽しませてくれそうです。

↑玄宮園と彦根城天守閣
彦根城はここから眺めるのが、最も美しいんじゃないでしょうか。
この庭園を作った人物は、この眺めになる様に計算していたのでしょう。
彦根城は家族連れ、老若男女問わず、万人が楽しめる城だと思います。
織田信長が現在に生まれて、就職活動をすると仮定してみた。
はたして、信長は内定を勝ち取ることができるだろうか?
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| ( ●)(●) 学生時代に
| (__人__) 打ち込んだものは
| ` ⌒´ノ 何ですか?
| }
ヽ }
ヽ、.,__ __ノ
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/ (●) (●) \ 博打と鉄砲だな
| (__人__) |
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,,.....イ.ヽヽ、___ ーーノ゙-、.
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> ヽ. ハ | ||
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| ( ○)(○) どちらも
| (__人__) 違法なんですが・・・
| ` ⌒´ノ
| }
ヽ }
ヽ、.,__ __ノ
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| ( ●)(●) 当社で働くにあたって
| (__人__) その意気込みを
| ` ⌒´ノ 語っていだだけますか。
| }
ヽ }
ヽ、.,__ __ノ
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黙って、俺に付いて来い!!!
,.へ
___ ム i
「 ヒ_i〉 ゝ 〈
ト ノ iニ(()
i { ____ | ヽ
i i /__, , ‐-\ i }
| i /(●) ( ● )\ {、 λ
ト-┤. / (__人__) \ ,ノ  ̄ ,!
i ゝ、_ | ´ ̄` | ,. '´ハ ,!
. ヽ、 `` 、,__\ /" \ ヽ/
\ノ ノ ハ ̄r/:::r―--―/::7 ノ /
ヽ. ヽ::〈; . '::. :' |::/ / ,. "
`ー 、 \ヽ::. ;:::|/ r'"
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| ( ●)(●)
| (__人__)
| ` ⌒´ノ ところで信長君
| } そのタメ口は何とか
ヽ } なりませんか
ヽ、.,__ __ノ
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/⌒ ⌒\ ホジホジ
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/::::::⌒(__人__)⌒::::: \ で、あるか
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\ 〈__ノ /
ノ ノ
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ヽ、.,__ __ノ
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後日、信長に手紙が届きました
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/ 当然 /ヽ__//
/ 不合格 / / /
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/ ̄ ̄ ̄ \ これで100社全滅・・・
/ :::::\:::/\ 俺のどこに問題が
/ 。<一>:::::<ー>。 あるんだ・・・
| .:::。゚~(__人__)~゚j
\、 ゜ ` ⌒´,;/゜
/ ⌒ヽ゚ '"'"´(;゚ 。
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と___)_ヽ_つ_;_ヾ_つ.;.
信長が現代に生まれたとして、平社員として出発したならば、能力があってもその奔放な性格が災いして出世するのは難しいんじゃないでしょうか。始めから二代目社長の椅子が用意されていれば、大企業に育て上げたかもしれませんが、最終的には部下から追放されそうです。
元亀元年(1570年)3月、肥前の戦国大名、龍造寺隆信は存亡の危機に立っていた。隆信はこれまで九州の大大名、大友宗麟に表面上は従っていたが、その裏では近隣の大友方豪族を攻め立てて、勢力を拡大していった。だが、宗麟にその行動を見咎められ、6万と号される一大討伐軍が佐賀城に差し向けられたのである。これに対する龍造寺方は5千人余しかなかった。
∩___∩
/ ノ \ ヽ
| ● ● | なにマジになってんの?
彡 (_●_) ミ
/、 |∪| ,\ シャケの切り身やるから
/.| ヽノ | ヽ 仲直りしようクマー
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|,,ノ;;:;r'" ̄ ゙̄^"`Y'-、;;;::;:;::;:;:;:;::;:|
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| (●), 、(●)、 | NO THANK YOU
| ,,ノ(、_, )ヽ、,, | クマ臭いシャケ
| ,;‐=‐ヽ .:::::| なんていらない
\ `ニニ´ .:::/
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ヽ ,イ ヽ :イ
元亀元年(1570年)8月19日、龍造寺方の籠城は半年にも及んだが、事態が好転する兆しはまったく見えなかった。龍造寺方には、援軍もなく焦燥の色が濃くなってくる。そして、いよいよ大友方の総攻撃が決まり、その督戦をするべく、宗麟の一族、大友親貞が今山に着陣したとの報がもたらされた。佐賀城内は、沈鬱な空気に包まれる。
城内では和平を望む声が高まり、隆信もその意見に心が傾く。そういった折、隆信が出していた斥候が 「大友方は今夜、戦勝の前祝いに酒宴を開く」との報をもたらした。重臣、鍋島直茂はそれを聞いて 「この絶好の機会に今山へ夜襲すべし」と具申した。だが、危険な賭けであって、隆信は尚も迷う。
∩___∩
(ヽ | ノ ヽ /)
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/∠彡 ( _●_) |_ゝ \
( ___、 |∪| ,__ )
| ヽノ /´
| / クマッた
三 | / クマッた
| -―'' ̄ ̄ ヽ
ゝ __,,-―'、 \
三 __/ / \ \_/|
/ __ _/ \_'丿
軍儀を聞いていた隆信の母、大方殿(慶誾尼)はここで口を開き、「男ならば、死生二つの勝負を決せよ」と皆を叱咤激励する。
大方殿 「何を迷いなさるか!母は臆病な穴熊を生んだ覚えはありませぬぞ!男なら討って出て一世一代の勝負を挑みなされ!そして大将首を討ち取ってヒグマになりなされ!」
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丶.-'~;;;;;;;;;;;;;;~'-、
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l;;;;;;;;;;' ノヽ .;;;;;;l
k;;;;;;;' ⌒''ヽ,,,)ii(,,,r'''''' ;;;;;l 勝負じゃあああ!!!
ヘ ヽ;; ン(○),ン <、(○)<::;; ノ |`ヽ、+
∧. `⌒,,ノ(、_, )ヽ⌒´ | .|::::ヽ.l +
/ キ ヽ il´トェェェイ`li r /ヽ、.|::::::i |
./ ヽ 、 !l |,r-r-| l! / .|:::::l |
/ ヽヽ、 `ニニ´/ ,r-|:「 ̄
`\\// ,U(ニ 、)ヽ
人(_(ニ、ノノ
-ーー ,,_
r'" `ヽ,__ 宗麟より母ちゃんの方が
\ ∩/ ̄ ̄ ヽつ 怖いクマー・・・
ノ ̄\ /"ヽ/ " ノ ヽ i
| \_)\ .\. ○ ○|\アウアウ
\ ~ ) \ .\_ U( _●_)\_つ
 ̄ \_つ-ー''''
これを聞いた隆信にもはや迷いはなかった。覚悟を決め、一大勝負に討って出る事を決めたのである。やはり隆信は一角の男だった。
・, `ヽ`、
(´、_ ) ) (、 :、
’ ) ) ( (__ノ )( ( ;
)ヽ, ( `'´ (__ノ ) 、 母ちゃんに殺されるから
( (__ノ ( )`、 勝負するクマー!!!
; ) ∩___∩ `ー' ) ,
(´、 ( | ノ ヽ/⌒) ( (
) `ー' ./⌒) ● ●| | ) )`ヽ
、 ‘ ( / / ( _●_) ミ./ `ー' i
)ヽ. ヽ ( ヽ |∪| / ,ノ_
( `ー' \ ヽノ / (__`; )
ヽ / / (
) | / )
( .| /| / (´
ヽ | / | / _,ノ
i .∪ ∪ ;'
隆信はこの家運がかかった夜襲の指揮を、腹心であり義兄弟でもある直茂に委ねた。8月20日早朝、直茂は800人余の兵を引き連れ、秘かに大友方の陣営に忍び寄る。夜が明けるや否や、龍造寺軍が一斉にときの声を上げると、酒宴明けで寝ぼけ眼の大友方は大混乱に陥った。そして、乱戦の最中、成松信勝が大友方の大将、大友親貞を討ち取るという殊勲を挙げた。
●
目
..-──- 、
▲ ヽ , - ´~~` -、 大儀であった!
/ ● ● | \ 天晴 / 苦しゅうないぞよ
| ( _●_) ミ ヾア
彡、 |∪| 、`\ノつ
/ __ ヽノ /´ヽ ノ
(___) /
<(_ _)> <(_ _)> ハハーッ
鍋島直茂 成松信勝
∩___∩
| ノ ヽ 褒美にシャケをあげるクマー
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| ( _●_) ミ___l l i //
彡、 |∪| _____)⌒|
/ ヽノ / / |7
ヽ| / i! |
| / | !7
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| / l _/ | ,!
∪ ヽ_) ヾi!_ノ
(。□。;)ガーン!! (;゚□゚)ガーン!! 褒美がシャケ・・・
今山の戦いの後、宗麟は隆信からの講和を受け入れ、不本意ながらその所領を安堵した。
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/:::::::ヽ____/::::::::ヽ、
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/ / °ヽ_ヽv /:/ °ヽ::::::ヽ クマのくせにぃー
/ /.( ̄( ̄__丶 ..( ̄(\ ::::| くやじいー
. | .:::::::: ) )/ / tーーー|ヽ) ) .::::: ::|
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(ヽ | ノ ヽ /)
(((i ) / (゜) (゜) | ( i))) バーカ
/∠彡 ( _●_) |_ゝ \ バーカ
( ___、 |∪| ,__ )
| ヽノ /´
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形式上は宗麟に屈服した形であったが、隆信はその後も肥前の平定を進めてゆき、後には、五州二島の太守と呼ばれるまでの大武将に成長してゆく。
肥前のクマさん 「ヒグマにレベルアーップ!俺様の時代がキターーーーッ!!!」
┏/ >>>>ゝヽ'人∧━∧从〈〈〈〈 ヽ.━┓。
┏┓ ┏━━┓ < ゝ{ ⊂>’ 、 ' 〃Ν ; 〈⊃ }..ゝ '┃. ┏┓┏┓┏┓
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┗┓┏┛┗┛┃┃┗━ ┃ \ | ( _●_) ミ/ て く、 ━━┛┗┛┗┛┗┛
┃┃ ┃┃ ┠─ムヽ 彡、 |∪| / .┼ ァ Ζ┨ ミo'’` ┏┓┏┓┏┓
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○ .┃ `、,~´+√ ▽ ',!ヽ.◇ ; o┃
. ┗〆━┷ Z,.' /┷━.''o ヾo┷+\━┛,゛;
今山の合戦後、龍造寺隆信は近隣の平定を進め、肥前に確固たる基盤を築き上げる。そして、天正6年(1578年)11月12日、大友宗麟が耳川の戦いに敗れるや否や、隆信は間髪いれずに大友領へと攻め込み、その勢力を大きく伸ばした。
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))。I/:: :: \ |I。( ∥|
\ \::_::_:: / / ∥| ワシに続けクマー!!!
,/::\_((⌒) /ヽ ∥| がおーーー!
/,\=ニニ二二ニ=/,ヽ++-
\ / ● ● ヽ/つ⌒)
/// ( _●_) ミI /|x|
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/ニ// ,|。|_ ヽノ _|。|_ノ\
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 ̄Tニ===∞===ニ!,〆`"
{I|三三|⌒I|三三〕
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∪ ( ̄\
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おーーーーー!!!殿に続けー!
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ヽ|・∀・|ノ ヽ|・∀・|ノ ヽ|・∀・|ノ ヽ|・∀・| ノ ヽ|・∀・|ノ
|成松| |百武| |江里| |円城|ゝ |木下|
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龍造寺四天王プラス1
九州一の勢威を誇っていた大友家が衰退すると、やがて九州は佐賀の龍造寺家と、薩摩の島津家との二強対決となる。島原半島の領主、有馬晴信は龍造寺家に服していたが、島津家と通じて反旗を揚げた。島津義久はこれを好機に龍造寺家の間近に橋頭堡を築かんとして、島原半島に弟、島津家久を送り込む。隆信もこれを好機に有馬家を討ち滅ぼし、島津家に痛打を与えるべく、自ら大軍を率いて島原半島に乗り込んで行く。これが、世に云う「沖田畷の戦い」である。
ちょっとシャケを食べ過ぎたクマー
ついでに生意気な島津と有馬もたいらげてやるクマー プマプマ~♪
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/ノ ヽ
/ ● ● l
| ( _●_) ミ ミ
彡、 |∪| 、`
/ ヽノ ::::i \
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\ | :/ タップン タップン
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ポカーーン ・ ・ ・妖怪ぬりかべ?
( ゚д゚) ・・・( ゚д゚) ・・・( ゚д゚) ・・・
( ゚д゚) ・・・( ゚д゚) ・・・
龍造寺四天王プラス1
殿ッ!その体型では戦になりませぬぞ!!!
m9っ`Д')
ビシッ! m9っ`Д')
ビシッ! m9っ`Д')
ビシッ!
m9っ`Д')
ビシッ! m9っ`Д')
ビシッ!
∩_∩ ;
; | ノ|||||||ヽ ` 皆さん手厳しいクマね・・・
, / ● ●| 必死に減量してきたクマ・・・
;, |\( _●)/ ミ さあ、ワシに付いて来るクマ・・・
; 彡、| |∪| |、\ ,
./ ヽ/> ) :
(_ニニ>/ (/ ;
; | | ; しおしお~~
' \ヽ/ / :
, //\\ .
; し' '`| | ;
はあ~・・・
('A`)・・・('A`)・・・('A`)・・・
('A`)・・・('A`)・・・
大丈夫かな、今回の戦・・・
( ´д)ヒソ(´д`)ヒソ(д` )( ´д)ヒソ(´д`)ヒソ
天正12年(1584年)3月24日払暁、隆信の采配の下、龍造寺軍は一斉に雄叫びを上げて、島津方へと攻め込んでゆく。隆信自身は中央の軍を指揮して、敵陣に強攻をかけた。
∩___∩
ノ ヽ /⌒)
/⌒) (゚) (゚) |/ /
/ / ( _●_) ミ/ 一番槍にはシャケの
.( ヽ |∪| / 切り身を与えるクマー!
\ ヽノ / かかれクマーッ!!!
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) )
( \
\_)
うおおーーー!褒美は微妙だが、突撃ぃーー!
ヽ( `皿´ )ノヽ( `皿´ )ノヽ( `皿´ )ノ
ヽ( `皿´ )ノヽ( `皿´ )ノ
龍造寺軍は2万5千余の兵と3千余の鉄砲を有し、これに対する島津・有馬連合軍は7~8千余の兵力でしかなく装備面でも劣っていた。しかし、島津軍は、狭隘な地形に築いた大木戸と塁壁を楯として奮戦する。龍造寺軍は緒戦は優勢であったものの、島津軍の頑強な抵抗を受けて苦戦する。そこで隆信は兵を叱咤すべく、自ら最前線に乗り込んでいった。
∧ ∧ ←鍋島直茂
(・∀ ・) <殿っ薙ぎ払えーー!
∩( っ¶っ¶∩
| ノ  ̄ ̄ ̄ ヽ
ズシーン / ●:::::::::::● | ンゴォォォォォー!!!
| :::::::( _●_):::: ミ
彡、::::::::: \\\:::::、`\
( . .:.::;;;._,,'/ __::ヽノ\\\:::/´> )
).:.:;;.;;;.:.)(___)::::::::::/\\\ (_/ ズシーン
ノ. ..:;;.;.ノ | ::::::::::::::::::::/ \\\
( ,.‐''~ ワー | ::::/\:::::\ . .\\\丿ヽノヾ/丶
(..::;ノ )ノ__. _ | ::/ _ )::::: _)ゴー..ヽ\\_ノヽノヽノヽ )
)ノ__ '|ロロ|/ \∪.___.|ロロ|/ \/ヽ ヽ\ )ノ
_|田|_|ロロ|_| ロロ|_|田|.|ロロ|_| ロロ|_ (.:;;.;;丶 丿ソ
おおー!!!さすが殿でござる!
ヽ(`Д´)ノヽ(`Д´)ノヽ(`Д´)ノヽ(`Д´)ノヽ(`Д´)ノ
だが、隆信は前進し過ぎて、やがて乱戦に巻き込まれてしまう。そして・・・
何だあれ?シャケかな
∩___∩ |
| ノ\ ヽ |
/ ●゛ ● | |
| ∪ ( _●_) ミ j
彡、 |∪| | J釣り野伏せ
/ ∩ノ ⊃ ヽ
( \ / _ノ | |
.\ “ /__| |
\ /___ /
はて、何でござろうな?
(・д・)ジーッ(・д・)ジーッ(・д・)ジーッ
(・д・)ジーッ(・д・)ジーッ
とりあえず食べてみるクマ
ムシャ |
ムシャ |
∩___∩ | ぷらぷら
| ノ ヽ (( |
/ ● ● | J ))
. (( | ( _●_) ミ ・
彡、 |∪}=) ,ノ ∴a
| ヽ \ |
| ヽ__ノ
殿っ!戦場で拾い食いはよくありませぬぞ!
(;゚□゚) (;゚□゚) (;゚□゚)
(;゚□゚) (;゚□゚)
\ ∩___∩
. \ | ノ ヽ
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\| ( _●_) ミ つっ、釣られたクマーーーっ!!
彡、 |∪| ,/..
ヽ ヽ丿/ /⌒|
/ \__ノ゙_/ / =====
〈 _ノ ====
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\___)___)(´;;⌒ (´⌒;; ズザザザ
ああっ!殿ーーーっ!!!だから言わんこっちゃない!
Σ(゚Д゚;)!Σ(゚Д゚;)!Σ(゚Д゚;)!
Σ(゚Д゚;)!Σ(゚Д゚;)!
隆信が馬上で叱咤激励していた時、忍び寄ってきた島津兵によって槍で突き倒され、その首級を奪われてしまう。隆信戦死の報が伝わると、龍造寺軍は恐慌状態に陥った。九州の太守にならんとした隆信の大望は、こうしてあっけなく潰えてしまったのである。
殿ぉ!!!我らもお供仕るー!
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龍造寺四天王の武将達は主君の最後を聞くと、仇を討たんと戦場に飛び出していったが、隆信に殉ずるように皆、討死を遂げてしまった。(木下は生死不明)この後、隆信が一代で築き上げた勢力圏は崩壊し、肥前の一大名に転落してしまう。隆信の跡を継いだ政家には、父ほどの器量はなく、家中の采配は鍋島直茂に委ねられた。その過程で主従の上下は逆転し、やがて佐賀の地は鍋島家が支配するところとなった。
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↑上記のような事を書いておきながら、なんですが・・・九州三強と呼ばれた大勢力、島津家・大友家・龍造寺家の中で、個人的には龍造寺家が一番好きですね。龍造寺隆信の世間の評判はあまり良くありませんが、一国人から一代で五州二島の太守と呼ばれるほどの勢力を築き上げた手腕は、一代の傑物であったと云わざるを得ないでしょう。隆信は豪胆な武辺一辺倒の武将に思われがちですが、実際には謀略と軍略に長けており、宇喜多直家に近い武将であったのではないでしょうか。