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消えたポーランド人将校

1939年9月1日、ドイツはポーランドに侵攻を開始し、それに続いて9月17日には、ソ連もポーランドに侵攻を開始した。世界有数の軍事大国2ヶ国に前後から攻められて、ポーランドは成すすべなく敗北する。戦後、ドイツとソ連はポーランドを半分ずつ折半して、それぞれの領域に組み込んだ。それからほどなくして、両国はポーランド人に対して恐るべき弾圧を開始する。


ソ連は1万5千人余のポーランド人将校を拘束すると三つの集団に分け、ソ連領内にある収容所、コゼルスク、オスタシュコフ、スタロベルスクにそれぞれ連行していった。収容所では、ソ連の秘密警察(NKVD)が捕虜に思想教育を施そうとして、連日、共産党の宣伝映画を見せつけ、社会主義の資料を読ませた。しかし、秘密警察が熱心な教育を行ったにも関わらず、ポーランド人捕虜の大部分は思想改宗を良しとしなかった。そこで、秘密警察は非情の手段を用いる事を決した。1940年、秘密警察長官ベリヤは、ポーランド人将校の銃殺許可を求める書類を提出すると、スターリンはそれにサインを押した。


1940年3月から、収容所から撤収と称されて、捕虜が少人数ずつ連れ出されては列車に乗せられ、何処かへ連行されていった。収容所で名簿が読み上げられると、該当する捕虜は隊伍を組んで列車駅に向かう。捕虜の多くは撤収の意味を開放だと解釈して、嬉々として列車に乗り込んでいくのだった。残される捕虜は、何故、自分達は撤収に入れないのかと、不安に包まれた。だが、そんな捕虜に対して、収容所の職員は、「撤収せずにすんで、あなたは運が良いのだ」と慰めた。撤収の意味が処刑であると知っているのは、職員のみだった。この頃から、捕虜とその家族の郵便便りは滞るようになる。結局、全ての捕虜が撤収されていった。


捕虜は列車から降ろされるとトラックに乗せられ、広々とした空き地まで運ばれる。そこには、深さ2メートルから3メートルの広い長方形の穴が掘られていた。捕虜1人に2人の兵士が付き、両腕を抱えて穴を前にして立たせる。そして、処刑人が手馴れた手つきで、弾が頸部から前額部に貫通するような角度で拳銃を発射する。抵抗がなければ捕虜は大抵一発の銃弾で止めを刺され、顔を下にして穴に落ち込んでいく。だが、処刑を悟って抵抗を試みる捕虜もいた。そういった捕虜は両手が縄で縛り上げられ、その輪が首に回されて暴れれば首が絞まるようにされた。


それでも抵抗が激しい者は、銃剣で刺されたり、数発の銃弾が撃ち込まれた。死体は10層余り積み重ねられると土が被せられ、その上に植林されて痕跡が消されていく。この殺害は、カチンの森を始めとする各所で進めれた。こうして、1万5千人以上のポーランド人将校が虐殺されていった。後に収容所の責任者が語ったところによると、処刑人は捕虜の銃殺を済ませる度、食堂で大宴会をしていたそうである。


ソ連は、1922年の社会主義政権成立当初から反体制者を容赦なく粛清している。その過程で処刑方法も磨かれてゆき、熟練の処刑人も生み出された。システム化された処刑方と専門の処刑人の手にかかれば、迅速かつ大量に処刑をこなす事が出来るのだった。1937年から1939年にかけてのスターリンの大粛清では、将校4万4千人を含む100万人以上の人間が銃殺されている。その他、ソ連は銃殺にするだけでなく、酷寒の収容所送り、飢饉を伴う強制移住、栄養不足での重労働を強いて多くの人間を死に至らしめた。1922年のソ連の成立から1991年の崩壊まで、その政策によって死亡した人間の総数は2000万人を超えると云われている。


1943年3月、ドイツ軍は、占領していたソ連領スモレンスクにて、大量のポーランド人将校の遺体を発見したと発表する。これが、カチンの森事件である。ドイツはソ連の非道さを全世界に知らしめようとして、西側の中立国家を中心とする、国際調査団を受け入れた。調査団が実際に現地に立つと、それは想像以上の惨劇であった。数え切れないほどの遺体が無残な姿を晒して、森全体に凄まじい悪臭を漂わせていた。調査団の中には、衝撃の余り座り込んでしまう者や、嘔吐する者もいた。調査団によって発掘調査が行われ、4千4百体の遺体が掘り起こされた。多くの遺体は後ろ手で縛られ、頭蓋骨に銃弾の穴が空いていた。遺体の多くが私物を所持していたので、身元の確認は比較的容易に済んだ。この調査の結果、ソ連がポーランド人捕虜を大量虐殺していた事が世界に暴かれた。


一方、ドイツによるポーランド人虐殺も、ソ連に勝るとも劣らないものだった。ドイツは1939年から1940年にかけて、小中学校の教師、大学教授、聖職者といった指導層を狩り立てて、次々に銃殺に処していった。この犠牲者数は、2万3千人余に上っている。その他にも、ポーランドのアウシュヴィッツ収容所を始めとする殺人工場が幾つか建設されて、大量の人間がそこに放り込まれていった。結局、この第二次大戦を通してポーランドは、軍民合わせて600万人もの死者、行方不明者を出した。この惨劇は、大国間の欲望によって引き起こされたものであった。


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