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織田北陸方面軍と一向一揆との戦い 1

2008.10.30 - 戦国史 其の一
天正3年(1575年)5月21日、織田信長は、三河長篠の地で武田勝頼と決戦し、これを大いに打ち破った(長篠の戦い)。これによって東の脅威が減少し、戦略状況が大いに好転した事から、信長は軍を西方、北方へと進めて行った。その過程で、同年8月、信長は、一向一揆が支配する越前国へと大軍を押し進める。織田軍は越前一向一揆を撫で斬りにして殲滅すると、余勢を駆って更に北上し、加賀国の江沼・能美の2郡、手取川以南までの地を制圧した。信長はこれらの地に譜代の家臣を配置すると、本国へと引き揚げていった。


征服地の内分けとして、織田家の家老、柴田勝家には越前国の内、8郡が与えられ、越前全体の統治者とされた。勝家の与力となる佐々成政・前田利家・不破光治らには府中2郡が分封され、金森長近には大野郡の三分の二を、原政茂はその三分の一を、武藤舜秀は敦賀郡をそれぞれ委ねられた。
未征服の加賀一国には梁田広正が封ぜられ、加賀の全域平定を委ねられた。梁田はこれまでは、信長の馬廻りの小部隊指揮官であったのが、一躍、一国の主に大抜擢されたのである。


梁田は信長の期待に応えるべく、加賀北部に割拠する一向一揆との戦いを開始する。ところが、梁田は加賀を平定するどころか、占領地を保持するのが手一杯で、逆に拠点の大聖寺城まで攻め込まれる始末であった。これは梁田が無能だったのではなく、加賀一向一揆の勢力が未だ強大な勢力を保持し、しかも、これに立ち向かう梁田の軍勢が少な過ぎたからだと思われる。しかし、信長は早々に見切りをつけ、翌天正4年(1576年)秋梁田を尾張に召喚した。これによって北陸平定の大事業は、越前の柴田勝家の手に委ねられる事になる。


この北陸平定を目指した軍団の顔触れは、柴田勝家を筆頭に佐々成政、前田利家、佐久間盛政といった織田家の歴戦の猛者達であった。(以後、北陸方面軍は柴田軍と記す)そして、この軍団には、越前一国と加賀南半分の勢力範囲があった。太閤検地と一万石につき250人の兵力を得られたとすると、越前50万石、12,500人、加賀半国18万石、4,500人で、この軍団は合計1万7千人の兵力が動員できるという大体の計算になる。 柴田軍は、梁田が苦戦した加賀の平定に取り掛かったが、やはりこの地の一向一揆は頑強で、戦況は一進一退の状況が続いた。


なかなか戦況が好転しなかったのは、一揆勢の抵抗が激しかったのもあるが、柴田軍の与力部将達が度々、他の戦線に引き抜かれたせいもあった。しかも、越後の強豪、上杉謙信が本願寺と結んで織田家と敵対するに至ると、加賀の一向一揆は更に勢いづき、織田軍に奪われた御幸塚、鵜川、仏ヶ原などの南加賀の城砦を奪い返し、再び大聖寺城に襲い掛かり始めたのである。そして、大敵、上杉謙信も本腰を上げて動き始めた。天正5年(1577年)7月謙信は、2万人余の大軍を率いて、能登七尾城を取り囲んだのである。七尾城の実権を握っていた長網連は、弟の長連龍を信長のもとへと送り、織田軍の来援を要請した。ここにおいて信長は謙信との決戦を決意し、柴田勝家を長とする3~4万余の大軍団を北陸に送り込んだ。


8月8日、柴田軍は越前を発したが、有力部将の羽柴秀吉が戦線離脱するなど、軍の足並みはなかなか揃わなかった。それでも柴田軍は大軍であり、南加賀で勢力を盛り返した一向一揆勢を制圧していった。柴田軍は安宅、本居、小松などの村々を焼き払い、御幸塚城を取り戻し、手取川を渡って松任近くまで進出した。しかし、それ以上の進軍は困難であった。


何故なら、加賀北部は一向一揆の完全な支配下になり、能登までの通路は塞がれていたからである。織田軍が手間取っている最中、七尾城では異変が生じていた。9月15日七尾城において、遊佐続光が謙信の調略に応じ、長網連を始めとする長一族を皆殺しにして、城を明け渡してしまったのである。 七尾城を落とした謙信は、余勢を駆って南方の末森城も攻め落とすと、織田軍を追い散らすべく、一路、加賀を南下した。


天正5年(1577年)9月23日、一方の柴田軍は情勢の不利を悟って、撤退を開始した。だが、柴田軍は手取川付近にて上杉軍に補足され、千人余りの討死を出す大打撃を受けたとされている(手取川の戦い)。謙信は家臣に宛てた書状に合戦の勝利を高らかに宣言し、その勢力範囲は加賀北部にまで及んだ。この合戦の詳細は今もって不明であるが、一向一揆を味方にした謙信が優勢であったのだろう。


謙信は合戦後、深追いはせず、冬の到来を前にして領国に引き返していった。北陸の柴田軍はひとまず当面の危機は脱したが、謙信の進出によって支配下の加賀南部や越前は動揺し、再び一揆勢が蜂起する事態となっていた。柴田軍は地盤を固め直すため、越前に引き返す必要に迫られた。だが、この後も南加賀は維持すべく、御幸塚城を堅固にして佐久間盛政を留め置き、大聖寺城にも勝家の家臣を入れてから、帰還していった。


天正5年(1577年)11月、謙信進出に呼応する形で、越前勝山の七山家衆と呼ばれる一向一揆の残党が立ち上がり、谷城に立て篭もった。勝家はこの一揆勢を討伐すべく、一族の柴田義宣に一軍を授けて、谷城へと差し向けた。ところが、義宣はこの谷城をめぐる攻防戦で、一揆勢の激しい反撃を受けて討死してしまう。翌天正6年(1578年)春、勝家は今度は自身の養子、柴田勝政を差し向けて、一揆討伐に当たらせた。勝政は激しく攻め立てて、一揆勢を打ち破る事に成功した。勝家はその功を評し、勝政にこの地の支配を委ねた。


こうして、勝家が地盤である越前の地を再び固め直している間、佐久間盛政は加賀一向一揆との最前線に当たる御幸塚城にあって、絶え間なく蜂起する一揆勢への対処に忙殺されていた。北陸の柴田軍は、この様な状況下で再び謙信が来襲する事を恐れていた。だが、同天正6年(1578年)3月13日、上杉謙信が急死して、柴田軍の大きな脅威の1つが消えた。信長はこの機に乗じて越中の上杉方を駆逐し、織田家の勢力を拡大せんとして、美濃の有力部将、斎藤新五朗を飛騨経由で越中に派遣した。


新五朗は越中守護代、神保氏の嫡流、神保長住の軍と合流すると、10月4日、月岡野において数に勝る上杉方を討ち破り、360人余を討ち取る殊勲を挙げる(月岡野の戦い)。この勝利によって、織田家は越中中部に足掛かりを築く事に成功し、上杉支配下にある、能登、越中の地侍や一揆勢に動揺が走った。この新五朗の動きは、北陸の柴田軍と連動してのものであったと思われる。しかし、勝家を始めとする柴田軍は、加賀一向一揆との戦いに忙殺されていたのであろう。加賀を突っ切って、この好機を生かす事は出来なかった。


翌天正7年(1579年)8月9日、柴田軍は安宅、木折、小松の地を放火した。しかし、これらはいずれも南加賀の地であり、柴田軍は未だに加賀を突破出来ないでいた。柴田軍は、歴戦の将が揃った1万を越える軍勢である。それと互角に渡り合っていたのだから、加賀一向一揆とは余程、手強い相手だったのだろう。 加賀は90年近くもの間、一揆持ちであった国であり、彼らは容易には侵略者に屈さなかった。それに、一向一揆は大量の鉄砲を保有しており、地の利もあった。


信仰心に寄って団結し、長く自治を守り抜いてきた一揆勢には寝返り工作などは通用し難く、柴田軍は力で相手を叩き伏せていく他、無かったろう。しかも、加賀北半の坊官、地侍、民衆が一体となって抵抗してくるのであれば、1万人余の柴田軍でも、戦力不足であったと思われる。 これを打ち破るには、長島一向一揆を殲滅した時の様に、織田家の総力を上げた3万以上の兵力が必要だったろう。しかし、信長は中国戦線に主力を振り向けており、そんな余裕は無かった。


そこで、柴田軍は単独で出来る事として、一揆方の拠点を一つ一つ潰していく、地道な作戦を取ったのではないか。だが、激しい抵抗を受けて捗捗(はかばか)しい戦果は得られなかったようだ。柴田軍は数年かけても、戦線はまったく拡大しなかった。勝家は信長への聞こえを気にして、心中穏やかではなかったはずである。加賀における織田軍の戦いの様子は、現在ほとんど伝わっていないが、極めて過酷な戦場だったのではないか。


苦戦に喘ぐ柴田軍であったが、天正8年(1580年)3月、織田信長と本願寺顕如が和睦に合意すると、急速に展望が開けてくる。この和睦の条件は、本願寺側が石山の地を退去する代わりに、織田側が占領していた加賀の南2群を本願寺に返還するというものであったが、信長も勝家も折角、占領した土地を返還する気などさらさらなかった。それに加賀の一向一揆は、和平派と抗戦派に分かれて、結束の乱れが生じていた。天正3年(1575年)に信長が越前を平定できたのも、越前の一揆勢が分裂していたからであり、勝家もこれを加賀平定の絶好の機会と捉えた。


そして、勝家はこの和睦に乗じて戦果を拡大すべく、3月中に行動を起こす。柴田軍は手取川を越えると方々に放火して回り、続いて野々市砦を攻め立てて、一揆勢数多を討ち取った。柴田軍は数百艘の舟に兵粮を積み、乱捕りを働きつつ、奥地へ奥地へと焼き討ちを進めていった。民衆にとって村の焼き討ちは、生業、財産、食料、住居、家族を失う事に繋がり、これ以上の打撃は無かった。柴田軍の攻撃は、恐るべき破壊と殺戮を伴うものであったろう。そして、柴田軍はついに加賀を突っ切って、越中まで辿り着いた。
柴田軍は安養寺越え(越中と加賀の境目にある主要道)近辺に軍勢を進めると、坂を右手に南下して白山の麓に至り、そこから能登境の谷々に至る村落を悉く焼き尽くしていった。そして、一揆勢の拠点の一つである木越寺を攻め破り、そこの一揆勢数多を斬り捨てた。


柴田軍はさらに能登国に侵攻し、末盛城の土肥親真を攻め立ててこれを落とし、名立たる侍数多を討ち取った。その間、七尾城の長一族の生き残り、長連竜は柴田軍に呼応して、飯山から諸方に放火を行い、これに対して信長は感状を送ってその働きを讃えた。この一連の出来事の最中に加賀一向一揆の一大拠点である、御山御坊も陥落している。この御山御坊をめぐる攻防戦では佐久間盛政とその弟、勝政が大いに働いたとされる。


盛政軍はまず、御山御坊を守る最前線の要害、木越の三光(光徳寺、光専寺、光琳寺の城塞化された寺院群)に攻めかかった。この戦いには長連龍の軍も盛政に加勢した。連龍は御家再興の機会と必死に戦い、盛政、勝政も激しく攻め立てて、これらの要害を攻め落とした。更に盛政は周辺の城砦群を落とし、御山御坊を裸城とした。御山御坊は台地の先端にあって、堀を巡らせた堅固な要害であったらしい。


だが、盛政は味方した住民の手引きを受けて、背後の台地から御山御坊に痛撃を加えると、留守を預かっていた坊主達は御山御坊を明け渡したと云う。天正8年(1580年)4月の出来事であったらしい。これによって、「百姓の持ちたる国」と謳われた加賀一向一揆の象徴的存在は陥落した。しかし、これで一向一揆との戦いが終った訳では無かった。霊峰白山麓にある鳥越城には、まだ徹底抗戦派の一揆勢が立て篭もっていたのである。


其の二に続く・・・



 
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富田長繁と越前国の動乱

2008.10.30 - 戦国史 其の一
富田長繁は、天文21年(1551年)頃、朝倉家の重臣の子として生まれた。「朝倉記」によれば、元亀元年(1570年)4月、織田信長の越前侵攻に際して、1,000人を率いて出陣したのが、初陣とされる。


元亀3年(1572年)8月織田信長は大軍をもって浅井長政の居城、小谷城を取り囲んだ。危機に陥った長政は直ちに盟主の朝倉義景に救援を求め、義景もこれに応じて、自ら軍を率いて小谷城に陣取った。しかし、時の勢いは信長にあって、義景は守りを固めるのに精一杯であった。8月8日、こういった状況を見越して、朝倉家臣の前波吉継は、義景を見限って織田方に投降し、翌8月9日には、同じく朝倉家臣の富田長繁も降った。 信長はこれら有力部将の投降を喜び、それぞれに褒賞を与えた。


天正元年(1573年)8月朝倉義景は信長によって滅ぼされ、越前国は織田家の所領となった。ところが信長は意外な寛大さを示して、朝倉旧臣の多くを許し、その所領を安堵した。これら朝倉旧臣達の中でも、桂田長俊(前波吉継が改名)は、いち早く信長に投降した事と、越前の道案内を務めた功を評されて、越前守護代に任ぜられた。朝倉時代、側近の1人に過ぎなかった桂田は、一躍、越前全域の行政、軍事を司る全権者となったのだった。それだけに止まらず、朝倉義景が有していた広大な所領をも受け継いでいた。桂田と同じ時期に織田家に通じた富田長繁も、龍門寺城に拠って府中領主に任じられたものの、同輩であった桂田よりも恩賞が少なかったため、大いに不満を抱いた。


同年9月24日、信長は北伊勢の長島一向一揆を攻めんとして、富田長繁ら越前衆も加えた大軍をもって岐阜から出陣した。織田軍は一揆方の城を次々に攻め落とし、一定の成果を上げると、10月25日、帰陣に取り掛かった。ところが、一揆勢は戦力を温存しており、先回りして難所で待ち受けていた。そして、行軍中してきた織田軍に雨あられの如く、弓矢を浴びせかけて、死傷者を続出させた。この苦戦の最中、富田長繁の与党である、毛屋猪介は四方の敵に当たって、抜群の武功を示した。しかし、織田軍不利の状況である事には変わりなく、信長自身も命からがら岐阜に帰り着く有り様であった。


戦いは敗北に終わったが、富田長繁は、与党の毛屋猪介が武功を挙げた事から、その恩賞を、桂田を通して信長に求めた。ところが長繁の勢力増大を警戒してか、桂田はこれを握りつぶしてしまう。朝倉家に仕えていた頃の桂田は、さほどの地位ではなかったが、今では信長の寵を得て、越前の最高権力者となっていた。桂田は
その権威を背景に専横に振る舞い、かつて上席だった朝倉一族さえ家来の様に扱った。そればかりか、信長に進物を送り届けて、更なる寵を受けんとして、越前国内に重税を布くのだった。これにより、朝倉旧臣や領民の心は、桂田から急速に離れてゆき、それに合わせて、桂田と長繁の対立も日毎に深まっていった。


天正元年(1573年)桂田は上洛して信長に謁し、「若輩者に府中を任せるのは不都合であり、長繁とその与力の領地を削減してもらいたい」と申し立てる。これを伝え聞いた長繁は憤激し、こうなれば桂田を討取り、越前領有の既成事実を作って信長に認めてもらう他に無しと、決意するに到った。その桂田は京都から越前に戻る時、にわかに目を患って両眼を失明してしまう。人々は、神の御罰なりと噂したと云う。桂田を激しく憎む長繁は、同じ思いを抱く朝倉景健、景胤らと語らって策を練った。そして、長繁は越前に多数存在する一向宗徒に目を付け、彼らも大いに不満を抱いている事を知って、これを煽動せんとした。一向宗徒の蜂起を切っ掛けに自らも挙兵し、一挙に桂田を討たんとしたのである。


天正2年(1574年)1月18日、ついに一向宗徒が蜂起すると、長繁もそれに合わせて挙兵し、両者は合流して2万人余の軍勢となって桂田の居る一乗谷を目指した。一方の桂田は普段の行いからか、味方する者はほとんどおらず、僅か500人余で迎え撃たねばならなかった。しかも、桂田は失明して指揮が執れないとあって、あえなく一族諸共、討ち取られた。続いて、長繁と一揆軍は、信長が越前の目付けとして置いていた三人の奉行も追放した。この後、長繁は自らの地位を固めんとしてか、同僚で、鳥羽城主である魚住景固(うおずみ・かげたか)も粛清せんとした。そして、
同年1月24日長繁は魚住景固とその次男を朝食に招くと、酩酊させた上で、自ら魚住父子を斬殺した。続いて鳥羽城に手勢を差し向け、魚住一族を皆殺しにして、その所領を奪い取ったのだった。


これで、長繁は越前で並ぶ者のいない地位に立った。天正2年(1574年)1月29日の南条郡、慈眼寺に宛てた長繁の制札に国中の屋敷(棟別銭)を免ずるとの条があるので、長繁は一時的であるが、越前全域に統治権を及ぼした模様である。この時、長繁は己の権力に酔いしれた事だろう。しかし、それは束の間の栄光であった。魚住一族を滅ぼした事によって、朝倉旧臣達は次は自分達かもしれないと思い定めて、所領に篭って武備を固め始めたのである。長繁は越前の諸侍に叛かれ、早くも越前支配が立ち行かなくなってしまった。



信長はこうした越前の動乱に対して、兵を動かすことが出来なかった。甲斐の武田勝頼や長島一向一揆、石山本願寺の動向が気になる状況であったし、越前国境の峠も積雪で閉ざされていたからである。信長は岐阜から事態を望見するしかなかったが、そのような折、長繁から侘びを請う使者が送られて来たと云う。長繁にとって桂田との争いは国支配の主導権をめぐる争いであり、信長に対する反抗ではなかった。そのため、詫びを入れて守護代の朱印状を得ようとしてきたのである。この詫び云々の真偽のほどは定かではないが、当時こういう風聞は流れていた。風聞故、その時の信長の反応も定かではないが、長繁の要求は通らなかったであろう。


一向一揆と結んでの蜂起、越前守護代に任じていた桂田の殺害、越前に留め置いた3人の奉行の追放、この様な長繁の勝手を許せば、他に示しがつかなくなる。如何なる理由があろうと、長繁の行動は信長にとって身勝手極まるものに映り、遅かれ早かれその征討を受けたであろう。そして、長繁が信長に誼を通じようとした動きは、一向宗徒に洩れ伝わってしまったと云う。一向宗徒が長繁に協力したのは、織田方の桂田や三奉行を敵としたからであり、その信長と長繁が結ぶとあれば、一向宗徒にとっては許し難い行為であった。



こうした越前の混乱を知って、大坂の本願寺顕如が動き出した。この混乱に付け込んで、越前を一向一揆持ちの国に作り変え、信長への反抗拠点にせんと試みたのである。当時、顕如率いる本願寺勢は信長の攻勢を受けて衰退しつつあったが、越前に退勢挽回の機会を見出したのである。そして、長繁を始めとする越前の支配層を一掃すべく、顕如は、越前一向宗徒達に向けて、「長繁を討て!」と激を飛ばした。これを受けて、越前中の一向宗徒達が立ち上がった。更に顕如は隣国、加賀から坊官の七里頼周を送り込んで、越前の一揆勢を統率させた。この一揆勢は10万人以上と号される勢力(実数は3~4万人か)となり、さらに朝倉旧臣の朝倉景健、朝倉景胤らも加わって、圧倒的な勢力となった。


一方の富田方は府中の町衆や、誠照寺・証誠寺・専照寺などの一向宗三門徒寺院(本願寺とは宗派違いと思われる)に知行を約束して味方につけるが、これらの合力衆を合わせても5、6千人余でしかなかった。2月13日富田方と一揆勢との戦闘が始まったが、圧倒的多数の一揆勢によって長繁の部将、増井甚内が方山真光寺城で討たれ、同日中に毛屋猪介も北の庄で討たれてしまう。勢いに乗った一揆勢は長繁の本拠、府中まで押し寄せ、これを隙間なく包囲した。2月16日早朝長繁は、このまま竜門寺城に篭もれば座して死を待つばかりと見て、7百騎の手勢をもって城から打って出ると、一揆勢の大軍に向かって遮二無二、突撃した。


思慮分別こそ足りないものの、長繁は武勇に長けた歴戦の猛者であり、自ら先陣に立って敵中を縦横に駆け巡り、ついには一揆軍の本陣まで攻め破った。長繁は逃げ散る一揆勢を追って数多を討ち取り、夕刻になって悠々、府中に引き揚げた。
2月17日勢いに乗った長繁は府中の町衆や三門徒寺院の兵を引き連れ、再び一揆勢に挑みかかった。前日は敗れたとはいえ、七里頼周率いる一揆勢はまだまだ大人数であり、返り討ちにせんと取り巻くが、長繁の突撃を受けてまたもや散々に打ち破られてしまう。一揆勢を蹴散らした長繁は勢いに乗って、朝倉景健が陣取る長泉寺山へと攻め掛かった。だが、高所に陣取る朝倉勢は頑強に抵抗し、こちらは双方一歩も引かずに激戦となり、長繁は一旦、兵を引いて山麓で夜を明かした。


2月18日早朝長繁は攻撃を再開し、自ら先陣に立って突撃してゆくが、突如、背後から一発の銃声が響いて、どっと馬から崩れ落ちた。その銃を撃ったのは、小林吉隆と云う者であった。この者は、長繁が一乗谷を攻めたときは桂田側であったが、形勢を見て富田側へ寝返っており、更に今度は一揆勢へと寝返りをうったのであった。この時、富田長繁は若干24歳。類まれな剛勇の持ち主でありながら、裏切り、反乱を重ねた、短くも強烈な人生であった。そして、大将を失った富田勢は散々に打ち破られ、その支配は瓦解した


この後、一揆勢は三門徒寺院と朝倉旧臣達を攻め滅ぼし、さらに反目する平泉寺と朝倉景鏡も討ち滅ぼして越前は一揆持ちの国となった。一揆勢は越前を制すると、信長の侵攻に備えて、国境に大規模な山城、木ノ芽城を築いた。これによって、越前は本願寺領国として磐石の基盤を整えたかに見られた。しかし、それは足元から崩れ落ちて行く。
新たに支配者として君臨した本願寺坊官と、蜂起に活躍した越前門徒との間で対立が生じて、それが武力抗争にまで発展してしまう。そうしたところへ、信長の調略の手も伸びてくる。一揆勢同士の疑心暗鬼と内紛によって、越前の防衛体制は戦う前から穴だらけとなっていた。心ある者はこの状況を憂いていたが、如何ともし難かった。国境の砦を守っていた一向宗指導者の、切迫した危機を訴える書状も現存している。天正3年(1575年)8月15日、信長はそういった状況を十分見越した上で、有力部将を総動員した3万以上の大軍を率いて、越前侵攻を開始する。


織田軍は、本願寺を裏切った堀江景忠の手引きによって国境を抜くと、そうと知った木ノ芽城の一揆勢は戦わずして逃走していった。一揆勢は越前府中に逃れようとしたが、そこには既に明智光秀や羽柴秀吉の軍が手ぐすね引いて待ち構えており、
一揆勢2千人余が片っ端から斬殺されていった。信長はこの惨状を、「府中の町は、死骸ばかりにて一円あき所なく候、見せたく候、今日は山々谷々を尋ね捜し打ち果すべく候」と自慢げに書状に認めて、京都所司代、村井貞勝宛てに送っている。さらに信長は、「山林を尋ね探り、男女を問わず斬り捨てよ」と厳命し、山へ逃げ込んだ者らを引きずり出して、門徒かどうか確かめもせずに片っ端から首を刎ねていった。


こうして、少なくとも1万人を超える一揆勢が斬り殺されると共に、多数の人々が奴隷として何処かに連行されていった。翌天正4年(1576年)府中周辺では再び一揆勢が蜂起するが、これも織田軍によって、容赦なく鎮圧される。(この出来事は、天正8年(1580年)教如が一揆蜂起を呼びかけた際に起こったものであるとも)。捕らえられた一揆勢は、前田利家の手によって虐殺されていった。後年、小丸城跡から発見された瓦には、その時の様子が書き残されている。

「この書物、後世に御覧になり、話していただきたい。5月24日に一揆おこり、前田又左衛門尉殿が、千人ばかり生け捕りにされ、御成敗は磔(はりつけ)、また釜に入れてあぶられ候なり。一筆書き留どめ候」

富田長繁を滅ぼし、強勢を誇った越前一向一揆もこうして歴史の片隅に消えていった。




駄目な戦国武将

2008.10.29 - 戦国史 其の一
戦国武将は名将ばかりではありません。中には駄目な武将だなと思える人物もいます。個人的にはこの人が一番駄目な武将の様に思えます。


大友 義統(1558~1610)

大友宗麟の後を継いで、当主となるも指導力を発揮出来ず、耳川の戦いの敗北の一因ともなる。この敗北後、大友家分国では反乱が続発するが、義統はなんらの対処も出来ず、隠居していた父、宗麟の力を頼む。 家臣団を始め、宗麟自身も義統の能力には疑問をもっていたらしい。


天正14年(1586年)、島津家が九州統一を目指し、大友家の領国に攻め込んでくると大友家部将の高橋紹運・利光宗魚らは城に立て篭もり、最後まで戦って討死するが、義統は戦わずして居城を捨てて逃げ出したと云う。


文禄2年(1593年)、朝鮮出兵の折には渡海して軍を率いるも、無断で撤退して豊臣秀吉の逆鱗に触れ、御家取り潰しに遭う。 その後、毛利氏に預けられ幽閉されたが、慶長3年(1598年)の秀吉の死によって解放される。


慶長5年(1600年)9月、関ヶ原の戦いが勃発すると、東軍側に付いたほうが良いという家臣の進言もあったが、義統は西軍側で参戦する。義統は毛利輝元の後援を受け、御家再興を目指して、旧領、豊後に上陸する。そして、石垣原に於いて黒田如水の軍と激突するが敗北し、忠臣の吉弘統幸らは討ち死にしてしまう。しかし、義統自身は剃髪して降伏する。その後、常陸の国に流刑にされ、生涯を終える。 享年53歳


何もかもが裏目に出た義統だが、関ヶ原の戦いに於いて嫡男、義乗が徳川家康の元にいた事が幸いして、高家として取り立てられたので、大友家はその後も名家として存続する事だけは出来た。



戦国に生きる民衆

2008.10.26 - 戦国史 其の一
日本残酷物語と言う本に書かれていたエピソードを紹介したい。


土佐の国にある本川谷は、ヒノキを始めとする豊かな森林に覆われている土地であった。しかし、本川谷から山一つ隔てた先は伊予の国で、そこは、瀬戸内海に面した貧しい土地であった。そこで伊予側の者は、本川谷に忍び入っては無断で材木を盗伐し、それによって生計を立てていた。しかし、戦国時代、長宗我部氏によって土佐一国が統一されると、この本川谷は長宗我部氏の最前線となり、隣国、伊予の者に対する警戒が強められた。そして、山番達に鉄砲、刀を持たせて、伊予からの越境伐採者を厳しく取り締まるようになった。


この政策は、長宗我部氏が滅んだ後に入封した土佐藩、山内氏にも受け継がれ、伊予との国境沿いの峰筋には、一里、二里くらいの間隔で山守番所が作られていった。山守番所には、藩の役人の他、見張り役を勤める下番下人も詰めていた。下番下人とは、村から交代で夫役をしている者で、昼夜見張りをしなければならなかった。これら山番は鉄砲を所持して、見通しのきく場所で見張るのであるが、何分、山ひだの多い山地である事から、尾根一つ越えた向こうはもう何も見えなかった。


盗伐者達は昼間、密かに忍び入って、これと思う木を見立てておいて、夜になると火を灯してヒノキを刈り始める。深い山林の事ゆえ、夜でも火が周囲に洩れる事は少ない。切り倒した木は厚板にして担ぎ上げ、夜明け頃には山を越えて帰って行く。これに対して、山番達も油断なく峰々を警戒し、灯火を発見すると直ちに仲間を集めて、火を頼りに忍び寄る。そして、盗伐者を捕縛するか、撃ち殺すかにした。しかし、深い山中で斧の音や鋸の音を聞く事はあっても、火が見えない事もあった。例え火を見つけたとしても、それが深い谷を隔てている場合もあり、捜査は困難を極めた。


山番は盗伐者を見つけると、すぐさま取り押さえに向かうのだが、それがまた困難であった。山中に道らしい道など無く、漆黒の樹林が広がるのみである。そんな中を、火を灯さず、音も立てずに忍び歩かねばならない。はぐれたり谷に落ちないよう、お互いに縄を括って、慎重に進んでいった。火縄も竹筒に入れて火が盗伐者に見つからないようにして忍び寄り、盗伐者の逃げ道を想定して、途中でじっと待つのである。そして、夜明け近くになって盗伐者達が5人10人と、焚火を囲んで飯を食い始めると、ここぞとばかりに鉄砲を撃ちかけた。


すると盗伐者達は担いできた厚板を打ち捨てて、ほうほうの体で逃げて行く。しかし、中には追い詰められて斧を手に取り、斬りかかって来る者もあった。山番は、抵抗する者は即座に射殺していった。このような不運不屈の盗伐者は、樹下に自然石を立てて埋められ、当時、そのような墓が山中に無数あったと云う。捕らえられた盗伐者は耳を削がれ、髻(もとどり・束ねた髪)を切られ、衣類、ふんどしまで剥がれた挙句、追放された。


こういった知られざる山中の戦いは、山番側が鉄砲を持っている強みで、勝利を収める事がほとんどであったが、時には盗伐者側の逆襲を受ける事もあった。山中で1人2人で見回りに歩いていると、突然、盗伐者に襲撃される事もある。山番がたいして抵抗しなければ、裸体にされて大木に括(くく)り付けられ、打ち叩かれる程度であったが、抵抗しようものなら、磔(はりつけ)の様に両腕を長い木に括りつけられて放り出される。しかし、そのような状態で、密林の中は歩けない。大抵は散々もがいた挙句、苦しみながら絶命していくのだった。また、崖から突き落とされて殺される者もあった。この様な状態は、明治の世になるまで続いたと云う。これは、お互いの生活に余裕がなかったためであった。


この話は土佐の国の話であるが、当時は日本全国でこの様な事が起こっていたのでは?と思われる。


異論もあるが、戦国時代は戦乱の影響で飢饉が頻発して、人々は常に飢えていたとされている。その日一日食べるだけでも大変であるのに、年貢を取り立てられ、軍役にも駆り出される。また、自分の住む村に戦火が及ぶと田畑は荒らされ、娘、女房は暴兵に襲われ、家は焼かれるといった具合で、当時の民衆は大変な苦労をしていた。しかし、民衆も只、黙っていた訳ではなく、時として一揆を起こして支配者に抵抗したり、攻め込もうとしている勢力と交渉して禁制(乱暴、狼藉をしないという約束事)を取り付けたりもしている。(もっとも禁制を取り付けるには、相手勢力に多額の謝礼を渡さねばならない。この謝礼が戦国大名の資金源ともなっていた)


また、民衆達は自衛の為に村の城を築き、いざと言うときにはそこに避難をし、または寺や支配者の城などにも避難していた。 民衆を敵の蹂躙から守るのは、戦国大名の責務の一つでもあった。他国の戦国大名に侵入されて、度々、村々が蹂躙されるような事態を迎えると、民衆は敵の蹂躙を許した、力無き戦国大名の方を恨み、統治者として失格であると見なした。


民衆による落ち武者狩りであるが、これは当然といえば当然の行為であると言えるかもしれない。民衆は自らの生活を武士によって散々、脅かされているので、日頃の鬱憤を晴らすと共に、落ち武者を討って鎧兜を剥ぎ取り、それを売って生活の足しとしたのだろう。しかし、落ち武者狩りされる側も、農兵である場合が多かったと思われる。いつの世も、民衆の犠牲が最も大きいのだろう。ただ、戦国時代はあれほどの戦乱の世であったにも関わらず、総人口自体は増えていたらしい。戦乱の影響で飢饉が頻発していたとしても、戦国大名の富国強兵策で、全体としては開発が進み、生産力は上がっていたと思われる。


余談となるが、戦国の甲斐武田氏の領国では、税がかなり高かったようだ。当時は棟別銭という家屋に掛ける税があったが、北条氏は50文(35文まで減税した事もある)、伊達氏は100文、武田氏は200文であった。これだけで武田氏は重税であったと決め付ける事は出来ないが、おおよその目安にはなる。武田家の大規模な軍事活動は、金山と民衆への高い税で成立っていたのかもしれない。


武田信玄 対 織田信長

2008.10.26 - 戦国史 其の一

元亀4年(1573年)西上作戦時、武田信玄は織田信長に勝てたのか?


元亀3年(1572年)、甲斐の虎の異名を持つ戦国の強豪、武田信玄は将軍、足利義昭の誘いに乗って織田信長と敵対する。同年10月3日、信玄は甲斐を発ち、軍を西に進めた。この時の信玄の軍は総勢3万人と云われ、その内5千は山県昌景が率いて、信濃飯田から奥三河の制圧に向かい、もう3千は秋山信友が率いて、東美濃の岩村城攻撃に向かう。信玄自身は北条家の2千の援兵を含む2万2千の軍を率いて、遠江に侵入した。そして、信玄は徳川家康の所領、三河・遠江の北部を制圧し、10万石余りを切り取った。


信玄本隊は山県隊と合流した後、浜松城を素通りし、堀江城の攻略を目指して三方ヶ原台地を通過する。ここで家康は背後から武田軍を襲うべく出陣するが、信玄はこの動きを読んでおり、三方ヶ原台地で徳川軍を待ち受けた。そして、同年12月22日、武田軍2万7千、対、徳川軍1万1千は三方ヶ原において激突し、数に勝る武田軍はこれを打ち破って、徳川軍1800人余を討ち取った。


この勝利の後、信玄は三方ヶ原台地西麓の刑部で年を越える。その頃、北近江で信長と対峙していた朝倉義景はそこで信長を牽制しておくべきだったのだが、信長が岐阜に引き揚げてしまうと、自らも本国、越前に撤兵してしまった。これを知ると信玄は大いに怒って、書状を送って義景の行動を非難する。「貴軍が帰国してしまった事を聞き、大いに驚いている。兵をいたわることは当然のことながら、信長を滅ぼす絶好の機会であったのに、貴軍の作戦は労多くして功なしと言うべき軽薄な行為である。」


そして、信玄は三方ヶ原での勝利を伝え再度の出兵を促すが、義景は積雪と疲労を理由に応じなかった。それでも信玄は、翌元亀4年(1573年)1月になると三河に侵入して野田城を囲んだ。そして、同年2月中旬に野田城を開城させたところで信玄の持病が悪化し、武田軍の進撃は停止する。信玄は長篠城で2ヵ月余治療に専念するも、病状は一向に良くならず、甲斐に撤退することを決意した。だが、同年4月12日、帰還途上、信濃駒場で信玄は病没する。この信玄の死で信長包囲網は瓦解し、信長は大きな危機を脱した。


この西上作戦において、信玄に後、数年の余命があれば天下を取れていたとはよく云われている。当時、信玄に勝ち目はあったのだろうか? 太閤検地の石高と一万石で250人の動員力を得られたとして、1573年当初の両陣営の戦力を推測してみる。


●「織田家の推定戦力 」

(石高)          (動員力 )
尾張57,2万石    14,300人 
美濃54,0万石    13,500人 
伊勢56,7万石    14,175人 
志摩 1,8万石      450人 
山城22,5万石     5,625人 
若狭 8,5万石     2,125人

他に近江60万石余りを切り取り、大和・摂津・和泉・河内の一部または大部分に勢力圏を有していたと思われる。だいたい300万石余りの石高を有し、動員力は7万5千人余であったというところか。ただ、当時の織田家の所領は、敵対勢力(本願寺・足利・松永・三好など)の所領と複雑に入り混じっていて正確な事は分らない。1568年の信長上洛以降、織田家は急激に勢力を拡張し、1573年には戦国最大級の大名に成長している。しかし、その反動も大きく、徳川家を除く、周囲全てが敵となって苦境にあった。


「織田家の盟友、徳川家」

(石高)          (動員力 )
三河29,0万石    7,250人 
遠江25,5万石    6,375人 

合計54万石・動員力13600人だが、1573年には武田信玄に10万石余りを切り取られていたそうなので、石高44万石で動員力は11000人ほどか。しかし、三方ヶ原で打撃を受けている事に加えて、領土も蚕食されているので、積極的な行動は出来ず、武田方の城に牽制攻撃を加えるか、織田家に数千の援軍を派遣できる程度だと思われる。


●反織田勢力の推定戦力。


「反織田の盟主である武田家」

(石高)          (動員力 )
信濃 40,8万石   10,200人 
甲斐 22,7万石    5,675人 
駿河 15,0万石    3,750人 
西上野20,0万石    5,000人 
東美濃 5,0万石    1,250人 

三河、遠江の内、10万石余りを切り取り、飛騨、越中の一部にも勢力圏を有していたとされている。信玄の最盛期にはだいたい120万石余りの勢力圏で動員力は3万人ほど。信玄の背後には強敵、上杉謙信が控えているが、本願寺顕如を通して越中で大規模な一向一揆を起こさせ、そちらに謙信を釘付けにさせていたので、西上作戦時は武田家のほぼ全力を投入出来た。


「朝倉家 」

(石高)         (動員力 )
越前49,9万石   12,500人

石高は約50万石で、動員力は12,500人。若狭や加賀南部にも勢力が及んでおり、最大2万人を動員していたとも。武田家に次ぐ軍事侵攻能力があったと思われ、信玄や顕如も当てにしていた戦力だが、義景の動きは鈍く、両者とも抗議の書状を送っている。しかし、この頃には領国の疲弊が進み、浅井家を救援する事すらままならない状況だったのかもしれない。1572年から、義景を見限って織田家に寝返ったり、出兵を拒否する重臣が現れている。


「浅井家 」

(石高)           (動員力 )
近江北部15万石余   3,750人

最盛期には近江北半分39万石、動員力は1万人余あった。しかし、1573年には織田家にかなり追い詰められており、石高は15万石程度で、動員力は3~4千人余だったのではないか。しかも、浅井・朝倉家は小谷城正面にある虎御前山砦を初めとする城砦群によって封鎖されており、衰えを見せる両家の力では、これらを突破する事すら難しい状況にあった。それでも、朝倉義景が自ら出向き、牽制攻撃を加えるなりすれば、織田家もある程度の戦力は差し向ける必要があったと思われる。


「三好家 」

(石高)          (動員力 )
 讃岐12,6万石    3,150人 
阿波18,4万石     4,575人 
淡路 6,2万石     1,550人 
河内の北半分を三好義継が領有 12、0万石    2,700人

主な人物は三好三人衆、三好義継、三好康長など。
これ以外にも、畿内に幾つかの拠点を有していた模様。大体、石高50万石ほどで動員力は1万2千人ほど。三好家は三好長慶の元で一つにまとまっていた頃は強大であったものの、長慶の死後は内部抗争を繰り返して、一枚岩ではなくなっている。侮れない戦力は有しているものの、統一された強力な軍事行動は出来なかったように思われる。


「本願寺 」

石山本願寺に1万5千人余で、伊勢長島に2~3万人余の一揆衆が存在していた。かなりの人数を誇るが、これらには多数の非戦闘員も含まれている。他に加賀や、紀伊雑賀にも強力な一向一揆が存在して本願寺を支援しており、近江の一向一揆も浅井・朝倉を支援していた。一向一揆はゲリラ戦を展開して、防御戦には滅法強いが、他国に侵攻する意志と能力があったのかは疑問である。史実では加賀の一向一揆が越前に侵攻したりしているが、石山本願寺、長島一向一揆はほとんどその場を動いていない。


「その他の反織田勢力 」

足利義昭の幕府衆が3千~5千人ほど。松永久秀は大和45万石の内、20万石?5千人ほど。他には近江南部に六角家の残党と、山城に反織田の国衆が存在していた。これらの勢力は織田家に取っては厄介な存在だが、単独では織田家に対抗は出来ず、牽制する程度であろう。


織田側と反織田側で主な勢力を挙げてみたが、両陣営合わせると数的には反織田側が優勢であるように見える。ただし、この中で他国に侵攻して強力な打撃を与えうるのは、武田家と織田家だけではなかろうか。織田家は動員力7万5千人なのに対し、武田家は3万人なので、常識的には信玄に勝ち目はないのだが、当時の織田家は周囲を敵対勢力に包囲されていたので畿内の兵力は動かせず、伊勢にも長島一向一揆が存在していたので、信長が信玄に対応できる兵力は尾張・美濃の2万7千人余だけだったのではないか。なので、信玄が領国の力を結集した3万人余の兵を引き連れれば、信長との決戦も不可能ではなかった。


信玄は健康であれば、元亀4年(1573年)春に東美濃から打って出る予定であったと云われている。信玄は、その美濃侵攻を前にして、美濃の国人達に内応工作を行い、郡上八幡城主の遠藤慶隆などはこれに応じる用意があったとされている。後年、武田家に内通していたとして天正8年(1580年)に信長に追放された美濃の有力者、安藤守就もこの時、密かに信玄と通じていた可能性があった。


信玄にいま少し余命が延びたとして、元亀4年(1573年)春に作戦を開始したと仮定してみる。


信玄はまず、本願寺、朝倉など反織田勢力を動かして、織田家の戦力を分散させる。その上で美濃の国人を幾人か寝返らせるか、日和見をさせて、さらに信長の戦力を分散させる。そして、仕上げとして、信長の本拠、岐阜城に近い城を攻めたてて、後詰めに来るであろう信長に決戦を試みる。 どれだけ分散させたとしても、信長の手元には、2万5千人余の兵力は揃っていたと思われるが、これ以上、条件が良くなる事は無かっただろう。信玄も総力を上げた3万人余の兵を持って、相対する事となる。この信長との決戦に勝利すれば、武田家による天下統一も夢ではなくなる。だが、信長も黙って手をこまねいているはずはなく、家康や謙信に働きかけて、信玄の背後を騒がせたに違いない。そして、両者が要請通りに動いたなら、信玄は家康対策に5千人、謙信対策に1万人は割かねばならない。そうなれば、信玄の手元の兵力は1万5千に半減して、信長との決戦はおぼつかなくなる。


決戦の前提条件は、謙信の封じ込めであった。そのため、越中の一向一揆や、関東の北条氏に強力に働きかけて、牽制してもらる必要があった。これに成功したなら、家康対策に5千を割いた上で、残りの2万5千をもって決戦に臨む事になったろう。兵数的には互角の条件が揃った様に見えるが、信長にはまだ切り札があった。それは鉄砲である。信長は、日本有数の鉄砲産地、和泉国の堺や近江国の国友を押さえていたので、1573年の時点で2千丁余の鉄砲は保有していたと思われる。武田軍はせいぜい5,6百丁といったところだろう。鉄砲は防衛戦において、絶大な威力を発揮する。信玄が下手に攻撃しようものなら、長篠の戦いの様な惨敗を喫したであろう。だが、これを打ち破らねば、天下には届かない。信玄の腕の見せ所であった。史実では、信長は、1573年中に朝倉義景、浅井長政、三好義継を滅ぼし、足利義昭も追って一気に版図を拡大しているが、信玄と対峙していたなら、それらは不可能であったろう。信玄の余命が1年でも延びていたなら、戦国の歴史は大きく書き換えられていた可能性があった。




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重家 
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史跡巡り・城巡り・ゲーム
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