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U-869 1

1944年1月26日、ドイツ、ブレーメン造船所にて、1隻の潜水艦U-869が竣工した。

このUボートはⅨC型、大型で航洋性に優れた型である。

全長76メートル 

全幅6・8メートル 

水上排水量1100トン 

航続距離12ノットで1万1千海里 

水上速力18・2ノット 

水中速力7・3ノット 

53センチ魚雷発射管6門(艦首4門・艦尾2門)


このUボートに乗り込んだ乗員は56名、10代の者が24名乗り組んでおり最年少は17歳、平均年齢は21歳だった。彼らの多くは、戦争前半のUボートの活躍に触発されて、志願して潜水艦乗りとなった者達だった。1939年から1943年中盤まで、Uボートは、技術的、戦術的優位にあって、連合軍商船を次々に海の藻屑にしていった。だが、若者達が軍に入隊し、訓練を重ねてようやく実戦につこうとしていた時期、1944年には、Uボートを巡る状況は一変していた。連合軍は大量の航空機と駆逐艦を投入してUボートの活動を押さえ込み、さらに暗号解読や無線探知によってUボートの位置を特定し、そして、レーダーを始めとする電子兵器でUボートを確実に捉えて、撃沈していった。


1939年開戦当初、Uボートに乗り組んでいたのは、徹底的な訓練を重ねた精鋭ばかりだった。しかし、激戦を経て精鋭達は海に沈んでゆき、1943年以降、戦局が下り坂を迎えると、Uボートに乗り組むのは、経験の乏しい新兵ばかりとなっていた。彼らは短縮された訓練期間を経て、圧倒的な連合軍が待ち受ける戦場に送り出されて行き、その多くは帰って来なかった。戦争末期、前線に赴いたUボートが帰還できる見込みは50パーセントで、乗員の余命は60日余だったと云う。だが、Uボート乗員達は戦争に敗れる事が分っていても、自らが帰還できる見込みが非常に小さい事も覚悟の上で、前線に赴いていった。


U-869は竣工後、乗員を乗せて、すぐさま訓練に取り掛かった。乗員達は徐々にUボートの慣習に慣れていった。士官同士はお互いをファーストネームで呼び合い、艦内では士官に敬礼をせずともよかった。潜水艦任務は1人のミスが即全員の死に繋がる、彼らは運命共同体だった。訓練を重ねているうちに自然と、絆が生まれていった。

艦長はヘルムート・ノイエルブルク、27歳、ノイエルブルクは長身で鋭い目をしており、威厳に満ちて態度に気品があった。どのような状況にあっても常に冷静であり、規律ある軍人の手本ともいえる人物だった。しかし、ノイエルブルクにとって、今回が初のUボート艦長であった。乗員達は当初、ノイエルブルクの能力を疑ってかかったが、彼の献身的な仕事振りと優れた能力を目の当たりにすると、次第に信頼を寄せるようになった。


1944年夏、ノイエルブルクは乗員達のために、艦内で祝賀パーティを開いた。しかし、ノイエルブルク自身は酒を飲まず、酔った乗員達を観察して、その言動に耳を澄ましていた。ノイエルブルクは酒の席で彼らを試し、人間性を探っていた。意図を悟った乗員の中には、そのやりかたに不満を憶える者もいた。ある日、ノイエルブルクは乗員達を散歩に誘い、皆にビールを配った。ノイエルブルクは乗員達を円を描くように座らせると、自分はギターを手に取って見事な演奏を始めた。


乗員達は、艦長に音楽的な才能がある事を知って驚いた。しかし、今度は、ノイエルブルクが乗員を試しているようには見えなかった。何故なら、彼は心から楽しんで歌い、演奏していたからだ。ノイエルブルグは幼い頃から音楽的な才能があり、周りの人間も自分自身も、その道に進むものと思っていた。しかし、戦争が勃発すると、彼は国家のため、軍人の道を進んだ。


ノイエルブルクは部下に対して厳格であり、艦内においては尊敬と恐れの対象だった。乗員達は、ノイエルブルクが余りにも熱心に仕事に取り組むのを見て、彼がナチスに傾倒しているのではないかと思った。しかし、彼の心情は反ナチスだった。ノイエルブルクは兄、フリートヘルムにだけは本心を打ち明けていた。ノイエルブルクは兄に、「ドイツを破滅へと向かわせているのはナチスである」と言い放ち、嫌悪感を隠さなかった。


それを聞いてフリートヘルムは驚き、たじろいだ。ナチスが聞き付けたなら、処刑されかねない言動だった。兄は、「誰が聞いているかわからないんだぞ!そのような事は口にするんじゃない」と弟に釘をさした。U-869の就役直前、ノイエルブルクはフリートヘルムと会う機会があった。その時、ノイエルブルクは兄の目をジッと見つめ、ポツリとこう言った。「ぼくはもう、帰ってこないだろう」


先任士官は艦長に次ぐ地位である。その先任士官はジークフリート・ブラント、22歳が務めた。ブラントは小柄で、温かみのある目をしており、笑顔を絶やす事はなかった。ブラントは気さくな人柄だったが、自分に対してはどこまでも厳しく、そして、自ら率先して動く男だった。乗員の誰もが、彼に親近感を覚えた。艦長と先任士官の性格は正反対だったが、お互いの能力、人格を評価し、信頼しあっていた。


ブラントは、早くから心の真っ直ぐな人として知られていた。高校時代、彼は親友と2人で誓いを立てた。これからはプロイセン人としての規範に従い、自制心、秩序、公平、寛容、信頼、誠実に重きをなして行動すると自らに定めた。ブラントは、ヒトラーとナチスを不信の目で見ていた。ブラント一家は敬虔なプロテスタントであり、その信条はナチスとは合いあわないものだった。そのため、ナチスとブラント一家は緊張状態にあった。しかし、ブラントは、軍にいる自分は大きな機械の歯車にすぎないと、諦めに似た考えを受け入れていた。


1944年夏、ブラントは13歳になる弟、ゲオルクをU-869に招待した。ゲオルクは、初めて見るUボートの精悍な姿に感激した。ゲオルクは艦長ノイエルブルクと握手した後、兄に連れられて、機械でゴツゴツした艦内に入っていった。艦内では機関室、通信室、魚雷室に案内され、潜望鏡を覗く事も出来た。ゲオルクにとって、それまでの人生で最高の感動と興奮を味わえた日だった。そして、この時ほど兄を誇りに思った事はなかった。


フランツ・ネーデルは、19歳の魚雷員だった。ネーデルには、ギゼラという18歳にある将来を誓い合った恋人がいた。2人が出会ったのは1940年、ネーデルが15歳の時、ギゼラが14歳の時だった。ネーデルは、彼女の自由な考えや激しい気性が好きだった。ギゼラは、彼の思いやり深いところが好きだった。ネーデルはナチスを崇拝していたが、ギゼラは嫌悪していた。その事を巡って度々、口論となったが、それでも2人は愛し合っていた。ネーデルがUボート乗員を熱望していると知ると、ギゼラは、「あれは泳ぐ棺おけよ!」言って必死になってそれを止めようとした。しかし、ネーデルの決意が変わる事はなかった。ネーデルは海軍に入隊し、訓練を経てU-869に乗り組んだ。そして、前部魚雷発射管のハッチに、ギゼラの名前を書き込んだ。


 
U-869a.jpg










↑U-869の就役式 機関砲の側で敬礼しているのが、艦長ノイエルブルク


U-869 2
に続く・・・
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