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2026.05.05 - 
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篠山城

篠山城は兵庫県篠山市にある、平山城です。


篠山城は、慶長14年(1609年)、徳川家康の命を受け、西日本の15ヶ国20大名を動員して築かれた。縄張りは、築城の名手と謳われた藤堂高虎の手によるもので、天下普請と呼ばれる大規模な突貫工事が行われて、僅か6カ月で完成を見た。以後、松平氏3家8代、青山氏6代の居城として用いられる。篠山城には天守閣は築かれなかったが、二の丸には大書院を始めとする壮大な御殿が建てられた。明治の世を迎えると、大書院を除く殆どの建物が撤去され、昭和19年(1944年)には、残っていた大書院も失火によって焼失してしまう。平成12年(2000年)、学術調査に基づいて大書院が復元され、一般公開された。



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↑大手門



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↑篠山城と遠くに八上城


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↑大手門


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↑二の丸跡


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↑再建された大書院


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↑天主台跡

ここに上がると、中世山城の八上城が見えます。



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↑二の丸石垣


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↑外堀

篠山城周辺は観光地となっております。城を見学した後、街中を散策されてみては如何でしょう?
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五稜郭に埋もれた遺骸

2009.06.27 - 歴史の怪奇談
大正15年(1926年)10月8日夕暮れ、五稜郭周辺に住む女性が買い物帰り、何気なく郭内にある三号売店の方を見た。すると、人魂のようなものが漂っており、それはスーッと五稜郭の橋の袂の方へと消えていった。翌10月9日、桜の木の植替え作業中、函館戦争で戦死した者と思われる遺骨4体が発見されたのだった。その内の一体は遺骨は驚くほど形が保たれていたが、誰であるかは判明しなかった。五稜郭では、明治11年(1878年)にも遺骸が発見されている。土塁の修復作業中、旧幕府軍の戦死者と思われるおびただしい数の遺骸が発見されたのだった。それらは願乗寺に埋葬されたが、後に高等な位置に移葬されたと云う。


函館戦争は明治元年(1868年)10月21日、榎本武揚率いる旧幕府軍が函館近くに上陸した時から始まり、明治2年(1869年)5月18日、五稜郭に立て篭もった旧幕府軍が、降伏するまでの間に行われた戦いである。兵力は、新政府軍が9000人余で、旧幕府軍は3000人余、戦いによる戦死者は、旧幕府軍で800人余、新政府軍は300人余であったらしい。五稜郭周辺で戦死した旧幕府軍は、郭内や付近の寺院に埋葬されていた。


函館戦争で戦死した人物の中で最も有名なのは土方歳三である。
明治2年(1869年)5月11日、新政府軍総攻撃のこの日、歳三は一本木関門辺りで戦闘指揮している最中、腹部を撃ち抜かれて戦死した。歳三の遺体は、従卒によって五稜郭に運ばれたと云われており、郭内に埋葬されていると考えられている。土方歳三の墓は、伊庭八郎の墓の傍らにあったとも云われている。しかし、歳三が眠っている場所は、現在でもはっきりとは分かっていない。

レーニンの遺体

2009.06.22 - 歴史秘話 其の一
ウラジミ-ル・イリイチ・レーニン(1870年4月10日~1924年1月21日)


レーニンとは、社会主義革命の父であり、ソビエト連邦の建国者でもある。1924年1月21日、レーニンは脳梗塞により54歳で死去するが、その後を継いだスターリンは、共産党の偉大さを示すため、レーニンの遺体に防腐処理を施して赤の広場に永久に安置するよう主張した。レーニンの妻ナジェージダ・クループスカヤは、遺体をごく普通に埋葬してほしいと頼んだが、この意向は無視された。スターリンが求めたのは、人々が見てすぐにそれと分かる、生き生きとした神聖な遺体であった。これまでの人類史で、人間の遺体を生きていた時と同じ状態で保存出来た例はなかった。大抵の遺体(ミイラ)は、肉体は残せても色褪せて干乾びた状態になるのが常だった。


この難解な作業に取り組んだのは、生化学者のボリス・ズバルスキーと解剖学者のウラジミール・ヴォロビヨフの2人だった。2人はこの作業が成功すれば、多額の報酬と栄誉が与えられる事になったが、その反面、失敗すれば銃殺刑は免れなかった。2人は異常な緊張感をみなぎらせて、この作業に取り組む事になった。1924年3月、ズバルスキーとヴォロビヨフは、まず大量の化学薬品を取り寄せた。レーニンの遺体は死後、簡単な防腐処理を施されただけであったので、眼窩は落ち込み、顔も歪んで、悪臭が漂い始めていた。作業は急を要し、ズバルスキーとヴォロビヨフは助手達と共に昼夜兼行で必死に働いた。


まず、チームはレーニンの体から内臓を取り出し、体腔を洗い流した。それから体にホルマリンを注入し、さらに念を入れてホルマリンの浴槽に浸した。それから体を引き上げて乾かすと、様々な薬品の混合液に何度も浸け込んだ。そして、着手してから4ヶ月後に作業は完了した。ソビエト政府はレーニンの家族を招待して、遺体を見せた。レーニンの弟は、「兄は息を引き取った時よりも良く見える」と言って驚いた。これを聞いてソビエト政府は安心し、遺体を赤の広場にあるピラミッド型の優雅な霊廟に安置した。


作業の成功で、ズバルスキーとヴォロビヨフには巨額の報酬が与えられたが、ズバルスキーは極度の緊張状態を強いられていた事から、精神に深い傷を負った。ズバルスキーは、腐ったレーニンの体の周りをハエが飛び回っているという悪夢を見るようになった。実際にその様な事になっていれば、彼はスターリンの逆鱗を受けて殺されていたのだ。その後、2人の科学者はあまり幸福な人生を送る事は出来なかった。1937年、ヴォロビヨフはかねてからスターリンに嫌悪感を持っていた事から目を付けられ、不審な死を遂げた。1952年、ズバルスキーは長らく霊廟に勤めていたが、ユダヤ系であった事からスターリンの反ユダヤ主義の煽りをくらって投獄され、ほどなくして死亡した。


1938年、レーニンの妻、クループスカヤが霊廟を訪れた。クループスカヤは、「自分は年を取ったのに、夫は亡くなったその日から少しも変わっていないように見える」と呟き、悲しげに首を振った。彼女が夫の姿を見たのはそれが最後だった。現在でもレーニンの遺体は霊廟のガラスケースに安置されている。遺体は周に二度、腐敗の兆候がないか検査され、一年半に一度、化学薬品の入った浴槽に浸けられる。それから数週間後、レーニンは再び人々の前に姿を現すのである。


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↑レーニンの遺体

三木合戦 其の二

2009.06.06 - 戦国史 其の二
天正6年(1578年)10月15日、秀吉は忙しい軍務の合間を縫って、平井山の陣中にて茶会を催す。秀吉は前年末に信長から茶器を授けられており、これは織田家臣として比類のない名誉であった。だが、それから間もなく、10月21日、秀吉を含め、織田家中に激震が走った。織田家の重臣であり、かつ摂津の一職支配者でもある、荒木村重謀反の報が伝わってきたのである。攝津35万6千石の内、5万石は本願寺領であったとされるが、それでも村重には30万石、7,500~9,000人もの動員力と、天下に名高い巨城、有岡城があった。これだけの戦力が敵に回れば、織田家に取って非常事態となる。


信長も驚いて、すぐさま詰問使を送ったが、それに対して村重は、「反意など、ありはしませぬ」との返事を返したので、信長もひとまず安堵した。村重謀反の噂はおそらく秀吉の耳にも届いており、気が気でなかったであろう。村重が謀反を起こしたとなれば、秀吉はまたもや腹背に敵を受け、今度こそ播磨に孤立する形となるからである。そのような折、別所方が動いた。


天正6年(1578年)10月22日早朝、村重謀反の動きに呼応してか、別所方が城を出て、平井山の秀吉本陣へ攻めかかってきたのである。長治の弟、治定と、叔父、吉親を主将とする2,500人余の別所軍は、秀吉の首を狙って斜面を駆け上がって行った。しかし、別所軍の動きは秀吉に読まれており、十分に引きつけられた上、秀吉軍の逆落としの反撃を受けて、突き崩された。別所軍は死傷者が続出し、退こうとするところ、更に追撃を受けて大敗を喫した。この戦いで治定と、数百人余の兵が討死した(平井山合戦)。


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↑平井山、秀吉本陣跡
(実際の本陣は、ここから南に400メートルの所であるらしい)


11月、三木での戦況は秀吉有利に進んでいたが、ここで村重の謀反は確実なものとなる。秀吉も薄々は感ずいていたであろうが、いざ実際に事を起こされるとなると、事態は予想以上に深刻であった。これに連動して毛利軍が播磨に侵攻すれば、孤立した秀吉軍は殲滅され、織田家の西部戦線が崩壊しかねない状況であった。危機的な状況を打開すべく、黒田孝高(官兵衛)が有岡城へ派遣された。そして、必死に村重の説得に当たったが、その決意を覆すには至らず、逆に捕われて幽閉されてしまう。


この時、一つの逸話が伝えられている。信長は、捕虜となった孝高が荒木方に寝返ったと見なして、その一子である松寿丸(後の長政)を殺害するよう、秀吉に命じたと云われている。ここで、
竹中重治がその役目は自らが引き受けると称して、松寿丸を引き取り、信長には処刑した旨を伝えたが、実際には匿って保護していたとされる。重治の人となりを伝える有名な逸話であるが、史実では確認されていない。孝高が捕われて行方知らずとなっても、父の職隆を始めとする黒田一族は織田陣営に止まって、忠節を表明している。松寿丸を殺害すれば、そんな健気な黒田一族を敵に回し、世間の評判も落とす事になる。なので、信長がその様な命を下したとは考え難いところである。


孝高は、播磨の国人領主、小寺政職の家臣であったが、織田家にも属し、秀吉の有力な与力となっていた。誰よりも播磨の事情に精通し、顔も広い事から、播磨平定戦において欠かせない存在となっていた。この村重の謀反と孝高の幽閉は、秀吉にとって大きな打撃となる。11月9日、事態を重視した信長は自ら出馬し、大軍を率いて摂津に入った。信長は強大な圧力を加えて、支城の高槻城と茨木城を帰服させ、12月初旬には、村重が篭る有岡城を包囲する。こうして織田本隊が村重を封じ込めた事によって、播磨と織田本国との補給、連絡線は再開通し、秀吉は一息付く事が出来た。


天正7年(1579年)3月、中国戦線の行方を左右する異変が起こる。織田家と毛利家の狭間に位置する、備前の戦国大名、宇喜多直家が毛利家を裏切って、織田家に鞍替えしたのである。これによって毛利家は陸路から直接、三木城を支援する事は、ほぼ不可能となり、海上からの支援も障害を受ける形となった。一方、秀吉は毛利家の圧力が大幅に減殺されて、三木城攻略に専念、出来るようになった。別所家にとって直家は疫病神以外の何者でもなかったが、秀吉にとっては救いの神となった。


同年5月、村重の謀反によって、三木城への新たな兵糧搬入口が出来ていた事を秀吉は知る。村重の勢力下にある花隈城から再度山(ふたたびさん)、丹生山を経て三木城に至るという輸送路が開かれていたのである。この丹生山には明要寺と云う寺があって、別所氏から寺領500石を与えられて保護されてきた。そのため、寺僧や付近の村人達は別所氏を助けるべく、献身的に三木城への兵糧輸送に協力していた。秀吉はそれを断たんとして、弟、秀長に軍を授けて明要寺へと向かわせた。


5月25日、風雨の激しい夜、密かに忍び寄った秀長軍は、明要寺に一斉に夜襲を仕掛け、城砦、寺院に火を放ち、僧侶を皆殺しにしていった。百坊を持つ大寺であった明要寺は、ここに全山灰燼と化した。寺内にいた稚児達は難を逃れようと、山を伝って逃げて行く途中、秀長軍に見つかって皆殺しにされたと伝わっている。この丹生山近辺には、稚児達を弔ったとされる稚児墓山(ちごがはかやま)と呼ばれる山と、さらにその稚児達に手向けるために村人達が花を折ったとされる、花折山と呼ばれる山がある。


明要寺焼打ちの翌日、近隣の淡河城主、淡河定範は、勢いに乗って攻め寄せてきた秀長軍を一度は撃退したが、もはや支えきれないと見て、城を焼いて三木城に合流した。これによって三木城は兵糧輸送の道のほとんどを失った。6月、波多野氏の居城、丹波八上城が落城する。宇喜多家の裏切りと、波多野家の滅亡によって、別所家を巡る戦況は急速に悪化してくる。


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↑明要寺跡


6月22日、秀吉の与力であった竹中半兵衛重治が、三木城攻囲中に病死する。享年36。重治は、元は美濃斉藤家の家臣であったが、それが滅亡すると、信長に仕えて直臣となり、元亀元年(1570年)より秀吉の与力として付属されていた。重治は知略に優れた軍師とされているが、実際には一軍を率いる指揮官であり、秀吉を補佐する有能な副将格であったようだ。秀吉が播磨に入ると、黒田孝高と共に経略に貢献し、2人の間にも並々ならぬ交誼が生じたようだ。先に上げた美談は、ここから生まれたのだろう。


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↑竹中半兵衛重治の墓


9月初め、毛利軍は海路を通じて、播磨の海岸、魚住まで兵糧を運んできた。毛利軍に加え、御着城や雑賀衆の援兵、人夫なども加わった1万人余(大半は人夫)が、ここ魚住に集結した。そして、困窮する三木城に兵糧を届けるべく、間道を伝って急速に北上を開始した。9月10日夜、毛利軍は警備が比較的手薄な北西から侵入し、平田まで来たが、ここには秀吉の部将、谷衛好(たに もりよし)が守る砦があった。生石中務大輔(おいし なかつかさのたいふ)率いる護衛の毛利軍2千人余は、輸送路を切り開くべく、月が照らす夜、砦に夜襲を仕掛けた。毛利軍はこの砦を攻撃して、秀吉軍全体の注意を引き付けんとした。そして、その隙に兵糧を担いだ人夫を三木城に向かわせ、それを別所軍が収容する手はずであった。


不意を突かれた平田砦は、たちまち苦戦に陥った。だが、主将の谷は名の知られた猛者であり、混乱を建て直しつつ、必死に砦を守って乱戦状態となった。そして、この毛利軍の動きに呼応する形で、吉親率いる別所軍3千も城を出て、兵糧受け取りに向かう。秀吉の下に、平田砦から危機を伝える注進が入ってくるが、秀吉はおとり攻撃の可能性があると見て、救援の派遣を引き延ばした。砦が一つ落ちようとも、何より優先すべきは、兵糧搬入の阻止であった。そして、秀吉は、毛利軍が砦の攻撃に集中し、別所軍がその隙に兵糧受け取りに向かっていると見極めると、主力を毛利軍に振り向け、自らも一軍を率いて別所軍の後を追った。


そして、秀吉直率の1千人は、別所軍を側面から急襲した。別所軍は多勢であったが、不意を突かれたのと、兵糧攻めの影響もあって崩れたち、名のある侍数多が討ち取られて大敗を喫した。この後、秀吉軍は兵糧担ぎの人夫多数を殺害して、兵糧搬入を防いだ。戦いの合間に、僅かに兵糧が運び込まれたものの、焼け石に水でしかなかった。一方、平田砦は陥落寸前であったが、救援部隊の到着で戦況は一変する。救援部隊は毛利軍を猛攻し、こちらも数多を討ち取って撃退した。


こうして平田砦の危機は救われたが、この攻防で砦の守備隊、数百人が討死しており、主将の谷も全身50余の傷を負って討死していた。石山合戦で名を上げ、秀吉の信頼も篤かった武功の士、谷大膳亮衛好、享年50。この戦いで秀吉軍が受けた損害は、決して小さなものでは無い。だが、この犠牲は無駄では無かった。毛利、別所軍は800人以上が討死して、これ以降、兵糧輸送と大反撃を行う余力を全て失ったからである(平田大村合戦)。これにて三木城の運命は極まり、秀吉の勝利は確定した。もし、この兵糧搬入が成功したなら、三木城の抵抗は更に半年は延びていただろう。


敗戦後、別所方は和睦を申し出るが、秀吉は聞く耳を持たず、かえって包囲陣を城近くへと押し進めた。更に封鎖を徹底すべく、付城と付城の間に複数の柵を築いて警戒を厳重化し、川底に網を張り、杭を打ち込んで船の往来も封じた。11月19日、荒木村重の居城、摂津有岡城が落ちる。毛利軍の兵糧輸送も途絶し、こうして三木城は完全に孤立した。城内の困窮は進み、草を噛み人馬を食する飢餓地獄に陥った。


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↑平田砦跡にある谷大膳亮 衛好の墓


天正8年(1580年)1月6日、長年の兵糧攻めの結果、三木城の兵達は痩せ衰え、抵抗力は大きく落ちていた。秀吉は頃合は良しと見て、三木城に強襲をかけ、三木城で最も高所にある宮ノ上砦を奪取した。秀吉は砦に上がって三木城を見下ろすと、城内に生気はなく、死者は所々に放置され、城兵は幽鬼のような様相で、じっと体を横たえるのみであった。秀吉は城方が十分弱っていると見定めると、宮ノ上砦を拠点として兵を三木城内に突入させた。


これに対して、城兵達は立つのがやっとという有様であり、ただただ討たれるばかりであった。この攻撃の結果、三木城は本丸一つを残すばかりとなる。最早これまでと見た長治は、自身と一族の自害を条件に将兵達の助命を申し出た。秀吉はこの申し出を了承し、直ちに開城の運びとなった。秀吉は、長治の潔い態度に感嘆して、樽酒2,3を城へ送り届けた。


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↑三木城本丸跡


長治は17日に腹を切る旨を妻子に伝え、今生の別れの杯を交わす。長治は吉親にもこの旨を伝えたが、吉親はこの切腹に異論を唱える。吉親は、「我らの首が安土の城下に晒されるのは無念千犯である。焼け死んで遺骸を消してくれる!」と叫んで、城に火を放ち始めた。しかし、諸士にその行為を見咎められ、吉親は殺害された。別所家では籠城以来、長治が前線に姿を見せる事はなく、吉親が先頭に立って戦ってきた。良くも悪くも篭城を主導していたのは、この吉親であった。1月17日、切腹の日、長治とその弟、友之は涙を呑んで妻子を刺し殺した。兄弟は広間に出ると諸士を呼び出し、これまでの戦い振りに、労いの言葉と深い感謝の念を述べる。そして、兄弟は静かに切腹して果てた。長治の介錯をつとめた三宅治忠も、主に殉じた。


自害した別所一族は、長治(23~26歳)、妻照子(22歳?)、夫妻の幼い子供4人。長治の弟、友之(21~25歳)、妻(17歳?)。叔父の吉親(41歳?)、妻波(28歳?)、夫妻の子供3人。三宅治忠(43歳)。この日、主だった別所一族の自害をもって、城に篭っていた人々は解放された。

長治の時世の句、「今はただ うらみもあらじ 諸人の いのちにかはる 我が身とおもへば」

この時世の句は、広く知れ渡っている。世の人々は、別所一族の悲しい末路に涙すると供に、長治の潔い最期に深い感銘を受けたのだった。 三木落城は美談をもって幕を閉じたかに見えたが、ここに無視できない史実が存在する。それは、当事者の秀吉が書状で、長治、吉親、友之の三人は切腹せしめたが、残りの生存者は一箇所に追い込んで悉く殺したと述べているのである。凄惨な三木城攻防戦は、美談の内に幕を閉じたのか、それとも最後まで凄惨なままだったのか、真実はどちらであろうか。


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↑別所長治とその妻照子の首塚


戦後、三木城には秀吉の家臣が城代として在城し、その後、豊臣家の持ち城とされていたが、慶長6年(1600年)、関ヶ原の合戦後には、播磨に入封してきた池田輝政の支城となった。しかし、元和3年(1617年)、江戸幕府が打ち出した一国一城令によって廃城となる。三木城が廃城となっても、土地の人々は別所氏を偲んで様々な催しものを起こし、その記憶を長く留めようとした。 


 

三木合戦 其の一

2009.06.06 - 戦国史 其の二
兵庫県三木市には、宅地に埋もれ、見る影もない城跡、三木城がある。しかし、かつての三木城は、御着城、英賀城と並んで播磨の三大城郭に数えられるほどの大城郭であった。そして、この三木城は、播磨の戦国武将、別所長治と織田家の部将、羽柴秀吉との間で激しい攻防戦が繰り広げられた城でもある。


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↑三木城遠景


別所氏は播磨守護職であった赤松氏の庶流で、別所則治の時代に勢力を大きく伸ばし、東播磨八群の守護と呼ばれるまでになった。明応年間(1492年~1501年)、則治は、播磨国、美嚢群(みのうぐん)三木の地に三木城を築き上げ、以降、別所氏は、この三木城を本拠として勢力を伸ばしていった。


元亀元年(1570年)、別所家第四代当主、安治が39歳の若さで死去すると、その嫡男、長治が12歳で家督を相続する。しかし、長治はまだ若年であったので、安治の次弟、吉親と三弟の重棟が執政となって家中を主導した。ところが、この2人は兄弟でありながら仲が悪く、常に権勢を競っていたと云う。天正3年(1575年)10月20日、長治は上洛して、織田信長に服属した。そして、天正5年(1577年)10月、織田家の部将、羽柴秀吉が中国攻めのため播磨国に入ると、これに協力する事を約した。


しかし、別所家中ではこのまま織田家に協力するか、はたまた毛利家に付くかで揺れ動いていた。別所家を主導する長治の2人の叔父の内、吉親は親毛利派であったのに対し、重棟は親織田派であった。重棟はいち早く秀吉に取り入って、その信頼を受けていたが、吉親は織田家や秀吉に対する不信が拭えなかった。おりしも、足利義昭から決起を促す御内書が、別所氏に届けられており、吉親は毛利家と結んで、織田家とは手切れするよう長治に強く促した。


当時、織田家は播磨の隣国、丹波に攻め入って波多野氏とも交戦していた。この波多野氏と別所氏は、婚戚関係にあった。長治の妻は丹波八上城の波多野秀治の妹であるとされており、長治の弟、治定も丹波氷上城の波多野宗長の娘を娶っていたとされている。両家には深い繋がりがあり、この事も織田家離反の決断を促す一因となった。


天正6年(1578年)3月、長治は、織田家に反旗を翻す事を決した。別所氏は、東播磨20万石余の所領を有する大勢力であり、その影響力は大きかった。これを受けて東播磨の諸領主、淡河城(淡河定範)・神吉城(神吉頼定)・高砂城(梶原景行)・野口城(長井政重)・魚住城(魚住頼治)らも呼応し、別所氏を盟主として仰いだ。


別所氏は、丹波の波多野氏や播磨各地の支城との連携を密にして、籠城戦を取る事を決した。別所氏の作戦としては、織田軍を播磨に拘束した上で毛利軍の来援を請い、その来着をもって一挙に織田軍を粉砕せんとの考えだった。三木城には別所一族の郎党に加えて、西播磨の門徒や付近の農民達も籠城に加わった。三木城には7千5百人余が立て篭もったと云われているが、これは過大だと思われる。この人数は、各地の支城の人員も合わせたものだろう。


秀吉は別所氏を始めとする播磨勢を率いて、今まさに中国地方に攻め入らんとしていたところであった。ところが、その頼りとしていた別所氏離反の報を聞いて、さすがの秀吉も愕然となる。秀吉は長治の叔父、別所重棟を呼び出して問い質したものの、重棟自体も驚くばかりであったと云う。別所氏が離反を決めた謀議では、重棟は蚊帳の外に置かれていた。秀吉の意を汲んで重棟は再三に渡って長治に書を送り、必死に翻意を促したが効果はなかった。そこで、重棟は袂を分かって、織田側に身を寄せた。これ以降、重棟は自らの身の潔白と忠誠を証明するため、自身が負傷するほど、同族に向かって激しく戦いを挑む事となる。こうして、播磨勢の過半が毛利方に変身し、秀吉は敵中に孤立する形となった。


天正6年(1578年)3月29日、秀吉は三木城に対し、最初の攻撃を加えたと云われている。しかし、天険の要害である三木城はびくともせず、逆に手痛い反撃を受けて秀吉軍は撃退されたらしい。三木城は、丘陵の上に本丸、二の丸、西の丸、新城、東の丸、三の丸があった。更に今回の挙兵の際、城を強化すべく、新たに西南にある高台、鷹の尾、宮ノ上に砦が築かれた。三木城の北と西には美嚢川(みのうがわ)が、東には志染川が流れており、天然の堀となっていた。このような要害の地に大兵力が篭っていてる現状では、大軍をもってしても早期攻略は極めて難しい。その上、この時の秀吉が率いている兵力は8千人程度でしかなく、城を包囲する事さえ、ままならなかった。


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↑三木城天守台跡


そこで、秀吉は長期戦を覚悟し、三木城への兵糧輸送と兵員提供を担っている支城を、一つ一つ落としていく地道な作戦を取る事にした。4月3日、秀吉軍はまず、三木城の近隣にある野口城へと向かった。秀吉軍は野口城を力攻めにしたが、城主長井政重と4百人余の城兵の抵抗は激しいものがあった。しかし、緒戦で敗退する訳にはいかない秀吉は、休まず3日間猛攻を加え続け、ようやく政重を降伏に追い込んだ。ひとまず序盤の山場を越えた秀吉であったが、またもや憂慮すべき事態が起こる。


秀吉は三木城攻めに取り掛かったばかりであったのに、今度は西に大敵が現れたのである。4月下旬、毛利、宇喜多の連合軍3万人余が、備前、播磨、美作の国境沿いに位置する上月城を囲んだのである。これこそ、別所氏が待ち望んでいたものであった。上月城には、尼子勝久、山中幸盛(鹿助)を始めとする尼子の残党7、8百人余が立て篭もっていた。尼子の残党は御家再興を願って、織田家の指揮下に入っており、秀吉の中国攻めにも協力していた。上月城からの急報を受け、秀吉は三木城に抑えの兵を残すと、救援に向かった。


5月4日、秀吉からの増援要請を受けて、荒木村重の軍も上月城に到着した。しかし、両将の兵を合わせても1万人余でしかなく、これに対して毛利、宇喜多軍は3万人もの兵力で、しかも要地を占めて城を取り囲んでいた。劣勢の秀吉、村重軍は近づく事も出来ず、城と連絡を取り合う事すら困難であった。上月城が困窮する様子は秀吉にも伝わってくるが、手の打ちようが無く、ただただ日数だけが過ぎていった。6月16日、万策尽きた秀吉は上洛し、信長の指図を仰いだ。


秀吉は、信長の直接出馬をもって、上月城を救ってもらいたかった様だが、信長の下した決断は非情かつ、現実的なものだった。秀吉に対し、上月城は見放し、三木城の攻略に専念するよう命じたのである。6月26日、現地に舞い戻った秀吉は、後ろ髪を引かれる思いで姫路、書写山へと引き揚げていった。味方に見捨てられた上月城が落ちたのは、7月3日の事であった。籠城以来、70日余が過ぎていた。この日、尼子勝久は自刃して果て、山中幸盛も後に殺害された。かつて山陰に大勢力を築いた尼子氏は、ここに滅亡した。


6月27日、上月城から秀吉が退き始めた頃、織田信忠率いる3~4万人余の大軍が播磨に来援した。そして、織田軍は三木城の支城の一つ、2千人余の将兵が守る神吉城に対する攻撃を開始する。織田軍は大軍にものを言わせて強襲を加えたが、城方の抵抗は激しく、おびただしい戦死者を出した。この攻防戦の最中、信長の三男、信孝も負傷している。だが、織田軍は攻撃の手を緩める事無く、井楼(せいろう)、築山(つきやま)を築き、そこから大鉄砲を城内に撃ち込んでは、塀(へい)、櫓を突き崩していった。織田軍が本丸に迫ってくると、城方は降伏を申し出て来たが、信長はこれを撥ねつけさせた。


7月20日、激しい攻防戦の末、城主、神吉頼定は戦死し、神吉城は落城した。他の城への見せしめとするため、城内の生存者のほとんどが殺害された。織田軍は引き続き志方城へと押し寄せたが、城方は神吉城の凄惨な最後を見て萎縮しており、戦わずして降伏した。恐怖を与えて早期降伏に追い込む、これこそ信長の狙いであった。そして、こちらは人質供出と、城の明け渡しだけで許された。この神吉、志方城の攻略と前後して、織田軍は加古川河口にある高砂城へも兵を差し向けている。こちらの攻防は定かではないが、城主の梶原景秀は後に秀吉に服属しているので、降伏した模様である。次に織田軍は、本元である三木城を囲んだ。しかし、信長の敵は、毛利や別所だけでは無い。数万もの大軍がいつまでも播磨だけに留まっている訳にはいかず、幾つかの付城を築くと本国へと引き揚げていった。三木城の主だった支城は落としたので、後は秀吉の仕事とされたのである。


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↑三木城からの眺め
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