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2026.04.26 - 
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海賊黒髭

2010.07.19 - 歴史秘話 其の一
世間で、「黒髭」と聞いたなら、樽に剣を1本1本刺していくと、突然、人形が飛び出す玩具、「黒髭危機一発」の事が、まず思い浮かぶ事だろう。実はこれにはモデルがあり、黒髭なる海賊は実在していたのである。


黒髭の前半生は定かではなく、1680年頃、イギリスのブリストルに生まれ、姓はエドワード、名はティーチ、タッシュ、サッチなどと伝わっている。1710年頃、黒髭は、国家公然の海賊活動である私掠船の1船員となってジャマイカに渡った。それからほどなくして、ホニーゴールド船長率いる海賊に加わる。黒髭には海賊としての天分があったらしく、類まれな勇猛さと統率力を発揮して、たちまち頭角を現していった。黒髭はホニーゴールドに見込まれて、2隻の船の内、もう1隻の指揮を任されるようになる。


ホニーゴールドの下、黒髭は目覚しい活躍を見せて、次々に獲物を仕留めていった。1717年、セント・ビンセント沖で、ホニーゴールドらはフランスの奴隷船を発見する。それは大きく頑丈で、40門の武装を誇る強力な相手であった。だが、2人は協力して、この大物を捕らえる事に成功する。蓋を開けてみれば、この船は宝の船で、金銀宝石、奴隷が山の様に積まれていた。ホニーゴールドはこれまでの黒髭の功を讃えて、この立派な捕獲船を与えた。黒髭は、この船をクイーン・アンズ・リベンジ号と名付けて、自らの乗船とした。この後、ホニーゴールドはほどなくして引退したため、海賊達の指揮は黒髭が執るようになった。


この後、黒髭は、北米ヴァージニアから、中南米のホンジュラスまで暴れ回って、20隻以上の船を拿捕した。黒髭はその内の何隻かを船団に加えて、更に強大になった。また、30門の大砲を積んだイギリス軍艦を打ち負かして、大いに名を上げた。黒髭のやり口は単純かつ冷酷で、相手が黙って積荷を差し出した場合は、そのまま生かして帰したが、抵抗した場合には容赦無く皆殺しにした。黒髭は恐怖の海賊、悪魔の申し子と呼ばれて、人々の恐怖の的となる。黒髭自身の自己喧伝もあって、カリブ海で彼の名を知らぬ者はいなくなった。引退していたホニーゴールドは、今や大海賊となった黒髭が、かつては自分の部下であったのだと人々に自慢した。


黒髭は長身かつ大柄な体格で、非常に恐ろしげな風貌をしていた。いかつい顔立ちに、たてがみのような黒髪をたなびかせ、そのあだ名の由来ともなった長い顎鬚は、編み込まれてへその辺りまで伸びていた。自慢の髭の両端には火縄が結い付けられ、それが煙を上げてくすぶる様は、見る者をたじろがせた。彼の気質は、その見た目同様、突飛で破天荒なものだった。黒髭は、ラム酒と火薬を混ぜた強烈な酒を愛飲していたと云う。また、黒髭は各地の港に愛人を持ち、その数は14人に達していた。


ある晩、黒髭は部下2人と共に酒盛りをした。黒髭は酒を飲みつつ、テーブルの下でピストルを2挺抜いた。船長の予想の付かない行動を知る部下の1人は、危険を察知して甲板へと逃れたが、もう1人はそのまま飲み続けた。すると、黒髭は突然、ロウソクを吹き消して真っ暗闇にすると、2挺のピストルを発射した。部下は膝を撃ち抜かれ、生涯不具の身となってしまった。他の乗員達から、何故そのような行為をしたのか問われると、黒髭は怒って、「時々、こういう事をしなきゃ、お前らも俺がどういう人間か忘れちまうだろうが!」と喚き散らしたと云う。


黒髭は、北米の大西洋岸から西インド諸島にかけての航路に絶えず出没して、付近を航行する船舶を荒らし回った。北米ヴァージニアの貿易業者達は黒髭に恐れ慄き、その貿易活動に支障を来たすまでになった。それらの人々の懇請を受け、イギリス海軍は討伐隊を送り込む事を決した。討伐隊の構成は、2隻のスループ船(中型の帆走軍艦)で、指揮官はロバート・メイヤード中尉であった。メイヤードは、まずは情報収集に努め、黒髭がノース・キャロライナのオクラコウク湾に潜んでいるらしいと聞き付けると、すぐさま現地に向かった。


1718年11月21日、この日、黒髭は拿捕した船を伴って、オクラコウク湾に停泊していた。イギリス海軍が迫っている事も知らず、黒髭は船上で18人の部下達と盛大な酒盛りを始めた。そして、翌日の朝になっても、まだ酒を飲んでいた時、突如、メイヤード率いる2隻の船団に急襲されたのである。だが、そんな泥酔状態であったにも関わらず、一旦、戦端が開かれると海賊達は手強かった。海賊達は猛反撃に転じて、1隻のスループ船の船長を殺して、乗員の大半を殺傷する。黒髭と海賊達は続いてメイヤードの船に斬り込みをかけ、熾烈な接近戦が始まった。


黒髭は、メイヤードを見かけると至近距離からピストルを発砲した。しかし、弾丸は逸れ、今度はメイヤードが反撃のピストルを撃って、黒髭に命中させた。黒髭は負傷に怯む事なく、今度はカトラス(短刀)を持って斬りかかった。黒髭は喚きながら激しく斬りかかり、メイヤードの剣を叩き折る。そして、黒髭が止めを刺そうと剣を振り上げたその瞬間、海軍兵の1人が剣をもって、その喉を切り裂いた。黒髭は瀕死の重傷を負ったにも関わらず、その闘志はまったく衰えを見せなかった。首から血を吹き出させつつ、尚もピストルを乱射し、海軍兵と渡り合った。だが、海軍の水兵に次々に斬り付けられて、20箇所もの刀傷を負い、弾丸も5発受けると、さすがの巨人もゆっくりと崩れていった。その罪業はともかく、勇猛果敢な海賊らしい死に様であった。


戦後、黒髭の首はメイヤードによって切り落とされ、船の船首に吊り下げられた。その首はヴァージニアへと運ばれ、ハンプトン河の河口に見せしめとして吊るされた。そして、戦いで捕虜となった黒髭の部下15人の内、13人も死刑となった。黒髭が海賊の首領として行動していた期間は、僅か2年余でしかなかったが、その激しい活動と破天荒な人物像は人々の語り草となり、やがて伝説となった。その後、作られた海賊ものの小説、映画などには、黒髭の印象が多分に取り入れられて現在に至っている。



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↑海賊黒髭


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弓木城

弓木城は京都府、与謝野町岩滝にある山城で、近くには日本三景として有名な天橋立がある。



弓木城の詳しい歴史は定かではなく、鎌倉時代末期に地元の豪族、稲富氏が丹後岩滝の地に城を構えたのが、始まりであると云われている。室町時代になり、幕府の四職である一色氏が丹後守護となると、稲富氏はこれに従う。以後代々、稲富氏は一色氏の家臣として仕え、戦国に至る。天正6年(1578年)頃から、畿内には織田信長の支配が浸透し始め、その矛先は丹後一色氏にも向けられるようになる。信長は配下の細川藤孝や明智光秀らを差し向け、丹後攻略に当たらせた。



当時の一色氏当主は義道で、建部山城を居城として織田軍に抵抗した。しかし、翌天正7年(1579年)相次ぐ国人の裏切りによって義道は孤立し、建部山城も落城する。義道は但馬に逃れようとして、途中、中山城に立ち寄ったところ、そこで家臣の裏切りに遭い、自害して果てた。義道死後、子の義定(満信とも)が残党を引き連れて、弓木城に立て篭もった。細川藤・忠興父子は弓木城を攻め立てるが、剛勇の誉れ高い義定の抵抗は激しかった。この戦いでは、一色氏の家臣の稲富直家(祐直とも)も、よく主家を支えて戦った。この直家は稀代の鉄砲の名手であり、細川方を大いに悩ませた。



弓木城を攻めあぐねた藤は、娘を義定に娶らせて、その懐柔を図る。義定もこれを受け入れ、細川氏の支配下に収まったかに見えた。しかし、天正10年(1582年)6月本能寺の変が起こると、藤孝、忠興父子は明智光秀から距離を取ったのに対して、義定は光秀に味方する。山崎の戦いにて光秀が敗死すると、勝者となった羽柴秀吉は、義定を不信の目で見た。同年9月、その意向を受けた藤孝、忠興父子は、義定を宮津城へと招き入れ、これを謀殺せしめた。 この時、一色家の家臣、雑兵100人も殺害された。


義定謀殺後、一色家では義定の叔父である義清が跡を継ぎ、弓木城に拠って最後の抵抗を試みた。しかし、細川方はすぐさま軍を派遣し、弓木城を激しく攻め立てる。一色方の敗色は濃くなり、義清は最早これまでと細川方の本陣に斬りこみ、下宮津の海辺にて壮絶な討死を遂げたと云う。そして、弓木城も落城した。一色氏滅亡後、
稲富直家は、その鉄砲の腕を買われて細川家に召抱えられ、弓木城はほどなくして廃城となった。尚、この丹後一色氏に関しては不明な点が多く、詳しい事柄は分かっていない。







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↑天橋立と弓木城


奥に見えるのが天橋立で、真ん中下よりの丸い丘陵が、弓木城です。



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↑麓から眺めた弓木城




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↑弓木城内にある稲荷神社


夜には何か、出て来そうです・・・



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↑弓木城



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↑副郭



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↑副郭付近からの眺め


往時には、眼下から細川方が攻め上がり、城からは弓、鉄砲が撃ち放たれて熾烈な攻防戦が繰り広げられたのでしょう。



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↑主郭手前からの眺め


写真では分かり難いですが、急な坂道となっています。



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↑上が主郭


堅固な構えであった事が伺えます。


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↑主郭


ここに館があって、一色氏の当主が立て篭もっていたのでしょう。




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↑主郭にある石碑



弓木城は比較的、街に近い山城ですが、訪れる人も少ないようで、ひっそりとしていました。弓木城は、かつての城主、一色氏共々、忘れ去られた城跡のようです。

奥州藤原氏と平泉 終

2010.06.26 - 歴史秘話 其の一
文治5年(1189年)7月29日、頼朝率いる中央軍は白河関を突破し、奥州に進出した。8月7日、関東勢は阿津賀志山(あつかしやま)に達し、ここで奥州勢と対峙する。そして、翌8月8日より、熾烈な攻防戦が始まった。8月9日夜、関東勢の一部が、奥州方の安藤次なる者を道案内人に山越えをして、奥州勢の背後に回った。翌10日未明、背後に回った関東勢は一斉に鬨の声を挙げて襲い掛かり、不意を突かれた奥州勢は混乱する。これに加えて、正面からも畠山重忠率いる工兵隊が、鍬(すき)鍬(くわ)を用いて防塁を突き崩していった。奥州勢も必死に応戦して、この日は激闘となったが、やはり最初の一撃が利いて、奥州勢の敗色は濃厚となった。


支えきれなくなった奥州勢はとうとう崩れだし、大将の国衝は逃れんとしたが、その途上、畠山重忠配下の者に討たれてしまう。難攻不落と見られた阿津賀志山の堅陣は、3日間の攻防で突破された。奥州方は陸奥、出羽の2ヵ国の寡兵で、全国の兵を相手に戦かわねばならなかったのだが、それでも脆く崩れ去った印象を受ける。それを証明するかのように、奥州方からは内応者が出て関東勢を案内するなど、その軍は結束を欠いていた。もし、義経を大将に奥州勢が1つにまとまっていたなら、堅陣を盾に、逆に奥州方が迂回攻撃を仕掛けるなどして、戦法は変わっていただろう。しかしながら、泰衡が義経や弟、頼衝、忠衝を討った時から、すでに奥州勢の内部崩壊は始まっていた。



8月12日、頼朝率いる中央軍は東海道軍と合流し、多賀国府に進軍する。14日、物見岡(何処かは不明)にて奥州勢と合戦となり、20日には玉造郡、多加波々(たかはば)城に迫った。しかし、奥州勢はすでに多加波々城から後退していたため、関東勢はさらに進軍し、8月21日には津久毛橋に至った。この津久毛橋を越えれば、平泉は目の前であった。奥州方にとっては最後の防衛線であり、ここで関東勢を阻止せねば、最早、後がなかった。頼朝もここが最後の山場と考え、軍の分散を避け、2万余騎の軍勢を集結させる。この日、津久毛橋を巡って両軍、最後の戦いが繰り広げられた。しかし、勢いに乗る関東勢の猛攻は抑えきれず、奥州勢は敗走し、津久毛橋は突破された。戦い敗れた泰衡は、平泉へと逃れた。だが、ここはすでに往生楽土の地ではなかった。関東勢が平泉へと押し寄せて来るのも時間の問題であり、泰衡は平泉館や宝物庫に火を放つと出羽奥地へと逃れていった。


8月22日午後16時頃、はなはだしい雨が降る中、関東勢は平泉に入った。平泉館に着くも、すでに主はおらず、館は焼け落ちていた。町も寂寥として、人影は絶えていた。多くの人々で賑わい、栄えていた平泉の面影は、そこには無かった。だが、ここにはまだ、目も眩む様な財宝が残されていた。関東勢が火災を免れた1つの宝物庫を開けてみると、そこには金造りの鶴、象牙の笛、瑠璃の灯篭、金の沓(くつ)、錦の直垂(ひれたれ)、銀造りの猫などが山のように積まれており、武士達は仰天した。ここで頼朝は、功績を挙げた武士にこれらの宝物を与えている。平泉では、戦後も中尊寺、毛越寺、無量光院などは残されていた事から、泰衡は町全体に火を放った訳ではなく、頼朝も略奪放火を禁じていたと思われる。


頼朝は平泉に滞在し、方々に兵を放って泰衡を捜索させた。そうした折、頼朝の宿館に手紙が投げ込まれた。それは泰衡からのものだった。

「伊予守義経の件につきましては、父秀衝が援助した事であり、私はそのいきさつを存じておりません。父の死去後には鎌倉殿のご命令通り、伊予守を誅したはずです。この事は勲功に当たる行為のはずですが、それにも関わらず罪なくして征伐を受けるのは如何なる所存でありましょうか。そのため、私は先祖の在所を離れ、山林を住居とする始末で不便の極みでございます。奥羽両国がすでに鎌倉殿の支配にある以上、この泰衡には罪を許して頂き、後家人に列せられたいと存じます。これが許されないのなら、死を免ぜられ遠流(おんる)にも処して頂きたい。ご返事を頂けるならば、比内郡辺りに返書をご放置頂きたい」

この書で泰衡は必死に助命を乞うているが、無駄であった。頼朝には最初から泰衡を許すつもりなどなかった。泰衡は最後まで頼朝と云う人物を見抜けず、その手の平で踊らされ続けた、哀れな人形であった。


8月25日、泰衡の祖父、藤原基成が拘束される。基成が京都出身の貴族の身であったからか、ほどなく許されて開放されるが、その後の消息は不明である。奥州藤原氏の繁栄と滅亡の双方を見届けた人物であった。9月3日、泰衡は蝦夷の地を目指して逃亡を続けていたが、その途上、肥内郡、贄柵(にえのさく)にて朗従の河田次郎の裏切りに遭い、そこで無残な死を遂げた。だが、その河田次郎も、泰衡の首を献上した際、頼朝から「その罪、八虐に値する」となじられ、斬首の刑となった。その一方、由利八郎なる奥州方の名のある武士も捕らえられ、頼朝の前に引き出されたが、その尋問に八郎が堂々と受け答えしたため、許されて釈放されている。


頼朝の命によって、泰衡の首は鉄釘で柱に打ち据えられた。それは、祖先の源頼義が
前九年の役の折、討ち取った安部貞任の首を、鉄釘で打ち据えた故事に習ったものである。頼朝は、自分こそが正当な源氏の再興者であり、新たなる政権の樹立者であると天下に知らしめる必要があった。泰衡の首は、そのための重要な政治道具であった。義経を討とうが討たまいと、頼朝が奥州攻めを決めた時から、泰衡は殺される運命にあったのだ。戦後、頼朝は武士団に存分に褒美を与え、その心を大いに満足させる。そして、奥州の統治を葛西清重に委ねると、鎌倉へと戻って行った。これにて鎌倉幕府の権限は、あまねく全国に及ぶ事となった。建久元年(1190年)、頼朝は上洛し、右大将に任ぜられる。藤原氏を滅亡させた事で、頼朝はようやく心置きなく京に上がる事が出来たのだった。そして、建久3年(1192年)8月、頼朝は征夷大将軍の地位に就き、名実共に武家の頂点に立つ。


藤原氏が心血を注いで作り上げた中尊寺、毛越寺、無量光院などは、鎌倉幕府の庇護を受けて存続していたが、その後、火災を生じるなどして、時代を経るごとに廃れていった。奥州の中心ではなくなった平泉も衰退し、かつての繁栄の面影は消え去った。華麗を極めた建物の多くは消失し、現在にまで残された建物は、中尊寺金色堂のみである。
時代は下り、昭和25年(1950年)3月、中尊寺金色堂に安置されていた、藤原氏4代の遺体の学術調査が行われた。そこには、初代清衡、2代基衝、3代秀衝、4代泰衡らのミイラ化した遺骸があった。

●清衡(身長159センチ、保存状態が悪く広範囲で白骨化。体型は痩身。左半身不随の期間をかなり強いられたと見られる。死因は脳溢血か。4代中、最も老齢で、死亡年齢73歳説は妥当)

●基衝(身長165センチ、清衡より保存状態は良いが一部白骨化。具足の使用や武術の鍛錬の跡が見られた。肥満体型。死因は脳溢血か。死亡年齢は50~60歳)

●秀衝(身長158センチ、全身はほぼミイラ化しているが、鼠害が著しい。基衝と同じく武術の鍛錬の跡が見られた。肥満体型。死因は脊椎カリエスか。死亡年齢66歳説は妥当)

3代は共通して歯槽膿漏が進行し、カリエス(慢性炎症)があった。

この中で4代、泰衡の首のミイラは関係者に衝撃を与えた。首桶に入っていた首は、第4頚椎で横に切断され、脳と顔面には16箇所もの切り傷と刺し傷があった。右耳は切り落とされ、鼻も削がれ、なおかつ斬首までに7回太刀が加えられた挙句、最後の2回で切断された痕跡があった。これは、泰衡が最後まで生に執着して、激しく抵抗した為に付いたと見られている。眉間には親指大の釘が打ち付けられた孔があり、これは獄門に晒された事を意味していた。死亡年齢は30歳前後と見られている。


泰衡の首が納められていた桶からはハスの種が見つかり、その後、植物学者の尽力によってハスは、平成10年(1998年)に花を咲かせた。それは、泰衡の無念の思いが800年振りに花となって昇華したのかもしれない。現在、ハスは中尊寺の境内にある湿地に植えられている。それらは中尊寺ハスとして親しまれ、毎年7月頃、可憐な花を咲かせている。



平泉と中尊寺に関するHP



奥州藤原氏と平泉 2

2010.06.26 - 歴史秘話 其の一
義経は常勝将軍から一転、罪人として追われる身となった。義経は畿内各地の寺院を転々として身を隠していたが、その間にも、叔父の源行家や、佐藤忠信を始めとする郎党達は次々に討たれてゆき、愛妾、静御前まで捕らわれてしまった。最早、畿内に身の置き所は無く、義経は始まりの地である、奥州に向かう他無かった。文治3年(1187年)春、義経は苦難の逃避行の末、ようやく平泉に辿り着き、7年振りに秀衝との対面を果たした。だが、恩人の秀衝は病に冒され、すでに余命いくばくもなかった。


死の床にあっても聡明な秀衝は、平氏が滅んだ今、頼朝が次に狙うのは奥州であるという事が判っていた。そして、秀衝は死に臨んで嫡子、泰衡を呼び、義経を大将軍として、泰衡、国衝(泰衡の異母兄)らが三身一体となって、頼朝と戦うようにとの遺言を残すと、文治3年(1187年)10月29日、66歳の生涯を閉じた。偉大なる父から、巨大王国を引き継いだ泰衡であったが、彼は貴族ぜんとした線の細い人物であった。彼には国衝と云う異母兄がいたが、泰衡の母の出が高貴であった事から、兄を差し置いてその跡を継いだのだった。だが、秀衝も泰衡の資質に不安を感じていたのか、軍事の権は国衝に委ねている。しかも、この兄弟間は不仲であったとされる。


秀衝亡き後、奥州政権において大きな発言力を持つ人物がいた。それは秀衝の政治顧問役を務めていた、藤原基成である。基成は京都出身の貴族で、奥州藤原氏二代目、基衝の時に奥州に下向しており、京都とは深い繋がりがあった。毛越寺、無量光院、平泉館といった寺院は、基成の京における人脈を生かして建立されている。そして、基成は自身の娘を三代目、秀衝に娶らせており、その間に生まれたのが四代目、泰衡であった。秀衝が死亡した時には、すでに70歳前後の老齢であったが、泰衡の祖父という事も手伝って、その発言には重みがあった。


文治4年(1188年)2月、鎌倉の頼朝は、秀衝死すの報を聞くと、好機到来と見て、朝廷に義経追討の宣旨を出させて、その旨を奥州の基成と泰衡に伝えた。「義経を差し出さねば、朝敵として義経共々、奥州を討つ」との頼朝からの圧力であった。すでに秀衝の晩年の頃から、義経を差し出すようにとの要求はあったが、老獪な秀衝はこれをのらりくらりとかわしていた。泰衡も当初は同じ手を使っていたが、秀衝との役者の違いもあって、頼朝の圧力に抗しきれず、動揺をきたしていた。そこで、
藤原一族は寄り集まって、討議を行った。秀衝の三男忠衝、四男隆衝、五男道衝、末弟頼衝らは義経を奉って戦うべしと唱え、嫡男泰衡と長男国衝は、頼朝との協調路線を取るべしと唱えたと云う。討議は再三に渡って行われたが、意見は分かれたままであった。平泉には頼朝の間者が常駐しており、藤原一族の動向は逐次、鎌倉に伝えられていた。同年10月、頼朝は、動揺する泰衡を見透かすように、再び使者を送って圧力を掛ける。


この一連の不穏な動きは義経にも伝わっており、最早、平泉は安住の地にあらずとして比叡山に連絡を取り始める。文治5年(1189年)2月15日、泰衡は末弟、頼衝を討った。この出来事は、奥州政権内で意見の対立が激化していた事を物語っている。泰衡は征討の恐怖から逃れんと必死であったのか、それとも奥州の自立を守るにはこれが最善の道と見定めたのか、とうとう義経を討つと定めた。この決定には、泰衡だけでなく祖父の基成も深く関わっていただろう。同年4月30日、泰衡は、衣川の館にいる義経に数百騎の兵を差し向ける。不意を突かれた義経は防戦もままならず、持仏堂に入って22歳の妻と4歳の女子を殺害すると、そこで無念の自決となった。源義経、享年31、大きな栄光と悲劇に彩られた人生であった。同年6月26日、泰衡は、義経と同意していたとして弟、忠衝も討った。すでに頼朝の威令は、奥州を除く日本全域に及んでおり、抵抗しても勝ち目はないと思っていたのだろう。泰衡、基成らは、頼朝の鋭鋒を避けんと必死であった。しかし、現実はそれほど甘くなかった。


義経死すの報は、ただちに頼朝の耳へと伝わった。軍事の天才が死に、これで奥州侵攻の最大の懸念は取り除かれた。同年6月13日、奥州より、美酒に漬けられた義経の首が鎌倉に届けられたが、頼朝はそれに構わず、戦争準備を続ける。頼朝の動員令は全国に及び、九州南部の武士まで鎌倉に集まっていた。泰衡は、頼朝の命に従って義経を討ったのに、関東勢が攻め寄せてくると知って驚愕した。確かに泰衡には罪はなく、頼朝には大義名分が無かった。しかし、東国に武家政権を確立せんとする頼朝にとって、藤原氏は何としても打倒せねばならない相手だった。そして、その配下の御家人達も奥州を討って、恩賞と土地を賜わらん事を欲していた。奥州侵攻は関東武士の総意であり、それは誰にも止められるしろものではなかった。泰衡、基成らの現状認識は甘かったのである。


同年7月19日、頼朝は、関東武士を中心に全国各地から集められた28万と号される軍勢(実数は4~5万人余か)を率いて、鎌倉を出立する。頼朝は奥州に攻め入るにあたって軍を三分し、日本海沿いからは北陸道軍、太平洋沿いからは東海道軍、そして、白河関からは頼朝自ら率いる中央軍が、それぞれ平泉を目指して進軍を開始する。奥州方はこれに対して交通の要所である、伊達郡の阿津賀志山(あつかしやま)中腹から、阿武隈川に至るまでの地(約3・5km)に二重の堀と土塁を巡らせて、関東勢を迎え撃たんとした。この防塁は関東勢の襲来を予想して、奥州方が事前に構築していたものだった。藤原氏は、頼朝との和平交渉をしつつも一方では、万一の事態に備えていたのだろう。この地を守る奥州勢は国衝率いる2万人余の軍勢で、泰衡は後方の仙台に本陣を構えた。 
 

奥州藤原氏と平泉 終に続く・・・



 

奥州藤原氏と平泉 1

2010.06.26 - 歴史秘話 其の一

かつて、奥州には黄金と螺鈿(らでん)に彩られた華麗な仏教都市があった。その名を平泉と云う。奥州藤原4代の統治の下、繁栄を極め、最盛期には人口10万人を数えたとされ、当時、京都と並ぶ日本最大の都市であった。文化面においても京都に勝るとも劣らないものがあり、公家ですら、遠いみちのくの都に思いを馳せるほどであった。この平泉繁栄の礎を築いたのが、奥州藤原氏初代、清衡である。清衡は、永保3年(1083年)から始まる奥州の大乱、後三年の役を経て勢力を伸ばし、やがて、津軽の外ヶ浜から白河関に至るまでの地に、広大な独立王国を築き上げた。更に清衡は北方の豊かな産物を朝廷に送り届けて、その地位を認めさせ、名実ともに奥州の統治者であることを内外に知らしめた。清衡は朝廷に協調しつつも、その介入を許さない体制を取った。


清衡は、最北の外ヶ浜から最南の白河に至る、広大な領域を統治するにあたって、その中間に位置する平泉を本拠と定めた。そして、清衡はここに、京にも負けぬ一大都市と、中尊寺を始めとする大寺院を建設する事を構想する。清衡は7歳の時に前九年の役(1062年)が起こって、父の藤原経清を失い、さらに後三年の役(1083~1088年)によって妻子を失い、その後、異父弟と血塗られた戦いを繰り広げた末に奥羽を統一している。中尊寺の建立には、戦乱で死んでいった敵味方、多くの人々が極楽浄土に導かれるようにとの、そして、奥羽と国家全体がいつまでも安寧であってほしいとの、清衡の切なる願いが込められていた。


興和元年(1099年)より平泉の町造りが始まり、大治元年(1126年)には、その中心となる中尊寺や金色堂などの大伽藍が作り上げられていった。建物には漆が厚く塗りこめられ、さらにその上に金箔が押されていた。菩薩像は金粉、銀粉で描かれ、御堂は瑠璃玉と螺鈿(らでん)が散りばめられていた。この螺鈿に用いられる夜光貝は、琉球以南でないと取れない物である。これらは陽光に照らされると、光り輝いて見えたと云う。これを見た人々は平泉の栄華と、藤原氏の力に瞠目したであろう。中尊寺建立の目的は鎮魂だけでなく、京都の文化を取り入れ、それを東北に根付かせる事、そして、奥州の王者としての清衡の実力を見せ付ける為のものでもあった。


この藤原氏の財力の源となっていたのが、当時の奥州で豊富に算出していた砂金と、海外貿易による利益である。藤原氏は、蝦夷地や大陸の沿海州と交易を行っており、それを通じて北方の豊かな産物を手にしていた。また、博多を通じて中国とも交易を行っており、その砂金をもって、白磁や経典などを取り入れていた。奥州の豊かな産金については、中国の史書にも書き残されており、それがやがてマルコ・ポーロの耳にも入って、黄金の国ジパングの伝説を生んだと云われている。奥州産の砂金や駿馬は京都にも運び込まれ、その代価として京都の様々な文物が平泉へと運ばれていった。
奥州産の駿馬は、京都の公家と武家の羨望の的であったと云われている。奥州から運ばれる様々な物品が京都の繁栄を支え、また、その京都から取り入れられる文物が平泉繁栄の基礎となっていた。


大治3年(1128年)7月13日、藤原清衡は73歳でこの世を去り、その跡を基衝が継ぐ。基衝の業績で特筆されるのが、中尊寺を越える大寺院、毛越寺を建てた事である。基衝は、毛越寺の本尊とする仏像を迎えるにあたって、京都の仏師、運慶にその制作を依頼し、そのための礼として、金百両、鷲羽百枚、アザラシの皮60枚、駿馬50疋、白布3千端、安達の絹千疋、その他、様々な物品を船三艘に積んで送り届けたされる。その高価な支度品の数々を見て運慶は仰天し、丹精を込めて見事な薬師如来像を作り上げた。その出来栄えは素晴らしく、それを見た後鳥羽上皇が、洛外への持ち出しを禁じようとしたほどであった。基衝は後鳥羽上皇の妨害をなんとかかわして、無事、仏像を毛越寺に迎え入れたが、その落成を待たずに病に倒れた。


保元2年(1157年)頃、基衝は55歳前後で死去し、その跡を秀衝が継いだ。そして、秀衝は未完成だった毛越寺を完成させて、亡き父に捧げた。秀衝はそれだけでなく京の平等院鳳凰堂を模し、それを超えるとされた無量光院と、政庁である平泉館(柳乃御所)を作り上げた。そして、秀衝自身の居館として、香木の伽羅の木を用いて建てられたとされる伽羅御所も建てられ、壮麗極まる平泉の町並みはここに完成を見た。だが、平和を謳歌する平泉にも、ひたひたと戦乱の足音が近づいていた。その頃、中央では源氏と平氏が激しく競い合っており、その余波が奥州にまで及んで来たのである。平治2年(1160年)1月3日、源氏の棟梁、源義朝は平清盛に敗れ、逃れる途上、配下の裏切りによって殺された。そして、時代は平家の世となり、承安4年(1174年)、義朝の子で、16歳になっていた源義経が、平家から逃れるように平泉に流れ着く。


秀衝は義経を快く迎え入れ、すぐに藤原氏との関係が深い佐藤基治の娘を娶らせたと云う。この佐藤基治の子息、継信と忠信は後に義経に付き従って、共に平家追討に加わる事になる。治承4年(1180年)、源頼朝が鎌倉にて平氏打倒の兵を挙げると、22歳の若武者となっていた義経は居ても立ってもたってもいられなくなり、兄のもとへ駆けつけんとした。秀衝は反対したが、義経の決意が変わる事がないと知ると、佐藤継信、忠信の兄弟と手勢数百騎を付けて、奥州から送り出した。その後の義経の活躍は、多くの人々が知る通りである。


平氏と源氏が激闘を続けていた時、秀衝は局外中立の立場を取った。平清盛から、頼朝を討つ様、要請された事もあったが秀衝は動かなかった。しかし、関東には幾度となく、奥州から兵が雪崩れ込むとの噂が流れていた。実際に奥州から兵が進む事はなかったが、関東の頼朝にとって、どう動くか分からない藤原氏の動向は不気味であった。そのため、頼朝は平氏追討には弟の義経、範頼を差し向けつつも、自らは鎌倉に留まり続けたのである。源平合戦の最中、奥州と関東は戦火こそ交えなかったものの、潜在的には敵対関係にあった。養和2年(1182年)4月、頼朝は、江ノ島にて秀衝を調伏(呪詛)する儀まで行っている。奥州出身の佐藤兄弟らを擁する義経はこの儀には参加しておらず、さぞかし複雑な思いであったろう。


文治元年(1185年)3月、義経は壇ノ浦にて平家を討ち滅ぼし、常勝将軍として京都に凱旋する。人々からもてはやされ、義経は有頂天であった。そして、義経は捕虜とした平時忠の娘を娶ったり、策謀家、後白河法皇に接近して、その親衛隊長の様な役職に就いてしまう。これは頼朝から見れば、義経が平氏政権の基盤を受け継いで、政治的自立を目指しているように映った。両者の間に不信の芽が生えるのにさほどの時間は要せず、やがてそれは、修復不可能な対立へと発展してゆく。頼朝は、義経の所領を全て取り上げた上、同年10月、京都に義経暗殺団を送り込んだ事から、ついに両者の関係は破綻した。これを受けて義経も覚悟を決め、後白河法皇に迫って頼朝追討の宣旨を出させると、叔父の源行家と共に挙兵を図った。


しかし、所領を失っていた義経には確固たる基盤がなく、従う者はほとんどいなかった。一方の頼朝は自ら大軍を引き連れて、義経征討に向かわんとしていた。追い詰められた義経は船で九州に渡り、そこで再起を図ろうとする。だが、嵐によってそれも叶わず、仕方なく畿内各地を流浪する身となった。同年12月、頼朝は京都に北条時政を送りこみ、後白河上皇に、頼朝追討の宣旨を出した責任を追及すると、上皇はすぐさま変節して義経追討の宣旨を出した。頼朝は上皇の弱味に乗じて、全国に守護、地頭を設置させる権限まで獲得した。この年、義経は栄光と所領の全てを失ったが、その反面、頼朝は政権基盤を大いに強化する事に成功した。


奥州藤原氏と平泉2に続く・・・


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