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武田信玄 対 織田信長

2008.10.26 - 戦国史 其の一

元亀4年(1573年)西上作戦時、武田信玄は織田信長に勝てたのか?


元亀3年(1572年)、甲斐の虎の異名を持つ戦国の強豪、武田信玄は将軍、足利義昭の誘いに乗って織田信長と敵対する。同年10月3日、信玄は甲斐を発ち、軍を西に進めた。この時の信玄の軍は総勢3万人と云われ、その内5千は山県昌景が率いて、信濃飯田から奥三河の制圧に向かい、もう3千は秋山信友が率いて、東美濃の岩村城攻撃に向かう。信玄自身は北条家の2千の援兵を含む2万2千の軍を率いて、遠江に侵入した。そして、信玄は徳川家康の所領、三河・遠江の北部を制圧し、10万石余りを切り取った。


信玄本隊は山県隊と合流した後、浜松城を素通りし、堀江城の攻略を目指して三方ヶ原台地を通過する。ここで家康は背後から武田軍を襲うべく出陣するが、信玄はこの動きを読んでおり、三方ヶ原台地で徳川軍を待ち受けた。そして、同年12月22日、武田軍2万7千、対、徳川軍1万1千は三方ヶ原において激突し、数に勝る武田軍はこれを打ち破って、徳川軍1800人余を討ち取った。


この勝利の後、信玄は三方ヶ原台地西麓の刑部で年を越える。その頃、北近江で信長と対峙していた朝倉義景はそこで信長を牽制しておくべきだったのだが、信長が岐阜に引き揚げてしまうと、自らも本国、越前に撤兵してしまった。これを知ると信玄は大いに怒って、書状を送って義景の行動を非難する。「貴軍が帰国してしまった事を聞き、大いに驚いている。兵をいたわることは当然のことながら、信長を滅ぼす絶好の機会であったのに、貴軍の作戦は労多くして功なしと言うべき軽薄な行為である。」


そして、信玄は三方ヶ原での勝利を伝え再度の出兵を促すが、義景は積雪と疲労を理由に応じなかった。それでも信玄は、翌元亀4年(1573年)1月になると三河に侵入して野田城を囲んだ。そして、同年2月中旬に野田城を開城させたところで信玄の持病が悪化し、武田軍の進撃は停止する。信玄は長篠城で2ヵ月余治療に専念するも、病状は一向に良くならず、甲斐に撤退することを決意した。だが、同年4月12日、帰還途上、信濃駒場で信玄は病没する。この信玄の死で信長包囲網は瓦解し、信長は大きな危機を脱した。


この西上作戦において、信玄に後、数年の余命があれば天下を取れていたとはよく云われている。当時、信玄に勝ち目はあったのだろうか? 太閤検地の石高と一万石で250人の動員力を得られたとして、1573年当初の両陣営の戦力を推測してみる。


●「織田家の推定戦力 」

(石高)          (動員力 )
尾張57,2万石    14,300人 
美濃54,0万石    13,500人 
伊勢56,7万石    14,175人 
志摩 1,8万石      450人 
山城22,5万石     5,625人 
若狭 8,5万石     2,125人

他に近江60万石余りを切り取り、大和・摂津・和泉・河内の一部または大部分に勢力圏を有していたと思われる。だいたい300万石余りの石高を有し、動員力は7万5千人余であったというところか。ただ、当時の織田家の所領は、敵対勢力(本願寺・足利・松永・三好など)の所領と複雑に入り混じっていて正確な事は分らない。1568年の信長上洛以降、織田家は急激に勢力を拡張し、1573年には戦国最大級の大名に成長している。しかし、その反動も大きく、徳川家を除く、周囲全てが敵となって苦境にあった。


「織田家の盟友、徳川家」

(石高)          (動員力 )
三河29,0万石    7,250人 
遠江25,5万石    6,375人 

合計54万石・動員力13600人だが、1573年には武田信玄に10万石余りを切り取られていたそうなので、石高44万石で動員力は11000人ほどか。しかし、三方ヶ原で打撃を受けている事に加えて、領土も蚕食されているので、積極的な行動は出来ず、武田方の城に牽制攻撃を加えるか、織田家に数千の援軍を派遣できる程度だと思われる。


●反織田勢力の推定戦力。


「反織田の盟主である武田家」

(石高)          (動員力 )
信濃 40,8万石   10,200人 
甲斐 22,7万石    5,675人 
駿河 15,0万石    3,750人 
西上野20,0万石    5,000人 
東美濃 5,0万石    1,250人 

三河、遠江の内、10万石余りを切り取り、飛騨、越中の一部にも勢力圏を有していたとされている。信玄の最盛期にはだいたい120万石余りの勢力圏で動員力は3万人ほど。信玄の背後には強敵、上杉謙信が控えているが、本願寺顕如を通して越中で大規模な一向一揆を起こさせ、そちらに謙信を釘付けにさせていたので、西上作戦時は武田家のほぼ全力を投入出来た。


「朝倉家 」

(石高)         (動員力 )
越前49,9万石   12,500人

石高は約50万石で、動員力は12,500人。若狭や加賀南部にも勢力が及んでおり、最大2万人を動員していたとも。武田家に次ぐ軍事侵攻能力があったと思われ、信玄や顕如も当てにしていた戦力だが、義景の動きは鈍く、両者とも抗議の書状を送っている。しかし、この頃には領国の疲弊が進み、浅井家を救援する事すらままならない状況だったのかもしれない。1572年から、義景を見限って織田家に寝返ったり、出兵を拒否する重臣が現れている。


「浅井家 」

(石高)           (動員力 )
近江北部15万石余   3,750人

最盛期には近江北半分39万石、動員力は1万人余あった。しかし、1573年には織田家にかなり追い詰められており、石高は15万石程度で、動員力は3~4千人余だったのではないか。しかも、浅井・朝倉家は小谷城正面にある虎御前山砦を初めとする城砦群によって封鎖されており、衰えを見せる両家の力では、これらを突破する事すら難しい状況にあった。それでも、朝倉義景が自ら出向き、牽制攻撃を加えるなりすれば、織田家もある程度の戦力は差し向ける必要があったと思われる。


「三好家 」

(石高)          (動員力 )
 讃岐12,6万石    3,150人 
阿波18,4万石     4,575人 
淡路 6,2万石     1,550人 
河内の北半分を三好義継が領有 12、0万石    2,700人

主な人物は三好三人衆、三好義継、三好康長など。
これ以外にも、畿内に幾つかの拠点を有していた模様。大体、石高50万石ほどで動員力は1万2千人ほど。三好家は三好長慶の元で一つにまとまっていた頃は強大であったものの、長慶の死後は内部抗争を繰り返して、一枚岩ではなくなっている。侮れない戦力は有しているものの、統一された強力な軍事行動は出来なかったように思われる。


「本願寺 」

石山本願寺に1万5千人余で、伊勢長島に2~3万人余の一揆衆が存在していた。かなりの人数を誇るが、これらには多数の非戦闘員も含まれている。他に加賀や、紀伊雑賀にも強力な一向一揆が存在して本願寺を支援しており、近江の一向一揆も浅井・朝倉を支援していた。一向一揆はゲリラ戦を展開して、防御戦には滅法強いが、他国に侵攻する意志と能力があったのかは疑問である。史実では加賀の一向一揆が越前に侵攻したりしているが、石山本願寺、長島一向一揆はほとんどその場を動いていない。


「その他の反織田勢力 」

足利義昭の幕府衆が3千~5千人ほど。松永久秀は大和45万石の内、20万石?5千人ほど。他には近江南部に六角家の残党と、山城に反織田の国衆が存在していた。これらの勢力は織田家に取っては厄介な存在だが、単独では織田家に対抗は出来ず、牽制する程度であろう。


織田側と反織田側で主な勢力を挙げてみたが、両陣営合わせると数的には反織田側が優勢であるように見える。ただし、この中で他国に侵攻して強力な打撃を与えうるのは、武田家と織田家だけではなかろうか。織田家は動員力7万5千人なのに対し、武田家は3万人なので、常識的には信玄に勝ち目はないのだが、当時の織田家は周囲を敵対勢力に包囲されていたので畿内の兵力は動かせず、伊勢にも長島一向一揆が存在していたので、信長が信玄に対応できる兵力は尾張・美濃の2万7千人余だけだったのではないか。なので、信玄が領国の力を結集した3万人余の兵を引き連れれば、信長との決戦も不可能ではなかった。


信玄は健康であれば、元亀4年(1573年)春に東美濃から打って出る予定であったと云われている。信玄は、その美濃侵攻を前にして、美濃の国人達に内応工作を行い、郡上八幡城主の遠藤慶隆などはこれに応じる用意があったとされている。後年、武田家に内通していたとして天正8年(1580年)に信長に追放された美濃の有力者、安藤守就もこの時、密かに信玄と通じていた可能性があった。


信玄にいま少し余命が延びたとして、元亀4年(1573年)春に作戦を開始したと仮定してみる。


信玄はまず、本願寺、朝倉など反織田勢力を動かして、織田家の戦力を分散させる。その上で美濃の国人を幾人か寝返らせるか、日和見をさせて、さらに信長の戦力を分散させる。そして、仕上げとして、信長の本拠、岐阜城に近い城を攻めたてて、後詰めに来るであろう信長に決戦を試みる。 どれだけ分散させたとしても、信長の手元には、2万5千人余の兵力は揃っていたと思われるが、これ以上、条件が良くなる事は無かっただろう。信玄も総力を上げた3万人余の兵を持って、相対する事となる。この信長との決戦に勝利すれば、武田家による天下統一も夢ではなくなる。だが、信長も黙って手をこまねいているはずはなく、家康や謙信に働きかけて、信玄の背後を騒がせたに違いない。そして、両者が要請通りに動いたなら、信玄は家康対策に5千人、謙信対策に1万人は割かねばならない。そうなれば、信玄の手元の兵力は1万5千に半減して、信長との決戦はおぼつかなくなる。


決戦の前提条件は、謙信の封じ込めであった。そのため、越中の一向一揆や、関東の北条氏に強力に働きかけて、牽制してもらる必要があった。これに成功したなら、家康対策に5千を割いた上で、残りの2万5千をもって決戦に臨む事になったろう。兵数的には互角の条件が揃った様に見えるが、信長にはまだ切り札があった。それは鉄砲である。信長は、日本有数の鉄砲産地、和泉国の堺や近江国の国友を押さえていたので、1573年の時点で2千丁余の鉄砲は保有していたと思われる。武田軍はせいぜい5,6百丁といったところだろう。鉄砲は防衛戦において、絶大な威力を発揮する。信玄が下手に攻撃しようものなら、長篠の戦いの様な惨敗を喫したであろう。だが、これを打ち破らねば、天下には届かない。信玄の腕の見せ所であった。史実では、信長は、1573年中に朝倉義景、浅井長政、三好義継を滅ぼし、足利義昭も追って一気に版図を拡大しているが、信玄と対峙していたなら、それらは不可能であったろう。信玄の余命が1年でも延びていたなら、戦国の歴史は大きく書き換えられていた可能性があった。




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