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満州国と虎頭要塞 前

中国東北部、黒竜江省虎林市虎頭鎮、ここはロシアと接する辺境の地で、付近には大河アムールに繋がる支流、ウスリー川が滔々と流れている。この地域には雄大な自然が残されており、厳寒期は深い静寂に包まれる。しかし、ここは、第二次大戦末期、砲声轟く激戦地であった。それを物語る戦跡の数々が、ウスリー川西岸にある高地に残されている。そこには巨大なコンクリートの砲座や塹壕の跡が残されており、錆びた銃砲弾も所々に散らばっている。また、高地の麓には地中深く掘られたトンネル網があって、人知れず人骨も埋もれている。かつて、ここには日本が築いた大要塞があった。それも、圧倒的なソ連軍相手に徹底抗戦した日本軍将兵達の玉砕の地である。その名を虎頭要塞と言う。 
 
 
何故、このような辺境の地に日本軍の大要塞が作られたのか?その経緯から説明しておきたい。虎頭要塞が存在する黒竜江省を始め、遼寧省、吉林省を合わせた地域は、現在、中華人民共和国の支配する所で、その東北部と呼ばれている。だが、かつてこの地は満州と呼ばれており、ツングース系や、モンゴル系の北方騎馬民族の勢力範囲であった。そして、この満州からは、漢民族以外の国家である、高句麗、渤海、遼、金などの大国を生み出している。その中でも最大の勢力が、ツングース系の女真族が立てた清である。清は満州から勃興して、やがて中国大陸をも飲み込んだ。しかし、数百年の歳月を経て清も衰えると、1911年の辛亥革命によって倒された。代わって漢民族による中華民国が打ち立てられ、清の領域を継承すると宣言したが、それは大軍閥の力に頼った非常に不安定な政権だった。中央の支配が行き届かないため各地に軍閥が割拠する事態となり、満州も馬賊出身の張作霖が支配する所となった。 
 
 
1905年の日露戦争から満州に権益を持つようになっていた日本は、この張作霖と組んで権益の保全を図る。しかし、張作霖は中央政局に介入しようとして失敗し、日本とも距離を置き始めたため、1928年、満州駐留の日本軍、すなわち関東軍によって爆殺された。昭和6年(1931年)、関東軍は満州の確保を確実なものにせんとして、軍事行動に打って出た。張作霖の跡を継いでいた張学良の軍を撃ち破って、満州の主要都市と鉄道沿線を制圧した。これが満州事変である。そして、翌昭和7年(1932年)には、清朝の血を引く愛新覚羅溥儀を立てて、満州国を建国するに至った。だが、米中などは、満州国は日本の傀儡国家であるとして、これを認めようとしなかった。満州国は日本人・漢人・朝鮮人・満洲人・蒙古人による5族協和による国民国家であると謳われていたが、実態は確かに日本の強い影響下にあって、その戦時経済に供するために建国されたものだった。しかし、そうであったとしても、中国やアメリカにそれを非難するほどの大義名分や論拠があったとは思えない。 
 
 
そもそも漢民族の勢力範囲は、北方騎馬民族の脅威から身を守る為に自らが築いた万里の長城までであって、その以北にある満州は漢民族の支配の及ばぬ地域であった。ここに漢民族が大量に流入するようになるのは、清朝末期の20世紀初頭からである。少数民族が雑居する人口希薄な満州に漢民族は洪水の様に押し寄せて、たちまち圧倒的多数派となった。こうして住み着いた漢民族の居留をもって、自国の領土であると主張し始めたのである。国家の成り立ちまで書けばきりがないのであるが、アメリカ自体、元々アメリカ大陸に住んでいた先住民を虐殺し、追い散らして成り立っているのであって、その後も帝国主義の風潮に乗っ取ってフィリピンやハワイを併合して来ている。そして、更なる利権獲得を狙って中国にも手を伸ばしてきたのであるが、その最大の競争相手となるのが日本であった。ここから日米の対立が始まるのである。 
 
 
日本は、米中との軋轢が深まったとしても、日露戦争以来、大量の血と国富を費やして手に入れた、満州の利権を手放すつもりなど毛頭無かった。この地を領域に組み込みたいのはやまやまであったが、日本にもそれを正当化するだけの論拠がなかったため、新国家を建設して間接統治するに留めたのだった。このまま何事もなく数十年の時を経れば、戦後のイギリス連邦諸国の様に、満州国も日本の手を離れて自立していったかもしれない。だが、風雲急を告げる国際情勢がそれを許さなかった。日本は来るべき事態に備えて、満州に莫大な投資を始める。そして、鉄道、道路、橋を敷設して社会基盤を整え、巨大ダムを建設して電気を起こし、田舎町を工業都市へと生まれ変わらせていった。高度な技術を要する、戦車や航空機の製造すら可能となった。こうして満州は短期間で飛躍的な発展を遂げ、日本の国防上、経済上からも決して手放せない土地となる。 
 
 
張作霖などの軍閥は、住民に重税を課して内戦に明け暮れるばかりで、産業への投資などはほとんど行わなかった。そうであったから治安は乱れ、馬賊や匪賊が跋扈する無法地帯となっていた。それが日本の軍事力によって、満州全土に蔓延っていた匪賊や馬賊は討伐されて、治安も大幅に改善される事となった。軍閥支配下にあった時代より、満州が住み良い環境になったのは確かであろう。こういった満州の発展を尻目に、中国本土では、国民党と共産党が果てしない内戦を繰り広げて、国土を荒廃させていた。しかし、満州事変を一つの切っ掛けとして、これらの勢力は抗日を叫んでアメリカやソ連に支援を仰ぐようになる。そして、満州にも国民党や共産党の勢力が侵入して、権益を脅かす事態となった。当初、日本は長城以南は中国固有の領土であるとして自制していたが、中国側の度重なる挑発行動に堪えかねて、ついには長城線を越えて作戦を実施するようになった。結果論となるが、日本は軍部の独走を抑えこんで、進出を満州までで止めておくべきであったし、それ以前から諸外国と協調しつつ利害の調整をしておくべきであったろう。こうして日中は、なし崩し的に全面衝突に向かう事になる。 
 
 
だが、満州に最大の脅威を与えていたのは交戦相手の中国ではなく、北方の大国ソ連であった。共産主義のソ連と日本は相容れない関係で、1917年にロシアで社会主義革命が起こると、それがアジアにも波及する事を恐れて日本は干渉戦争も行っている(シベリア出兵)。それ以来、ソ連と日本は緊張状態にあって、特に強権的なスターリン時代になると、ソ満国境において紛争が頻発するようになる。そして、昭和13年(1938年)には張鼓峰事件、翌昭和14年にはノモンハン事件といった大規模な軍事衝突も起こった。これ以降もソ連は極東の軍事力を強化し続け、その戦力は満州駐留の日本軍の倍以上となった。このソ連の脅威から、かけがいの無い満州を守るべく、日本は国境の要地に多数の要塞を建設する事を決した。その一つとなるのが、虎頭要塞である。この要塞は、満州東方からのソ連軍侵攻に備えて、ソ満国境沿いを流れるウスリー河西岸の高地上に建設が決まった。 
 
 
工事は昭和9年(1934年)から始まり、昭和13年(1938年)に完成を見る。それと同時に30センチ榴弾砲2門、24センチ榴弾砲2門、15センチ加農砲6門が備え付けられ、その他にも順次、多数の野砲、高射砲、速射砲が運び込まれていった。その中でも極めつけが、41センチ榴弾砲1門である。この巨砲はコンクリートの覆いで守られ、約1トンの砲弾を20キロ先まで飛ばす事が可能だった。それと、フランスから購入した24センチ列車砲1両も配備されており、その射程は最大50キロにも達していた。これらの要塞砲は対岸のソ連領、イマン市(現在名ダリネレチェンスク)を睨んでおり、極東ロシアの生命線とも言えるシベリア鉄道と、それが走るイマン鉄橋をも射程に収めていた。要塞の主陣地は中猛虎山で、他に虎北山、虎東山、虎西山、虎粛山の5つの地下陣地で構成されていた。これらの要塞陣地は交通壕で連結しており、相互支援が可能である。 
 
 
要塞の規模は東西10キロ・南北4キロを誇り、重要箇所は厚いコンクリートで固められた。しかも、周囲は沼沢地という天然の要害である。そして、1万2千名の兵員が着陣して、鉄壁の守備を誇った。しかし、昭和16年(1941年)の太平洋戦争開戦とその後の戦況悪化に伴って、満州の関東軍の戦力は順次、太平洋戦線に引き抜かれていった。そして、戦争末期の1945年8月を迎えると、満州防衛の切り札で、かつて精鋭を謳われた関東軍も著しく弱体化し、今や張子の虎と化していた。虎頭要塞もその例から漏れず、兵員を大幅に減らされて自己防衛すら困難になっていた。一方、ソ連は1945年5月のドイツ降伏を受けて、大量の兵員、戦車、火砲をヨーロッパ戦線から極東に振り向けつつあった。ソ連は、日本との間で結ばれていた日ソ中立条約を破棄して参戦する決意を固めていた。それを一言で表現すると、「瀕死の病人から財布を奪い取る」ためであった。 
 
 
満州は広い。その面積は110万平方キロもあって、日本の国土の3倍もある。関東軍もソ連の参戦は近いと肌で感じていたが、弱体化した戦力で広大な満州を守る事は不可能であると判断し、ソ連軍侵攻の際には満州の三分の二を放棄して、朝鮮半島から程近い南部の通化に主力を結集して戦う方針を定めた。この方針自体は間違っていないが、問題なのはその侵攻時期の予測であった。昭和20年夏、国境付近にソ連軍が充満し、いつ何時、砲火が撃たれるか分からない状況だったにも関わらず、関東軍首脳はソ連参戦は9月以降と考えて、国境付近の居留民に対してなんの避難勧告も出さなかった。また、国境を守る守備隊にも、ソ連軍を刺激しないよう指示するのみだった。この緊迫した時期、虎頭要塞でも、守備隊長の西脇大佐が作戦会議に呼ばれて不在となった。関東軍が、ソ連軍の侵攻時期を見誤っていた何よりの証左である。 
 
 
1945年8月9日午前1時。この夜は、満州各地で雷雨が降り注いでいた。だが、突如、雷鳴をも打ち消すほどの轟音が響き渡った。それはソ連軍による一斉砲撃であった。侵攻ソ連軍の規模は、兵員157万人、火砲26,000門、戦車、自走砲、装甲車合わせて5,500両、戦闘機、爆撃機合わせて3,400機、それに海軍艦艇とその作戦機1,200機も加わる一大戦力であった。これに対して関東軍は、兵員70万人(その内10万人は丸腰)、火砲5,360門、戦車200両、航空機350機でしかなかった。圧倒的なソ連軍の攻勢を前にして、満州の150万人余の日本人居留民の命が危機に瀕した。この様な状況にも関わらず、全満州の責任を負うべき関東軍の高官の中には、家族を連れて逸早く本土に逃げ帰る者も現れる始末であった。だが、その一方、居留民の後退を助けるため、ソ連軍に敢然と立ち向う日本軍部隊もいた。満州東部の要衝、虎頭要塞もその一つである。 
 
 
虎頭要塞はソ連軍の不意討ちを受けた上、要塞守備隊長の西脇大佐も作戦会議で不在であったため、当初は混乱も生じたが、砲兵隊の指揮官であった、大木正大尉が臨時の守備隊長となって現場を統制する。この時の要塞兵力は僅か1,500人で、しかも、その内600人は緊急動員の新兵であった。要塞には、近隣から避難してきた居留民500人余も入る。しかし、要塞正面のソ連軍の規模は兵員6万人、火砲950門、戦車・自走砲166両という10倍以上の戦力であった。ソ連軍の浸透により虎頭要塞は早々に味方戦線から切り離されたが、将兵達はあくまで戦い抜く決意を固めていた。ソ連軍の重砲の砲撃は、午前1時5分から午前5時まで続き、それに合わせてウスリー河を渡河したソ連軍が侵入を開始する。最前線で監視にあたっていた小部隊は、ソ連軍に包囲されて次々に全滅した。


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↑満州沿線図(ウィキペディアより)

地図の右下辺りにある虎頭に要塞があった。

地図の左下辺りにある山海関から満州国との国境に沿って、万里の長城がある。この万里の長城以南が長らく、漢民族の領域だった。



 
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ノモンハン事件

1939年、ヨーロッパにおいて緊張が高まり、第二次大戦が勃発しようとしていたこの年、極東でも、日本とソ連が一触即発の緊張状態にあった。ソ連の影響下にあるモンゴル人民共和国と、日本の影響下にあった満州国が、両国の境目にあるノモンハン周辺の帰属を巡って対立を深めていたのである。5月、モンゴルの国境警備隊が、日本側が国境線と主張するハルハ川を渡って越境する事件が起こった。これに対して現地の日本軍は断固たる処置を取る事を決定し、航空隊による爆撃を加えた。これを受けてソ連軍は大挙出動し、日本軍も大部隊を送り込んで、事態は抜き差しならないものとなっていく。この紛争の表向きはモンゴルと満州国との対立であるが、実際にはソ連と日本の勢力争いであった。


この紛争では両国共、多数の戦闘車両を投入して、戦況の推移に大きな影響を与えた。ソ連軍の主力戦車はBT-5で、重量11・5t、長砲身の45mm砲を搭載、速度52km、装甲は主要部で13mm。準主力のBA-10装甲車は、重量5・1t、長砲身の45mm砲搭載、速度53km、装甲は8mm程度。ソ連軍の装甲車両は、速度、火力で日本戦車を上回っていたが、装甲は同水準で、燃えやすいという欠点があった。



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↑BT-5快速戦車


日本軍の主力戦車は95式軽戦車で、重量7・4t、37mm砲を搭載、速度は40km、装甲は最厚部で13mm。準主力の89式中戦車は、重量11・8t、短砲身の57mm砲を搭載、速度は25km、最大装甲厚は17mm。日本軍の戦車は全般的な性能で劣っており、数でも大きな劣勢を強いられていた。だが、乗員は高い錬度を発揮して、ソ連戦車相手に互角以上の戦いを繰り広げた。また、主機がディーゼルのため、被弾しても燃えにくいという利点もあった。



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↑95式軽戦車


日本の戦車隊は夜襲を決行して、ソ連軍に大きな損害を与えている事例もある。これは高い錬度と、阿吽の呼吸とも言える連携が無ければ、実現困難な作戦だった。以上の様に活躍した日本戦車隊であったが、高価な戦車を喪失する事を恐れた軍上層部によって、紛争半ばで戦線後方に下げられてしまう。一方、ソ連軍の戦車隊は、紛争を通じて最前線にあったため、大きな損失を出し続けた。


その損害のほとんどが、日本軍の94式37mm速射砲や、75mm野砲の直接射撃によるものだった。しかしながら、紛争終盤、その高速力と火力を生かして日本軍の戦線を突破、包囲するに当たっては、大きな役割を果たした。日本軍は戦車、装甲車合わせて100両余りを投入し、その内30両余を喪失した。ソ連軍はおおむね500両余の戦車、装甲車を前線に配備し続け、紛争を通じて350両余を喪失した。


この紛争では、空でも激しい戦いが繰り広げられた。日本軍の主力戦闘機は97式戦闘機で、最大速度は460km、主武装は7・7mm機銃2挺、機体重量は1100㎏で、非常に優れた格闘能力を有していた。しかし、防御力は無きに等しく、被弾には脆かった。ソ連の主力戦闘機はポリカルポフⅠ-16で、最大速度470km、主武装は7.62mm機銃4挺、または20mm機関砲2挺と7・62mm機銃2挺、機体重量は1266㎏であった。強力な武装と防御力を誇り、急降下性能も高かったが、格闘性能は低かった。紛争序盤は97式戦闘機に格闘戦を挑まれて非常な苦戦を強いられたが、後半に入り、その優れた武装と急降下性能を生かした一撃離脱戦法を取るようになると、逆に97式戦闘機が苦境に追い込まれた。



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↑97式戦闘機



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↑ポリカルポフⅠ-16


紛争初期6月中旬の段階で、日本軍は戦闘機、爆撃機合わせて126機、ソ連軍は戦闘機、爆撃機合わせて300機を配備しており、倍以上の戦力差があった。だが、日本軍航空隊の練度は高く、逆にソ連軍航空隊の錬度は低かったため、劣勢にも関わらず、前半は日本側が制空権を握った。しかし、後半に入るとソ連軍は機数を最大580機まで増強し、更にスペイン内戦や、中国戦線で経験を積んだ搭乗員を投入し始めると、200機未満でしかない日本側の損害は増大していき、やがて制空権を喪失するに至った。紛争を通じて日本軍は170機余の機体を喪失し、搭乗員110人余が死傷した。ソ連軍は250機余を喪失し、搭乗員170人余が戦死し、110人余が負傷した。



地上戦では、紛争全般を通して日本の歩兵は勇戦敢闘したが、高級参謀の杜撰な作戦と、最終段階でのソ連軍の大攻勢によって大きな損失を出した。一方のソ連兵も日本兵に劣らぬ勇戦振りを示したが、前半は日本軍に押され気味で、後半になって大量の重砲と戦車の援護を受けて勝利を掴んだ。日本軍の野砲は38式改75mm野砲、機動90式75mm野砲、38式12cm榴弾砲、96式15cm榴弾砲などであった。ソ連軍は107mmカノン砲、122mm榴弾砲、152mm榴弾砲が主力で、火力、射程、砲数、弾薬量とも日本軍の野砲に勝っていた。


この紛争で決定的な要素となったのが、両軍の補給力の差である。日本軍は、補給拠点である鉄道駅から前線までは200kmの距離があり、1,000両余の車両を駆使して補給、輸送に当たった。ソ連軍側では、補給拠点の鉄道駅から前線までの距離は650kmもあったが、これを3,300両余の車両や、馬匹まで用いて補給と輸送に当たった。日本側の方が補給線は短かく有利であったが、ソ連は大量の車両を投じて劣勢を補った。7月、日本軍は攻勢をかけ一時は優位に立ったものの、補給が続かず、戦線は膠着状態に陥った。その間、ソ連軍は大量の物資を集積し続け、8月になって大攻勢をかけて、日本軍を包囲撃滅するに至った。



紛争を通じての日本軍の人的損失は、戦死、行方不明者、合わせて9700人余りで、戦傷者8700人余、戦病者2300人余、総計21000人余りであった。ソ連軍の人的損失は、戦死、行方不明者合わせて8000人余、戦傷者15000人余、戦病者700人余、総計24000人余だった。


1939年9月16日、両軍の間で停戦協定が結ばれ、ソ連とモンゴルが主張する国境線で紛争は決着する。結果から見れば日本軍の敗北であるが、損失自体はソ連軍の方が大きく、双方痛み分けのような形であった。この紛争を通じて、日本軍はほぼ全ての面で劣勢であったが、兵士の高い錬度と旺盛な戦意によって、ソ連軍と互角に渡り合っていた。しかし、最終的には、ソ連軍の圧倒的な物量によって押し切られたのだった。この紛争から2年後、1941年、日本は、さらに圧倒的な物量を誇るアメリカとの戦争に望む事になる。


 

 

消えたポーランド人将校

1939年9月1日、ドイツはポーランドに侵攻を開始し、それに続いて9月17日には、ソ連もポーランドに侵攻を開始した。世界有数の軍事大国2ヶ国に前後から攻められて、ポーランドは成すすべなく敗北する。戦後、ドイツとソ連はポーランドを半分ずつ折半して、それぞれの領域に組み込んだ。それからほどなくして、両国はポーランド人に対して恐るべき弾圧を開始する。


ソ連は1万5千人余のポーランド人将校を拘束すると三つの集団に分け、ソ連領内にある収容所、コゼルスク、オスタシュコフ、スタロベルスクにそれぞれ連行していった。収容所では、ソ連の秘密警察(NKVD)が捕虜に思想教育を施そうとして、連日、共産党の宣伝映画を見せつけ、社会主義の資料を読ませた。しかし、秘密警察が熱心な教育を行ったにも関わらず、ポーランド人捕虜の大部分は思想改宗を良しとしなかった。そこで、秘密警察は非情の手段を用いる事を決した。1940年、秘密警察長官ベリヤは、ポーランド人将校の銃殺許可を求める書類を提出すると、スターリンはそれにサインを押した。


1940年3月から、収容所から撤収と称されて、捕虜が少人数ずつ連れ出されては列車に乗せられ、何処かへ連行されていった。収容所で名簿が読み上げられると、該当する捕虜は隊伍を組んで列車駅に向かう。捕虜の多くは撤収の意味を開放だと解釈して、嬉々として列車に乗り込んでいくのだった。残される捕虜は、何故、自分達は撤収に入れないのかと、不安に包まれた。だが、そんな捕虜に対して、収容所の職員は、「撤収せずにすんで、あなたは運が良いのだ」と慰めた。撤収の意味が処刑であると知っているのは、職員のみだった。この頃から、捕虜とその家族の郵便便りは滞るようになる。結局、全ての捕虜が撤収されていった。


捕虜は列車から降ろされるとトラックに乗せられ、広々とした空き地まで運ばれる。そこには、深さ2メートルから3メートルの広い長方形の穴が掘られていた。捕虜1人に2人の兵士が付き、両腕を抱えて穴を前にして立たせる。そして、処刑人が手馴れた手つきで、弾が頸部から前額部に貫通するような角度で拳銃を発射する。抵抗がなければ捕虜は大抵一発の銃弾で止めを刺され、顔を下にして穴に落ち込んでいく。だが、処刑を悟って抵抗を試みる捕虜もいた。そういった捕虜は両手が縄で縛り上げられ、その輪が首に回されて暴れれば首が絞まるようにされた。


それでも抵抗が激しい者は、銃剣で刺されたり、数発の銃弾が撃ち込まれた。死体は10層余り積み重ねられると土が被せられ、その上に植林されて痕跡が消されていく。この殺害は、カチンの森を始めとする各所で進めれた。こうして、1万5千人以上のポーランド人将校が虐殺されていった。後に収容所の責任者が語ったところによると、処刑人は捕虜の銃殺を済ませる度、食堂で大宴会をしていたそうである。


ソ連は、1922年の社会主義政権成立当初から反体制者を容赦なく粛清している。その過程で処刑方法も磨かれてゆき、熟練の処刑人も生み出された。システム化された処刑方と専門の処刑人の手にかかれば、迅速かつ大量に処刑をこなす事が出来るのだった。1937年から1939年にかけてのスターリンの大粛清では、将校4万4千人を含む100万人以上の人間が銃殺されている。その他、ソ連は銃殺にするだけでなく、酷寒の収容所送り、飢饉を伴う強制移住、栄養不足での重労働を強いて多くの人間を死に至らしめた。1922年のソ連の成立から1991年の崩壊まで、その政策によって死亡した人間の総数は2000万人を超えると云われている。


1943年3月、ドイツ軍は、占領していたソ連領スモレンスクにて、大量のポーランド人将校の遺体を発見したと発表する。これが、カチンの森事件である。ドイツはソ連の非道さを全世界に知らしめようとして、西側の中立国家を中心とする、国際調査団を受け入れた。調査団が実際に現地に立つと、それは想像以上の惨劇であった。数え切れないほどの遺体が無残な姿を晒して、森全体に凄まじい悪臭を漂わせていた。調査団の中には、衝撃の余り座り込んでしまう者や、嘔吐する者もいた。調査団によって発掘調査が行われ、4千4百体の遺体が掘り起こされた。多くの遺体は後ろ手で縛られ、頭蓋骨に銃弾の穴が空いていた。遺体の多くが私物を所持していたので、身元の確認は比較的容易に済んだ。この調査の結果、ソ連がポーランド人捕虜を大量虐殺していた事が世界に暴かれた。


一方、ドイツによるポーランド人虐殺も、ソ連に勝るとも劣らないものだった。ドイツは1939年から1940年にかけて、小中学校の教師、大学教授、聖職者といった指導層を狩り立てて、次々に銃殺に処していった。この犠牲者数は、2万3千人余に上っている。その他にも、ポーランドのアウシュヴィッツ収容所を始めとする殺人工場が幾つか建設されて、大量の人間がそこに放り込まれていった。結局、この第二次大戦を通してポーランドは、軍民合わせて600万人もの死者、行方不明者を出した。この惨劇は、大国間の欲望によって引き起こされたものであった。


硫黄島の日本兵

硫黄島は、太平洋戦争における、激戦地として知られている。だが、この島で戦った日本兵が、壮絶な環境下で戦っていた事はあまり語られていない。硫黄島は、東京から南、約1,250キロメートルの位置にあって、亜熱帯気候に属する。活発な火山活動によって形成されており、地熱が高く、島内各所から硫黄ガスが吹き上がる灼熱の島である。人が住むにはあまりにも過酷な土地であるが、それでも戦前には、1,000人余の人々がこの島に住んでいた。


1944年7月、サイパン島を始めとする、マリアナ諸島がアメリカ軍の攻撃を受けて陥落した。アメリカは、ここに戦略爆撃機B-29の基地を建設する。マリアナ諸島から飛び立ったB-29の大編隊は、日本の大都市を次々に焦土に変えていった。しかし、サイパン島から東京までは、2千キロもの距離があって、損傷機や故障機が力尽きて、墜落する事も多かった。そこでアメリカ軍は、東京から約1,080キロ南に位置する、硫黄島に目を付けた。そこに中間基地を設ければ、損傷機、故障機は容易に収容可能であるし、往路と復路に護衛戦闘機を付ける事も可能だった。こうして、アメリカは硫黄島攻略を決定する。日本側もその意図を察し、守備を固めるため、栗林忠道中将を始めとする2万1千人余の将兵を送り込んだ。戦局の逼迫を受けて、硫黄島民の壮年男性は徴用され、残る大部分は本土へと移送された。


硫黄島の守備に就いた日本兵であるが、彼らが最も困ったのは、飲料水の確保であった。島内に河川、湖沼などは無く、飲料水は雨水に頼る他なかった。硫黄島には毎日、スコール(熱帯地方の突発的豪雨)が降る事から、それが兵士達の命水となった。スコールが降り出すと、兵達は夜中であろうと飛び起きて、あらゆる容器を用いて水の確保を図った。水はドラム缶に貯蔵され、古いものから順に飲んでいった。だが、水にはドラム缶の錆びが混じって赤茶けており、ひどい味と臭いがした。その上、蝿(はえ)や蚊にたかられて汚染される事が多く、ほぼ全ての兵士が下痢に悩まされた。水不足は、当初から日本軍に重く圧し掛かっており、例え汚染された水であっても、兵士達は飲まざるを得なかった。


硫黄島に召集されて来た日本兵は、30~40代の年配者や10代の少年兵が多く、まともな戦闘訓練も受けていなかった。そんな彼らに与えられた最初の任務は、手掘りでの地下壕作りだった。しかし、この作業は、想像を絶する苦しみを伴った。壕内は熱気によって40度以上の高温に包まれ、掘り出した土も火傷をするくらい熱かった。また、壕内に硫黄ガスが充満して、呼吸困難に陥ったり、体調不良を訴える者が続出した。狭く熱い壕内での重労働は、当然、大量の汗が吹き出す。しかし、軍から支給される飲み水は、1人1日当たり、水筒1本分でしかなかった。無論、それで足りるはずも無く、スコールを掻き集めるのだが、それでも足りず、兵達は常に激しい喉の渇きを訴えていた。苦しみの果てに作り上げた壕であったが、そこには兵士だけでなく、大量の蟻(あり)やゴキブリも住まった。そして、寝ている兵士の体を這いずり回るのだった。


硫黄島の兵士達には、アメーバ赤痢、パラチフスが蔓延し、それに栄養不足、水不足が加わって、ふらふらの状態で陣地構築に勤しんでいた。大勢いた40代の応召兵は、衰えた老人の様になっていたと云う。過酷な環境下でひどく体調を崩したとしても、制空権、制海権を喪失した戦況下では、本土への後送など望み薄であった。アメリカ軍が上陸する以前から、爆撃、過労、病気によって命を失う者が、度々出ていた。彼ら兵士達を支えていたものは、御国のため、家族のために戦うという思いであった。それと、劣勢となっても、本土から援軍が駆けつけてくれるという淡い希望を抱いていた。1945年1月、アメリカ軍の上陸を目前に控え、栗林中将は、あくまでも陣地を死守し、一人十殺せよと兵士達に訓示する。


1945年2月16日、アメリカの大艦隊が硫黄島を埋め尽くすかのように取り巻き、それに合わせて猛烈な砲爆撃を開始する。その轟音と振動は地下壕にも響き渡り、恐怖を隠せずガタガタと震え出す兵士もいた。凄まじい準備射撃が3日間続いた後、2月19日、ついにアメリカ軍は上陸を開始する。日本軍は水際では抵抗せず、内陸にアメリカ軍を引き込んで叩く作戦を取った。日本兵が命懸けで作り上げた地下縦深陣地は存分に威力を発揮し、アメリカ軍を大いに苦しめた。


圧倒的な物量を誇るアメリカ軍に対し、日本軍は兵力、武器弾薬、食料水、全てにおいて大きく劣り、過酷な環境下で戦う前から消耗していた。だが、そんな状況であったにも関わらず、日本軍の戦意だけはアメリカ軍に勝るものがあった。アメリカ軍の死傷者は増え続け、攻略予定日の2月23日を過ぎても、激戦は続いた。そして、この23日、日米の兵士の士気に影響する、大きな出来事が起こる。アメリカ軍が、硫黄島の最高峰である摺鉢山を制圧して、山頂に星条旗を打ち立てたのである。6名のアメリカ兵が旗を打ち立てる姿は、劇的な戦場写真となって、世界中に知れ渡った。そして、戦後、この写真を元に、アーリントン国立墓地に巨大な海兵隊戦争記念碑が建てられる事になる。


擂鉢山を巡る攻防において、一つの話が伝えられている。海兵隊が苦労して打ち立てた星条旗であるが、翌朝、旗めいていたのは、なんと日本軍の日章旗であった。付近の残存日本兵が、夜の間に差し替えていたのだった。この日章旗は、硫黄島の守備隊からも目撃されており、彼らは大いに発奮した。アメリカ軍はすぐさま日章旗を降ろし、星条旗に差し替えた。ところが、翌朝になると、再び日章旗が翻っていたのである。しかし、この日を最後に擂鉢山に日章旗が翻る事はなかった。日本軍は少なからず落胆したが、それでも擂鉢山守備隊の、徹底抗戦の執念は受け継がれた。実際、戦いはここから激しさを増していくのである。世界で最も有名な戦争写真の主人公となった6名のアメリカ兵であるが、引き続く戦闘で3名が戦死する事になる。


限られた武器弾薬しかない日本軍は、地の利を生かし、肉弾戦をもってアメリカ軍に挑む。日本兵は死体に紛れて、アメリカ兵をやり過ごすと背後から手榴弾を投げ付けたりもした。それを受けて、アメリカ軍は日本兵の死体を見かけると、銃撃を加えるようになった。また、アメリカの強力なM4中戦車に対して、日本兵は爆雷を担いで、まさに捨て身の攻撃を行った。だが、アメリカ軍も肉薄攻撃への対策として、火炎放射器や機関銃で地面を薙ぎ払うように前進しだすと、日本兵の犠牲が増える一方となった。アメリカ軍は地下壕を見つける度、火炎放射器の火が奥まで届くよう、徹底的に焼き払って前進した。だが、日本兵は地下壕の奥深くに潜んでこれをやり過ごし、夜間になると姿を現して襲撃を加えた。


日本軍は必死の抵抗を見せていたが、絶海の孤島で補給も補充もないまま、いつまでも抵抗し続ける事は不可能だった。3月に入ると、日本軍は島の北部と東部の拠点を僅かに占有するのみとなる。3月15日、日本軍の抵抗はまだ続いていたが、アメリカ軍は既に大勢は決したと見て、硫黄島を占領したと宣言する。3月17日、追い詰められた栗林中将は、大本営に決別電報を打った。そして、3月25日夜半、栗林中将は、最後に一矢報いんと、4百人余の兵を率いてアメリカ軍陣地に突撃した。それは断末魔の万歳突撃ではなく、組織だった強攻だった。アメリカ軍は一時混乱し、日本軍はさらに進軍して飛行場突入を試みたが、その途上で、栗林中将共々、力尽きて散華した。3月26日、この栗林中将の戦死をもって、日本軍の組織的な抵抗は終わりを告げる。


だが、島内各地の地下壕には、まだ千人以上の日本兵が生存していた。彼らにとっては、これからが本当の地獄だった。残存日本兵の多くは、玉名山陣地にある南方空(南方航空隊本部壕)を目指した。南方空は巨大な地下壕で、アメリカ軍の上陸以前には、水、食料が豊富に備蓄されていたからである。しかし、アメリカ軍の警戒網を抜けられず、多くの残存兵が南方空に辿り着くまでに命を落とした。運良く残存兵が辿り着いたとしても、薄暗い壕の中で彼らが見たものは、絶望的な光景だった。うず高く積み上げられた死体に、うめき声を上げて横たわる大勢の負傷兵、それに、やせ衰えた残存兵達の姿であった。残っていた食料、水も僅かで、それらはすぐに底を突いた。壕の底には兵士達の排泄物が溜まっており、それらが放つ臭いと、死体の腐敗臭、熱気の入り混じった凄まじい空気が立ち込めていた。


夜になると兵士達は、食料、水を求めて島内を彷徨った。薬莢を拾って、溜まっていた僅かな水を飲み、埋まった壕を掘り起こしたり、死体をまさぐったりして、食べ物を求めた。また、アメリカ軍が捨てていったゴミから食べ物を探したり、危険を承知の上で、夜間、アメリカ軍陣地に忍び込んで、缶詰を強奪したりもした。だが、この忍び込みは非常な危険を伴い、成功するしないは別として、参加した兵士の半数は命を失ったと云う。飢えた兵士達は、シラミやウジ虫、炭まで食した。食べ物もそうだが、とにかく水、水が飲みたかった。兵士達は心身共に疲弊仕切って、その日1日を生き延びるだけで精一杯となる。場所によっては階級の上下もなくなり、横暴を振るった上官は兵士達によって壕から追放された。激しい飢餓によって、助け合う余裕もなくなり、僅かな水、食料を巡って仲間同士が争って、殺し合いになる事もあった。傷病兵の多くは治る見込みがなく、自決や、衰弱死の運命をたどった。


アメリカ軍は、まだ多くの日本兵が潜んでいる事を知ると、大掛かりな掃討作戦を開始する。アメリカ軍が投降を呼び掛けても、これに応じる日本兵は僅かだった。日本兵は、生きて虜囚の辱めを受けずとの教えを刷り込まれている。また、アメリカ軍の捕虜となると殺されると信じていたのと、家族共々、国賊扱いされるのを恐れて、あくまで投降を拒否したのである。日本兵のゲリラ戦は続き、3月26日以降もアメリカ軍には、死傷者が出続けた。アメリカ軍も容赦はなくなり、あらゆる手段を使って日本兵を一掃せんとした。壕の中に発煙弾、黄燐ガス弾を投げ込んで燻り上げ、更に爆薬をもって壕ごと爆破していった。また、大量の海水とガソリンを壕に流し込んで点火し、奥まで徹底的に焼き尽くしていった。


栄養失調、負傷、火傷、病気に加え、激しい掃討作戦によって日本兵達は次々に命を失っていった。この最中には、意識不明の傷病兵がそのまま捕虜となったり、抗戦を諦めて投降する日本兵も出た。5月17日、アメリカ軍は、掃討作戦が終わったと発表する。しかし、海岸沿いや地下壕の奥深くには、まだ日本兵は残っていた。彼らのゲリラ戦は、終戦まで続いたのである。そして、最後の残存兵2名が投降したのは、戦後の1949年1月の事であった。硫黄島での戦いでは、日本兵2万人が戦死し、1千人が捕虜となった。これは95%の死亡率である。アメリカ兵は6,900人が戦死し、2万2千人が負傷した。これは、太平洋戦争において、唯一、アメリカ軍の死傷者数が日本軍を上回った戦いであった。戦後から現在まで、硫黄島からは日本兵9千柱の遺骨が収集された。しかし、未だ、1万柱を超える遺骨が灼熱の地下に埋もれている。




「エルベを目指せ!」 残存ドイツ軍、決死の脱出行 2

第12軍は、第9軍の脱出路を確保するため、ベーリッツという地を固守していた。だが、ここにもソ連軍が波状攻撃を仕掛けてくる。ソ連軍の強大な圧力を前に、長く持ちこたえられる見込みはなかった。一方、脱出を図らんとする第9軍も、力尽きる寸前であった。戦車、装甲車は数両を数えるのみで、兵士達は飲まず食わずの戦闘行動で、疲労困憊していた。それでも第9軍は望みを捨てず、残された体力、弾薬を使い尽くして、最後の突破攻撃を敢行した。そして、多大な犠牲を払いつつも、ついにコーネフ軍の陣地を突き抜け、第12軍との合流を果たしたのだった。



第9軍の将兵や民間人達は傷付き、疲弊しきっており、安全地帯に辿り着いた途端、ぐったりと座り込んでしまった。そのままだと、動けずに死んでしまうと思えたので、時には気付けのため、脱出者達を殴りつけねばならなかった。第9軍司令官ブッセも収容されたが、かつて肥満体だった彼は、見違えるほど痩せ細っていた。第12軍は野戦炊事所を設けて迎え入れ、第9軍の脱出者達に久方ぶりにまともな食事を味あわせた。疲弊し切った第9軍には、しばらくの休養が必要であったが、切迫を強める戦況がそれを許さなかった。ソ連軍の追撃は激しく、早急に撤退せねば、12軍諸共、包囲されて全滅してしまう。それを避けるべく、第12軍は車両を総動員して、直ちに収容人員の輸送に取り掛かった。そして、彼らはエルベを目指し、移動を開始した。



第12軍に合流した人員は、兵員2万5千人余、民間人数千人だった。第9軍の大多数は脱出出来なかったのである。そして、第9軍の後衛を担っていた2個師団と逃げ遅れた民間人多数は包囲され、激しく抵抗した後、殲滅された。戦後、この周辺からは3万人余のドイツ兵の遺骨が発掘され、ハルベの墓地に埋葬されている。民間人の犠牲者は1万人余と見られ、ソ連軍も2万人強が戦死したと見られている。深い森林の奥には今でも多数の遺骨が埋もれており、それらは毎年の様に発見されている。



5月3日、ベルリンは陥落し、ヒトラーの死も伝わってきた。だが、脱出を図る第12軍の戦いは、まだ終っていなかった。第12軍と収容人員は、南北東からソ連軍の攻撃を受けながらも、西へ西へと進んで行く。この頃、第12軍には様々な方面から敗残兵や難民が加わって、20万人余の大集団となっていた。第12軍の兵士達は、民間人を守りつつ、後を追うソ連軍と絶え間ない戦闘を交えねばならなかった。困難な後退戦を乗り越え、第12軍集団は、ようやくエルベ東岸に達した。しかし、背後にはソ連軍の大部隊が迫っているので、緊急に川を渡らねばならなかった。そこで第12軍は、川を背に半円周陣地を築いてソ連軍の攻撃に備えつつ、渡河準備に入った。



第12軍は、対岸のアメリカ軍に幕僚を派遣して、受け入れ交渉を開始する。第12軍は兵士と難民の受け入れに加えて、橋の架橋を求めた。これに対してアメリカ軍は、武装解除した兵士ならば受け入れると答えたが、難民の受け入れと橋の架橋は拒否した。そのため、第12軍集団が生き延びるには、自力でエルベを渡るしかなかった。 5月5日早朝、第12軍集団は、鉄道橋、壊れた道路橋、渡船場の3つの場所からエルベ渡河を開始する。渡河には、辛酸を舐めてきた第9軍の生き残りが優先された。しかし、アメリカ軍は橋の上で検問して、SS部隊、外国人、民間人の選り分けをしようとしたため、人々はなかなか対岸に渡れなかった。



5月6日、半円周陣地はソ連軍の攻撃によって、じりじりと侵食されていた。容赦のない砲撃によって、陣地内の民間人や兵士は次々に吹き飛ばされてゆく。エルベ東岸で渡河を待つ者には、焦りばかりが募った。そして、ソ連軍の砲撃が迫ってきて、自軍に被害が及ぶのを懸念したアメリカ軍が川から離れると、人々は一斉に西岸を目指し始めた。鉄橋を渡るのを待ちきれない人々は、川幅が広く流れも早いエルベを、ボート、カヌー、急造のいかだを使って渡ろうとする。しかし、川を渡り切れずに溺死した人も大勢出た。



5月7日朝、半円周陣地は崩壊寸前となる。守備に就いていた第12軍の兵士達も鉄橋を渡って撤退を開始し、残弾を撃ち尽くした砲は爆破処理されていった。午後には、ぎりぎりまで指揮をとっていたヴェンク中将もボートに乗って川を渡らんとした。それを狙ったソ連軍の銃撃を受け、幕僚1人が戦死したが、ヴェンク中将は何とか川を渡りきった。このヴェンク中将の渡河を最後に、エルベ西岸への撤退は終わった。軍民全てが川を渡れた訳では無かったが、それでもヴェンク中将と第12軍の将兵はよく責任を全うしたと言えるだろう。ソ連軍は、ドイツ軍の大部隊を取り逃した事を大いに悔しがった。もし、第12軍による救出作戦が行われなければ、第9軍とそれに追従していた民間人はソ連軍によって殲滅されていたに違いない。諦めて投降していたとしても、酷寒のロシアの地に5年は抑留され、過酷な労働も課せられて3分の1は死に至っていただろう。第12軍による救出撤退作戦は、ドイツ陸軍の追尾を飾る見事なものであった。同日、ドイツは降伏文書に署名し、翌5月8日に欧州の戦争は終結する。




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重家 
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