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2009.05.30 - 城跡・史跡訪問記 其の一
(153年)、後漢末期、中国の総人口は約4900万人であった。それが、黄巾の乱に始まる戦乱の時代を迎えると、人口は激減する。
●蜀の滅亡時(263年統計)の記録によると、戸数28万戸、人口94万人、将兵10万2千人、官吏4万人。
●呉の滅亡時(280年統計)の記録によると、戸数52万3千戸、人口230万人、将兵23万人、官吏3万2千人。
●(263年統計)、魏は、戸数64万戸、人口443万人、兵力の記録は残っておらず、これは推定40万人と見る。
三国の総戸数は144万3千戸で、総人口は767万人となる。しかし、(280年)に三国を統一した晋の統計によると、中国全体の戸数は246万戸となり、総人口も、1616万人となっている。僅かな期間で、戸数は100万戸の増加、人口も849万人増加し、何とも不自然である。実は、三国の総人口767万人という数字は、戸籍に登録されていた人々で、実際には戸籍に登録されていない人々が多数、存在していた。
(196年)、曹操は、兵糧を確保する目的で屯田制を実施する。この屯田民は一般群県民とは異なり、戸籍には載らなかった。ところが、(265年)魏から晋に王朝が代わると、翌266年に屯田制は廃止され、屯田民も新しく戸籍に載るようになった。この屯田民は、一般群県民と同じぐらいの人口がいた。そのために、280年の晋の統計で、一気に二倍の人口となったのだ。 この屯田制は魏だけでなく、呉や蜀も行っていたものと思われる。
尚、晋の戸数、246万戸を、旧三国の領域に当てはめると、魏144万5千戸、呉73万戸、蜀31万8千戸となる。ただし、晋19州を、漢13州に当てはめて統計した結果、多少、数字の重なりが生じている。そして、晋統計(280年)の中国の総人口1616万から戸数246万を割ると、1戸当たりの家族数は約6・5人となる。そして、魏の戸数144万5千戸に6・5をかけると、約939万人となり、呉の戸数73万戸に6・5をかけると、474・5万人、蜀の戸数31万8千戸に6・5をかけると、206・7万人となる。これらを足すと、1620万2千人となった。厳密さには欠けるが、三国志の魏は人口939万人、呉は474万人、蜀は206万人であったのではないか。
(補足)、三国時代から晋にかけての時代は混乱の時代で、王朝の支配力が弱く、全ての人民を把握していたとは言い難い。王朝が弱体化すると、遊戸と呼ばれる、戸籍に載らない民衆が増えるからだ。晋の総人口、約1616万人は王朝が把握している人民だけで、実際には更に多くの人口が存在していた可能性もある。
上記に三国の兵力は、魏40万(推定)・呉23万・蜀10万であると書いたが、これは防衛の兵力も含めた数で、実際に侵攻に使える兵力は、この半分程度だと思われる。全てを動員すれば、それだけで国力を大きく消耗するし、守備も疎かになってしまうからだ。それと、兵糧輸送にも大量の人員を必要とする。魏は40万の兵力の内、5万は対蜀防衛に、10万は対呉防衛に、5万は三国の係争地である荊州に、10万は北方の長大な国境沿いに、残る10万は中央に留め、状況に応じてこれを派遣したのではないかと推測する。蜀や呉に攻めかかる際には、中央軍と現地防衛軍とが合同で行ったのだろう。魏は強大な国力と兵力を誇るが、呉や蜀に加えて、北方の異民族、鮮卑(せんぴ)や、遼東の公孫氏にも備えておかねばならず、兵力の分散を強いられていた。それに魏は、地形によって兵力の節減が出来る地域が少なかった。
それに対して呉は、前面は長江を天然の堀とし、背後は海によって守られ、側面には同盟国の蜀があったので、兵力の大部分を魏に振り向ける事が出来た。ただ、呉は内部に、山越や蛮といった強力な異民族を抱えていたので、この対策にある程度の兵力は割かねばならなかった。蜀は、ほぼ国全体が山脈によって守られており、側面には同盟国、呉があったので、これまた兵力の大部分を魏に振り向ける事が出来た。しかし、蜀も、西方の羌族や益州南部の異民族対策にある程度は備えなければならなかったし、山脈から打って出れば必ずと言って良い程、兵糧不足に陥った。 魏が強大な国力を誇りながらも、蜀や呉をなかなか滅ぼせなかったのは、相手が天険の要害によって守られていたのもあるが、ほぼ全方位に脅威を抱えて戦力の集中が出来なかった事も大きい。
対して、国力に劣る呉や蜀が攻勢に出る事が出来たのは、地の利と外交の安定から来る、兵力集中によるものだろう。蜀は、10万の総兵力の内、外征に使えるのは5万人といったところだろうが、無理を押せば、6~7万は動員出来たかもしれない。呉は、総兵力23万の内、外征に使えるのは11、2万といったところだろうが、無理を押せば、15~6万は動員出来たかもしれない。これがもし、魏、呉、蜀がそれぞれ争うような事態となれば、呉や蜀は防衛で手一杯となって、遠征どころでは無かったろう。魏が存在する限り、呉と蜀の同盟は必須であった。魏にとっての悪夢は、こうした呉と蜀の兵力集中による連携攻撃に加えて、北方の異民族が敵対する事態であったろう。意外と、魏も苦しかったではないか。だから、魏及び晋は、呉や蜀が十分に弱るまで引導を渡せなかったのだろう。
ウォッカとは、東欧~ロシア原産の酒である。大麦・小麦・ライ麦・ジャガイモ・など穀物を原材料とし、蒸留後、白樺の炭でこしてから飲む。一般に無味、無臭、無色である。極寒の地で暖を取るという用途もあるため、アルコール度数は40度から50度と極めて高い。第二次大戦中、ロシア兵にとってウォッカは欠かせない飲み物であり、ロシア兵の燃料とも呼ばれた。そして、ロシア兵はウォッカに酔った勢いで、東ヨーロッパ全域で、またはアジアの満州で、はたまた自国のソ連領においても、略奪に励み、婦女暴行を繰り広げたのだった。
ロシア兵達 「ウォッカは俺達の元気の源、ウォッカウラー!!!」
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第二次大戦中、ロシア兵には1日100グラムのウォッカが支給されていた。しかし、戦闘では激しい緊張を強いられるので、この割り当ては、ロシア兵にとって甚だ不満足なものであった。ウォッカが取り出されると、ロシア兵は誰もがしんと静まりかえり、一同の目はビンに注がれる。外科用のアルコールは、職務上の目的に使用されることはなかった。ウォッカが不足すると、ロシア兵は工業用アルコールや凍結防止用アルコールも、ガスマスクの活性炭フィルターでこしてから飲んだ。結果はたちの悪い頭痛どころではない、飲みすぎて失明した者もいた。また、不凍液を飲み干したため、故障車両も頻発したと云う。
スターリン 「馬鹿共が!貴様らは地雷原をその足で切り開け!」
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冬の間、兵士達は大抵1日に1リットルの酒を飲んだ。公式の割り当てだけでは足りないので、実際の死傷者数を報告せずにその割り当て分を分け合ったり、戦線後方の村民と物々交換して手に入れた。また、自分達で考えられる限りの手法を使って、酒を醸造した。
スターリン 「酒を飲んだらさっさと突撃するんだ!グズグズしてると、背後の機関銃が火を噴くぞ!」
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`{| _.ノ;;/;;/,ゞ;ヽ、 .!-' 胸に七つの傷を持つ
| ='" | 赤い星の力を見たいのかね
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丿\  ̄ ̄ _,,-"ヽ 私の大ソ連粛清拳が火を噴くぞ
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ソ連軍は進撃する時、戦車に大量の歩兵を載せて進む。しかし、そんな不安定な戦車上でも、ロシア兵はウォッカを手放さない。ある時、戦車が窪みに落ちて大きく揺れ、乗車していた酔っ払いのロシア歩兵がそれに大いに怒って、ハッチを開いて操縦手を射殺すると云う事件も起こっている。ウォッカの支給が遅れたり、届かない事があると、ロシア兵はとんでもない代用品を飲む事もあった。毒ガス攻撃に対応するために作られた対化学兵器用薬液には多少のアルコールが含まれていたようだ。それを誰かがワインだと断言したため、ロシア兵達はこれを大量に飲んでしまった。この有毒な液体は科学戦に備えて、ごく微量を摂取すべきものだったのだが、大量に飲み込んだため28名の死者を出すと言う出来事もあった。
スターリン 「役立たず共が!貴様ら全員、シベリア荒野の肥料にしてやる!」
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現在では、ウォッカの需要はやや落ち込んでいるようだが、それでもロシア人にとってなくてはならない必需品である。ウォッカにまつわるこんなニュースもある。2009年、ある男性が失業の憂さ晴らしをするため、ウォッカをボトル8本(4リットル)もの量を飲み干した。すると、男性は昏睡状態に陥って病院へ運ばれた。男性の血中からは、致死量の二倍ものアルコールが検出され、医師を驚愕させた。男性は命は取りとめたが、しばらくは酷い頭痛に苦しめられ、「もう酒を一滴も飲まない」と誓った。
ロシアの厳しい冬の寒さから体を守る必需品ともいわれるウォッカ。しかし、現代のロシアで出回っているウォッカの半分は、マフィアなどが非合法的に作ったもので、逆に体をボロボロにしてしまう危険性が指摘されている。 非合法ウォッカの5%は、人体に有害な工業用メチルアルコールや薬品用アルコールを薄めただけの粗悪品であると云われている。また、悪い衛生状態で作られることも多く、危険に満ちている。ロシア人男性の平均寿命は59歳。その寿命を縮める大きな原因といわれているのが、非合法ウォッカである。
2009.05.13 - 城跡・史跡訪問記 其の一
出石城は兵庫県豊岡市出石町にある平山城です。

↑標高321mの有子山とその中腹にある出石城
有子山には、但馬の戦国武将、山名祐豊が築いた有子山城が築かれています。有子山城は天正2年(1574年)に築かれ、山名氏の本拠地となりますが、天正8年(1580年)、織田家の部将、羽柴秀長によって攻め落とされます。その後、秀長の家臣、木下昌利、青木甚兵衛が城代を勤め、次に前野長康、小出吉政が但馬の大名として有子山城に入ります。慶長9年(1604年)、小出吉政の子、吉英の時に有子山城は廃され、山麓に出石城が築かれます。この時に城下町も整備されました。元禄9年(1696年)、小出氏が断絶すると、代わって松平氏が入封し、最終的には仙石氏が城主となって明治の世を迎えます。

↑出石城の石垣
苔むしていて良い味が出ています。

↑出石のシンボルとも言える辰鼓楼。
辰鼓楼とは、太鼓で時を告げる鼓楼ですが、現在でも時計台となって現役で働いています。
出石と言えば蕎麦が非常に有名です。せっかく来たので名物の皿蕎麦を頼みました。ここの皿蕎麦は一人前で700~900円位ですが、はっきり言ってそれだけでは物足りません。普通の人なら一皿130円位の皿蕎麦を10皿は追加して平らげないと腹は満たされないでしょう。
なので、ここで皿蕎麦を頼んだ時は、
よぉーく(^◇^)(^◇^)(^◇^)考えよぉー♪
お金は(^◇^)(^◇^)(^◇^)大事だよぉー♪

↑出石城から見た、出石の町並み。
出石は但馬の小京都とも呼ばれた、山々に囲まれた小さな城下町です。
見えにくいですが、右の方にちょこっと辰鼓楼も写っています。元治元年(1864年)7月には、後に明治の高官となる桂小五郎(木戸孝允)が、禁門の変の後、密かに出石を訪れ、幕府の目から逃れるため、しばらく潜伏していた時期もありました。
新発田因幡守重家(1546?~1587)
天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変にて織田信長が死す、京都で起こったこの大事件は、瞬く間に日本全国を駆け巡った。これを機に、歴史の流れも、人々の運命も激変する。ある者は栄転の道が開き、また、ある者は転落の道を辿っていった。そして、この新発田重家も、運命に翻弄された人間の1人である。もし、本能寺の変がなければ、越後には名門上杉氏に代わって、新発田重家が織田家の有力部将として君臨していた事だろう。
戦国時代の新発田氏は、阿賀野川以北に割拠する揚北衆(あがきたしゅう)と呼ばれる国人領主達の1人で、上杉家を盟主として仰いだが、半独立的な存在でもあった。天文15年(1546年)頃、重家は、新発田綱貞の次男として生まれたが、家督は長男の長敦が継いだので、重家は同族の五十公野(いみじの)家の養子となり、そこで五十公野治長(いみじの はるなが)と名乗った。治長は上杉謙信に付き従って、関東出兵や川中島の戦いにも参陣し、若くして武名を上げた。天正6年(1578年)3月13日、上杉謙信の死去に伴って、景虎と景勝の2人の養子による、後継争い(御館の乱)が勃発すると、治長は、安田顕元の手引きで景勝側に付いた。
天正6年(1578年)9日26日、大場口(上越市)の戦いでは、治長は騎乗して自ら先陣に立ち、300人余を討ち取る功を挙げ、景勝から感状を貰うほどの抜群の働きを示す。この御館の乱時、治長の兄であり、新発田家当主の新発田長敦も、武田勝頼との和議に奔走するなど外交面で活躍している。このように新発田家は、政戦両面に渡って大いに働いて、景勝を助けている。そして、天正8年(1580年)、御館の乱は、景勝の勝利に終わった。だが、その立役者の1人、長敦はほどなく病没してしまう。それを受けて、五十公野家を継いでいた治長が新発田家を相続し、ここで重家を名乗った。そして、自らの後押しで越後の国主となった景勝に対し、功績に見合った恩賞を期待する。
しかし、景勝は自らの直臣である上田衆の所領は増やしたものの、外様の国人である重家に対しては、新発田家相続を認めただけで、なんの恩賞も与えず、しかも忠誠を強要してきたと云う。この措置を受けて、重家は大いに憤激する。重家とて一族郎党の長であり、御館の乱で働いた郎党に対し、恩賞を施さねば、面目と信頼を損ないかねないからだ。重家を景勝側に引き入れた安田顕元は、重家に恩賞が賜るようにと奔走したが、景勝に聞き遂げられる事はなかった。面目を失った顕元は、重家に詫びる様に自刃して果てた。顕元の死を伝え聞いた重家は益々憤激し、「景勝、もはや頼むに足らず!」とついに謀反の決意を固めた。
この時、景勝の方にも、容易には恩賞を出せない事情があった。当時、織田家は越中、能登といった上杉家の支配地に侵攻中であり、早急にこれに対応せねばならなかった。また、内乱の影響で国内が疲弊しており、重家に対し、十分な恩賞を与える余裕がなかったように見える。しかし、景勝は戦国大名としての自らの基盤を固めるために、直臣の所領だけは増やしている。武士は論功公賞をもらうために、命懸けの働きを示すものである。武功を上げておきながら、論功公賞がないというのは、裏切りに等しい行為であった。景勝は苦しい台所事情であったにせよ、重家に対し、誠意ある対応を取るべきであった。この後に見せる重家の凄まじいまでの意地と覚悟を見れば、礼を失していたとしか考えられない。
この重家の不満に、目聡く目を付けたのが織田信長であった。信長は上杉家の討滅を目論んでおり、重家をそそのかして、その背後を突かせようと考えたのである。この申し出は、重家にとっても渡りに船であった。これに加えて隣国、会津の戦国大名、蘆名盛隆も重家を支援する運びとなった。こうして、挙兵のお膳立ては整った。そして、天正9年(1581年)、重家は、「たとえ死しても、決して景勝には屈さぬ」と叫んで、上杉家に反旗を翻す。挙兵した重家が直ちに取った行動は、水運の要衝、新潟津の奪取であった。この新潟は越後を流れる2つの大河、阿賀野川、信濃川の河口にあたり、河川と日本海の流通を一手に押さえる事が出来る戦略拠点だった。そして、重家は、この地に新潟城を築き、海上を通じて織田家から武器弾薬、兵糧の援助を受けた。これと並行して、阿賀野川経由で蘆名家からも武器弾薬、兵糧の援助を受けた。
重家は織田、蘆名の支援を受け、滅んだ景虎の残党も糾合して侮れない戦力となった。それでも新発田家は越後の一国人に過ぎず、その兵力が3千を越える事は無かったであろう。対する上杉景勝は、重家の反乱を抱えていたとは言え、越後の大部分と越中の三分の一ほどは支配していたので、8千人余の動員力はあったであろう。ただし、越中は今まさに織田家の侵攻を受けており、ここをまず支えねば、本拠の春日山城が危なかった。こうした景勝の苦境に付け入る形で、重家は着実に支配権を拡大していった。
天正10年(1582年)、重家は、越後に迫る織田家部将達と同調し、景勝に対する攻勢を強めつつあった。進退窮まった景勝は、死を覚悟するに至る。しかし、そのような折に、「本能寺の変」が勃発したのである。これを受けて織田軍は、潮が引くように上杉領から撤退して行った。元々、上杉家の半分以下の戦力しか持たない重家は、息を吹き返した景勝によって、逆に包囲される立場に陥った。しかし、重家は決して膝を屈する事はなく、この後も景勝と、数年に渡って干戈を交え続ける事となる。重家は劣勢ながら、地の利を生かして幾度となく上杉方を撃退し、一時は景勝の首級を得るまで、後、僅かという所まで追い詰める事もあった。しかし、天下の情勢、越後の情勢は徐々に上杉方有利へと傾いていった。
天正14年(1586年)、新発田方の有力な支城、新潟城が陥落する。これによって海上補給路が断たれ、その衰勢は明らかとなってくる。その様子を見た、時の天下人、豊臣秀吉は、「重家が新発田城を明け渡して出頭し、再び景勝の配下に戻れば、本領相当の地を別に与える」と呼び掛けたが、重家はこの勧告に耳を貸さなかった。重家にとって、景勝に屈する事だけは何としても出来ない事であった。天正15年(1587年)8月、秀吉は再び降伏勧告を呼び掛けたが、重家は聞く耳を持たず、かえって上杉領へと乱入した。重家はすでに死を決しており、例え天下人の威令であっても、自らの誇りと意地を曲げるつもりはなかった。秀吉もここに到って重家討滅を決し、翌年春までには決着を付ける様、景勝に申し渡した。
天正15年(1587年)9月、景勝は天下人からの厳命を果たすべく、そして、越後の完全な統一を果たすべく、軍を発した。まず上杉軍は、蘆名家との連携を断ち切らんとして、会津に近い加治城と赤谷城を攻め落とした。これによって重家は孤立無援となった。同年10月24日には五十公野(いみじの)城も落城し、残るは重家の本拠、新発田城のみとなる。10月25日、上杉軍1万人余が新発田城を取り囲み、7年もの長きにわたって繰り広げられた景勝、重家の因縁の対決にも終焉の時が訪れる。上杉軍は新発田城に総攻めをかけ、城内へと突入していった。覚悟を決めた重家は染月毛の名馬に跨り、700騎の手勢を率いて最後の突撃を敢行する。重家は大太刀を振って、散々に上杉方を切りまくった挙句、壮絶な討死を遂げた。その最後の奮戦振りは、敵であった上杉方も褒め称えるほどの働きであったと云う。 己の意地を貫き通した男の、見事な最後であった。
知られざる北越の剛将、新発田重家の事をもっと詳しく知りたい方は、下記のHP「埋もれた古城」を御覧になると良いでしょう。