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「エルベを目指せ!」 残存ドイツ軍、決死の脱出行 1

1945年4月、第二次大戦末期、ドイツの首都ベルリンは、ソ連軍の大波に飲み込まれようとしていた。4月20日にはベルリンを守る最後の防衛線、ゼーロウ高地も突破され、最早、ソ連軍の進撃を阻む物は何一つ存在しなかった。ゼーロウ高地を守っていた、ドイツ第9軍(司令官ブッセ中将)は3つに分断され、「止まって死守せよ」とのヒトラーの命令を無視して、それぞれ別方向へと撤退していった。



ブッセ中将は、第9軍の中で最も大きな集団を率いて、南西方面へと逃れた。この集団には第9軍以外にも、ばらばらになった諸師団の残兵や民間人なども加わって8万人余となった。彼らに残された車両、燃料は少なく、食料は皆無だった。それでも西へと向かって前進を続けたのは、ソ連軍に捕らえられるのを極度に恐れていたからだった。ソ連軍の支配下に落ちた都市では、虐殺と婦女暴行の限りが尽くされ、生き残った者も強制労働につかされると聞かされていた。



最早、ドイツの敗北は免れない。それならば、いっそ西側のアメリカ軍に投降しようと彼らは考えた。アメリカ軍は既にドイツ国内に進出し、エルベ川西岸にまで達していた。そのエルベ川に向かうべく、第9軍は、ベルリン南東の広大な森林地帯を進んで行った。だが、森林地帯を通過中、急進撃してきたソ連軍によって包囲されてしまう。前方はソ連のコーネフ元帥の軍が進路を遮り、後方からはジューコフ元帥の軍が迫った。このままでは、第9軍の包囲殲滅は確実かと思われた。



この時、エルベ川東岸には、アメリカ軍に備えていたヴェンク中将以下の第12軍があった。幸い、アメリカ軍は進撃をエルベ川で止めていたので、この軍は手隙となっていた。それを目聡く見つけたヒトラーは、ソ連軍の包囲下にあるベルリンへ向かうよう命じた。ヴェンクは、第12軍の微弱な戦力で、150万人以上のソ連軍の包囲網を打ち破る事など、不可能と見なした。だが、現在、西に向けて敗走中の第9軍と避難民を救う事ならば出来そうだった。ヴェンクは決断を下した。



ヴェンクは作戦を開始するに当たって、兵士達に語りかけた。「諸君にはもう一度、ご苦労願わねばならない。最早、ベルリンが問題になっている訳ではなく、第三帝国が問題になっている訳でもない。戦闘とロシア軍から人々を救う事が諸君の任務なのだ」。これを聞いた兵士達の間には、失われつつあったドイツ軍の精神、「忠誠心・責任感・連帯感」が再び蘇ってくるのを感じた。4月24日、ヴェンク中将統率の下、第12軍は士気高く、東に向けて攻勢を開始した。そして、4月25日、第12軍は、ソ連軍によって占領されていたベーリッツに達するや、直ちに攻撃を加えた。熾烈な攻防が数日続いた後、町の奪還に成功した。そして、第12軍は現代地を固守して、第9軍の到着を待つ方針を取った。



一方、ソ連のコーネフ軍は、高速道路周辺に布陣し、更に東西に走る林道を全て封鎖して、第9軍の突破阻止を図っていた。4月25日、第9軍は僅かに残った戦車31両の中から、70トン級の重戦車、ケーニヒスティーガー10両を先頭に立てて、コーネフ軍の突破を試みた。森林での戦闘は、ハルべと云う村落を中心に行われた。4月26日、第9軍は、重厚なコーネフ軍の部隊間に僅かな隙間を見つけると、そこに突破口を開かんとして突撃した。しかし、制空権を支配しているソ連軍機から爆弾、機銃掃射の雨を浴びせられ、更に地上からも猛烈な銃砲火を加えられて、第9軍は元の地点に押し戻された。



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↑ドイツ軍重戦車、ケーニヒスティーガー



4月26日の夜から27日にかけて、第9軍は南北2ヶ所から、再び突破攻勢をかけた。ドイツ軍が一時、突破口を開いたとしても、そこにソ連軍が猛砲撃を加えてくるので、部隊はたちまち壊滅していった。ソ連軍砲兵や戦車は、ドイツ軍の頭上にある高い樹木を目掛けて砲弾を撃ちかける。そうすると砲弾は樹木で炸裂して、大量の木片、弾片が地上にいるドイツ軍に降り注ぐのだ。死者、負傷者の多くは、突き刺さった木片によるものだった。将校達は戦車の下に潜って地図を広げ、作戦を練った。



森林での戦いにはっきりとした戦線はなく、至る所で凄惨な小戦闘が繰り返された。薄暗い木々の間には濃い煙が立ち込めて、陽光を見る事さえ難しかった。ドイツ兵達はそんな中を、疲れ切った足を引きずりながら歩いて行く。力尽きた負傷兵らが車両の進路上に倒れると、そのまま装甲車両にひき潰されていった。森林戦を戦う中、第9軍は広く分散し、大きな集団はハルべ周辺にあって、後衛の部隊は後を追うジューコフ軍との絶え間ない戦闘に巻き込まれていた。こういった最中にも、ベルリンからは、「第9軍と第12軍は、ベルリンへの救出に向かうべきである!」との指令が出されていたが、両軍団からの返答はなかった。



4月28日、ソ連軍は、ハルベの南から火砲やカチューシャロケットによる猛砲撃を加え、進撃するソ連兵も村落に迫撃砲を撃ちこんでいった。第9軍にはどうする事も出来ず、絶え間なく落下する砲弾によって、人々は千切れ飛んでいった。村落はたちまち、燃え盛る家屋、車両、死体で埋め尽くされ、その上に更に砲弾が降り注いだ。28日夜半、第9軍はこの地獄から逃れるべく、ハルべから必死の突破攻勢を行った。そして、ソ連軍の銃砲火の雨を乗り超えて、とうとう封鎖線を突破する事に成功したのだった。しかし、それは、凄まじい犠牲を払っての成功であった。森林を走る道路上には様々な車両が引っくり返って炎上し、周辺一帯にはおびただしいほどの木片、金属片、肉片が散らばっていた。



森全体が煙に包まれ、その合間に見えるのは大量の死体と、木にもたれ掛かって死に逝く負傷者の姿だった。この惨状は、オイルと血にまみれた道路上に沿って、いつまでも続いていた。第9軍の主力はソ連軍を突破しつつあったが、後衛の2個師団と民間人多数はソ連軍を突破出来ず、ジューコフ軍によって包囲された。ジューコフはこれを、ドイツ軍大部隊を包囲したものと誤認したので、その後の追撃は甘くなった。だが、コーネフの方は、残存ドイツ軍を逃すまいと執念を燃やしていた。そして、樹木を切り倒して道路の封鎖を図り、ドイツ兵を狩り立てるべく、森林の中に歩兵と戦車を次々に送り込んでいった。第9軍は、業火のハルベから脱出したものの、まだ、ソ連軍の陣地全てを抜いた訳では無かった。行く手にはまだ難関が残っているが、第12軍との合流も間近に迫っていた。
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U-869 終

1991年10月10日、アメリカニュージャージー沖、120キロの海域で、1隻の潜水艦が発見された。これはドイツのUボートだった。艦体は真っ直ぐな姿勢を保ち、基本的にはほぼ原型を留めていたが、司令塔は外れ落ち、艦体には穴が空いていた。アメリカのダイバー達は危険を冒して、深さ70メートルの海底に潜り、潜水艦内部を調査した。彼らは下士官居住区に入ってゆくと、何か白い物を発見した。それは頭蓋骨だった。その周辺にも無数の骨が散らばっていた。さらに前部魚雷室へと入ってゆくと、そこからは次から次に人骨が浮び上がってきた。遺骨の多くは、今でも衣服をまとっていた。凄まじく破壊された発令所から、一番離れたこの場所で、数十名の人間が死んでいた。ダイバー達はUボートに乗り込んだ乗員は皆、20歳前後の若者達であった事を知っていた。ここは若者達の墓場だった。


 
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↑海底に沈座するU-869の図解



アメリカのダイバー達が潜水艦を長期間、調査した結果、これはドイツ潜水艦U-869である事が判明した。そして、逆戻り魚雷で最後を遂げた事も明らかになった。ダイバー達は遺骨を荒らさないよう、気を使いながら、幾つかの遺品を持ち帰った。そして、彼らはU-869乗員の遺族を探し出して遺品を手渡し、その最後を伝えようと試みた。


2002年、ダイバー達は、先任士官ブラントの弟、71歳になっていたゲオルクと対面した。ゲオルクは何時間にも渡って、兄ブラントの思い出を語った。兄に連れられて潜望鏡を覗いた事、そして、今でも変わらずに兄が大好きである事を、時折、込み上げてくるものをこらえながら語った。ダイバー達はU-869の遺品である、艦の概略図の入った金属板をゲオルクに手渡した。ゲオルクはそれを指で撫でながら、「信じられない。後生大事にする」と言い、ダイバー達と固く握手を交わした。


ダイバー達は続いて、60歳の外科医、ユルゲン・ノイエルブルクと対面した。彼は艦長ノイエルブルクの息子だった。父が消息を絶った時、まだ3歳だったユルゲンに、父の記憶を思い出す事は出来なかった。しかし、いかに可愛がられ、愛されてきたかという事は母から聞かされてきた。ユルゲンは、母は父を愛し続けて再婚をしなかったと語った。ダイバー達は次にノイエルブルクの兄、86歳になっていたフリートヘルムに会った。フリートヘルムは静かにこう言った。「今、目を閉じて、弟を思い浮かべると、軍務に従事している姿が見えてくるんだよ。弟は自分が戻る事はないと予感していたのだろう。弟は務めを果たした」


翌日、ダイバー達は、76歳の快活な老婦人、ギゼラ・エンゲルマンと会った。魚雷員だったネーデルの婚約者だった女性である。彼女はその後、二度の結婚をし、4人の子供をもうけていた。しかし、人間の人生に真の愛は一つしかなく、その相手はネーデルであったと語った。そして、ネーデルへの思いを夫や子供にも話し聞かせている事、寝室には今でもネーデルの写真が飾ってあり、それを毎日、眺めている事、今まで生きてきて、彼に会いたいと思わなかった日は一度としてなかった事など、延々、数時間に渡って語ったのだった。


ダイバー達が最後に会ったのは、80歳の老紳士、U-869で通信士をしていたグシェウスキーだった。U-869の出港直前、グシェウスキーは肺炎を起こして艦から降りざるを得なくなり、その後、戦争を生き残る事ができた。グシェウスキーは、ノイエルブルクのギターに合わせて歌った事、そして、ブラントの思いやりと笑顔を、22歳にして、乗員達の恐怖や不安を快く受け止めてくれていた事、そして、U-869と仲間達への思いを語った。

「大破して海の底に沈んでいるあの潜水艦を見るのは、私にとってはひどく恐ろしい。私の記憶の中では、あれはいつも新品で力強かったんだよ。そして、私はその一部だった。

私は今でも、仲間達の事が忘れられない。私は神と来世を信じているんだよ。仲間と再会するのは素晴らしいだろうね。多くの若い命が理由もなく奪われた戦争の時代ではなくて、平和な時に彼らに会いたいよ。そういう風に仲間と再会したいなあ」



 
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↑U-869と乗員一同

前列右端がブラントで、その隣がノイエルブルク


主要参考文献、ロバート・カーソン著、「シャドウ・ダイバー 深海に眠るUボートの謎を解き明かした男たち」




U-869 2

10月下旬、U-869は、初の戦闘哨戒任務が迫っていた。

艦長ノイエルブルクは、自宅に帰った。彼には25歳の妻と3歳の息子ユルゲン、1歳の娘ユッタがいた。彼は赤ちゃん日記に、その日の出来事や思った事を書きとめていた。U-869で出撃する直前の日記には、息子に宛ててこう記している。「もうじき、パパはUボートで海へ出てゆく事になるのだけれど、またすぐお前達に会う事が一番の願いだ。だから、それまで無事で、ママとユッタ、ユルゲンの3人でパパを待っていておくれ。そして、陽気な声で「ママ、パパが帰ってきたよ!」と言って出迎えておくれ。そういう時がすぐに来ますように。色々な恐ろしい事が、私の大切なお前達に降り掛かりませんように。たくさんの愛を込めて、父より」


先任士官ブラントは、1日だけ休暇をとって実家に帰った。敬虔なプロテスタントであるブラント一家は、父親の呼びかけで家族全員が居間に集まって祈りを捧げた。父は、軍人として働いている2人の息子の無事を願った。そして、静かな時代が訪れて、再び家族全員が揃って、一緒に食事が取れる事を祈った。ブラントは翌日、U-869へと戻っていった。彼にはまだ数日、休暇を取る資格があった。しかし、彼は、他の乗員に家族とゆったり過ごすようにと、その貴重な数日を譲ったのだった。


11月下旬、ブラントは家族に宛てて手紙を送った。「この手紙が届く頃には、僕はもう出発しているでしょう。今年は僕の中では、頭の中だけで終わってしまうにしても、家族がクリスマスと新年を、明るく楽しく健康で迎えられるよう祈っています。思い返すと、本当に良い家族であったと痛感します。手を組んだ時には、僕の事を思い出してくださいね。再会の日を祈っていてください」


U-869初出撃の日は、1944年12月1日と決まった。

出撃の直前、ノイエルブルクの友人で、医師をしている男が密かな提案をしてきた。それは、ノイエルブルクは現在、病身の身であり、指揮可能な体調ではないと、海軍当局へ届け出ようというものだった。戦争後半、Uボートの多くは任務から帰ってこなかった。それを知っている彼の妻は、この申し出を受けるよう、熱心に夫に勧めた。ノイエルブルクはこの申し出に感謝しつつも、国家及び、乗員に対する義務があるとして断った。


19歳の魚雷員、フランツ・ネーデルは乗員仲間を連れて実家に帰った。婚約者のギゼラは笑顔で出迎え、彼に両腕をまわして抱きついた。しかし、ネーデル達の様子は今までと違っていた。彼らはテーブルについても、黙り込んで目の前を見つめるばかりだった。そして、男達は1人、また1人と泣き始め、とうとう全員が泣き出した。ギゼラの顔からは笑顔が消え、「どうしたの」と尋ねても、男達は泣くばかりだった。ようやく、1人の男が答えた。「俺達は帰ってこないんだ」


11月後半、U-869で通信士をしていたグシェウスキーは勤務中、突如、気分が悪くなって昏倒した。グシェウスキーはすぐさま、病院の集中治療室へと運ばれていった。彼が意識を取り戻した時、医師から肺炎と肋膜炎を併発していると告げられた。U-869の出撃は目前に迫っていたが、彼は残らざるを得なかった。U-869の出撃数時間前、グシェウスキーを見舞いに大勢の乗員が病室を訪れた。


艦長ノイエルブルクはクッキーと花束を渡して、「心配ないよ、君」と言い、先任士官ブラントは笑顔でグシェウスキーの手を取ると、「早く良くなれよ」と言った。そして、多くの乗員が同じようにグシェウスキーを見舞った。彼らの多くは目に涙を浮かべていた。彼らが病室を去って行く時、グシェウスキーは、もう二度と彼らに会えないだろうという気がした。幾人かの仲間の目を見て、彼らも同じように思っている事が分かった。


1944年12月1日、楽隊が演奏を奏でる中、U-869は出港していった。見送る家族は、2、3組だけだったが、乗員達はいつまでもデッキの上で手を振り続けていた。やがて、U-869は雲に覆われた水平線の彼方へと消えていった。U-869はドイツを出てから、ノルウェーのクリスティアンサンに寄港する。そこで、食糧、燃料を補給すると、一路、大西洋の外洋を目指した。U-869の任務は、アメリカのニューヨーク南東200キロメートル付近で、戦闘哨戒にあたる事だった。


U-869が大西洋へ向かうには、アイスランドとフェロー諸島の間を抜けて行くのが最短ルートだった。しかし、このルートは連合軍の警戒が厳しい事から、ノイエルブルクはここを通過するのを避けた。そして、U-869の進路を大きく北に取ると、警戒が手薄なアイスランド北方のデンマーク海峡を通過するルートを取った。ノイエルブルクが艦長として最初に下した決断は、乗員を危険から守るためのものだった。


しかし、この措置は、Uボート司令部にとって好ましいものではなかった。遠回りしてデンマーク海峡を通過すると、その分だけ作戦海域で働く日数が減るからだ。ニューヨーク沖で14日間、滞留するためにUボートを100日間も走らせる事になる。この比率は、受け入れられるものではなかった。そこで、司令部は命令を変更し、U-869に対し、ジブラルタル沖(地中海の出入り口付近)に向かうよう指示した。そこならば、より長期間、哨戒活動する事が期待できたからだ。しかし、何らかの理由でこの命令は、U-869には届かなかった。大気の状態が悪く、無線を捉えられなかったと考えられる。U-869はそのままニューヨーク沖を目指し続けた。


1945年2月、アメリカ沿岸に近づくと、U-869はシュノーケルを使用して、常時潜航しながらニューヨーク沖を目指す。アメリカ軍諜報部は暗号解読によってU-869の接近を察知し、予想出現海域に対潜部隊を送り込んで捜索させた。だが、対潜部隊は情報を掴んでおきながら、U-869を撃沈するどころか、発見する事すら出来なかった。連合軍の優れた捜索能力を知るノイエルブルクは、可能な限り潜航状態を維持しながら、目的海域に向かったのだろう。この措置は、乗員にとっては非常に苦しいものであったが、追跡の目を逃れるためには致し方なかった。U-869はアメリカ軍の厳重な警戒の目を掻い潜りながら、獲物を探し求める。そして、ついにノイエルブルクは敵船を発見した。U-869は戦闘配置に付き、ノイエルブルクは潜望鏡で敵船を睨みつつ、命令を発した。「一番魚雷発射用意、発射!」


ドイツ軍には音響追跡魚雷と言う、スクリュー音を捉えて敵艦を追跡する魚雷があった。当時としては非常に優秀な魚霊であるが、発射した自艦のモーターや発電機の音を捉えて、逆戻りする事例もあった。この音響追跡魚雷に限らず、通常の魚雷でも逆戻りして、艦体の上や下を通過するといった事例は、多数のUボートによって記録されている。その逆戻り魚雷の中でも音響追跡魚雷は特に危険で、発射後、すぐに潜航するのが決まりだった。そして、U-869が発射したと思われる音響追跡魚雷も、なんと、自艦に向かって接近してきたのだった。だが、現場は浅い海域で、急速潜航を試みると海底に激突してしまう。魚雷のスクリュー音がみるみる迫ってくるが、乗員達は運を天に委ねる意外、手は無かった。


しかし、運命の神は、U-869を見放した。魚雷は艦中央部に激突し、乗員全員が信管が起動するカチッと言う音を聞いた。魚雷は司令塔直下で炸裂、発令所付近にいたノイエルブルクやブラントらは爆散し、凄まじい衝撃波は隣接する区画の男達も吹き飛ばした。衝撃波はそのまま潜水艦の両端に向かって突き進み、鋼鉄のハッチを吹き飛ばしながら、最前部の魚雷室と最後部の魚雷室まで及んだ。間髪置かず、破孔から海水が浸入し、U-869は5分と経たずに深度70メートルの海底に沈んでいった。生存者はいなかった。


ドイツ当局はU-869がアメリカに向かっていたとは知らず、公式記録にはU-869はジブラルタル沖で撃沈されたと書き記された。


U-869 終へと続く・・・

U-869 1

1944年1月26日、ドイツ、ブレーメン造船所にて、1隻の潜水艦U-869が竣工した。

このUボートはⅨC型、大型で航洋性に優れた型である。

全長76メートル 

全幅6・8メートル 

水上排水量1100トン 

航続距離12ノットで1万1千海里 

水上速力18・2ノット 

水中速力7・3ノット 

53センチ魚雷発射管6門(艦首4門・艦尾2門)


このUボートに乗り込んだ乗員は56名、10代の者が24名乗り組んでおり最年少は17歳、平均年齢は21歳だった。彼らの多くは、戦争前半のUボートの活躍に触発されて、志願して潜水艦乗りとなった者達だった。1939年から1943年中盤まで、Uボートは、技術的、戦術的優位にあって、連合軍商船を次々に海の藻屑にしていった。だが、若者達が軍に入隊し、訓練を重ねてようやく実戦につこうとしていた時期、1944年には、Uボートを巡る状況は一変していた。連合軍は大量の航空機と駆逐艦を投入してUボートの活動を押さえ込み、さらに暗号解読や無線探知によってUボートの位置を特定し、そして、レーダーを始めとする電子兵器でUボートを確実に捉えて、撃沈していった。


1939年開戦当初、Uボートに乗り組んでいたのは、徹底的な訓練を重ねた精鋭ばかりだった。しかし、激戦を経て精鋭達は海に沈んでゆき、1943年以降、戦局が下り坂を迎えると、Uボートに乗り組むのは、経験の乏しい新兵ばかりとなっていた。彼らは短縮された訓練期間を経て、圧倒的な連合軍が待ち受ける戦場に送り出されて行き、その多くは帰って来なかった。戦争末期、前線に赴いたUボートが帰還できる見込みは50パーセントで、乗員の余命は60日余だったと云う。だが、Uボート乗員達は戦争に敗れる事が分っていても、自らが帰還できる見込みが非常に小さい事も覚悟の上で、前線に赴いていった。


U-869は竣工後、乗員を乗せて、すぐさま訓練に取り掛かった。乗員達は徐々にUボートの慣習に慣れていった。士官同士はお互いをファーストネームで呼び合い、艦内では士官に敬礼をせずともよかった。潜水艦任務は1人のミスが即全員の死に繋がる、彼らは運命共同体だった。訓練を重ねているうちに自然と、絆が生まれていった。

艦長はヘルムート・ノイエルブルク、27歳、ノイエルブルクは長身で鋭い目をしており、威厳に満ちて態度に気品があった。どのような状況にあっても常に冷静であり、規律ある軍人の手本ともいえる人物だった。しかし、ノイエルブルクにとって、今回が初のUボート艦長であった。乗員達は当初、ノイエルブルクの能力を疑ってかかったが、彼の献身的な仕事振りと優れた能力を目の当たりにすると、次第に信頼を寄せるようになった。


1944年夏、ノイエルブルクは乗員達のために、艦内で祝賀パーティを開いた。しかし、ノイエルブルク自身は酒を飲まず、酔った乗員達を観察して、その言動に耳を澄ましていた。ノイエルブルクは酒の席で彼らを試し、人間性を探っていた。意図を悟った乗員の中には、そのやりかたに不満を憶える者もいた。ある日、ノイエルブルクは乗員達を散歩に誘い、皆にビールを配った。ノイエルブルクは乗員達を円を描くように座らせると、自分はギターを手に取って見事な演奏を始めた。


乗員達は、艦長に音楽的な才能がある事を知って驚いた。しかし、今度は、ノイエルブルクが乗員を試しているようには見えなかった。何故なら、彼は心から楽しんで歌い、演奏していたからだ。ノイエルブルグは幼い頃から音楽的な才能があり、周りの人間も自分自身も、その道に進むものと思っていた。しかし、戦争が勃発すると、彼は国家のため、軍人の道を進んだ。


ノイエルブルクは部下に対して厳格であり、艦内においては尊敬と恐れの対象だった。乗員達は、ノイエルブルクが余りにも熱心に仕事に取り組むのを見て、彼がナチスに傾倒しているのではないかと思った。しかし、彼の心情は反ナチスだった。ノイエルブルクは兄、フリートヘルムにだけは本心を打ち明けていた。ノイエルブルクは兄に、「ドイツを破滅へと向かわせているのはナチスである」と言い放ち、嫌悪感を隠さなかった。


それを聞いてフリートヘルムは驚き、たじろいだ。ナチスが聞き付けたなら、処刑されかねない言動だった。兄は、「誰が聞いているかわからないんだぞ!そのような事は口にするんじゃない」と弟に釘をさした。U-869の就役直前、ノイエルブルクはフリートヘルムと会う機会があった。その時、ノイエルブルクは兄の目をジッと見つめ、ポツリとこう言った。「ぼくはもう、帰ってこないだろう」


先任士官は艦長に次ぐ地位である。その先任士官はジークフリート・ブラント、22歳が務めた。ブラントは小柄で、温かみのある目をしており、笑顔を絶やす事はなかった。ブラントは気さくな人柄だったが、自分に対してはどこまでも厳しく、そして、自ら率先して動く男だった。乗員の誰もが、彼に親近感を覚えた。艦長と先任士官の性格は正反対だったが、お互いの能力、人格を評価し、信頼しあっていた。


ブラントは、早くから心の真っ直ぐな人として知られていた。高校時代、彼は親友と2人で誓いを立てた。これからはプロイセン人としての規範に従い、自制心、秩序、公平、寛容、信頼、誠実に重きをなして行動すると自らに定めた。ブラントは、ヒトラーとナチスを不信の目で見ていた。ブラント一家は敬虔なプロテスタントであり、その信条はナチスとは合いあわないものだった。そのため、ナチスとブラント一家は緊張状態にあった。しかし、ブラントは、軍にいる自分は大きな機械の歯車にすぎないと、諦めに似た考えを受け入れていた。


1944年夏、ブラントは13歳になる弟、ゲオルクをU-869に招待した。ゲオルクは、初めて見るUボートの精悍な姿に感激した。ゲオルクは艦長ノイエルブルクと握手した後、兄に連れられて、機械でゴツゴツした艦内に入っていった。艦内では機関室、通信室、魚雷室に案内され、潜望鏡を覗く事も出来た。ゲオルクにとって、それまでの人生で最高の感動と興奮を味わえた日だった。そして、この時ほど兄を誇りに思った事はなかった。


フランツ・ネーデルは、19歳の魚雷員だった。ネーデルには、ギゼラという18歳にある将来を誓い合った恋人がいた。2人が出会ったのは1940年、ネーデルが15歳の時、ギゼラが14歳の時だった。ネーデルは、彼女の自由な考えや激しい気性が好きだった。ギゼラは、彼の思いやり深いところが好きだった。ネーデルはナチスを崇拝していたが、ギゼラは嫌悪していた。その事を巡って度々、口論となったが、それでも2人は愛し合っていた。ネーデルがUボート乗員を熱望していると知ると、ギゼラは、「あれは泳ぐ棺おけよ!」言って必死になってそれを止めようとした。しかし、ネーデルの決意が変わる事はなかった。ネーデルは海軍に入隊し、訓練を経てU-869に乗り組んだ。そして、前部魚雷発射管のハッチに、ギゼラの名前を書き込んだ。


 
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↑U-869の就役式 機関砲の側で敬礼しているのが、艦長ノイエルブルク


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に続く・・・

Uボートの生活

Uボートとは、第一次世界大戦と第二次大戦時に活躍したドイツ潜水艦の総称である。特に第二次大戦時の活躍は有名で、多数の連合軍船舶を撃沈して、全世界に勇名を馳せた。だが、輝かしい戦果の裏側で、Uボート乗員の苦労は一方ならぬものがあった。その乗員の苦労の一端を紹介していきたい。


1933年、ドイツ海軍の軽巡洋艦カールスルーエは世界周航の最中、アメリカのハワイを訪れた。この時、軽巡に乗り込んでいた士官候補生ラインハルト・ハルデゲン(後に船舶25隻、13万6千トンを撃沈する事になる第二次大戦のUボートエース)は、ここでアメリカ潜水艦を見学した。潜水艦内部に入ると、パイプや計器類が所狭しと張り巡らされており、居住区は信じられないくらいに狭かった。


しかし、ハルデゲン自身が後にUボートに乗り込むと、あの時のアメリカ潜水艦の居住区は、考えられないくらいに広く快適であったと述懐した。アメリカ潜水艦には士官室、大きな調理室、リクリエーションスペース、数箇所の便所、全乗員にベッドが割り当てられていた。しかし、Uボートにはリクリエーションスペースなど存在せず、乗員44~60人余に対して、便所は一つか二つあるだけだった。ベッドは固有の物ではなく、乗員が昼間と夜間に交代して使用するので常に暖かく、ホットベッドと呼ばれていた。


Uボートは量産性を重視して設計されており、他国と比べると小柄な船体にまとめられていた。その小さなスペースに計器類や魚雷を最大限、搭載した戦闘本位の艦であり、快適に生活出来るよう設計されたものは、何一つ存在しなかった。ある乗員は、「まるでパイプの中に住んでいるようだった」と述べている。出航直前の乗員達は生き生きとして髭もきれいに剃っているが、航海を続けていると、潜水艦乗り特有の青白い顔つきになり、髭は伸び放題になる。乗員は非番の時には、持ち込んだ古雑誌を回し読んだり、喋りあったりして過ごしていた。


潜水艦の最大の武器は、なんといっても魚雷である。Uボートの任務にとっては、食料の搭載よりも魚雷の搭載の方が重要だとされており、出撃する際には、規定数を超えて詰め込めるだけ詰め込んでいた。魚雷はベッドにも積み込まれるので、乗員はそれに寄り添って寝る事になる。魚雷は高度な技術を要する精密兵器であり、値段も非常に高価であった。当時の軍用車フォルクスワーゲン1台の値段は1千ライヒスマルクであったが、ドイツの電気魚雷G7eの値段は1本あたり4万ライヒスマルクもした。日本円に直してみると、フォルクスワーゲン1台が100万円で、魚雷1本が4千万円といったところだろうか。


魚雷内部の繊細な誘導装置や推進機構は、容易に損傷し得るものだった。それをいつでも使用可能な状態にするには、3日もしくは5日の間隔で点検と調整を必要とした。調整に当たる乗員は、発射管に収められている魚雷を慎重に取り出してから、点検、調整をする事になる。長期の航海では1日1本ずつ点検が行われたが、荒天時には大変、危険を伴う作業となった。魚雷は精密機器であるので、荒天で揺り動かされようとも、壁にぶつける訳にはいかなかった。それに、魚雷はただ1本で艦船を撃沈しうる大変な危険物であり、ふとした衝撃で爆発しないとも限らなかった。そのため、調整員は、魚雷が揺れる度、自分の身を挺して止めたので、怪我をする者が絶えなかった。


食料は、鋼管の中、甲板の上下、通路、便所、居住区といったあらゆる箇所、あらゆる隙間に詰め込まれた。生鮮食料の多くは頭上の網に吊るされるので、ただでさえ狭いハンモック上の空間は半分になる。乗員は、パンやソーセージの詰まった袋に頭を埋め、果物の詰まった竹かごに足を乗せて寝た。食料の大体の内訳は、ハム、ソーセージ、リンゴ、葡萄、焼きたてのパンなどの生鮮食料と、肉、野菜、バター、卵、果物、パンなどが詰まった缶詰である。また、壊血病予防のため、いたる所にレモンが詰め込まれていた。Uボート乗員の生活が過酷であるのは皆が承知であるので、ドイツ国防軍の中でも最良の食料が配給されていた。


出航前の潜水艦は綺麗に清掃され、内部には焼きたてのパンと果物の香りが立ち込める。しかし、出航して1週間も経つと食べ物は腐り始め、その腐敗臭と、油、汗、小便、電池のガス、湿気の多い空気とが入り混ざった異様な臭気に変わる。2週間も経てば艦内は、下水道の中に居るのと変わらない状況となった。更に3週間経つと、主食である黒パンにソーセージ、レモンなども厚いカビに覆われるので、乗員はパンの真ん中だけを食べた。それでも、1日3回温かい食事は出されていたので、東部戦線で冷え切った粗末な食事を取っている兵士よりは、まだ恵まれていた。だが、乗員達にとって何よりのご馳走は、食事ではなく敵船舶を喰らう事であった。これを喰らうと乗員の士気は高まり、汚れた艦内生活さえ苦にはならなかった。


Uボートが敵船を撃沈すると、情報収集目的で1人か2人は救出する事はあるが、相手の乗員全てを救出する事はない。救出活動自体が自艦を危険に晒す事につながる上、狭い艦内に捕虜を収容する余裕などまったく無いからである。だが、敵船から救命ボートが降ろされた場合、Uボートがそれを攻撃するような真似はしなかった。ドイツ海軍では、救命ボートに乗った漂流者を殺戮する事は基本的に容認できないとされており、Uボートが漂流者に向けて機関銃を掃射したのは、一度の事例を除いて確認されていない。それに対して、アメリカ潜水艦が日本船舶を撃沈した場合、度々、漂流者や救命ボートに向けて容赦なく機関銃を掃射していた。


潜水艦では、ハッチの閉め忘れ、弁の誤回転、電池の誤配列、敵艦船や航空機の見落としが即、全乗員の死につながる。乗員1人1人の果たす役割は重要であり、潜水艦ほどチームワークが要求される兵器はなかった。士官、下士官達は魚雷、ディーゼル機関、電動機、操舵、潜望鏡などの専門家であり、その他の乗員達もそれぞれ特殊な技能知識を持っていた。乗員達はお互いの能力を信頼しあい、篤い友情を培っていた。長期間、狭い空間の中で共に不自由、危険、恐怖、喜びを分かち合うので、自然に兄弟のような一団になっていった。Uボートの頭脳たる艦長には、乗員達を束ねる統率力、状況を素早く正確に見極める観察眼、敵に立ち向かっていく攻撃精神が要求される。潜水艦が任務を成功し得るかどうかは、多分に艦長の力量に左右された。撃沈を重ねた艦長は乗員の信頼を得て士気も上がったが、逆に戦果を挙げられない艦長には失望し、士気も低下した。


潜水艦の任務は過酷であったが、その分、報酬も高額であった。Uボートが潜航した日には、給料が跳ね上がった。また、Uボートが西経20度を通過し、最前線に出れば、危険任務手当てが出て、それはロリアン(フランスにあるUボート基地)に帰投しだい支払われる事になっていた。その金で彼らは、フランスで神のような生活が出来たのだとか。Uボートが過酷な戦闘哨戒任務を終えて基地に帰投すると、軍楽隊が演奏を奏でて勇者達の帰還を祝う。他のUボート乗員や基地要員達は、桟橋から手を振ってこれを出迎え、上陸した乗員には婦人や少女達から花束が手渡される。乗員達は久方ぶりに陸地を踏みしめて、ようやく心から安堵するのだった。顕著な戦果を挙げた艦長ならば、ここで司令長官から勲章を授けられた。


乗員達は陸上に上がると、大抵、盛大なパーティを開く。明日をも知れない身であるので、生ある内に存分に楽しもうという思いからだった。それに、彼らは特別待遇を受けており、多少羽目を外したとしても、憲兵からは大目に見られていた。だが、帰投したUボートが整備と準備を終えると、再び危険な海域へと向かわねばならない。軍楽隊は歓送の音楽を奏で、基地からは成功を祈る群衆が手を振って見送る。Uボートの乗員達はそれに応えながら、大海の彼方に消えて行くのだった。


大戦を通じてUボートは、連合軍船舶を2880隻、1440万総トンを撃沈し、それに加えて連合軍艦船175隻、80万トンを撃沈した。連合軍商船の乗員は、5万人が戦死した。Uボートは大戦中1114隻が就役したが、喪失数も817隻に上った。Uボート乗員3万9千人の内、戦死した者は2万8千人、捕虜となったのが5千人だった (上記の数字は資料によって差異がある)。


大戦中、Uボート部隊を一貫して指揮していたのは、カール・デーニッツである。デーニッツはUボート部隊創設の父であり、潜水艦の特性を熟知した卓越した指揮官でもあった。デーニッツはこう述べている。「開戦時にUボートが、300隻あれば、イギリスを屈服させ得ただろう」と。これは決して大言壮語ではなく、事実であろう。戦争後半になって、ようやくデーニッツは300隻余りのUボートを手にしたが、全ては遅すぎた。戦機に適切な量を投入出来なかったため、勝利を逃したのである。これはデーニッツの罪ではなく、ドイツ軍上層部の無理解によるものであった。


当時のイギリス首相、ウィンストン・チャーチルはこう述べている。「私が真に恐れていたのは、Uボートの脅威であった。ドイツはこれに全てを賭けていた方が賢明であった」




↑Youtube動画 映画Uボートのワンシーン 音楽が勇壮でとても良いです!


 
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