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戦国に生きる民衆

2008.10.26 - 戦国史 其の一
日本残酷物語と言う本に書かれていたエピソードを紹介したい。


土佐の国にある本川谷は、ヒノキを始めとする豊かな森林に覆われている土地であった。しかし、本川谷から山一つ隔てた先は伊予の国で、そこは、瀬戸内海に面した貧しい土地であった。そこで伊予側の者は、本川谷に忍び入っては無断で材木を盗伐し、それによって生計を立てていた。しかし、戦国時代、長宗我部氏によって土佐一国が統一されると、この本川谷は長宗我部氏の最前線となり、隣国、伊予の者に対する警戒が強められた。そして、山番達に鉄砲、刀を持たせて、伊予からの越境伐採者を厳しく取り締まるようになった。


この政策は、長宗我部氏が滅んだ後に入封した土佐藩、山内氏にも受け継がれ、伊予との国境沿いの峰筋には、一里、二里くらいの間隔で山守番所が作られていった。山守番所には、藩の役人の他、見張り役を勤める下番下人も詰めていた。下番下人とは、村から交代で夫役をしている者で、昼夜見張りをしなければならなかった。これら山番は鉄砲を所持して、見通しのきく場所で見張るのであるが、何分、山ひだの多い山地である事から、尾根一つ越えた向こうはもう何も見えなかった。


盗伐者達は昼間、密かに忍び入って、これと思う木を見立てておいて、夜になると火を灯してヒノキを刈り始める。深い山林の事ゆえ、夜でも火が周囲に洩れる事は少ない。切り倒した木は厚板にして担ぎ上げ、夜明け頃には山を越えて帰って行く。これに対して、山番達も油断なく峰々を警戒し、灯火を発見すると直ちに仲間を集めて、火を頼りに忍び寄る。そして、盗伐者を捕縛するか、撃ち殺すかにした。しかし、深い山中で斧の音や鋸の音を聞く事はあっても、火が見えない事もあった。例え火を見つけたとしても、それが深い谷を隔てている場合もあり、捜査は困難を極めた。


山番は盗伐者を見つけると、すぐさま取り押さえに向かうのだが、それがまた困難であった。山中に道らしい道など無く、漆黒の樹林が広がるのみである。そんな中を、火を灯さず、音も立てずに忍び歩かねばならない。はぐれたり谷に落ちないよう、お互いに縄を括って、慎重に進んでいった。火縄も竹筒に入れて火が盗伐者に見つからないようにして忍び寄り、盗伐者の逃げ道を想定して、途中でじっと待つのである。そして、夜明け近くになって盗伐者達が5人10人と、焚火を囲んで飯を食い始めると、ここぞとばかりに鉄砲を撃ちかけた。


すると盗伐者達は担いできた厚板を打ち捨てて、ほうほうの体で逃げて行く。しかし、中には追い詰められて斧を手に取り、斬りかかって来る者もあった。山番は、抵抗する者は即座に射殺していった。このような不運不屈の盗伐者は、樹下に自然石を立てて埋められ、当時、そのような墓が山中に無数あったと云う。捕らえられた盗伐者は耳を削がれ、髻(もとどり・束ねた髪)を切られ、衣類、ふんどしまで剥がれた挙句、追放された。


こういった知られざる山中の戦いは、山番側が鉄砲を持っている強みで、勝利を収める事がほとんどであったが、時には盗伐者側の逆襲を受ける事もあった。山中で1人2人で見回りに歩いていると、突然、盗伐者に襲撃される事もある。山番がたいして抵抗しなければ、裸体にされて大木に括(くく)り付けられ、打ち叩かれる程度であったが、抵抗しようものなら、磔(はりつけ)の様に両腕を長い木に括りつけられて放り出される。しかし、そのような状態で、密林の中は歩けない。大抵は散々もがいた挙句、苦しみながら絶命していくのだった。また、崖から突き落とされて殺される者もあった。この様な状態は、明治の世になるまで続いたと云う。これは、お互いの生活に余裕がなかったためであった。


この話は土佐の国の話であるが、当時は日本全国でこの様な事が起こっていたのでは?と思われる。


異論もあるが、戦国時代は戦乱の影響で飢饉が頻発して、人々は常に飢えていたとされている。その日一日食べるだけでも大変であるのに、年貢を取り立てられ、軍役にも駆り出される。また、自分の住む村に戦火が及ぶと田畑は荒らされ、娘、女房は暴兵に襲われ、家は焼かれるといった具合で、当時の民衆は大変な苦労をしていた。しかし、民衆も只、黙っていた訳ではなく、時として一揆を起こして支配者に抵抗したり、攻め込もうとしている勢力と交渉して禁制(乱暴、狼藉をしないという約束事)を取り付けたりもしている。(もっとも禁制を取り付けるには、相手勢力に多額の謝礼を渡さねばならない。この謝礼が戦国大名の資金源ともなっていた)


また、民衆達は自衛の為に村の城を築き、いざと言うときにはそこに避難をし、または寺や支配者の城などにも避難していた。 民衆を敵の蹂躙から守るのは、戦国大名の責務の一つでもあった。他国の戦国大名に侵入されて、度々、村々が蹂躙されるような事態を迎えると、民衆は敵の蹂躙を許した、力無き戦国大名の方を恨み、統治者として失格であると見なした。


民衆による落ち武者狩りであるが、これは当然といえば当然の行為であると言えるかもしれない。民衆は自らの生活を武士によって散々、脅かされているので、日頃の鬱憤を晴らすと共に、落ち武者を討って鎧兜を剥ぎ取り、それを売って生活の足しとしたのだろう。しかし、落ち武者狩りされる側も、農兵である場合が多かったと思われる。いつの世も、民衆の犠牲が最も大きいのだろう。ただ、戦国時代はあれほどの戦乱の世であったにも関わらず、総人口自体は増えていたらしい。戦乱の影響で飢饉が頻発していたとしても、戦国大名の富国強兵策で、全体としては開発が進み、生産力は上がっていたと思われる。


余談となるが、戦国の甲斐武田氏の領国では、税がかなり高かったようだ。当時は棟別銭という家屋に掛ける税があったが、北条氏は50文(35文まで減税した事もある)、伊達氏は100文、武田氏は200文であった。これだけで武田氏は重税であったと決め付ける事は出来ないが、おおよその目安にはなる。武田家の大規模な軍事活動は、金山と民衆への高い税で成立っていたのかもしれない。


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