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硫黄島の日本兵

硫黄島は、太平洋戦争における、激戦地として知られている。だが、この島で戦った日本兵が、壮絶な環境下で戦っていた事はあまり語られていない。硫黄島は、東京から南、約1,250キロメートルの位置にあって、亜熱帯気候に属する。活発な火山活動によって形成されており、地熱が高く、島内各所から硫黄ガスが吹き上がる灼熱の島である。人が住むにはあまりにも過酷な土地であるが、それでも戦前には、1,000人余の人々がこの島に住んでいた。


1944年7月、サイパン島を始めとする、マリアナ諸島がアメリカ軍の攻撃を受けて陥落した。アメリカは、ここに戦略爆撃機B-29の基地を建設する。マリアナ諸島から飛び立ったB-29の大編隊は、日本の大都市を次々に焦土に変えていった。しかし、サイパン島から東京までは、2千キロもの距離があって、損傷機や故障機が力尽きて、墜落する事も多かった。そこでアメリカ軍は、東京から約1,080キロ南に位置する、硫黄島に目を付けた。そこに中間基地を設ければ、損傷機、故障機は容易に収容可能であるし、往路と復路に護衛戦闘機を付ける事も可能だった。こうして、アメリカは硫黄島攻略を決定する。日本側もその意図を察し、守備を固めるため、栗林忠道中将を始めとする2万1千人余の将兵を送り込んだ。戦局の逼迫を受けて、硫黄島民の壮年男性は徴用され、残る大部分は本土へと移送された。


硫黄島の守備に就いた日本兵であるが、彼らが最も困ったのは、飲料水の確保であった。島内に河川、湖沼などは無く、飲料水は雨水に頼る他なかった。硫黄島には毎日、スコール(熱帯地方の突発的豪雨)が降る事から、それが兵士達の命水となった。スコールが降り出すと、兵達は夜中であろうと飛び起きて、あらゆる容器を用いて水の確保を図った。水はドラム缶に貯蔵され、古いものから順に飲んでいった。だが、水にはドラム缶の錆びが混じって赤茶けており、ひどい味と臭いがした。その上、蝿(はえ)や蚊にたかられて汚染される事が多く、ほぼ全ての兵士が下痢に悩まされた。水不足は、当初から日本軍に重く圧し掛かっており、例え汚染された水であっても、兵士達は飲まざるを得なかった。


硫黄島に召集されて来た日本兵は、30~40代の年配者や10代の少年兵が多く、まともな戦闘訓練も受けていなかった。そんな彼らに与えられた最初の任務は、手掘りでの地下壕作りだった。しかし、この作業は、想像を絶する苦しみを伴った。壕内は熱気によって40度以上の高温に包まれ、掘り出した土も火傷をするくらい熱かった。また、壕内に硫黄ガスが充満して、呼吸困難に陥ったり、体調不良を訴える者が続出した。狭く熱い壕内での重労働は、当然、大量の汗が吹き出す。しかし、軍から支給される飲み水は、1人1日当たり、水筒1本分でしかなかった。無論、それで足りるはずも無く、スコールを掻き集めるのだが、それでも足りず、兵達は常に激しい喉の渇きを訴えていた。苦しみの果てに作り上げた壕であったが、そこには兵士だけでなく、大量の蟻(あり)やゴキブリも住まった。そして、寝ている兵士の体を這いずり回るのだった。


硫黄島の兵士達には、アメーバ赤痢、パラチフスが蔓延し、それに栄養不足、水不足が加わって、ふらふらの状態で陣地構築に勤しんでいた。大勢いた40代の応召兵は、衰えた老人の様になっていたと云う。過酷な環境下でひどく体調を崩したとしても、制空権、制海権を喪失した戦況下では、本土への後送など望み薄であった。アメリカ軍が上陸する以前から、爆撃、過労、病気によって命を失う者が、度々出ていた。彼ら兵士達を支えていたものは、御国のため、家族のために戦うという思いであった。それと、劣勢となっても、本土から援軍が駆けつけてくれるという淡い希望を抱いていた。1945年1月、アメリカ軍の上陸を目前に控え、栗林中将は、あくまでも陣地を死守し、一人十殺せよと兵士達に訓示する。


1945年2月16日、アメリカの大艦隊が硫黄島を埋め尽くすかのように取り巻き、それに合わせて猛烈な砲爆撃を開始する。その轟音と振動は地下壕にも響き渡り、恐怖を隠せずガタガタと震え出す兵士もいた。凄まじい準備射撃が3日間続いた後、2月19日、ついにアメリカ軍は上陸を開始する。日本軍は水際では抵抗せず、内陸にアメリカ軍を引き込んで叩く作戦を取った。日本兵が命懸けで作り上げた地下縦深陣地は存分に威力を発揮し、アメリカ軍を大いに苦しめた。


圧倒的な物量を誇るアメリカ軍に対し、日本軍は兵力、武器弾薬、食料水、全てにおいて大きく劣り、過酷な環境下で戦う前から消耗していた。だが、そんな状況であったにも関わらず、日本軍の戦意だけはアメリカ軍に勝るものがあった。アメリカ軍の死傷者は増え続け、攻略予定日の2月23日を過ぎても、激戦は続いた。そして、この23日、日米の兵士の士気に影響する、大きな出来事が起こる。アメリカ軍が、硫黄島の最高峰である摺鉢山を制圧して、山頂に星条旗を打ち立てたのである。6名のアメリカ兵が旗を打ち立てる姿は、劇的な戦場写真となって、世界中に知れ渡った。そして、戦後、この写真を元に、アーリントン国立墓地に巨大な海兵隊戦争記念碑が建てられる事になる。


擂鉢山を巡る攻防において、一つの話が伝えられている。海兵隊が苦労して打ち立てた星条旗であるが、翌朝、旗めいていたのは、なんと日本軍の日章旗であった。付近の残存日本兵が、夜の間に差し替えていたのだった。この日章旗は、硫黄島の守備隊からも目撃されており、彼らは大いに発奮した。アメリカ軍はすぐさま日章旗を降ろし、星条旗に差し替えた。ところが、翌朝になると、再び日章旗が翻っていたのである。しかし、この日を最後に擂鉢山に日章旗が翻る事はなかった。日本軍は少なからず落胆したが、それでも擂鉢山守備隊の、徹底抗戦の執念は受け継がれた。実際、戦いはここから激しさを増していくのである。世界で最も有名な戦争写真の主人公となった6名のアメリカ兵であるが、引き続く戦闘で3名が戦死する事になる。


限られた武器弾薬しかない日本軍は、地の利を生かし、肉弾戦をもってアメリカ軍に挑む。日本兵は死体に紛れて、アメリカ兵をやり過ごすと背後から手榴弾を投げ付けたりもした。それを受けて、アメリカ軍は日本兵の死体を見かけると、銃撃を加えるようになった。また、アメリカの強力なM4中戦車に対して、日本兵は爆雷を担いで、まさに捨て身の攻撃を行った。だが、アメリカ軍も肉薄攻撃への対策として、火炎放射器や機関銃で地面を薙ぎ払うように前進しだすと、日本兵の犠牲が増える一方となった。アメリカ軍は地下壕を見つける度、火炎放射器の火が奥まで届くよう、徹底的に焼き払って前進した。だが、日本兵は地下壕の奥深くに潜んでこれをやり過ごし、夜間になると姿を現して襲撃を加えた。


日本軍は必死の抵抗を見せていたが、絶海の孤島で補給も補充もないまま、いつまでも抵抗し続ける事は不可能だった。3月に入ると、日本軍は島の北部と東部の拠点を僅かに占有するのみとなる。3月15日、日本軍の抵抗はまだ続いていたが、アメリカ軍は既に大勢は決したと見て、硫黄島を占領したと宣言する。3月17日、追い詰められた栗林中将は、大本営に決別電報を打った。そして、3月25日夜半、栗林中将は、最後に一矢報いんと、4百人余の兵を率いてアメリカ軍陣地に突撃した。それは断末魔の万歳突撃ではなく、組織だった強攻だった。アメリカ軍は一時混乱し、日本軍はさらに進軍して飛行場突入を試みたが、その途上で、栗林中将共々、力尽きて散華した。3月26日、この栗林中将の戦死をもって、日本軍の組織的な抵抗は終わりを告げる。


だが、島内各地の地下壕には、まだ千人以上の日本兵が生存していた。彼らにとっては、これからが本当の地獄だった。残存日本兵の多くは、玉名山陣地にある南方空(南方航空隊本部壕)を目指した。南方空は巨大な地下壕で、アメリカ軍の上陸以前には、水、食料が豊富に備蓄されていたからである。しかし、アメリカ軍の警戒網を抜けられず、多くの残存兵が南方空に辿り着くまでに命を落とした。運良く残存兵が辿り着いたとしても、薄暗い壕の中で彼らが見たものは、絶望的な光景だった。うず高く積み上げられた死体に、うめき声を上げて横たわる大勢の負傷兵、それに、やせ衰えた残存兵達の姿であった。残っていた食料、水も僅かで、それらはすぐに底を突いた。壕の底には兵士達の排泄物が溜まっており、それらが放つ臭いと、死体の腐敗臭、熱気の入り混じった凄まじい空気が立ち込めていた。


夜になると兵士達は、食料、水を求めて島内を彷徨った。薬莢を拾って、溜まっていた僅かな水を飲み、埋まった壕を掘り起こしたり、死体をまさぐったりして、食べ物を求めた。また、アメリカ軍が捨てていったゴミから食べ物を探したり、危険を承知の上で、夜間、アメリカ軍陣地に忍び込んで、缶詰を強奪したりもした。だが、この忍び込みは非常な危険を伴い、成功するしないは別として、参加した兵士の半数は命を失ったと云う。飢えた兵士達は、シラミやウジ虫、炭まで食した。食べ物もそうだが、とにかく水、水が飲みたかった。兵士達は心身共に疲弊仕切って、その日1日を生き延びるだけで精一杯となる。場所によっては階級の上下もなくなり、横暴を振るった上官は兵士達によって壕から追放された。激しい飢餓によって、助け合う余裕もなくなり、僅かな水、食料を巡って仲間同士が争って、殺し合いになる事もあった。傷病兵の多くは治る見込みがなく、自決や、衰弱死の運命をたどった。


アメリカ軍は、まだ多くの日本兵が潜んでいる事を知ると、大掛かりな掃討作戦を開始する。アメリカ軍が投降を呼び掛けても、これに応じる日本兵は僅かだった。日本兵は、生きて虜囚の辱めを受けずとの教えを刷り込まれている。また、アメリカ軍の捕虜となると殺されると信じていたのと、家族共々、国賊扱いされるのを恐れて、あくまで投降を拒否したのである。日本兵のゲリラ戦は続き、3月26日以降もアメリカ軍には、死傷者が出続けた。アメリカ軍も容赦はなくなり、あらゆる手段を使って日本兵を一掃せんとした。壕の中に発煙弾、黄燐ガス弾を投げ込んで燻り上げ、更に爆薬をもって壕ごと爆破していった。また、大量の海水とガソリンを壕に流し込んで点火し、奥まで徹底的に焼き尽くしていった。


栄養失調、負傷、火傷、病気に加え、激しい掃討作戦によって日本兵達は次々に命を失っていった。この最中には、意識不明の傷病兵がそのまま捕虜となったり、抗戦を諦めて投降する日本兵も出た。5月17日、アメリカ軍は、掃討作戦が終わったと発表する。しかし、海岸沿いや地下壕の奥深くには、まだ日本兵は残っていた。彼らのゲリラ戦は、終戦まで続いたのである。そして、最後の残存兵2名が投降したのは、戦後の1949年1月の事であった。硫黄島での戦いでは、日本兵2万人が戦死し、1千人が捕虜となった。これは95%の死亡率である。アメリカ兵は6,900人が戦死し、2万2千人が負傷した。これは、太平洋戦争において、唯一、アメリカ軍の死傷者数が日本軍を上回った戦いであった。戦後から現在まで、硫黄島からは日本兵9千柱の遺骨が収集された。しかし、未だ、1万柱を超える遺骨が灼熱の地下に埋もれている。




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