このブログでは主に戦国時代・第二次大戦に関しての記事を書き綴っています。
戦国史・第二次大戦史・面白戦国劇場など
1939年、ヨーロッパにおいて緊張が高まり、第二次大戦が勃発しようとしていたこの年、極東でも、日本とソ連が一触即発の緊張状態にあった。ソ連の影響下にあるモンゴル人民共和国と、日本の影響下にあった満州国が、両国の境目にあるノモンハン周辺の帰属を巡って対立を深めていたのである。5月、モンゴルの国境警備隊が、日本側が国境線と主張するハルハ川を渡って越境する事件が起こった。これに対して現地の日本軍は断固たる処置を取る事を決定し、航空隊による爆撃を加えた。これを受けてソ連軍は大挙出動し、日本軍も大部隊を送り込んで、事態は抜き差しならないものとなっていく。この紛争の表向きはモンゴルと満州国との対立であるが、実際にはソ連と日本の勢力争いであった。
この紛争では両国共、多数の戦闘車両を投入して、戦況の推移に大きな影響を与えた。ソ連軍の主力戦車はBT-5で、重量11・5t、長砲身の45mm砲を搭載、速度52km、装甲は主要部で13mm。準主力のBA-10装甲車は、重量5・1t、長砲身の45mm砲搭載、速度53km、装甲は8mm程度。ソ連軍の装甲車両は、速度、火力で日本戦車を上回っていたが、装甲は同水準で、燃えやすいという欠点があった。
↑BT-5快速戦車
日本軍の主力戦車は95式軽戦車で、重量7・4t、37mm砲を搭載、速度は40km、装甲は最厚部で13mm。準主力の89式中戦車は、重量11・8t、短砲身の57mm砲を搭載、速度は25km、最大装甲厚は17mm。日本軍の戦車は全般的な性能で劣っており、数でも大きな劣勢を強いられていた。だが、乗員は高い錬度を発揮して、ソ連戦車相手に互角以上の戦いを繰り広げた。また、主機がディーゼルのため、被弾しても燃えにくいという利点もあった。
↑95式軽戦車
日本の戦車隊は夜襲を決行して、ソ連軍に大きな損害を与えている事例もある。これは高い錬度と、阿吽の呼吸とも言える連携が無ければ、実現困難な作戦だった。以上の様に活躍した日本戦車隊であったが、高価な戦車を喪失する事を恐れた軍上層部によって、紛争半ばで戦線後方に下げられてしまう。一方、ソ連軍の戦車隊は、紛争を通じて最前線にあったため、大きな損失を出し続けた。
その損害のほとんどが、日本軍の94式37mm速射砲や、75mm野砲の直接射撃によるものだった。しかしながら、紛争終盤、その高速力と火力を生かして日本軍の戦線を突破、包囲するに当たっては、大きな役割を果たした。日本軍は戦車、装甲車合わせて100両余りを投入し、その内30両余を喪失した。ソ連軍はおおむね500両余の戦車、装甲車を前線に配備し続け、紛争を通じて350両余を喪失した。
この紛争では、空でも激しい戦いが繰り広げられた。日本軍の主力戦闘機は97式戦闘機で、最大速度は460km、主武装は7・7mm機銃2挺、機体重量は1100㎏で、非常に優れた格闘能力を有していた。しかし、防御力は無きに等しく、被弾には脆かった。ソ連の主力戦闘機はポリカルポフⅠ-16で、最大速度470km、主武装は7.62mm機銃4挺、または20mm機関砲2挺と7・62mm機銃2挺、機体重量は1266㎏であった。強力な武装と防御力を誇り、急降下性能も高かったが、格闘性能は低かった。紛争序盤は97式戦闘機に格闘戦を挑まれて非常な苦戦を強いられたが、後半に入り、その優れた武装と急降下性能を生かした一撃離脱戦法を取るようになると、逆に97式戦闘機が苦境に追い込まれた。
↑97式戦闘機
↑ポリカルポフⅠ-16
紛争初期6月中旬の段階で、日本軍は戦闘機、爆撃機合わせて126機、ソ連軍は戦闘機、爆撃機合わせて300機を配備しており、倍以上の戦力差があった。だが、日本軍航空隊の練度は高く、逆にソ連軍航空隊の錬度は低かったため、劣勢にも関わらず、前半は日本側が制空権を握った。しかし、後半に入るとソ連軍は機数を最大580機まで増強し、更にスペイン内戦や、中国戦線で経験を積んだ搭乗員を投入し始めると、200機未満でしかない日本側の損害は増大していき、やがて制空権を喪失するに至った。紛争を通じて日本軍は170機余の機体を喪失し、搭乗員110人余が死傷した。ソ連軍は250機余を喪失し、搭乗員170人余が戦死し、110人余が負傷した。
地上戦では、紛争全般を通して日本の歩兵は勇戦敢闘したが、高級参謀の杜撰な作戦と、最終段階でのソ連軍の大攻勢によって大きな損失を出した。一方のソ連兵も日本兵に劣らぬ勇戦振りを示したが、前半は日本軍に押され気味で、後半になって大量の重砲と戦車の援護を受けて勝利を掴んだ。日本軍の野砲は38式改75mm野砲、機動90式75mm野砲、38式12cm榴弾砲、96式15cm榴弾砲などであった。ソ連軍は107mmカノン砲、122mm榴弾砲、152mm榴弾砲が主力で、火力、射程、砲数、弾薬量とも日本軍の野砲に勝っていた。
この紛争で決定的な要素となったのが、両軍の補給力の差である。日本軍は、補給拠点である鉄道駅から前線までは200kmの距離があり、1,000両余の車両を駆使して補給、輸送に当たった。ソ連軍側では、補給拠点の鉄道駅から前線までの距離は650kmもあったが、これを3,300両余の車両や、馬匹まで用いて補給と輸送に当たった。日本側の方が補給線は短かく有利であったが、ソ連は大量の車両を投じて劣勢を補った。7月、日本軍は攻勢をかけ一時は優位に立ったものの、補給が続かず、戦線は膠着状態に陥った。その間、ソ連軍は大量の物資を集積し続け、8月になって大攻勢をかけて、日本軍を包囲撃滅するに至った。
紛争を通じての日本軍の人的損失は、戦死、行方不明者、合わせて9700人余りで、戦傷者8700人余、戦病者2300人余、総計21000人余りであった。ソ連軍の人的損失は、戦死、行方不明者合わせて8000人余、戦傷者15000人余、戦病者700人余、総計24000人余だった。
1939年9月16日、両軍の間で停戦協定が結ばれ、ソ連とモンゴルが主張する国境線で紛争は決着する。結果から見れば日本軍の敗北であるが、損失自体はソ連軍の方が大きく、双方痛み分けのような形であった。この紛争を通じて、日本軍はほぼ全ての面で劣勢であったが、兵士の高い錬度と旺盛な戦意によって、ソ連軍と互角に渡り合っていた。しかし、最終的には、ソ連軍の圧倒的な物量によって押し切られたのだった。この紛争から2年後、1941年、日本は、さらに圧倒的な物量を誇るアメリカとの戦争に望む事になる。