10月下旬、U-869は、初の戦闘哨戒任務が迫っていた。
艦長ノイエルブルクは、自宅に帰った。彼には25歳の妻と3歳の息子ユルゲン、1歳の娘ユッタがいた。彼は赤ちゃん日記に、その日の出来事や思った事を書きとめていた。U-869で出撃する直前の日記には、息子に宛ててこう記している。「もうじき、パパはUボートで海へ出てゆく事になるのだけれど、またすぐお前達に会う事が一番の願いだ。だから、それまで無事で、ママとユッタ、ユルゲンの3人でパパを待っていておくれ。そして、陽気な声で「ママ、パパが帰ってきたよ!」と言って出迎えておくれ。そういう時がすぐに来ますように。色々な恐ろしい事が、私の大切なお前達に降り掛かりませんように。たくさんの愛を込めて、父より」
先任士官ブラントは、1日だけ休暇をとって実家に帰った。敬虔なプロテスタントであるブラント一家は、父親の呼びかけで家族全員が居間に集まって祈りを捧げた。父は、軍人として働いている2人の息子の無事を願った。そして、静かな時代が訪れて、再び家族全員が揃って、一緒に食事が取れる事を祈った。ブラントは翌日、U-869へと戻っていった。彼にはまだ数日、休暇を取る資格があった。しかし、彼は、他の乗員に家族とゆったり過ごすようにと、その貴重な数日を譲ったのだった。
11月下旬、ブラントは家族に宛てて手紙を送った。「この手紙が届く頃には、僕はもう出発しているでしょう。今年は僕の中では、頭の中だけで終わってしまうにしても、家族がクリスマスと新年を、明るく楽しく健康で迎えられるよう祈っています。思い返すと、本当に良い家族であったと痛感します。手を組んだ時には、僕の事を思い出してくださいね。再会の日を祈っていてください」
U-869初出撃の日は、1944年12月1日と決まった。
出撃の直前、ノイエルブルクの友人で、医師をしている男が密かな提案をしてきた。それは、ノイエルブルクは現在、病身の身であり、指揮可能な体調ではないと、海軍当局へ届け出ようというものだった。戦争後半、Uボートの多くは任務から帰ってこなかった。それを知っている彼の妻は、この申し出を受けるよう、熱心に夫に勧めた。ノイエルブルクはこの申し出に感謝しつつも、国家及び、乗員に対する義務があるとして断った。
19歳の魚雷員、フランツ・ネーデルは乗員仲間を連れて実家に帰った。婚約者のギゼラは笑顔で出迎え、彼に両腕をまわして抱きついた。しかし、ネーデル達の様子は今までと違っていた。彼らはテーブルについても、黙り込んで目の前を見つめるばかりだった。そして、男達は1人、また1人と泣き始め、とうとう全員が泣き出した。ギゼラの顔からは笑顔が消え、「どうしたの」と尋ねても、男達は泣くばかりだった。ようやく、1人の男が答えた。「俺達は帰ってこないんだ」
11月後半、U-869で通信士をしていたグシェウスキーは勤務中、突如、気分が悪くなって昏倒した。グシェウスキーはすぐさま、病院の集中治療室へと運ばれていった。彼が意識を取り戻した時、医師から肺炎と肋膜炎を併発していると告げられた。U-869の出撃は目前に迫っていたが、彼は残らざるを得なかった。U-869の出撃数時間前、グシェウスキーを見舞いに大勢の乗員が病室を訪れた。
艦長ノイエルブルクはクッキーと花束を渡して、「心配ないよ、君」と言い、先任士官ブラントは笑顔でグシェウスキーの手を取ると、「早く良くなれよ」と言った。そして、多くの乗員が同じようにグシェウスキーを見舞った。彼らの多くは目に涙を浮かべていた。彼らが病室を去って行く時、グシェウスキーは、もう二度と彼らに会えないだろうという気がした。幾人かの仲間の目を見て、彼らも同じように思っている事が分かった。
1944年12月1日、楽隊が演奏を奏でる中、U-869は出港していった。見送る家族は、2、3組だけだったが、乗員達はいつまでもデッキの上で手を振り続けていた。やがて、U-869は雲に覆われた水平線の彼方へと消えていった。U-869はドイツを出てから、ノルウェーのクリスティアンサンに寄港する。そこで、食糧、燃料を補給すると、一路、大西洋の外洋を目指した。U-869の任務は、アメリカのニューヨーク南東200キロメートル付近で、戦闘哨戒にあたる事だった。
U-869が大西洋へ向かうには、アイスランドとフェロー諸島の間を抜けて行くのが最短ルートだった。しかし、このルートは連合軍の警戒が厳しい事から、ノイエルブルクはここを通過するのを避けた。そして、U-869の進路を大きく北に取ると、警戒が手薄なアイスランド北方のデンマーク海峡を通過するルートを取った。ノイエルブルクが艦長として最初に下した決断は、乗員を危険から守るためのものだった。
しかし、この措置は、Uボート司令部にとって好ましいものではなかった。遠回りしてデンマーク海峡を通過すると、その分だけ作戦海域で働く日数が減るからだ。ニューヨーク沖で14日間、滞留するためにUボートを100日間も走らせる事になる。この比率は、受け入れられるものではなかった。そこで、司令部は命令を変更し、U-869に対し、ジブラルタル沖(地中海の出入り口付近)に向かうよう指示した。そこならば、より長期間、哨戒活動する事が期待できたからだ。しかし、何らかの理由でこの命令は、U-869には届かなかった。大気の状態が悪く、無線を捉えられなかったと考えられる。U-869はそのままニューヨーク沖を目指し続けた。
1945年2月、アメリカ沿岸に近づくと、U-869はシュノーケルを使用して、常時潜航しながらニューヨーク沖を目指す。アメリカ軍諜報部は暗号解読によってU-869の接近を察知し、予想出現海域に対潜部隊を送り込んで捜索させた。だが、対潜部隊は情報を掴んでおきながら、U-869を撃沈するどころか、発見する事すら出来なかった。連合軍の優れた捜索能力を知るノイエルブルクは、可能な限り潜航状態を維持しながら、目的海域に向かったのだろう。この措置は、乗員にとっては非常に苦しいものであったが、追跡の目を逃れるためには致し方なかった。U-869はアメリカ軍の厳重な警戒の目を掻い潜りながら、獲物を探し求める。そして、ついにノイエルブルクは敵船を発見した。U-869は戦闘配置に付き、ノイエルブルクは潜望鏡で敵船を睨みつつ、命令を発した。「一番魚雷発射用意、発射!」
ドイツ軍には音響追跡魚雷と言う、スクリュー音を捉えて敵艦を追跡する魚雷があった。当時としては非常に優秀な魚霊であるが、発射した自艦のモーターや発電機の音を捉えて、逆戻りする事例もあった。この音響追跡魚雷に限らず、通常の魚雷でも逆戻りして、艦体の上や下を通過するといった事例は、多数のUボートによって記録されている。その逆戻り魚雷の中でも音響追跡魚雷は特に危険で、発射後、すぐに潜航するのが決まりだった。そして、U-869が発射したと思われる音響追跡魚雷も、なんと、自艦に向かって接近してきたのだった。だが、現場は浅い海域で、急速潜航を試みると海底に激突してしまう。魚雷のスクリュー音がみるみる迫ってくるが、乗員達は運を天に委ねる意外、手は無かった。
しかし、運命の神は、U-869を見放した。魚雷は艦中央部に激突し、乗員全員が信管が起動するカチッと言う音を聞いた。魚雷は司令塔直下で炸裂、発令所付近にいたノイエルブルクやブラントらは爆散し、凄まじい衝撃波は隣接する区画の男達も吹き飛ばした。衝撃波はそのまま潜水艦の両端に向かって突き進み、鋼鉄のハッチを吹き飛ばしながら、最前部の魚雷室と最後部の魚雷室まで及んだ。間髪置かず、破孔から海水が浸入し、U-869は5分と経たずに深度70メートルの海底に沈んでいった。生存者はいなかった。
ドイツ当局はU-869がアメリカに向かっていたとは知らず、公式記録にはU-869はジブラルタル沖で撃沈されたと書き記された。
U-869 終へと続く・・・
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