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2026.04.30 - 
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「エルベを目指せ!」 残存ドイツ軍、決死の脱出行 2

第12軍は、第9軍の脱出路を確保するため、ベーリッツという地を固守していた。だが、ここにもソ連軍が波状攻撃を仕掛けてくる。ソ連軍の強大な圧力を前に、長く持ちこたえられる見込みはなかった。一方、脱出を図らんとする第9軍も、力尽きる寸前であった。戦車、装甲車は数両を数えるのみで、兵士達は飲まず食わずの戦闘行動で、疲労困憊していた。それでも第9軍は望みを捨てず、残された体力、弾薬を使い尽くして、最後の突破攻撃を敢行した。そして、多大な犠牲を払いつつも、ついにコーネフ軍の陣地を突き抜け、第12軍との合流を果たしたのだった。



第9軍の将兵や民間人達は傷付き、疲弊しきっており、安全地帯に辿り着いた途端、ぐったりと座り込んでしまった。そのままだと、動けずに死んでしまうと思えたので、時には気付けのため、脱出者達を殴りつけねばならなかった。第9軍司令官ブッセも収容されたが、かつて肥満体だった彼は、見違えるほど痩せ細っていた。第12軍は野戦炊事所を設けて迎え入れ、第9軍の脱出者達に久方ぶりにまともな食事を味あわせた。疲弊し切った第9軍には、しばらくの休養が必要であったが、切迫を強める戦況がそれを許さなかった。ソ連軍の追撃は激しく、早急に撤退せねば、12軍諸共、包囲されて全滅してしまう。それを避けるべく、第12軍は車両を総動員して、直ちに収容人員の輸送に取り掛かった。そして、彼らはエルベを目指し、移動を開始した。



第12軍に合流した人員は、兵員2万5千人余、民間人数千人だった。第9軍の大多数は脱出出来なかったのである。そして、第9軍の後衛を担っていた2個師団と逃げ遅れた民間人多数は包囲され、激しく抵抗した後、殲滅された。戦後、この周辺からは3万人余のドイツ兵の遺骨が発掘され、ハルベの墓地に埋葬されている。民間人の犠牲者は1万人余と見られ、ソ連軍も2万人強が戦死したと見られている。深い森林の奥には今でも多数の遺骨が埋もれており、それらは毎年の様に発見されている。



5月3日、ベルリンは陥落し、ヒトラーの死も伝わってきた。だが、脱出を図る第12軍の戦いは、まだ終っていなかった。第12軍と収容人員は、南北東からソ連軍の攻撃を受けながらも、西へ西へと進んで行く。この頃、第12軍には様々な方面から敗残兵や難民が加わって、20万人余の大集団となっていた。第12軍の兵士達は、民間人を守りつつ、後を追うソ連軍と絶え間ない戦闘を交えねばならなかった。困難な後退戦を乗り越え、第12軍集団は、ようやくエルベ東岸に達した。しかし、背後にはソ連軍の大部隊が迫っているので、緊急に川を渡らねばならなかった。そこで第12軍は、川を背に半円周陣地を築いてソ連軍の攻撃に備えつつ、渡河準備に入った。



第12軍は、対岸のアメリカ軍に幕僚を派遣して、受け入れ交渉を開始する。第12軍は兵士と難民の受け入れに加えて、橋の架橋を求めた。これに対してアメリカ軍は、武装解除した兵士ならば受け入れると答えたが、難民の受け入れと橋の架橋は拒否した。そのため、第12軍集団が生き延びるには、自力でエルベを渡るしかなかった。 5月5日早朝、第12軍集団は、鉄道橋、壊れた道路橋、渡船場の3つの場所からエルベ渡河を開始する。渡河には、辛酸を舐めてきた第9軍の生き残りが優先された。しかし、アメリカ軍は橋の上で検問して、SS部隊、外国人、民間人の選り分けをしようとしたため、人々はなかなか対岸に渡れなかった。



5月6日、半円周陣地はソ連軍の攻撃によって、じりじりと侵食されていた。容赦のない砲撃によって、陣地内の民間人や兵士は次々に吹き飛ばされてゆく。エルベ東岸で渡河を待つ者には、焦りばかりが募った。そして、ソ連軍の砲撃が迫ってきて、自軍に被害が及ぶのを懸念したアメリカ軍が川から離れると、人々は一斉に西岸を目指し始めた。鉄橋を渡るのを待ちきれない人々は、川幅が広く流れも早いエルベを、ボート、カヌー、急造のいかだを使って渡ろうとする。しかし、川を渡り切れずに溺死した人も大勢出た。



5月7日朝、半円周陣地は崩壊寸前となる。守備に就いていた第12軍の兵士達も鉄橋を渡って撤退を開始し、残弾を撃ち尽くした砲は爆破処理されていった。午後には、ぎりぎりまで指揮をとっていたヴェンク中将もボートに乗って川を渡らんとした。それを狙ったソ連軍の銃撃を受け、幕僚1人が戦死したが、ヴェンク中将は何とか川を渡りきった。このヴェンク中将の渡河を最後に、エルベ西岸への撤退は終わった。軍民全てが川を渡れた訳では無かったが、それでもヴェンク中将と第12軍の将兵はよく責任を全うしたと言えるだろう。ソ連軍は、ドイツ軍の大部隊を取り逃した事を大いに悔しがった。もし、第12軍による救出作戦が行われなければ、第9軍とそれに追従していた民間人はソ連軍によって殲滅されていたに違いない。諦めて投降していたとしても、酷寒のロシアの地に5年は抑留され、過酷な労働も課せられて3分の1は死に至っていただろう。第12軍による救出撤退作戦は、ドイツ陸軍の追尾を飾る見事なものであった。同日、ドイツは降伏文書に署名し、翌5月8日に欧州の戦争は終結する。




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「エルベを目指せ!」 残存ドイツ軍、決死の脱出行 1

1945年4月、第二次大戦末期、ドイツの首都ベルリンは、ソ連軍の大波に飲み込まれようとしていた。4月20日にはベルリンを守る最後の防衛線、ゼーロウ高地も突破され、最早、ソ連軍の進撃を阻む物は何一つ存在しなかった。ゼーロウ高地を守っていた、ドイツ第9軍(司令官ブッセ中将)は3つに分断され、「止まって死守せよ」とのヒトラーの命令を無視して、それぞれ別方向へと撤退していった。



ブッセ中将は、第9軍の中で最も大きな集団を率いて、南西方面へと逃れた。この集団には第9軍以外にも、ばらばらになった諸師団の残兵や民間人なども加わって8万人余となった。彼らに残された車両、燃料は少なく、食料は皆無だった。それでも西へと向かって前進を続けたのは、ソ連軍に捕らえられるのを極度に恐れていたからだった。ソ連軍の支配下に落ちた都市では、虐殺と婦女暴行の限りが尽くされ、生き残った者も強制労働につかされると聞かされていた。



最早、ドイツの敗北は免れない。それならば、いっそ西側のアメリカ軍に投降しようと彼らは考えた。アメリカ軍は既にドイツ国内に進出し、エルベ川西岸にまで達していた。そのエルベ川に向かうべく、第9軍は、ベルリン南東の広大な森林地帯を進んで行った。だが、森林地帯を通過中、急進撃してきたソ連軍によって包囲されてしまう。前方はソ連のコーネフ元帥の軍が進路を遮り、後方からはジューコフ元帥の軍が迫った。このままでは、第9軍の包囲殲滅は確実かと思われた。



この時、エルベ川東岸には、アメリカ軍に備えていたヴェンク中将以下の第12軍があった。幸い、アメリカ軍は進撃をエルベ川で止めていたので、この軍は手隙となっていた。それを目聡く見つけたヒトラーは、ソ連軍の包囲下にあるベルリンへ向かうよう命じた。ヴェンクは、第12軍の微弱な戦力で、150万人以上のソ連軍の包囲網を打ち破る事など、不可能と見なした。だが、現在、西に向けて敗走中の第9軍と避難民を救う事ならば出来そうだった。ヴェンクは決断を下した。



ヴェンクは作戦を開始するに当たって、兵士達に語りかけた。「諸君にはもう一度、ご苦労願わねばならない。最早、ベルリンが問題になっている訳ではなく、第三帝国が問題になっている訳でもない。戦闘とロシア軍から人々を救う事が諸君の任務なのだ」。これを聞いた兵士達の間には、失われつつあったドイツ軍の精神、「忠誠心・責任感・連帯感」が再び蘇ってくるのを感じた。4月24日、ヴェンク中将統率の下、第12軍は士気高く、東に向けて攻勢を開始した。そして、4月25日、第12軍は、ソ連軍によって占領されていたベーリッツに達するや、直ちに攻撃を加えた。熾烈な攻防が数日続いた後、町の奪還に成功した。そして、第12軍は現代地を固守して、第9軍の到着を待つ方針を取った。



一方、ソ連のコーネフ軍は、高速道路周辺に布陣し、更に東西に走る林道を全て封鎖して、第9軍の突破阻止を図っていた。4月25日、第9軍は僅かに残った戦車31両の中から、70トン級の重戦車、ケーニヒスティーガー10両を先頭に立てて、コーネフ軍の突破を試みた。森林での戦闘は、ハルべと云う村落を中心に行われた。4月26日、第9軍は、重厚なコーネフ軍の部隊間に僅かな隙間を見つけると、そこに突破口を開かんとして突撃した。しかし、制空権を支配しているソ連軍機から爆弾、機銃掃射の雨を浴びせられ、更に地上からも猛烈な銃砲火を加えられて、第9軍は元の地点に押し戻された。



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↑ドイツ軍重戦車、ケーニヒスティーガー



4月26日の夜から27日にかけて、第9軍は南北2ヶ所から、再び突破攻勢をかけた。ドイツ軍が一時、突破口を開いたとしても、そこにソ連軍が猛砲撃を加えてくるので、部隊はたちまち壊滅していった。ソ連軍砲兵や戦車は、ドイツ軍の頭上にある高い樹木を目掛けて砲弾を撃ちかける。そうすると砲弾は樹木で炸裂して、大量の木片、弾片が地上にいるドイツ軍に降り注ぐのだ。死者、負傷者の多くは、突き刺さった木片によるものだった。将校達は戦車の下に潜って地図を広げ、作戦を練った。



森林での戦いにはっきりとした戦線はなく、至る所で凄惨な小戦闘が繰り返された。薄暗い木々の間には濃い煙が立ち込めて、陽光を見る事さえ難しかった。ドイツ兵達はそんな中を、疲れ切った足を引きずりながら歩いて行く。力尽きた負傷兵らが車両の進路上に倒れると、そのまま装甲車両にひき潰されていった。森林戦を戦う中、第9軍は広く分散し、大きな集団はハルべ周辺にあって、後衛の部隊は後を追うジューコフ軍との絶え間ない戦闘に巻き込まれていた。こういった最中にも、ベルリンからは、「第9軍と第12軍は、ベルリンへの救出に向かうべきである!」との指令が出されていたが、両軍団からの返答はなかった。



4月28日、ソ連軍は、ハルベの南から火砲やカチューシャロケットによる猛砲撃を加え、進撃するソ連兵も村落に迫撃砲を撃ちこんでいった。第9軍にはどうする事も出来ず、絶え間なく落下する砲弾によって、人々は千切れ飛んでいった。村落はたちまち、燃え盛る家屋、車両、死体で埋め尽くされ、その上に更に砲弾が降り注いだ。28日夜半、第9軍はこの地獄から逃れるべく、ハルべから必死の突破攻勢を行った。そして、ソ連軍の銃砲火の雨を乗り超えて、とうとう封鎖線を突破する事に成功したのだった。しかし、それは、凄まじい犠牲を払っての成功であった。森林を走る道路上には様々な車両が引っくり返って炎上し、周辺一帯にはおびただしいほどの木片、金属片、肉片が散らばっていた。



森全体が煙に包まれ、その合間に見えるのは大量の死体と、木にもたれ掛かって死に逝く負傷者の姿だった。この惨状は、オイルと血にまみれた道路上に沿って、いつまでも続いていた。第9軍の主力はソ連軍を突破しつつあったが、後衛の2個師団と民間人多数はソ連軍を突破出来ず、ジューコフ軍によって包囲された。ジューコフはこれを、ドイツ軍大部隊を包囲したものと誤認したので、その後の追撃は甘くなった。だが、コーネフの方は、残存ドイツ軍を逃すまいと執念を燃やしていた。そして、樹木を切り倒して道路の封鎖を図り、ドイツ兵を狩り立てるべく、森林の中に歩兵と戦車を次々に送り込んでいった。第9軍は、業火のハルベから脱出したものの、まだ、ソ連軍の陣地全てを抜いた訳では無かった。行く手にはまだ難関が残っているが、第12軍との合流も間近に迫っていた。

丹波八木城

八木城は、京都府南丹市八木町にある山城である。中世の山城としては有数の規模を誇り、黒井城、八上城と並んで丹波の三大山城の一つとされる。八木城のある地域は、山一つ越えるとすぐに京都に入れるので、口丹波とも呼ばれる。


八木城の築城年代は不明瞭で、管領細川家の被官であった内藤氏が、八木城を居城にして、口丹波に勢力を張った事だけが知られている。戦国期に入ると、内藤氏は三好家の傘下に入り、丹波の諸勢力、赤井氏、波多野氏らと攻防を繰り広げ、一時は丹波の大部分を支配するほどであった。しかし、その後、赤井氏に大敗北を喫した事から、勢威は衰えていった。


内藤氏最後の当主となったのが、内藤如安である。如安はキリシタンであり、城下で熱心な布教活動を行っていた。しかし、織田家による丹波攻めが開始されると、如安はこれに敵対した事から、明智光秀によって城を追い落とされる。その後、八木城は光秀によって改修が施され、新たに作られた亀山城の支城として用いられた。廃城の時期は不明である。



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↑八木城登山口


分かり難い所にありました。周辺を探し回りつつ、何度も聞き込み調査を行って、ようやく見つけました。刑事じゃあるまいに・・・



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↑曲輪跡


1人で歩く山道は、やっぱり薄気味悪いです。大抵の山城でもそうですが、誰一人として出会いませんでした・・・



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↑本丸跡



30分ほど、登って到着しました。かつて内藤氏の当主達が、君臨していた場所です。歴代内藤氏の中でも、内藤宗勝(1516年?~1565年)が実力者でした。宗勝は内藤姓ですが、かつては松永長頼と名乗っており、三好家の重臣でした。長頼は戦国の梟雄、松永久秀の弟であり、指揮官として非常に優れた能力を持っていました。


三好長慶の信頼も篤く、その出世は兄よりも早いものでした。久秀は弟の七光りで出世したとも云われています。長頼は丹波に派遣されると、八木城を拠点に丹波の平定に取り掛かります。長頼は一定の領域を支配する方面軍司令官的な役割を担っており、一軍を率いて丹波以外にも、各所に出征を重ねています。


長頼は丹波守護代、内藤国貞の娘を娶って、内藤宗勝と称するようになります。そして、丹波の大部分を平定し、残るは赤井直正の寄る黒井城のみとなります。永禄8年(1565年)、長頼こと宗勝は黒井城を囲みますが、ここで、赤井直正の逆襲を受けて、主従700余が討死する大敗北を喫してしまいます。宗勝の死は三好政権、松永久秀、内藤氏にとって大きな痛手となりました。宗勝の跡を継いだのが、内藤如安です。如安は守護代、内藤国貞の子とも、宗勝の子とも云われていますが、はっきりとはしていません。



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↑本丸跡と石垣の一部



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↑京都方面を望む


眼下には亀岡市が広がっており、山向こうには京都市があります。京都に隣接する事から、重要な地域です。天正10年(1582年)、光秀はこの亀岡から出陣して、本能寺へと向かいました。


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↑西を望む



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↑東を望む



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↑重臣屋敷跡


この周辺には家臣の屋敷が連なっていたそうですが、山林に埋もれてしまっています。かつては立派な建物が建ち並んでいたのでしょうが、今では、その情景を思い浮かべる事も難しいです。

御館の乱と上杉景勝 後

2010.01.09 - 戦国史 其の二
御館の乱の勝利によって、景勝は全ての反対派を討ち滅ぼし、越後を統一したかに見えた。しかし、長く打ち続いた戦乱の為、国内は荒れ果て、それによって、かつて精強を謳われた上杉の軍事力も衰微していた。戦後、景勝は、滅亡した景虎派から多くの土地を得たが、その多くを与党である上田衆に支配させた。これは自らの権力基盤を強化するための方策であったが、乱で活躍した外様の国人らはこの措置に不満を抱いた。


天正9年(1581年)6月、恩賞問題のもつれから、新発田重家が謀反を起こす。重家は、織田信長の援助を受けて頑強に抵抗し、長く苦しい戦いが始まった。翌天正10年(1582年)5月、景勝は強大な織田家とそれに通じる諸勢力によって包囲され、存亡の危機に立った。5月1日、景勝は常陸の戦国武将、佐竹義重宛てに送った手紙の中で、死を覚悟している旨を述べている。景勝は織田家に対し最後まで戦い抜く決意であった。だが、同年6月2日、本能寺の変が起こった事により、景勝は奇跡的に滅亡の危機を脱する。景勝はこの時の混乱に乗じて北信濃に出兵し、川中島4群の平定に成功した。


その後の景勝の 生涯を簡潔にまとめる。

天正15年(1587年)10月25日、7年にも渡る激闘の末、新発田重家の反乱を鎮定し、ようやく越後の完全統一を成し遂げる。しかし、御館の乱から始まる一連の内戦の影響で、越後の民は家屋や田畑を焼かれ、それに加えて絶え間ない戦費、軍役、兵糧の供出によって民力は疲弊していた。だが、全ての反対勢力を倒した事で、景勝の権力は大いに強化され、支配はようやく安定する。この越後の完全な統一は、義父、謙信にも成しえなかった事であった。


天正16年(1588年)5月8日、豊臣秀吉に謁し、秀吉の九州平定を祝し、重家討伐を報じる。5月26日、景勝は従三位、参議に叙任さる。


天正17年(1589年)6月、佐渡の本間高統、高季を討ち、佐渡を領国とする。


天正18年(1590年)3月、豊臣秀吉による小田原討伐に参陣する。8月1日、秀吉から出羽庄内3群の検地を命ぜられる。10月23日、検地に反対する一揆を討ち、出羽庄内3群を領国に加え、この時点で91万石の領土を得たとされている。しかし、太閤検地の石高で見たなら、越後39万石、信濃川中島4群14~18万石、佐渡3群1万7千石、出羽庄内3群14万石、合わせて70万石余となる。


文禄元年(1592年)3月1日、秀吉による朝鮮出兵に参陣するため、兵5千を率い、春日山を出立。6月17日、釜山に上陸する。


文禄2年(1593年)9月8日、名護屋城に凱旋した。この間1年3ヶ月の期間、朝鮮の地にあった。


慶長3年(1598年)1月10日、伏見城にて、秀吉から会津120万石へ移封を命ぜられる。8月18日、豊臣秀吉死去。


慶長5年(1600年)4月13日、徳川家康より、上洛を申し渡す詰問の使者が訪れるが、景勝、兼続はこれを撥ねつける。5月3日、家康はこれをもって会津討伐の断を下す。景勝は兼続に命じ、2万7千の兵をもって最上領に侵攻させるも10月1日、関ヶ原に於いて西軍敗れるとの報を受け、兼続は撤退する。


慶長6年(1601年)8月8日、景勝、兼続は京の伏見城まで赴き、家康と謁見して、謝罪する。8月16日、会津90万石の削封を言い渡され、米沢30万石となる


慶長19年(1614年)10月、兵5千を率いて、大坂冬の陣に参陣する。11月26日、今福・鴫野に於いて豊臣方1万2千余と戦い、これを撃退する。


元和5年(1619年)12月19日、景勝を側で支え続けてきた名宰相、直江兼続が死去する。享年60。


元和9年(1623年)3月20日、景勝は病床に臥し、自らの葬儀を簡潔に済ませるように遺言すると、69年の波乱の生涯を閉じた。


景勝は養父、謙信を尊敬し、その影響を強く受けていた。景勝は晩年、病床にあった時、かつて謙信が名乗っていた宗心と云う法名を名乗っている。景勝は生涯に渡って、謙信を理想の武将として追い求めていたと云えよう。また、謙信の姉で、自らの母である、仙洞院も深く慕っていた。女性関係は淡白であり、妻は正室菊姫(武田信玄の娘)と側室四辻氏(四辻大納言公遠の娘)の2人のみで、もうけた子供も四辻氏との間で生まれた、定勝1人だけであった。


景勝は、御館の乱、織田家による包囲、新発田重家の謀反、関ヶ原の戦い、など幾多の存亡の危機を乗り越え、最終的には米沢30万石に減封されながらも、上杉の家名を後々まで存続させる事に成功した。幾多の困難にも、逃れる事なく立ち向かっていった景勝、その額には常に青筋が浮き立ち、家臣達の前で決して笑う事は無かったと伝わる。寡黙にして剛毅、果断な人柄であり、上杉謙信の跡目を継ぐに、この人こそふさわしい人物はいなかったであろう。 あの有名な傾奇者、前田利益(慶次)も、この景勝の人柄に惚れ込んだと云われている。


 

御館の乱と上杉景勝 前

2010.01.09 - 戦国史 其の二
上杉景勝(1555~1623)

越後の龍と称せられた名将、上杉謙信、その後継者となったのが上杉景勝である。 弘治元年(1555年)11月27日、景勝は、謙信の縁戚で上田長尾家の当主である、長尾政景の次男として生まれた。母は上杉謙信の姉、仙洞院である。謙信はこの甥を大変、可愛がり、永禄5年(1562年)、関東在陣中に、8才になった景勝の書の上達を褒めて、習字の手本を送り届けている。また、謙信は自らの手で記した手習い書、「片仮名イロハ・消息手本・伊呂波尽・上杉家中名字尽」なども景勝に与えた。


永禄7年(1564年)7月5日、景勝は父、長尾政景を亡くし、ほどなくして上杉謙信の養子になった。 政景の死は、野尻池遊宴中に関係者全員の死亡と云う異様な死亡事故であった。政景の遺体には刀傷があって、謙信によって暗殺されたとの説もある。実際、政景は、謙信と抗争した過去もあったが、和睦後は副将格として重んじられ、謙信が出征中には、春日山城の留守役にも任じられるほど信頼されていた。事件の真相はともあれ、謙信はその遺児、景勝を可愛がり、自らの後継者となるよう大切に養育した。景勝自身もこの養父を深く尊敬し、その行動を模範とした。そして、謙信に対する崇敬の念は終生、変わる事はなかった。


元亀元年(1570年)、北条氏康の実子、三郎が上杉家への人質として送られて来る。謙信は美男で聡明な三郎を愛したと云い、景勝の妹(姉とも)華渓院(法名)を娶らせて上杉景虎と名乗らせる。しかし、謙信は北条家から来たこの若者を後継者とは見なさかったようだ。天正3年(1575年)1月11日、謙信は、景勝に上杉の名字と弾正少弼の官途を与え、更に同年2月16日、越後の諸侍50人余の軍役を定めた軍役書において、その筆頭に景勝を据えている。以上から、謙信は生前から、景勝を後継として定めていたと云える 。


天正6年(1578年)3月9日、謙信は春日山城の厠で倒れ、意識が戻らないまま、3月13日、帰らぬ人となった。上杉謙信享年49。3月15日謙信の突然の死に上杉家中は大いに動揺し、不穏な空気が漂う中、謙信の葬儀が執り行われた。景勝は、謙信の死後、2週間後に関東の武将、大田資正に宛てて次のような手紙を送った。

「まだ御発信いたした事はありませんが、一筆啓述いたします。去る十三日、謙信が思いがけない病気を得、持ち直すことができずに死去いたしました。その恐怖はいかばかりのものかお察し下されたい。それで謙信の遺言によって、この景勝が春日山の本城に移るべきであるとの事、いろいろと考慮いたしましたが、周囲の者がそれぞれ、当然そうあるべきだと言うので、その意見に従った次第です。けれども、すべての事の処置は、謙信在世中と少しも変わりありませんから、どうか安心していただきたい。さてまた、そちら関東の事も、謙信が申し遺したことでもありますし、そのうえ、鬱憤を晴らすための戦いでもありますから、若輩ながらこの景勝も、なおもって心を入れて取り組む所存ですので、謙信同様に御懇意にして下されば喜ばしい限りです。なおいくえにも、重ねて申し上げることにいたしましょう。

追伸、謙信遺物の細刀一振をお届けします。形見にして下さい。御自愛専一に願います。」


宛名の大田資正と上杉家とは古くから親交があり、謙信の小田原城攻めにも参加している武将である。 この手紙に景勝が書いている恐怖とは、謙信の跡目を継ぐ重責、対外勢力との困難な戦いを言っている、あるいは茫然自失する様を言っているとされている。そして、景勝は謙信の遺言により、自分が上杉家の跡目を継いだのだと、その正統性を強調している。当初、国内も周辺勢力も、概ね景勝を後継者と見なしていたようだ。しかし、この不安定な時期、景勝の足元で大きな動乱が起こらんとしていた。始まりは、越後の三条城主、神余親綱が、景勝の許可を得ないまま、地下人(地域有力者)から人質を集めていた件だった。


3月28日、この報を聞いた景勝は直ちに問責使を送って、親綱の行動を質す。親綱は問責使に手日記を渡し、この行為は先例に習ったまでで他意は無いと主張するも、誓詞の提出は拒んだので、景勝はかえって疑念を深めた。そして、4月初旬、会津の戦国大名、葦名盛氏が軍を動員して越後侵攻を企て、4月16日、上杉軍がこれを迎撃して追い返す事があった。親綱とすれば、謙信の死を受けて動揺する所領を固めるため、人質を取ろうとしたのかもしれない。しかし、折り悪く葦名氏による侵攻が重なって、内応を企てていると疑われたのだろう。景勝は強硬姿勢をもって、親綱を正さんとした。


この状況を見た、前関東管領である上杉憲政は三条城に自身の知行地があるのもあって、調停に乗り出し、景勝と親綱の和解を試みた。上杉憲政は、上杉家一門の上杉景信、山本寺定長らと共に景勝との折衝を重ねたが、溝は深まるばかりであった。そこで、憲政らは調停が破談に至った場合は、かの上杉景虎を担ぎ出して、当主をすげ替えんと動き出した。4月下旬、栃尾城主、本庄秀綱が神余親綱に味方するとして謀反を起こし、景勝方の与板城を攻撃しだした。こうした事態を受けてか、5月1日、景勝は、親綱を謀反人と断定、調停は破談となった。面目を潰された上杉憲政は、同じく調停に当たっていた上杉景信、山本寺定長らと共に神余親綱に味方するに至った(三条手切)。


5月5日、景勝と反景勝派の対立は、ついに本格的な武力衝突に発展し、春日山城と御館の中間にある大場の地で合戦となった。この戦いは景勝方勝利となって、反景勝派の上杉景信が討ち取られた。上杉景信は古志長尾家の当主であり、謙信時代も重きをなしていた人物であったので、反景勝派にとっては大きな痛手であった。しかし、情勢は、まだ動き出したばかりであった。この時、景虎はまだ春日山城内にいて、戦乱には参加していない。しかし、反景勝派の要請を受けて、義兄と袂を分かち、新たな当主となる決意を固めつつあった。5月6日、景勝は、旗本の北条高定(上野厩橋城主、北条高広の一族)が反景勝派に内通した事を察し、春日山城内にて誅殺した。この様に春日山城内でも不穏な空気が広がりつつあった。



5月13日、意を決した景虎は妻子や郎党を引き連れ、春日山城を出ると、目と鼻の先にある御館に移った。御館とは、前関東管領、上杉憲政のための居宅として謙信が府内に築かせた館であり、謙信の政庁としての役割も果たしていた。この御館を中心に景勝と景虎の戦いが繰り広げられた事から、この争乱は、「御館の乱」と呼ばれる事になる。 そして、反景勝派は景虎を担ぎ出した事で、更に勢力を増し、ここに景虎派を形成、越後を二分するに至った。当初は景虎派が優勢で、御館に入った後、自軍の勢力を糾合して攻勢に移った。


5月16日、景虎方の部将、東条佐渡守が春日山城下に火を放って3千軒を焼き払った。翌17日、景虎方は一挙に春日山城を攻め落とさんと押し寄せ、6千余の兵をもって春日山城の千貫門辺りまで攻め入ったが、景勝方も必死の防戦を展開し、景虎方の部将、桃井義考以下、数百人を討ち取って、これを撃退した。5月21日、景虎方は再び兵を出し、両者は荒川館と愛宕で交戦する。この攻撃も景勝方によって撃退されるが、今だ景虎方優勢の状況であった。戦いはむしろ、これから本格的なものとなって、越後国内のみならず、周辺諸国まで巻き込んだ一大争乱に発展してゆく。


6月、甲斐の武田勝頼が、小田原北条家の要請を受けて、2万余の大軍を率いて越後に進軍する。勝頼は、景虎を援助するよう要請されていたのだが、景勝は武田家と交渉して、黄金1万両の譲渡と東上野の割譲(条件は所説あり)を申し出て、景勝寄りの中立に立たせる事に成功した。9月、景虎からの援軍要請を受けて、小田原北条家が本腰を上げて動き出した。北条軍1万5千余が北上して三国峠を越え、越後国境の城、樺沢城、荒戸城を破って、景勝ら上田衆の本拠、坂戸城を取り囲んだのである。これで勢いを増した景虎方は、大場口に攻め寄せたが、景勝方の新発田重家が奮戦してこれを討ち破った。一方、坂戸城の方も、天険を生かして北条軍の攻撃を凌ぎ切った。


10月、越後に冬が訪れると、北条軍は攻め取った城に守備隊を残して撤退していった。しかし、春になれば、北条軍が再び攻め寄せてくる事は明白である。景勝には、それまでに御館を攻め落とす必要があった。景勝は家臣に宛てた書状で、「雪が消えて、小田原の援軍が来る前に決着をつける」とその決意の程を述べている。10月24日、景勝は自ら御館に攻勢をかけ、迎え打ってきた景虎方を打ち破る。この日、景虎方の有力部将、本庄秀綱は居城、栃尾城に逃げ込んだので、これで景虎が頼れる部将は、北条景広と堀江宗親ぐらいしかいなくなった。景勝はさらに攻勢を強め、琵琶島城を包囲する。この琵琶島城は、海上から御館への兵糧輸送を担う、重要拠点であった。


天正7年(1579年)1月、景勝の攻勢は真冬でも継続され、御館と小田原北条家との連絡線に当たる高津城を攻め落とした。2月初旬、景虎方の勇将、北条景広が討死した。この報を受け、景勝はすかさず御館を攻め立てて、館の外構えを焼き払う。景虎を取り巻く情勢は、急速に悪化していった。景虎は北越の有力部将、本庄繁長に宛てて、「十日も援軍が来なければ、滅亡してしまう」と援軍を哀願したが、繁長はすでに景虎を見限っていたので、何の意味も無かった。景勝の攻勢は続き、樺沢城、荒戸城を奪還し、北条家からの支援の道を完全に断つ事に成功した。


3月、景勝方は御館近辺に陣取って、大きな圧力を加えた。敗色濃い景虎に見切りをつけたのか、御館から堀江宗親が出奔し、鮫ヶ尾城に引き払ってしまう。御館は全ての糧道を断たれ、有力な部将も皆、戦死するか出奔してしまった。景虎は、完全に孤立無縁となる。その様子を見た前関東管領、上杉憲政は和平調停をしようと、景虎の嫡子、9歳になる道満丸を連れて、景勝の下へと向かった。しかし、その途上、景勝方の武士によって2人とも殺害されてしまう。これによって和平の道も閉ざされ、景虎には打つ手がなくなった。


3月17日、御館の落城は避けられないと見た景虎は、関東で再起を図ろうと館を脱出した。しかし、この時、景虎の奥方であり、景勝の妹(姉とも)でもある華渓院は御館に残った。彼女は兄に降る事を良しとせず、夫に殉ずる覚悟を決めていた。そして、夫に関東に落ち延びるよう勧めてから、側仕えの者達と共に自害して果てたと云う。景虎に従う侍衆も自らの家に火を放ち、妻子を焼殺あるいは斬殺して、御館を落ちていったと伝わる。 戦国の哀しい一面であった。


3月24日、景虎は関東に落ち延びて行く途上、鮫ヶ尾城に立ち寄った。しかし、ここで堀江宗親に裏切られ、景虎は無念の自害に追いやられた。享年26であった。しかし、戦いはまだ終わっていなかった。越後にはまだ、景勝の支配を拒否する景虎方の勢力が残っていた。
10月20日、武田勝頼の妹が、景勝に嫁いで来る。これで、景勝と武田家との絆はさらに深まった。天正8年(1580年)4月、本庄秀網の栃尾城を落とし、秀綱を会津に追いやった。7月、神余親網の三条城を落とし、戦乱の火種となった、親綱を死に追いやった。翌天正9年(1581年)2月、北条輔広の北条城を攻略する。これにて、謙信の死後、足掛け3年に渡って繰り広げられた戦乱はようやく収束した。


昭和39~40年に御館を発掘調査した際、くし、かんざしの類が混じって出土した。それは、かつてこの館で女性達が優雅に暮らし、そして、悲劇的な結末を迎えたという事を物語っていた。また、種子島の銃弾、銭貨、武具、馬具、刀剣の破片、大陸渡来の白磁、青磁等の破片などが出土した事から、ここで激しい戦闘があった事と、ここに住んでいた前関東管領、上杉憲政の優雅な生活ぶりが伺えたそうである。 また、景虎が自害して果てた鮫ヶ尾城からも、炭化したおにぎりが出土している。三の丸から出土した焼けた米粒の塊は、年代測定の結果、御館の乱が起きた当時のおにぎりであった事が判明する。
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