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御館の乱と上杉景勝 前

2010.01.09 - 戦国史 其の二
上杉景勝(1555~1623)

越後の龍と称せられた名将、上杉謙信、その後継者となったのが上杉景勝である。 弘治元年(1555年)11月27日、景勝は、謙信の縁戚で上田長尾家の当主である、長尾政景の次男として生まれた。母は上杉謙信の姉、仙洞院である。謙信はこの甥を大変、可愛がり、永禄5年(1562年)、関東在陣中に、8才になった景勝の書の上達を褒めて、習字の手本を送り届けている。また、謙信は自らの手で記した手習い書、「片仮名イロハ・消息手本・伊呂波尽・上杉家中名字尽」なども景勝に与えた。


永禄7年(1564年)7月5日、景勝は父、長尾政景を亡くし、ほどなくして上杉謙信の養子になった。 政景の死は、野尻池遊宴中に関係者全員の死亡と云う異様な死亡事故で、政景の体には刀傷があったとも云われている。政景は謙信に次ぐ実力者で、過去に反旗を翻した事もある油断のならない人物であった為、謙信によって謀殺されたとも云われている。このような経緯はあったものの、謙信は景勝を可愛がり、自らの後継者となるよう大切に養育した。景勝自身もこの養父を深く尊敬し、その行動を模範とした。そして、謙信に対する崇敬の念は終生、変わる事はなかった。


元亀元年(1570年)北条氏康の実子、三郎が上杉家への人質として送られて来る。謙信は美男で聡明な三郎を愛したと云い、景勝の妹(姉とも)華渓院(法名)を娶らせて上杉景虎と名乗らせる。そして、自らの養子として、もう1人の有力な後継候補とした。


天正6年(1578年)3月9日、謙信は春日山城の厠で倒れ、意識が戻らないまま、3月13日、帰らぬ人となった。謙信には実子が無かったので、景勝と景虎の2人の養子を後継候補としていたが、結局、正式な後継者を定めずに亡くなった。だが、生前の謙信には、景虎を関東管領に任命し、景勝には越後の当主を任せるという考えがあったと云われている。この説を取れば、謙信は景虎には名誉職を与えて遇するが、実質的な後継者は景勝と見なしていたのだろうか。


3月15日、謙信の突然の死に上杉家中は大いに動揺し、不穏な空気が漂う中、謙信の葬儀が執り行われた。そして、その葬儀が終わるや否や、景勝は自らの後継者としての正当性を宣伝するため、機先を制して春日山城の実城(本丸)を占拠する。そして、実城の倉庫を押さえ、謙信が在世中に蓄えた金3万両(2714枚5両6分)を手中に収めた。この金が、後に景勝を大いに助ける事になる。


景勝は謙信の死後、2週間後に関東の武将、大田資正に宛てて次のような手紙を送った。

「まだ御発信いたした事はありませんが、一筆啓述いたします。去る十三日、謙信が思いがけない病気を得、持ち直すことができずに死去いたしました。その恐怖はいかばかりのものかお察し下されたい。それで謙信の遺言によって、この景勝が春日山の本城に移るべきであるとの事、いろいろと考慮いたしましたが、周囲の者がそれぞれ、当然そうあるべきだと言うので、その意見に従った次第です。けれども、すべての事の処置は、謙信在世中と少しも変わりありませんから、どうか安心していただきたい。さてまた、そちら関東の事も、謙信が申し遺したことでもありますし、そのうえ、鬱憤を晴らすための戦いでもありますから、若輩ながらこの景勝も、なおもって心を入れて取り組む所存ですので、謙信同様に御懇意にして下されば喜ばしい限りです。なおいくえにも、重ねて申し上げることにいたしましょう。

追伸、謙信遺物の細刀一振をお届けします。形見にして下さい。御自愛専一に願います。」


宛名の大田資正と上杉家とは古くから親交があり、謙信の小田原城攻めにも参加している武将である。 この手紙に景勝が書いている恐怖とは、謙信の跡目を継ぐ重責、景虎との跡目争い、対外勢力との戦い、等これから様々な困難が自身の身に押し寄せる事が恐怖だと云っているのではないかとされている。 そして、景勝は謙信の遺言により、自分が上杉家の跡目を継いだのだと、その正統性を強調している。しかし、謙信は倒れた後、意識不明のまま死去したとされ、遺言を残せたかどうかは疑問である。御館の乱の初期、景勝の手際の良さが目立つ。謙信が倒れた時から、既に策を練っていたのかもしれない。この時は、直江信網が重要な参謀役となっていたと思われ、まだ若輩の樋口与六(後の直江兼続)はその助手として暗躍していたのだろう。



この後、春日山城内では景勝、景虎とも2ヶ月間に渡って、自分こそが謙信の正当な後継者なのだと、他国勢力や国内勢力に支持を訴える書状を送り続けた。来るべき激突に備え、1人でも多くの味方を得ようと、両者は必死の宣伝戦を展開する。真偽の程は定かではないが、この間、二ノ郭に立て篭もった景虎方に対し、景勝方は本丸から見下ろす形で、弓・鉄砲を撃ちかけ、城内で両派の戦闘が繰り広げられたとの話もある。5月5日、景勝と景虎の対立は、ついに本格的な武力衝突に発展し、春日山と御館の中間にある大場の地で合戦となった。この戦いは景勝方勝利となって、景虎方の上杉景信が討ち取られた。上杉景信は古志長尾家の当主であり、謙信政権でも重きをなしていた人物であったので、景虎にとっては大きな損失であった。しかし、情勢は、まだ景虎方優勢であった。



5月13日、春日山城内では、景虎が不利な状況に陥ったようで、妻子を引き連れ、春日山城とは目と鼻の先にある御館に移った。御館とは、前関東管領、上杉憲政のための居宅として謙信が府内に築かせた館であり、謙信の政庁としての役割も果たしていた。この御館を中心に景勝と景虎の戦いが繰り広げられた事から、この争乱は、「御館の乱」と呼ばれる事になる。 景虎は御館に入った後、自軍の勢力を糾合して、攻勢に移った。


5月16日、景虎方の部将、東条佐渡守が春日山城下に火を放って3千軒を焼き払った。翌17日、景虎方は一挙に春日山城を攻め落とさんと押し寄せ、6千余の兵をもって春日山城の千貫門辺りまで攻め入ったが、景勝方も必死の防戦を展開し、景虎方の部将、桃井義考以下数百人を討ち取って、これを撃退した。5月21日、景虎方は再び兵を出し、両者は荒川館と愛宕で交戦する。この攻撃も景勝方によって撃退されるが、今だ景虎方優勢の状況であった。戦いはむしろ、これから本格的なものとなって、越後国内のみならず、周辺諸国まで巻き込んだ一大争乱に発展してゆく。


6月、甲斐の武田勝頼が、小田原北条家の要請を受けて、2万余の大軍を率いて越後に進軍する。勝頼は、景虎を援助するよう要請されていたのだが、景勝は武田家と交渉して、黄金1万両の譲渡と東上野の割譲を申し出て、景勝寄りの中立に立たせる事に成功した。9月、景虎からの援軍要請を受けて、北条家が本腰を上げて動き出した。北条軍1万5千余が北上して三国峠を越え、越後国境の城、樺沢城、荒戸城を破って、景勝ら上田衆の本拠、坂戸城を取り囲んだのである。これで勢いを増した景虎方は、大場口に攻め寄せたが、景勝方の新発田重家が奮戦してこれを討ち破った。一方、坂戸城の方も、天険を生かして北条軍の攻撃を凌ぎ切った。


10月、越後に冬が訪れると、北条軍は攻め取った城に守備隊を残して撤退していった。しかし、春になれば、北条軍が再び攻め寄せてくる事は明白である。景勝には、それまでに御館を攻め落とす必要があった。景勝は家臣に宛てた書状で、「雪が消えて、小田原の援軍が来る前に決着をつける」とその決意の程を述べている。10月24日、景勝は自ら御館に攻勢をかけ、迎え打ってきた景虎方を打ち破る。この日、景虎方の有力部将、本庄秀綱は居城、栃尾城に逃げ込んだので、これで景虎が頼れる部将は、北条景広と堀江宗親ぐらいしかいなくなった。景勝はさらに攻勢を強め、琵琶島城を包囲する。この琵琶島城は、海上から御館への兵糧輸送を担う、重要拠点であった。


天正7年(1579年)1月、景勝の攻勢は真冬でも継続され、御館と北条家との連絡線に当たる高津城を攻め落とした。2月初旬、景虎方の勇将、北条景広が討死した。この報を受け、景勝はすかさず御館を攻め立てて、館の外構えを焼き払う。景虎を取り巻く情勢は、急速に悪化していった。景虎は北越の有力部将、本庄繁長に宛てて、「十日も援軍が来なければ、滅亡してしまう」と援軍を哀願したが、繁長はすでに景虎を見限っていたので、何の意味も無かった。景勝の攻勢は続き、樺沢城、荒戸城を奪還し、北条家からの支援の道を完全に断つ事に成功した。


3月、景勝方は御館近辺に陣取って、大きな圧力を加えた。敗色濃い景虎に見切りをつけたのか、御館から堀江宗親が出奔し、鮫ヶ尾城に引き払ってしまう。御館は全ての糧道を断たれ、有力な部将も皆、戦死するか出奔してしまった。景虎は、完全に孤立無縁となる。その様子を見た前関東管領、上杉憲政は和平調停をしようと、景虎の嫡子、9歳になる道満丸を連れて、景勝の下へと向かった。しかし、その途上、景勝方の武士によって2人とも殺害されてしまう。これによって和平の道も閉ざされ、景虎には打つ手がなくなった。


3月17日、御館の落城は避けられないと見た景虎は、関東で再起を図ろうと館を脱出した。しかし、この時、景虎の奥方であり、景勝の妹(姉とも)でもある華渓院は御館に残った。彼女は兄に降る事を良しとせず、夫に殉ずる覚悟を決めていた。そして、夫に関東に落ち延びるよう勧めてから、側仕えの者達と共に自害して果てたと云う。景虎に従う侍衆も自らの家に火を放ち、妻子を焼殺あるいは斬殺して、御館を落ちていったと伝わる。 戦国の哀しい一面であった。


3月24日、景虎は関東に落ち延びて行く途上、鮫ヶ尾城に立ち寄った。しかし、ここで堀江宗親に裏切られ、景虎は無念の自害に追いやられた。享年26であった。しかし、戦いはまだ終わっていなかった。越後にはまだ、景勝の支配を拒否する景虎方の勢力が残っていた。
10月20日、武田勝頼の妹が、景勝に嫁いで来る。これで、景勝と武田家との絆はさらに深まった。天正8年(1580年)4月、本庄秀網の栃尾城を落とし、秀綱を会津に追いやった。7月、神余親網の三条城を落とし、これを討ち取った。翌天正9年(1581年)2月、北条輔広の北条城を攻略する。これにて、謙信の死後、足掛け3年に渡って繰り広げられた戦乱はようやく収束した。


昭和39~40年に御館を発掘調査した際、くし、かんざしの類が混じって出土した。それは、かつてこの館で女性達が優雅に暮らし、そして、悲劇的な結末を迎えたという事を物語っていた。また、種子島の銃弾、銭貨、武具、馬具、刀剣の破片、大陸渡来の白磁、青磁等の破片などが出土した事から、ここで激しい戦闘があった事と、ここに住んでいた前関東管領、上杉憲政の優雅な生活ぶりが伺えたそうである。 また、景虎が自害して果てた鮫ヶ尾城からも、炭化したおにぎりが出土している。三の丸から出土した焼けた米粒の塊は、年代測定の結果、御館の乱が起きた当時のおにぎりであった事が判明する。
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丹波岩尾城

岩尾城は兵庫県丹波市、山南町和田にある山城である。


岩尾城は、和田齋頼(わだ ひとより)なる人物が、永正13年(1516年)に築城したのが始まりであるとされている。天文17年(1548年)、齋頼が病死すると、その子、師季(もろすえ)が跡を継ぐ。この師季の代に、丹波は大きな戦国の荒波に飲み込まれる。天正3年(1575年)、織田家による丹波平定戦が始まり、その尖兵として明智光秀が大軍を率いて丹波侵攻を開始したのである。これに対して、師季は丹波の傑物、赤井(荻野)直正の麾下に入って、明智軍に立ち向った。


丹波の諸豪族は連合して、強大な織田家相手に善戦したが、天正6年(1578年)、赤井直正が死去すると、求心力を失った丹波勢は急速に勢力が衰え始める。そして、翌天正7年(1579年)、岩尾城は明智軍の攻撃を受け、師季を始めとする和田一族は討滅されて、落城に到った。この天正7年には、波多野氏の八上城、赤井氏の黒井城も落ちており、こうして全丹波が織田家の手に入った。


その後、丹波国は明智光秀の所領となり、岩尾城は支城として用いられたと思われる。光秀が山崎の戦いで敗死すると、天正14年(1586年)から佐野栄有が3750石で岩尾城に入封した。この栄有の時代に、岩尾城は総石垣の近世城郭に改められる。文禄4年(1595年)、栄有が移封されると、前田玄以が代わって入封するが、慶長元年(1596年)に豊臣秀吉の命によって岩尾城は廃城となった。



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↑赤い鳥居のある登山口


和田小学校の裏手から登る近道もあるのですが、こちらが大手道だと言うので、ここから登り始めました。しかし、山道2キロとの表示を見て、正直げんなりしました。登り始めたのは12時半で、近所に住む親切なお爺さんが杖を貸してくれました。この杖のお陰で、後々楽になったので、お爺さんには本当に感謝です。



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↑鬱蒼と茂る薮道


膝が隠れるぐらいシダが伸びていて、気持ち悪かったです・・・冬でこの状態なので、夏ならばどうなるのでしょう?こんな道を歩きつつ、尾根を五つくらい乗り越えながら、岩尾城を目指します。遠いわ~



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↑天主台跡


頂上に着いたのは50分後、1時20分ぐらいでした。



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↑本丸石垣


頂上にはベンチがあったので、そこで昼食を取りました。古い石垣の上から、城下を眺めると、何とも言えない感慨が湧きました。古城に立って、在りし日に思いを馳せる。これが戦国期の城跡巡りの醍醐味です。


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↑北を望む


手前の山々の尾根を伝いながら登ってきました。しかし、帰りの事を思うとうんざり・・・

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↑南を望む


この日は晴れてはいたものの、霞があって見晴らしは少々悪かったです。


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↑東を望む


この岩尾城は、周辺の街道を押さえる要衝であるという事が、写真からでも少しは分かると思います。和田氏はこの一帯を支配していたのでしょう。推測ですが、和田氏の動員力は300人ぐらいでしょうか。


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↑岩尾城の全景


中央の一段高い山が、岩尾城の中枢部です。私は、山の右側から登って行きました。少々、疲れたものの、戦国期の城跡を満喫できて良かったです。

U-869 終

1991年10月10日、アメリカニュージャージー沖、120キロの海域で、1隻の潜水艦が発見された。これはドイツのUボートだった。艦体は真っ直ぐな姿勢を保ち、基本的にはほぼ原型を留めていたが、司令塔は外れ落ち、艦体には穴が空いていた。アメリカのダイバー達は危険を冒して、深さ70メートルの海底に潜り、潜水艦内部を調査した。彼らは下士官居住区に入ってゆくと、何か白い物を発見した。それは頭蓋骨だった。その周辺にも無数の骨が散らばっていた。さらに前部魚雷室へと入ってゆくと、そこからは次から次に人骨が浮び上がってきた。遺骨の多くは、今でも衣服をまとっていた。凄まじく破壊された発令所から、一番離れたこの場所で、数十名の人間が死んでいた。ダイバー達はUボートに乗り込んだ乗員は皆、20歳前後の若者達であった事を知っていた。ここは若者達の墓場だった。


 
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↑海底に沈座するU-869の図解



アメリカのダイバー達が潜水艦を長期間、調査した結果、これはドイツ潜水艦U-869である事が判明した。そして、逆戻り魚雷で最後を遂げた事も明らかになった。ダイバー達は遺骨を荒らさないよう、気を使いながら、幾つかの遺品を持ち帰った。そして、彼らはU-869乗員の遺族を探し出して遺品を手渡し、その最後を伝えようと試みた。


2002年、ダイバー達は、先任士官ブラントの弟、71歳になっていたゲオルクと対面した。ゲオルクは何時間にも渡って、兄ブラントの思い出を語った。兄に連れられて潜望鏡を覗いた事、そして、今でも変わらずに兄が大好きである事を、時折、込み上げてくるものをこらえながら語った。ダイバー達はU-869の遺品である、艦の概略図の入った金属板をゲオルクに手渡した。ゲオルクはそれを指で撫でながら、「信じられない。後生大事にする」と言い、ダイバー達と固く握手を交わした。


ダイバー達は続いて、60歳の外科医、ユルゲン・ノイエルブルクと対面した。彼は艦長ノイエルブルクの息子だった。父が消息を絶った時、まだ3歳だったユルゲンに、父の記憶を思い出す事は出来なかった。しかし、いかに可愛がられ、愛されてきたかという事は母から聞かされてきた。ユルゲンは、母は父を愛し続けて再婚をしなかったと語った。ダイバー達は次にノイエルブルクの兄、86歳になっていたフリートヘルムに会った。フリートヘルムは静かにこう言った。「今、目を閉じて、弟を思い浮かべると、軍務に従事している姿が見えてくるんだよ。弟は自分が戻る事はないと予感していたのだろう。弟は務めを果たした」


翌日、ダイバー達は、76歳の快活な老婦人、ギゼラ・エンゲルマンと会った。魚雷員だったネーデルの婚約者だった女性である。彼女はその後、二度の結婚をし、4人の子供をもうけていた。しかし、人間の人生に真の愛は一つしかなく、その相手はネーデルであったと語った。そして、ネーデルへの思いを夫や子供にも話し聞かせている事、寝室には今でもネーデルの写真が飾ってあり、それを毎日、眺めている事、今まで生きてきて、彼に会いたいと思わなかった日は一度としてなかった事など、延々、数時間に渡って語ったのだった。


ダイバー達が最後に会ったのは、80歳の老紳士、U-869で通信士をしていたグシェウスキーだった。U-869の出港直前、グシェウスキーは肺炎を起こして艦から降りざるを得なくなり、その後、戦争を生き残る事ができた。グシェウスキーは、ノイエルブルクのギターに合わせて歌った事、そして、ブラントの思いやりと笑顔を、22歳にして、乗員達の恐怖や不安を快く受け止めてくれていた事、そして、U-869と仲間達への思いを語った。

「大破して海の底に沈んでいるあの潜水艦を見るのは、私にとってはひどく恐ろしい。私の記憶の中では、あれはいつも新品で力強かったんだよ。そして、私はその一部だった。

私は今でも、仲間達の事が忘れられない。私は神と来世を信じているんだよ。仲間と再会するのは素晴らしいだろうね。多くの若い命が理由もなく奪われた戦争の時代ではなくて、平和な時に彼らに会いたいよ。そういう風に仲間と再会したいなあ」



 
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↑U-869と乗員一同

前列右端がブラントで、その隣がノイエルブルク


主要参考文献、ロバート・カーソン著、「シャドウ・ダイバー 深海に眠るUボートの謎を解き明かした男たち」




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10月下旬、U-869は、初の戦闘哨戒任務が迫っていた。

艦長ノイエルブルクは、自宅に帰った。彼には25歳の妻と3歳の息子ユルゲン、1歳の娘ユッタがいた。彼は赤ちゃん日記に、その日の出来事や思った事を書きとめていた。U-869で出撃する直前の日記には、息子に宛ててこう記している。「もうじき、パパはUボートで海へ出てゆく事になるのだけれど、またすぐお前達に会う事が一番の願いだ。だから、それまで無事で、ママとユッタ、ユルゲンの3人でパパを待っていておくれ。そして、陽気な声で「ママ、パパが帰ってきたよ!」と言って出迎えておくれ。そういう時がすぐに来ますように。色々な恐ろしい事が、私の大切なお前達に降り掛かりませんように。たくさんの愛を込めて、父より」


先任士官ブラントは、1日だけ休暇をとって実家に帰った。敬虔なプロテスタントであるブラント一家は、父親の呼びかけで家族全員が居間に集まって祈りを捧げた。父は、軍人として働いている2人の息子の無事を願った。そして、静かな時代が訪れて、再び家族全員が揃って、一緒に食事が取れる事を祈った。ブラントは翌日、U-869へと戻っていった。彼にはまだ数日、休暇を取る資格があった。しかし、彼は、他の乗員に家族とゆったり過ごすようにと、その貴重な数日を譲ったのだった。


11月下旬、ブラントは家族に宛てて手紙を送った。「この手紙が届く頃には、僕はもう出発しているでしょう。今年は僕の中では、頭の中だけで終わってしまうにしても、家族がクリスマスと新年を、明るく楽しく健康で迎えられるよう祈っています。思い返すと、本当に良い家族であったと痛感します。手を組んだ時には、僕の事を思い出してくださいね。再会の日を祈っていてください」


U-869初出撃の日は、1944年12月1日と決まった。

出撃の直前、ノイエルブルクの友人で、医師をしている男が密かな提案をしてきた。それは、ノイエルブルクは現在、病身の身であり、指揮可能な体調ではないと、海軍当局へ届け出ようというものだった。戦争後半、Uボートの多くは任務から帰ってこなかった。それを知っている彼の妻は、この申し出を受けるよう、熱心に夫に勧めた。ノイエルブルクはこの申し出に感謝しつつも、国家及び、乗員に対する義務があるとして断った。


19歳の魚雷員、フランツ・ネーデルは乗員仲間を連れて実家に帰った。婚約者のギゼラは笑顔で出迎え、彼に両腕をまわして抱きついた。しかし、ネーデル達の様子は今までと違っていた。彼らはテーブルについても、黙り込んで目の前を見つめるばかりだった。そして、男達は1人、また1人と泣き始め、とうとう全員が泣き出した。ギゼラの顔からは笑顔が消え、「どうしたの」と尋ねても、男達は泣くばかりだった。ようやく、1人の男が答えた。「俺達は帰ってこないんだ」


11月後半、U-869で通信士をしていたグシェウスキーは勤務中、突如、気分が悪くなって昏倒した。グシェウスキーはすぐさま、病院の集中治療室へと運ばれていった。彼が意識を取り戻した時、医師から肺炎と肋膜炎を併発していると告げられた。U-869の出撃は目前に迫っていたが、彼は残らざるを得なかった。U-869の出撃数時間前、グシェウスキーを見舞いに大勢の乗員が病室を訪れた。


艦長ノイエルブルクはクッキーと花束を渡して、「心配ないよ、君」と言い、先任士官ブラントは笑顔でグシェウスキーの手を取ると、「早く良くなれよ」と言った。そして、多くの乗員が同じようにグシェウスキーを見舞った。彼らの多くは目に涙を浮かべていた。彼らが病室を去って行く時、グシェウスキーは、もう二度と彼らに会えないだろうという気がした。幾人かの仲間の目を見て、彼らも同じように思っている事が分かった。


1944年12月1日、楽隊が演奏を奏でる中、U-869は出港していった。見送る家族は、2、3組だけだったが、乗員達はいつまでもデッキの上で手を振り続けていた。やがて、U-869は雲に覆われた水平線の彼方へと消えていった。U-869はドイツを出てから、ノルウェーのクリスティアンサンに寄港する。そこで、食糧、燃料を補給すると、一路、大西洋の外洋を目指した。U-869の任務は、アメリカのニューヨーク南東200キロメートル付近で、戦闘哨戒にあたる事だった。


U-869が大西洋へ向かうには、アイスランドとフェロー諸島の間を抜けて行くのが最短ルートだった。しかし、このルートは連合軍の警戒が厳しい事から、ノイエルブルクはここを通過するのを避けた。そして、U-869の進路を大きく北に取ると、警戒が手薄なアイスランド北方のデンマーク海峡を通過するルートを取った。ノイエルブルクが艦長として最初に下した決断は、乗員を危険から守るためのものだった。


しかし、この措置は、Uボート司令部にとって好ましいものではなかった。遠回りしてデンマーク海峡を通過すると、その分だけ作戦海域で働く日数が減るからだ。ニューヨーク沖で14日間、滞留するためにUボートを100日間も走らせる事になる。この比率は、受け入れられるものではなかった。そこで、司令部は命令を変更し、U-869に対し、ジブラルタル沖(地中海の出入り口付近)に向かうよう指示した。そこならば、より長期間、哨戒活動する事が期待できたからだ。しかし、何らかの理由でこの命令は、U-869には届かなかった。大気の状態が悪く、無線を捉えられなかったと考えられる。U-869はそのままニューヨーク沖を目指し続けた。


1945年2月、アメリカ沿岸に近づくと、U-869はシュノーケルを使用して、常時潜航しながらニューヨーク沖を目指す。アメリカ軍諜報部は暗号解読によってU-869の接近を察知し、予想出現海域に対潜部隊を送り込んで捜索させた。だが、対潜部隊は情報を掴んでおきながら、U-869を撃沈するどころか、発見する事すら出来なかった。連合軍の優れた捜索能力を知るノイエルブルクは、可能な限り潜航状態を維持しながら、目的海域に向かったのだろう。この措置は、乗員にとっては非常に苦しいものであったが、追跡の目を逃れるためには致し方なかった。U-869はアメリカ軍の厳重な警戒の目を掻い潜りながら、獲物を探し求める。そして、ついにノイエルブルクは敵船を発見した。U-869は戦闘配置に付き、ノイエルブルクは潜望鏡で敵船を睨みつつ、命令を発した。「一番魚雷発射用意、発射!」


ドイツ軍には音響追跡魚雷と言う、スクリュー音を捉えて敵艦を追跡する魚雷があった。当時としては非常に優秀な魚霊であるが、発射した自艦のモーターや発電機の音を捉えて、逆戻りする事例もあった。この音響追跡魚雷に限らず、通常の魚雷でも逆戻りして、艦体の上や下を通過するといった事例は、多数のUボートによって記録されている。その逆戻り魚雷の中でも音響追跡魚雷は特に危険で、発射後、すぐに潜航するのが決まりだった。そして、U-869が発射したと思われる音響追跡魚雷も、なんと、自艦に向かって接近してきたのだった。だが、現場は浅い海域で、急速潜航を試みると海底に激突してしまう。魚雷のスクリュー音がみるみる迫ってくるが、乗員達は運を天に委ねる意外、手は無かった。


しかし、運命の神は、U-869を見放した。魚雷は艦中央部に激突し、乗員全員が信管が起動するカチッと言う音を聞いた。魚雷は司令塔直下で炸裂、発令所付近にいたノイエルブルクやブラントらは爆散し、凄まじい衝撃波は隣接する区画の男達も吹き飛ばした。衝撃波はそのまま潜水艦の両端に向かって突き進み、鋼鉄のハッチを吹き飛ばしながら、最前部の魚雷室と最後部の魚雷室まで及んだ。間髪置かず、破孔から海水が浸入し、U-869は5分と経たずに深度70メートルの海底に沈んでいった。生存者はいなかった。


ドイツ当局はU-869がアメリカに向かっていたとは知らず、公式記録にはU-869はジブラルタル沖で撃沈されたと書き記された。


U-869 終へと続く・・・

U-869 1

1944年1月26日、ドイツ、ブレーメン造船所にて、1隻の潜水艦U-869が竣工した。

このUボートはⅨC型、大型で航洋性に優れた型である。

全長76メートル 

全幅6・8メートル 

水上排水量1100トン 

航続距離12ノットで1万1千海里 

水上速力18・2ノット 

水中速力7・3ノット 

53センチ魚雷発射管6門(艦首4門・艦尾2門)


このUボートに乗り込んだ乗員は56名、10代の者が24名乗り組んでおり最年少は17歳、平均年齢は21歳だった。彼らの多くは、戦争前半のUボートの活躍に触発されて、志願して潜水艦乗りとなった者達だった。1939年から1943年中盤まで、Uボートは、技術的、戦術的優位にあって、連合軍商船を次々に海の藻屑にしていった。だが、若者達が軍に入隊し、訓練を重ねてようやく実戦につこうとしていた時期、1944年には、Uボートを巡る状況は一変していた。連合軍は大量の航空機と駆逐艦を投入してUボートの活動を押さえ込み、さらに暗号解読や無線探知によってUボートの位置を特定し、そして、レーダーを始めとする電子兵器でUボートを確実に捉えて、撃沈していった。


1939年開戦当初、Uボートに乗り組んでいたのは、徹底的な訓練を重ねた精鋭ばかりだった。しかし、激戦を経て精鋭達は海に沈んでゆき、1943年以降、戦局が下り坂を迎えると、Uボートに乗り組むのは、経験の乏しい新兵ばかりとなっていた。彼らは短縮された訓練期間を経て、圧倒的な連合軍が待ち受ける戦場に送り出されて行き、その多くは帰って来なかった。戦争末期、前線に赴いたUボートが帰還できる見込みは50パーセントで、乗員の余命は60日余だったと云う。だが、Uボート乗員達は戦争に敗れる事が分っていても、自らが帰還できる見込みが非常に小さい事も覚悟の上で、前線に赴いていった。


U-869は竣工後、乗員を乗せて、すぐさま訓練に取り掛かった。乗員達は徐々にUボートの慣習に慣れていった。士官同士はお互いをファーストネームで呼び合い、艦内では士官に敬礼をせずともよかった。潜水艦任務は1人のミスが即全員の死に繋がる、彼らは運命共同体だった。訓練を重ねているうちに自然と、絆が生まれていった。

艦長はヘルムート・ノイエルブルク、27歳、ノイエルブルクは長身で鋭い目をしており、威厳に満ちて態度に気品があった。どのような状況にあっても常に冷静であり、規律ある軍人の手本ともいえる人物だった。しかし、ノイエルブルクにとって、今回が初のUボート艦長であった。乗員達は当初、ノイエルブルクの能力を疑ってかかったが、彼の献身的な仕事振りと優れた能力を目の当たりにすると、次第に信頼を寄せるようになった。


1944年夏、ノイエルブルクは乗員達のために、艦内で祝賀パーティを開いた。しかし、ノイエルブルク自身は酒を飲まず、酔った乗員達を観察して、その言動に耳を澄ましていた。ノイエルブルクは酒の席で彼らを試し、人間性を探っていた。意図を悟った乗員の中には、そのやりかたに不満を憶える者もいた。ある日、ノイエルブルクは乗員達を散歩に誘い、皆にビールを配った。ノイエルブルクは乗員達を円を描くように座らせると、自分はギターを手に取って見事な演奏を始めた。


乗員達は、艦長に音楽的な才能がある事を知って驚いた。しかし、今度は、ノイエルブルクが乗員を試しているようには見えなかった。何故なら、彼は心から楽しんで歌い、演奏していたからだ。ノイエルブルグは幼い頃から音楽的な才能があり、周りの人間も自分自身も、その道に進むものと思っていた。しかし、戦争が勃発すると、彼は国家のため、軍人の道を進んだ。


ノイエルブルクは部下に対して厳格であり、艦内においては尊敬と恐れの対象だった。乗員達は、ノイエルブルクが余りにも熱心に仕事に取り組むのを見て、彼がナチスに傾倒しているのではないかと思った。しかし、彼の心情は反ナチスだった。ノイエルブルクは兄、フリートヘルムにだけは本心を打ち明けていた。ノイエルブルクは兄に、「ドイツを破滅へと向かわせているのはナチスである」と言い放ち、嫌悪感を隠さなかった。


それを聞いてフリートヘルムは驚き、たじろいだ。ナチスが聞き付けたなら、処刑されかねない言動だった。兄は、「誰が聞いているかわからないんだぞ!そのような事は口にするんじゃない」と弟に釘をさした。U-869の就役直前、ノイエルブルクはフリートヘルムと会う機会があった。その時、ノイエルブルクは兄の目をジッと見つめ、ポツリとこう言った。「ぼくはもう、帰ってこないだろう」


先任士官は艦長に次ぐ地位である。その先任士官はジークフリート・ブラント、22歳が務めた。ブラントは小柄で、温かみのある目をしており、笑顔を絶やす事はなかった。ブラントは気さくな人柄だったが、自分に対してはどこまでも厳しく、そして、自ら率先して動く男だった。乗員の誰もが、彼に親近感を覚えた。艦長と先任士官の性格は正反対だったが、お互いの能力、人格を評価し、信頼しあっていた。


ブラントは、早くから心の真っ直ぐな人として知られていた。高校時代、彼は親友と2人で誓いを立てた。これからはプロイセン人としての規範に従い、自制心、秩序、公平、寛容、信頼、誠実に重きをなして行動すると自らに定めた。ブラントは、ヒトラーとナチスを不信の目で見ていた。ブラント一家は敬虔なプロテスタントであり、その信条はナチスとは合いあわないものだった。そのため、ナチスとブラント一家は緊張状態にあった。しかし、ブラントは、軍にいる自分は大きな機械の歯車にすぎないと、諦めに似た考えを受け入れていた。


1944年夏、ブラントは13歳になる弟、ゲオルクをU-869に招待した。ゲオルクは、初めて見るUボートの精悍な姿に感激した。ゲオルクは艦長ノイエルブルクと握手した後、兄に連れられて、機械でゴツゴツした艦内に入っていった。艦内では機関室、通信室、魚雷室に案内され、潜望鏡を覗く事も出来た。ゲオルクにとって、それまでの人生で最高の感動と興奮を味わえた日だった。そして、この時ほど兄を誇りに思った事はなかった。


フランツ・ネーデルは、19歳の魚雷員だった。ネーデルには、ギゼラという18歳にある将来を誓い合った恋人がいた。2人が出会ったのは1940年、ネーデルが15歳の時、ギゼラが14歳の時だった。ネーデルは、彼女の自由な考えや激しい気性が好きだった。ギゼラは、彼の思いやり深いところが好きだった。ネーデルはナチスを崇拝していたが、ギゼラは嫌悪していた。その事を巡って度々、口論となったが、それでも2人は愛し合っていた。ネーデルがUボート乗員を熱望していると知ると、ギゼラは、「あれは泳ぐ棺おけよ!」言って必死になってそれを止めようとした。しかし、ネーデルの決意が変わる事はなかった。ネーデルは海軍に入隊し、訓練を経てU-869に乗り組んだ。そして、前部魚雷発射管のハッチに、ギゼラの名前を書き込んだ。


 
U-869a.jpg










↑U-869の就役式 機関砲の側で敬礼しているのが、艦長ノイエルブルク


U-869 2
に続く・・・
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重家 
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史跡巡り・城巡り・ゲーム
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