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世界最高峰に埋もれた謎 1924ジョージ・マロリーのエベレスト挑戦 3

2009.03.05 - 歴史秘話 其の一
●調査隊が推測したマロリー、アーヴィンの遭難の様子



2人は頂上に達したかどうかはともかく、これまでに人類が到達した事のない高みに立った。しかし、疲労も甚だしく、酸素も切れていた。それでも2人は力を振り絞り、日没前に最大の難所であるセカンドステップを下り終える事に成功する。そして、ファーストステップも下り終えて、イエローバンドに達した時、辺りは闇に包まれた。マロリーは、ランタンと懐中電灯をキャンプに置いてきているので足元は照らせなかった。なので、ほのかな月明かりだけを頼りに、石灰岩の脆い岩の連なりを下りて行かざるを得ない。2人は水分不足や酸素不足に加え、極度の疲労もあって意識が朦朧としていた。それに最大の難所を超えたのと、キャンプを目前にした安堵感もあって、ふと心が緩んだのかもしれない。垂直な岩壁が横たわる危険箇所に差し掛かった時、マロリーは雪疵(せっぴ・雪の塊)を踏み外して、滑り落ちてしまった。



2人はロープで体を結び合っていたが、激しい衝撃によって切断されてしまう。その直後、マロリーは片足で斜面に着地した為、右足が登山靴の上で折れてしまった。そのまま急斜面を滑り落ちて、暗黒の谷底へと向かっていく。だが、彼は諦めず、体をひねって岩屑の斜面に指先を食い込ませて、体を停めようとした。手袋はすぐに裂けたが、それでも腕と指の力だけで必死に食い止めようとする。その最中、傾いた岩に打ち当たって、体が宙に舞い挙がった。そして、斜面に激しく叩きつけられ、尖った岩に額を激しくぶつけた。滑落の速度は緩んできて、ようやく体は停止した。しかし、致命傷を負ったマロリーが、再び立ち上がる事はなかった。



アーヴィンの方は、どうなったのだろうか。(1933年)イギリスの第4次遠征隊がエベレストに挑戦した際、標高8460メートル地点で、アーヴィンのピッケルを発見している。そのピッケルには滑落したような傷跡はなく、ただ岩の上に置かれていた。事故の際、アーヴィンは滑落を免れ、ピッケルをその場において親友を助けようとしたのだろうか。しかし、最早、どうする事も出来ず、1人で下山に取り掛かろうとして、途中で力尽きたのかもしれない。それとも、やはり事故の際、ピッケルを取り落として、一緒に滑落してしまったのかもしれない。いずれにせよ、アーヴィンは氷雪の山塊に倒れ、短い22年の生涯を閉じた。その遺体は、現在も発見されていない。マロリーとアーヴィンは、第6キャンプまで後僅かという距離に達していながらの無念の遭難死であった。




●マロリーとアーヴィン、その人となり



ジョージ・レイ・マロリー(1886年6月18日~1924年6月8日)


マロリーは牧師の子として生まれる。その風采は極めて優れており、整った顔立ちに洗練された雰囲気を漂わせていた。彼は非常に神経質なタイプで自身たっぷりだったかと思うと、心許なくなって沈み込み、感情の振幅が激しいところがあった。だが、登山者としての彼の能力に疑問を持つ者は誰もいなかった。山に向かって足を運ぶ、その軽快な足取りは誰にも真似できないものだった。


マロリーのもっとも優れていたものは、その魂であった。彼の意志力は尽きる事がなく、何かやるべき事があれば、何時でも行動に移る用意があった。彼は誰よりも早く行動し、出発する時は夜も明けきらない早朝だった。遠征隊の隊長ノートンは、マロリーの事を、「不屈の精神を持った男であり、チャンスがある限りは敗北を認めない」と評している。しかし、その一方で、「彼は愛すべき人物だったが、せっかちで行く先々で所持品をばら撒いていった」とも述べている。



マロリーは登山家としては際立った能力を持っていたが、管理能力はなかった。目の前の物事に集中すると、決まって大事な物を忘れてくる傾向があった。最後の忘れ物の中にはコンパス・夜間用ランタン・懐中電灯がある(荷物になるのであえて置いていったとも考えられるが、ランタン・懐中電灯を携帯していれば遭難は避けられていたかもしれない)。



このエベレスト挑戦時、マロリーはもうじき39歳となる年齢だった。肉体的に、これが最後の挑戦となる可能性が高かった。それに彼は、このエベレスト登頂に人生の意義を見出していたので、今回のエベレスト挑戦には並々ならぬ決意で向かっていった。彼は死も覚悟していたが、勝算の無い戦いをするつもりはなかった。彼は以前、「私は既婚者ですし、後先を考えずに飛び込むわけには行きません」とも述べている。帰りを待っている妻子もあったし、その当時に出来うる限りの手を尽くしてエベレストに挑み、そして、生きて帰る心積もりであった。



アンドリュー・カミン・アーヴィン(1902年4月8日~1924年6月8日)


アーヴィンは裕福な家庭に生まれ、少年の頃からバイクの旅をするなど生来の冒険家であった。彼には登山の経験は少なかったが、機械に極めて強い点と抜群の体力を買われて21歳の若さで遠征隊に加えられている。若さゆえの生意気な行動を取る事もなく、常識心に富んでいた。長身で顔立ちが良く、肩幅の広い好青年であった。そして、彼の仕事能力は大変なものだった。昼間、氷河で作業して疲れ切った後でも、テントの中で道具類を広げ、壊れやすく扱いにくい酸素器具の改良に取り組んだり、遠征隊の修理屋を勤めたりもしていた。彼はこの作業を皆が寝静まった後も、だいぶ遅くまで続けていた。



彼は肉体的にも精神的にも大人であり、年長者に対して控え目な態度を取りながらも、大人として行動していた。高い理想を抱いており、シェルパに対しても礼儀正しく接していた。マロリーとアーヴィンは共に理想主義で子供っぽいほどの無邪気さがあり、2人は出会ってすぐに意気投合する。マロリーの方が10年以上も年長であったが、2人は対等の親友となった。遠征隊の記念写真が残っているが、2人は隣同士で写っている。そして、写真に写るアーヴィンはいつも陽気に微笑んでいる。



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↑後列左がアーヴィンでその隣がマロリー







↑マロリーの生い立ちや内面を知りたいなら、「エヴェレスト初登頂の謎 ジョージ・マロリー伝」が、1999年のマロリーの遺体発見時の様子、遭難の経緯、登頂の可能性を知りたいなら「そして謎は残った 伝説の登山家マロリー発見記」を読んでみるのが、よろしいかと。
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世界最高峰に埋もれた謎 1924ジョージ・マロリーのエベレスト挑戦 2

2009.03.04 - 歴史秘話 其の一

マロリーの遺体を発見!

(1999年)、マロリーの遭難から75周年のこの年、マロリーとアーヴィンの遺体を捜索し、その偉業が達成されたのかどうかを確かめるべく、調査遠征隊がエベレストに向かった。そして、調査隊は初日、エベレスト北面標高8160メートル地点で、真っ白に凍りついたマロリーの遺体を発見する。その遺体はうつ伏せの姿勢で顔を地面に埋め、全身をいっぱいに伸ばして、滑落停止の姿勢をとっていた。



両腕はいまだ逞しい筋肉をつけながら頭の上へ伸びており、指先は関節を曲げて岩屑の中に埋もれていた。右ひじが折れているか、脱臼するかしていた。両足は下に伸びているが、片足は折れており、それを庇うようにもう一方の足が上に交叉していた。目は閉じており、額に致命傷と思われる外傷があって、砕けた頭蓋が飛び出していた。絡みついたクライミング・ロープが胸郭を締め付け、皮膚に食い込んでいた。



遺体付近からは、天然繊維の衣服・皮製のヘルメット・手紙数通・鋲靴・絹製のハンカチ・時計・肉の缶詰・ポケットにしまわれていた日除け用ゴーグルなどが見つかった。だが、登頂の証拠となりうるコダックのカメラは発見出来ず、彼が頂上に置いてくると言っていた妻ルースの写真も見つからなかった。また、この調査ではアーヴィンの遺体は発見出来なかった。



結局、今回の調査ではマロリーとアーヴィンがエベレスト登頂を果たしたのかどうかを確定する、決定的な証拠を見つける事は出来なかった。しかし、2人の行動を推測できる、幾つかの遺物を発見する事は出来た。特に標高8490メートル地点で、マロリー達が使用したNo9酸素ボンベが発見された事は、その登頂速度を推測できる重要な発見であった。一通りの調査を終えると、マロリーの遺体はその場に丁重に埋葬された。




マロリーとアーヴィンは世界の高みを極めたのか?


オデールは、「とある岩の段差で2人を目撃した」と言っている。調査隊はその証言に基いて現地調査を試みた。その結果、サードステップ(標高8700メートル)が最もその光景に当てはまる事が分った。だが、午前5時半に出発したとして、午後13時にここまで到達するのは不可能ではないものの、極めて難しいと推測された。なので、セカンドステップ上部への到達が相応と考えられた。このセカンドステップは高さ30メートルほどの岩壁で、巡洋戦艦の切り立った艦首と形容されるほど難度が高い箇所である。 そのため、イタリアの著名な登山家メスナーは、当時の貧弱な装備でそこを越えるのは不可能であるとして、マロリーのエベレスト登頂を否定している。



だが、マロリーの友人はこう述べている。「彼のルートを探し出す才能に、何度も感心させられた事は忘れられない。複雑に入り組んだルートでも、彼は遠くから見当を付け、現場で細かく見極める」 「ジョージが登っている姿を見ていると、体力よりもしなやかさ、バランスの良さに感銘を受ける。どんなに険しい場所でも、リズミカルにテンポよく前進する。その動きの滑らかな事、まるで蛇の如しだ」と。マロリーは間違いなく当時世界一流の登山家であり、周囲の誰もが認める確かな技術があった。そして、2人は最大の難所セカンドステップを乗り越え、もしかするとサードステップにまで達していたのだろう。このサードステップはさほど難しい場所ではないので、後は頂上への道が残されるのみである。しかし、エベレストは超高所にあって、酸素の量は地表の三分の一に過ぎず、その条件下では、人間の能力は極端に低下する。なので、現在、酸素ボンベ無しでこの山を登頂出来る人間は、ほとんど存在しない。



マロリー達が頂上を目指す4日前には、同じ遠征隊の登山家ノートンとサマヴィルが、8530メートル地点まで無酸素で登っている事実がある。これは壮挙であったが、ノートンの最後の1時間の歩みは、高さにして30メートル、距離にして僅か90メートルでしかなかった。体力、経験豊富な2人の登山家が病弱者のように咳き込み、数歩進んでは息を切らし、喘ぎ苦しみながら登らねばならなかった。後300メートルの高さを登り切れば、2人は栄光の頂点に立つ事が出来るのであるが、それを成そうと思えば、少なくとも後10時間の時間が必要であった。そうなれば夜を跨いでの登山となるが、装備も貧弱で体力も限界近い2人には、到底無理な相談であった。2人はここで登頂を諦めて、引き返さざるを得なかった。酸素ボンベの助けがなければ、この過酷な山の征服は極めて難しい。一方、マロリーは酸素ボンベの使用を考えていて、その書き付けでは、「おそらく、酸素ボンベ2本ずつで頂上へ向かうだろう」と言っている。



マロリー達が午前5時~5時半にキャンプを出発したとして、酸素ボンベを2本ずつ背負い、頂上を目指した場合を想定してみる。最大流量にセットしてあるとすれば、その持続時間は8時間となり、午後13時頃、セカンドステップを乗り越えた時点で、酸素ボンベの2本目が無くなる。そこからは酸素不足で歩みが遅くなるので、頂上に到達するのは午後19時となり、丁度、日が沈み始める頃になる。この場合だと、まだ明るみの残る内に頂上ピラミッドは下れなかっただろうし、まして困難なセカンドステップを闇夜に下る事は、不可能であっただろう。そうなれば、彼らはここで遭難していただろう。だが、彼らが実際に遭難した場所は、セカンドステップとファーストステップを下り終えて、第6キャンプまで後もう少しという地点であった。



これは、マロリー達がまだ明るみが残っている間に、セカンドステップを下り終えていた事を示唆している。また、酸素ボンベの2本目が切れた時点(午後13時頃)で断念して、引き返していたとすれば、まだ日のある内に第6キャンプまで達していただろう。マロリーはその最中に、転落したのだろうか?しかし、マロリーのポケットには日除けゴーグルが入っていた。エベレストの紫外線は極めて強いので、日中の行動には日除けゴーグルは欠かせない。もし、ゴーグル無しで日中行動したなら、雪面に反射した太陽光によって雪盲(角膜、網膜の炎症)となり、痛みで目を開けられなくなってしまう。これがポケットに入っていたと言う事は、昼間ではなく、夜間に行動していた事を示唆している。酸素ボンベ2本ずつのシナリオだと、どうも話が噛みあわないのである。



マロリーの書き付けには、「おそらく・だろう」という言葉があって、酸素ボンベを2本ずつにするか3本ずつにするか、選択の余地があった。そして、彼らの手元には推定7本の使用可能な酸素ボンベがあった。後日、第6キャンプを捜索したオデールは、酸素ボンベを1本発見しているので、6本使用されたとも見なせる。もし、彼らが酸素ボンベを3本ずつ背負っていったなら、シナリオは劇的な変化を見せる事になる。
最大流量にセットしてあるとすると、その持続時間は12時間となり、セカンドステップを乗り越えた時点で3本目に切り替え、そのまま歩みを緩めることなく、頂上を目指す事になる。そして、酸素ボンベの3本目が空になる午後16時頃、マロリーとアーヴィンは頂上に到達していた可能性がある。その場合だと、まだ明るみが残る内に難所のセカンドステップを下り終え、ファーストステップを下り終えた時点で日没を迎える事になる。



おそらく、彼らは3本ずつ酸素ボンベを背負っていったのだろう。そうなれば、(1953年)ヒラリーとテンジンのエベレスト初登頂から遡ること29年前、マロリーとアーヴィンは世界の高みを極めていた可能性があるのだ。間接的に2人の登頂を示唆する手掛かりもある。マロリーの遺体から発見された物入れには、頂上に置いてくると言った妻ルースの写真が無かったのである。しかし、その写真が頂上で発見された訳でもない。なので、最終的には、マロリーが頂上で撮ってくると言っていたコダックのカメラが発見されなけれれば、登頂の確認は出来ない。エベレストのような寒冷な場所では、何十年経ってもフィルムは現像可能な状態で保存されており、それは今でも、ヒマラヤ最高峰の雪の中に埋もれている。



エベレスト最大の謎 1924ジョージ・マロリーの頂上挑戦 3に続く・・・



YouTubu動画

ジョージ・マロリーの遺体

世界最高峰に埋もれた謎 1924ジョージ・マロリーのエベレスト挑戦 1

2009.03.03 - 歴史秘話 其の一
19世紀から20世紀前半にかけて、世界では未知なるものを求める探検熱が大いに高まっていた。この頃、人類の科学技術は飛躍的な発展を遂げており、その恩恵を受けて大陸の奥地から、太洋の隅々まで探索する事も可能となっていた。新たなる発見は、国威発揚と、経済的利益にも繋がっていたから、各国は熱狂的に探検隊を送り出していった。中でも、経済力と軍事力があった欧米諸国は、地理上の空白地を次々に埋めてゆき、やがて、人類未訪の地は、北極、南極、そして、第3の極地と言われているエベレスト(ネパール名サガルマータ)のみとなる。欧米諸国は、この残された人類未踏の地に自らの国旗を打ち立てるべく、一番乗り競争にやっきとなった。



そして、1906年4月6日)には、アメリカのロバート・ピアリーが北極点に到達し(これには異論もある)、(1911年2月14日)には、ノルウェーのロアルド・アムンゼンが南極点に到達する事に成功する。いずれも、世界史に残る偉業であった。当時の世界大国イギリスも、これに負けじと北極、南極に遠征隊を送り込んでいたが、いずれにおいても遅れをとった。残された未踏の地は、第3の極地にして、世界最高峰であるエベレスト(標高8848メートル)のみとなる。イギリスは今度こそ、世界に先駆けてこの人跡未踏の地を征し、帝国の威信を内外に示さんと試みた。



そして、(1921年)、イギリスは、第1回遠征隊をエベレストに送りこむ。エベレストが生易しい山で無い事は分かっていたから、第1回遠征隊の目的はまずこの山を徹底的に偵察し、一番易しい登頂ルートを見出す事にあった。そして、この遠征には、1人の魅力的な人物が含まれていた。彼の名はジョージ・リー・マロリー、端正な容姿にして、技術と実績を積み重ねた優れた登山家であった。そして、「そこに山があるから」と言う世界的に有名な言葉を発している。 マロリーを含む3人の登山者は苦心の末、北稜の7千メートル地点にまで達した。そこから、マロリーは雪煙たなびくエベレストを見つめた。今回はここまでであったが、マロリーは頂上への登坂可能なルートを見出して満足であった。マロリーの残した言葉、「大胆な想像力で夢に描いたものより遥か高みの空に、エベレストの山頂が現れた」



(1922年)、第2回遠征隊が派遣され、いよいよ本格的にエベレスト征服が試みられる事となる。今回の遠征にも、マロリーが主力の1人として加わっていた。そして、マロリー、サマヴィル、ノートンの3人の登山家が力を合わせ、遥かなる頂を目指して挑戦を開始した。3人は凍傷を負いながらも登坂を続け、酸素吸入器なしで8225メートルの高度にまで達した。だが、ここで信じ難いほどの寒気に襲われたため、一行は引き返さざるをえなかった。後日、マロリーとサマヴィルはそれでも諦めず、最後の挑戦に出る。



だが、アイスフォールの切り立った斜面を登坂中、雪崩が発生して、マロリーを含む登山隊を呑み込んでしまう。マロリーは無事であったが、この雪崩で7名のシェルパが死亡した。この挑戦はマロリーが強く訴えたものであったため、世間では非難の声も挙がり、彼自身深く苦悩した。こうして第二回遠征は、無残な失敗に終った。マロリーの言葉、「これは魔の山だ。冷酷ですぐ裏切る。はっきり言って事はあまり上手くいっていない。やられる危険があまりに大きく、高所で人間が使える力はあまりにも小さい・・・」



(1924年)、第3回遠征が行われる。今回の遠征にもマロリーは加わっていたが、この時、38歳となっており、年齢的に最後の挑戦となる可能性が高かった。マロリーの残した言葉、「打ち負かされて降りてくる自分の姿なぞ、とても想像できない」  「それがどんなに私の心をとらえているか、とうてい説明しきれない」  「ほかの人達が私抜きで頂上の征服に取り掛かるのを見たら、あまり良い気持ちがしないだろう」  「どれほど今年に期待しているか、とても言い表せない」  「もう一度、そして、これが最後。そういう覚悟で私達はロンブク氷河を上へ上へと前進してゆく。待っているものは勝利か、それとも決定的敗北か」  「この冒険はこれまでになく必死なものとなっていきそうな・・・」




Mallory2.jpg









↑出発準備を整えるマロリーとアーヴィン



(1924年6月6日午前8時40分)、マロリーとアーヴィンの2人はノース・コル(標高7066メートル)のキャンプを出発する。2人が出発間近、準備に余念が無いところを登山隊の1人、ノエル・オデールが写真に収めている。マロリーが酸素マスクを気にしている様子を、アーヴィンが側で、少し首を傾けながら眺めている図である。これが、2人が撮られた最後の写真となる。



2人はシェルパ8人を伴って第5キャンプ(標高7710メートル)を目指した。ここに到着すると、マロリーは書き付けを託して4人のシェルパを戻した。書き付けには「ここは風もなく、見通しは明るい」と書かれてあった。(翌6月7日早朝)、マロリーとアーヴィンと4人のシェルパは第6キャンプ(標高8230メートル)に押し進んだ。ここでマロリーは再び書き付けを託して、4人のシェルパを戻した。



遠征隊の撮影係ジョン・ノエルに宛てた書き付け、「親愛なるノエル。この晴天を利して、出発はおそらく明日早朝。当方の姿を探すのに早過ぎる事はないでしょう。午前8時にはピラミッドの下のロックバンド(頂上ピラミッドを取り巻く、灰色の石灰岩の帯)を横切っているか、もしくはスカイラインを登高中の予定」 


ノエル・オデールに宛てた書き付け、「親愛なるオデール。何ともだらしない有様で誠に申し訳ない。出発直前に調理用ストーブを落としてしまった。明日は明るい内に気幕の予定にて、間違いなく早めに第4キャンプへ降ってもらいたい。そちらのテントにコンパスを忘れてきた模様、力添えを頼む。コンパス無しでここに居る。ここまで2日間で90気圧の消費、明日は、おそらく酸素ボンベ2本ずつで頂上へ向かうだろう。これは、クライミングにはえらいお荷物だ。天候の方は理想的だ!」



(6月8日推定午前5時半)、この日は、マロリーが書いたように理想的な晴天に恵まれた。マロリーとアーヴィンは第6キャンプを後にすると、頂上攻勢に出発した。現在、エベレストを目指すにはネパール側からとチベット側からの二通りのルートが開削されているが、ネパール側の方が難度が低いとされており、こちらが一般的に用いられている。しかし、マロリーが挑んだのは、チベット側からのルートであり、行く先には数々の難所が待ち受けている。(イエローバンド)、石灰岩の急な一枚岩の連なりで、砕けやすく、無数の岩屑が乗っている。(ファーストステップ)、高さ30メートル程のほぼ垂直な岩壁である。その後は強風が吹き晒す、危険な山稜ルートが続く。



(セカンドステップ)、高さ30メートルほどの岩壁で、ファーストステップより遥かに難しく、巡洋戦艦の切り立った艦首とも形容される。岩場は特徴のある三つの部分に分かれていて、上部は垂直である。この難所を超えると、技術的に困難な箇所はなくなる。後は広い台地の緩やかな登りとなり、雪に覆われた山頂ピラミッドへと続く。マロリーはコダック社のカメラを持参しており、頂上で記念写真を撮る予定であった。更に、妻ルースの写真を頂上に埋めてくると言っていた。



その頃、オデールはマロリーに頼まれたコンパスと2人のための食料品を届けるため、第6キャンプに向かっていた。(午後12時50分頃)、オデールはふとエベレストを見上げると、頂上を覆っていた雲がにわかに晴れわたって、その全貌が露(あらわ)となった。そこで、オデールは生涯忘れえぬ光景を目撃する。稜線上のとある岩の段差の下、小雪稜上に小さな黒点が一つ浮き上がり、そのまま動いて行く。また一つ黒い点が現れると小雪稜上の黒点に合流すべく、雪の上を進んで行く。これは明らかに人影であった。



その頃、一つ目の黒点は、大きな岩の段差に接近しており、ほどなくその上に現れた。二つ目の黒点も同じような動きであった。幻想的とも言えるその光景はやがて雲に覆われてゆき、まもなく搔き消えた。遠目にも分るほど、2人はてきぱきとした身ごなしで動いていた。そこから山頂に達して第6キャンプに戻るまで、明るい時間がそう長くないと意識していたからだろう。2人が目撃された場所は、頂上ピラミッドの基部からほど近い、よく目立つ岩の段差であった。



オデールは、2人がそこから山頂に辿り着くまで、後3時間はかかるだろうと見なした。2人の下山が遅くなるのは確実だった。だが、オデールは意志堅固なあの2人なら登頂を成し遂げ、「ついに征服した!」と知らせてくれるだろうと思い、さほど心配はしていなかった。オデールは第6キャンプに荷物を届けると、第4キャンプへと降っていった。その夜は晴れ渡っており、オデールは何か動きはないか、救難信号が出ていないか、と夜通し見張ったが何も見えなかった。



一夜明けて(6月9日)、オデールは双眼鏡で第5、第6キャンプの様子を窺ったが、2人の気配はまるでなかった。オデールはこの日の正午、嫌がるシェルパ2人を連れて、第5キャンプまで行って2人を捜索した。しかし、そこには誰もおらず、何も手がつけられていなかった。オデール、「盛んに流れていくちぎれ雲をすかして、嵐を告げるような夕焼けが時折覗き、やがて夜の帳が降りるにつれて、風と寒さが募っていった」。



(翌6月10日)、シェルパ達はこれ以上登るのを拒否したので、オデールは彼らを帰らせると1人で登っていった。第6キャンプに辿り着いたものの、やはり2人の姿はなく、酸素ボンベが一つあるのを発見したのみであった。凄まじい強風が吹き付ける中、オデールは危険を顧みず、ただ1人山頂に向かって2時間進み、2人を捜索した。だが、山稜には暗く重い大気が垂れ込み、強風が吹き荒れるのみで、親しい友人2人の痕跡を見つける事はついに出来なかった。



オデールは捜索を諦め、下山に取り掛かろうとした時、山頂へ振り返った。「それは冷たいよそよそしさで、私というちっぽけな存在を見下ろし、風の咆哮に乗せて、私の切なる願いを嘲笑っていた。秘密を明かしてくれ、2人の我が友にまつわる謎を明かしてくれという私の切なる願いを・・・」


マロリーとアーヴィンは、エベレストに消えた。そして、彼らが頂上に到達したのかどうかは、世界の登山史上に残る謎となった。



エベレスト最大の謎 1924ジョージ・マロリーの頂上挑戦 2に続く・・・



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ジョージ・マロリーのエベレスト挑戦


津山城

津山城は岡山県津山市にありまして、日本百名城にも指定されている城跡です。この城は桜の名所として有名ですが、壮大な石垣も見応えがあります。


慶長8年(1603年)
津山城は、森忠政が美作国18万6500石を与えられてから、築城が始まる。元和2年(1616年)13年間の大規模な土木工事を経て、津山城は完成する。元禄11年(1698年)より、城主は徳川親藩の松平氏に代わり、そのまま明治の世を迎える。明治政府によって布告された廃城令によって、津山城も他の城同様、破却され、壮麗な五層の天守閣を始め、全ての建物が解体されてしまった。


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現在、津山城では備中櫓が復元再建されており、今後も少しずつ建物の復元が進んでゆくかもしれません。津山城には桜が約五千本植えられており、西日本有数の桜の名所として知られています。桜の季節となると大勢の見物客で溢れかえりますが、ここの桜と石垣は一見の価値があります。


在りし日の壮大な津山城(ウィキペディアの古写真)
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/f4/Tsuyama_Castle_old_potograph.jpg

鬼武蔵の覚悟 

2009.02.09 - 戦国史 其の一

永禄元年(1558年)、森長可は、織田家の重臣、森可成の次男として生まれた。弟には、かの有名な森乱丸がいる。元亀元年(1570年)4月25日、 兄、可隆(よしたか)は、越前手筒山城攻めの際、討死し、同年9月20日には、父、可成も近江坂本にて討死してしまう。そこで、まだ若干13歳であった長可が、家督と所領の美濃金山(兼山とも)城を受け継ぐ形となった。元亀4年(1573年)3月、伊勢長嶋の一向一揆攻めに加わって16歳で初陣を飾り、その後も長篠の戦いや石山本願寺攻めにも参戦するなど、若くして武功を挙げた。戦場での勇ましい戦い振りに加え、度々見せる傍若無人な振る舞いから、人々から鬼武蔵と称された。 織田信長は、この暴れん坊の若武者をいたく気に入って、度々の重大な軍令違反にも目をつむった。おそらく信長は、自らの若かりし頃の面影を長可に見出したのであろうし、気質的にもうまが合ったのだろう。




天正10年(1582年)2月6日、武田攻めが開始されると、長可は同僚の団忠正と共に織田軍の先陣を切って信濃に攻め入った。そして、信長の嫡男、信忠を大将とする高遠城攻めに参加して、これを攻め落とすのに重要な働きを示した。しかし、この時、長可は忠正と競い合って、上司の川尻秀隆に無断で前進して武田方を攻めるなどしたので、信長から書簡で注意を受けている。信長は長可の軽率な行動を戒めようとしたのだが、長可に改めた様子はなく、そのまま関東の上野国まで猛進する事になる。長可の働きを一言で表せば猪突猛進であったが、結果的には、この急進撃が武田家に立ち直る隙を与えず、早期崩壊に導く事になった。そして、同年3月11日、武田勝頼は天目山にて自刃し、これにて戦国の強豪、武田家は滅亡となった。 同年3月28日、長可は、その武田攻めの功をもって、信長より信濃北部、更級・高井・水内・埴科の四郡を加増され、20万石余の所領を宛てがわれた。



これで長可は、25歳にして大名身分となり、織田家中にて一目、置かれる存在となった。同年4月5日、長可は晴れて川中島の海津城に入城したが、すぐさま領主として大きな試練に立たされる事となった。平定間もない川中島は治安が不安定で、しかも隣接する越後の大名、上杉景勝が策動を仕掛けて、大規模な一揆が発生したのである。一揆軍は8千人余、大将は芋川親正で、上杉景勝と結び付いて、大倉の古城を修復して立て篭もった。同年4月7日、一揆軍が進撃してくると、長可は海津城から打って出て、兵3千余をもって一気呵成に攻め立て、一揆勢1,200人余を討ち取る大勝を得た。続いて大倉古城も攻め落とし、城内に残っていた女、子供1,000人余を容赦なく切り捨てた。この時の長可の弾圧は苛烈であったようで、後のこの地を支配した、上杉景勝は、「町人、村人達は無力である」と書状で述べている。




長可はこの一揆鎮圧の功をもって、信忠より感状を受けた。同年5月27日、 長可は領地経営に意を注ぐ間もなく、信長より越後進出を命ぜられ、兵5千を率いて北上する。同年6月初旬、越後に侵攻した長可が上杉景勝と対峙していた時、驚愕すべき知らせが届けられた。天正10年(1582年)6月2日、上方にて本能寺の変が起こり、そこで主君、信長と3人の弟が戦死したとの事であった。だが、長可にはそれを悲しむ余裕も、逡巡する時間もなかった。今、居るのは敵地のど真ん中であって、すぐさま兵をまとめて脱出せねば全滅する恐れがあった。長可は川中島へと舞い戻ったが、そこは既に敵地と化していた。川中島の国人達は長可を見限って、再び一揆を起こしたのである。 折角、手にした領土であったが、最早、維持するのは困難で、長可は旧領、金山への帰還を決意した。



長可は川中島4郡の諸氏から人質を取っていたので、これを盾にしつつ、信濃からの脱出を図った。しかし、それでも一揆勢が前に立ちはだかったので、長可は一戦交えてこれを撃ち破り、猿ヶ馬場峠に到着した時点で、一揆勢と関係のある人質を処刑した。長可は続いて木曽谷を抜けんとして、地元の領主、木曽義昌と交渉を持った。長可は、川中島4郡の人質を譲り渡すという条件で、木曽谷の通過を認められ、無事に美濃金山まで帰還する事が出来た。しかし、木曽義昌は、長可の殺害を計画していたと云う説もある。そうと知った長可は、予定を早めて夜間、木曽福島城に押し入り、義昌の嫡男、義利を捕らえて人質として、金山城への帰還を果たしたとされる。尚、義利は美濃国の大井宿(おおいじゅく)まで来たところで、解放されたと云う。



織田信長、信忠の死を受けて、美濃は無主の地となり、各地の国人達がそれぞれ勢力の伸張を図る、群雄割拠状態に陥った。そして、長可も金山帰還後、近隣の切り取りを開始した。天正10年(1582年)6月27日、織田家の宿老が集まって清洲会議が行われ、信長の三男、信孝が美濃の主となるが、長可はこれに叛いて尚も近隣の切り取りを続け、信孝の重臣、斎藤利堯が守る加治田城をも攻め落とした。これにより、東美濃の諸城の多くが長可に属する事となった。清洲会議後、羽柴秀吉と柴田勝家の対立が激化し、戦に発展すると長可は秀吉方に付いて、柴田方となった信孝の諸城を攻め立てた。信孝は足元で起きている、東美濃での長可の働きや、西美濃の重鎮、稲葉一徹の離反を受けて岐阜城からまったく動く事が出来なかった。



そして、天正11年(1583年)4月20日、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家が破れ、北ノ庄で滅亡すると、孤立した信孝は岐阜城を開け渡し、まもなく切腹を命ぜられた。 天正12年(1584年)、羽柴秀吉と徳川家康、織田信雄が対立を深め、「小牧・長久手の戦い」へと発展すると、長可は舅の池田恒興と共に秀吉方で参戦する。同年3月13日、恒興が織田信雄の支城、犬山城を奪取すると、これに歩調を合わせる形で、3月16日、長可も3千人余を率いて尾張羽黒へと進軍し、小牧山城の奪取を狙った。しかし、この動きは家康に読まれており、3月17日早朝、長可は家康家臣の酒井忠次、榊原康政ら5千人余の奇襲を受けて、300人余を討ち取られる敗北を喫した(羽黒の戦い) 。長可は、この敗北に深い恥辱を覚える。この後、家康は小牧山城に入り、周囲に砦や土塁を築いて秀吉の来襲に備えた。



3月28日、秀吉は大軍を率いて楽田に着陣し、家康と向かい合うが、小牧山を中心とした徳川方の防備が堅いのを見て、楽田を中心に城砦群を築く。こうして厳重に守りを固めた両軍は、迂闊に手を出せなくなり、戦線は膠着状態に陥った。秀吉は兵力では勝っているので、別働隊を編成して、徳川方の陣地帯を迂回しつつ、三河方面に侵攻する計画を立てた。別働隊の編成は、本隊の羽柴秀次が8千、三番隊の堀秀政が3千、二番隊の森長可が3千、先鋒の池田恒興、元助父子が6千で、合計2万人余の大軍団であった。長可はこの作戦に参加するにあたり、羽黒での敗退を挽回すべく心に期するものがあった。そして、自筆の遺言状を、秀吉の近臣である尾藤甚右衛門に宛てて送った。



4月6日夜、秀次別働隊は三河に向けて出陣するが、練達の家康はすぐさま、その動きと意図を読んで動き出した。そして、榊原康政ら4,500を先鋒として出立させると、自らも織田信雄と共に先鋒に続いて、秀次別働隊の追跡を開始する。4月9日、秀次別働隊は行軍中、岩崎城近辺を通過するが、ここで岩崎城兵の妨害を受けたので、池田隊が応戦し、これに森隊も加わって攻城戦が開始された。城方は圧倒的な寄せ手相手に善戦したものの、衆寡敵せず、16歳の丹羽氏重以下200人余の城兵が全滅して、岩崎城は落ちた。城を落としたものの池田隊の疲労は大きく、休憩を兼ねて配下の論功行賞を始めた。そのため秀次本隊も停止して、敵地で別働隊全体の動きが止まった。しかし、その間に徳川軍は背後に忍び寄り、最後尾の秀次隊に狙いを定めると、一斉に襲い掛かった。



不意を突かれた秀次隊は壊乱し、総大将の秀次はからくも長久手方面に逃れた。 三番隊の堀秀政は沈着冷静で、後方の銃声ですぐさま徳川軍の追撃と判断し、隊を返して秀次を収容し、備えを固めて徳川軍を待ち受けた。家康先鋒隊は勢いよく堀隊に攻めかかったが、待ちかまえていた堀隊に鉄砲の一斉射撃を受けて冷や水を浴びせられた挙句、槍隊の逆襲を受けてたまらず崩れたった。先鋒の敗走を知った家康は直ちに救援に向かい、御旗山(長久手にある丘陵)に上って、頂上に自らの所在を示す金扇の馬印を打ち立てた。秀政はこの金扇を見て、難敵、家康の着陣を悟る。しかし、堀隊は井伊直政隊の攻撃を受けて打撃を受けた事に加え、主将の秀次を無事逃す必要もあって、秀政は家康の着陣を先鋒の池田、森隊に通報してから、戦場を離脱した。



一方、恒興と長可は秀次隊の敗報を受けて、すぐさま引き返しにかかったが、その途上で、御旗山に陣取る徳川、織田連合軍と遭遇した。森隊、池田隊は合わせて9千人余で、徳川軍は織田信雄隊を含む1万人余であった。森隊、池田隊は家康に帰路を塞がれて、戦って押し通るしか方策は無かった。両軍、しばしの睨み合いの後、4月9日午前10時頃、ついに戦いの火蓋が切って落とされた。双方、戦歴を積んだ武将同士で、人数もほぼ互角とあって、両軍入り乱れての激闘が続き、どちらに軍配が上がるかわからない状況であった。そして、長可も前線に立って、鬼武蔵の名に相応しい猛戦を続ける。 だが、激戦の最中、一発の銃弾が長可の眉間を撃ち抜いた。長可は馬上から崩れ落ち、その首は徳川方によって掻き切られた。森長可、享年27。この長可の討死を切っ掛けとして、池田隊も崩れ始め、恒興も勇戦空しく、嫡男、元助と共に討ち取られる。



こうして、秀次別働隊は前後共とも壊滅した。この小牧・長久手の戦いで秀吉方は2,500人余り、家康方は550人余りの戦死者を出したとされている。長可の討死後、遺言状の内容は尾藤甚右衛門を通じて、秀吉や長可の家族に伝えられた。 長可討死の13日前に書かれた遺言状の内容はこうである。


「宇治にある名物の沢姫の茶壷と、山城の仏陀寺にある台天目茶碗、いずれも秀吉様に進上する。もしも自分が討死したならば、母上は秀吉様から生活費を頂いて京都に住んでもらいたい。末弟の千丸は今のまま秀吉様に奉公せよ。自分の後継者をたてることはくれぐれもいやである。しかしこの金山城は要地であるから、しっかりとした人物を秀吉様から置いてもらえ。女達は急ぎ大垣の池田家に帰らせよ。粗末な茶道具や刀や脇差、仏陀寺にある物の他はみな千丸に与える。ついで、京都の本阿弥家に預けてある秘蔵の脇差二つも千丸にやる。おこうは京都の町人か医者に嫁がせよ。母上は必ず必ず京都にいていただきたい。千丸にこの金山城を継がせるのはいやだ。けれども万が一総負けになったなら、皆々火をかけて死んでほしい」



長可の兄、可隆は元亀元年(1570年)に越前敦賀・手筒山城を攻めた際に討死しており、同年には父、可成も近江坂本合戦で討死している。更に、天正10年(1582年)、本能寺の変の折には森乱丸・坊丸・力丸の弟3人を一挙に失った。長可は戦場に於いては命知らずの猛者であるが、戦国の世の苛烈さは身をもって味わっており、自分が討死した際には、残された遺族はもう戦乱に巻き込きこまれないでほしいと願っていた。 それでも、戦乱に巻き込まれたなら、せめて武家らしい最後を遂げてもらいたいと言っている。長可の遺書を読んで、妙向尼(長可の母)は嘆き悲しんだ事であろう。夫と4人の息子を失い、今また長可を失ったのである。 その後、女達(おそらく妻とその侍女達)は妻の生家である池田家に帰り、おこう(おそらく長可の娘)は遺言通りに商人に嫁いだものと思われる。



だが、金山城は、千丸こと忠政が継ぐ事になった。長可は忠政に城を継いでもらいたくはなく、秀吉の近習として仕えてもらいたいと望んでいた。しかし、この措置は森家を存続させてやりたいという秀吉なりの配慮であったのか、それとも、大勢の家臣を抱える大名としての森家の責務であったのか。その後、忠政は関ヶ原の戦いの折には家康方に付き、加増を受けて森家を存続させることに成功する。そして、森家は紆余曲折はあったものの、大名として明治までその名を残す事となる。 戦国時代、大勢力を誇る一族であっても、一敗地にまみえれば、族滅する事も日常茶飯事であった。その中で、多くの犠牲を払いながらも大名として存続できた森家は、まだこれでも幸運な方であったのかもしれない。

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