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朝倉義景と志賀の陣

2008.10.26 - 戦国史 其の一

永禄11年(1568年)9月、織田信長は、足利義昭を奉じて、上洛戦を開始する。信長は破竹の勢いで京まで攻め上がり、見事、義昭を将軍の座に着ける事に成功した。そして、信長は自らの武力と、将軍の権威を後ろ盾として、畿内周辺の諸大名を次々に服属させていった。足利義昭からの上洛命令、すなわち信長からの命は、越前の大名、朝倉義景のもとにも届けられたが、気位の高い義景はこれを完全に無視した。義景の信長否定は、その実力に裏打ちされていた。


太閤検地に拠れば、朝倉氏の勢力範囲と動員力は、越前約50万石(動員力12,500人)、加賀35.6万石の内、南半分17万石余(4,250人)、若狭8万5千石(2,125人)で、合計すると75万石余、動員力は18,750人となる。この内、若狭と加賀南部は支配が完全ではなかったが、それでも1万5千人は動員できたであろう。信長としても、これほどの実力者が京のすぐ上にあって、しかも自らに非協力的とあっては、遅かれ早かれ討伐せねばならなかった。


元亀元年(1570年)4月25日、信長は機先を制して、大軍をもって越前に攻め入る。不意を突かれた義景はたちまち追い詰められ、本拠の一乗谷も危うくなった。だがこの時、浅井長政が朝倉方に味方して、信長の背後を突いてくれたお陰で窮地を脱する事が出来た。しかし、信長は間もなく体制を整え、復仇戦を仕掛けて来る。そして、浅井氏の本拠である、小谷城に迫ったので、義景は一族の朝倉景健に8千人余の兵を授けて救援に向かわせた。同年6月28日、近江北部の姉川を挟んで、朝倉景健、浅井長政連合軍1万3千人余と、織田信長、徳川家康連合軍2万5千人余が激突した。


緒戦は朝倉、浅井方が押したものの、最終的には数の差が物を言い、朝倉、浅井軍は千人以上の戦死者を出して敗れた。この戦いで朝倉、浅井軍は大きな打撃を被ったものの、まだ余力は残っており、傷を舐めつつ次の機会を待った。7月21日、四国の三好三人衆が8千余の兵を率いて渡海し、摂津の野田、福島を拠点として、周辺国への進出を図った。8月20日、信長もこれは捨て置けないとして、岐阜から出陣し、8月26日、摂津天王寺に着陣する。信長は諸国の兵を集めた4~5万人もの大軍をもって、戦いを優勢に進めていたが、9月12日夜半、野田、福島の近隣にある大寺社勢力、石山本願寺が、突如として反信長の兵を挙げたので、戦況は一転、苦戦に陥った。


9月13日、こうして信長が摂津戦線に釘付けとなったのを見越して、朝倉義景、浅井長政が兵を挙げる。そして、信長の背後を襲うべく、京に向かって進撃を開始した。三好家、本願寺、朝倉家、浅井家の連携が取れている事から、予め、申し合わせた上での挙兵であったようだ。越前を発った朝倉軍には、浅井軍と、近江の一向一揆勢も加わり、総勢3万人余の大軍となって湖西を南下していった。9月16日、朝倉、浅井軍の先鋒は坂本に達したが、ここで織田家の部将、森可成の迎撃を受ける。可成は、信長の信頼篤い宿将で、近江南西部の織田方の重要拠点、宇佐山城の城将を任されていた。京都防衛を担っていた信長の弟、信治も2千人余を率いて駆けつけ、迎撃に加わった。


可成は、この宇佐山城と坂本の町を抜かれれば主君の身が危ういと見て、小勢ながら城から打って出る。最初の前哨戦は森軍が勝って、少々の首を取った。だが、 9月19日、朝倉、浅井軍は陣容を整え、二方向から坂本を猛攻してくると、森軍は支えきれず、重囲に陥った。森軍は奮闘を重ねたが、ついに崩れたち、森可成と織田信治を始めとする、1,800人余が討死したという。9月20日、義景は、続いて宇佐山城も落とさんとしたが、これが意外に堅城で、しかも可成の家臣達が奮戦するので攻めあぐねた。この宇佐山城を残したまま、京に進軍すれば、後方の安全を脅かされる事になる。義景は、宇佐山城を包囲しつつ、大津に進出して放火し、9月21日には、逢坂(おうさか)を越えて醍醐、山科にも火を放った。


同日、摂津にあった信長はこの報を聞くと驚愕し、自らが挟撃の危機に瀕している事を悟った。そして、直ちに明智光秀、村井貞勝、柴田勝家の軍を京に差し向けて、二条城の守備を固めさせた。これらの軍は、強行軍で同日夜半には、京に入っている。この内、柴田軍は、9月22日、京都東方を偵察した後、摂津に帰陣した。9月23日、信長自身も京に取って返す事を決断し、三好、本願寺軍への抑えとして、和田維政と柴田勝家を残すと、これまた強行軍で、同日深夜、京に入った。この時の信長の行動は、実に機敏であった。


9月24日、義景は、信長本隊が京に入ったと聞くと、宇佐山城の囲みを解いて、近隣の比叡山延暦寺へと退いた。朝倉、浅井連合軍は比叡山の峰々に陣を構え、信長も宇佐山城を拠点として、下坂本一帯に軍を展開した。この時の朝倉、浅井軍の人数は、延暦寺の僧兵3千人余も合わせると、総勢3万人余であった。対する信長軍も3万人余の軍勢であったらしい。両軍ほぼ同数で、迂闊に手は出せず、義景、信長共、じりじりした思いで対陣の日を重ねた。


織田軍は比叡山を囲んでいたが、山上に陣取る朝倉、浅井軍への強攻は極めて難しいと見て、比叡山延暦寺に朝倉軍立ち退きの申し入れを行った。

「朝倉に味方する事をやめ、自分に味方してほしい。そうすれば織田分国内にある延暦寺領は返還する。しかし、出家の身ゆえ一方に味方できぬとあらば、せめて中立を保ってほしい。もし、これに違約するならば、延暦寺全てを焼き払う」

延暦寺は、この申し出を完全に無視したので、信長は内心、憤怒を漲(みなぎ)らせた。その一方、心強い援軍も来てくれた。10月3日、三河の徳川家康がわざわざ近江南部まで援軍にやってきて、織田家部将の木下秀吉や丹羽長秀の軍も駆けつけてきた。これらの援軍を得て、織田軍の方が兵数は上回っただろう。


この時、信長は四方に敵を抱えていた。摂津には本願寺と三好軍があり、近江各地では一向一揆が蜂起、南近江では六角義賢が挙兵、更に信長の本拠、尾張から程近い、伊勢長島でも一向一揆が不穏な動きを示していた。信長は早々に片をつけるべく、10月20日、義景に挑戦状を送りつけて決戦を促した。「信長公記」によれば、義景はこれには応えず、代わって和睦を申し入れてきたが、信長はこれを拒否したとある。その一方、同日、朝倉、浅井軍は、比叡山から下りて、洛北の修学寺、一乗寺、松ヶ崎周辺を放火している。10月21日、「尋憲記」によれば、今度は浅井長政が和睦を申し入れてきたが、信長はこれも拒否したとある。2つの史書に、朝倉方から和睦の提案があったとされている。義景は、信長の勢いに恐れをなしたのか、それとも冬の訪れを前に撤兵を図ったのか、理由は定かではない。


10月22日、三好軍が進撃を開始して、織田方の拠点、山城の御牧城、河内の高屋城、烏帽子形城に攻撃を加えた。これらは、事前に申し合わせた上での攻撃であったと思われる。 御牧城は落ちたが、木下秀吉と細川藤考がすぐに奪回し、高屋城、烏帽子形城は守りきって、三好軍を退ける事に成功した。朝倉、浅井軍と、三好軍との挟撃策は不発に終わってしまう。だが、伊勢方面では、新たな反織田勢力が生じていた。伊勢長島において、一向一揆数万人が蜂起して、信長の弟、信興が守る尾張小木江城を囲んだのである。 信長は主力をもって朝倉、浅井軍と対峙中であり、援軍を派遣する余裕など無かった。


11月21日、一揆軍の猛攻を受けて小木江城は落城し、信興は自刃に追い込まれた。信長は歯軋りする思いであったろう。信長は苦境にあったが、外交面から事態打開を図る。11月22日、六角義賢と和睦を成立させ、続いて三好家との和睦成立にも成功した。これで信長は挟撃の危機から脱したが、朝倉、浅井軍に取っては、梯子を外された形となった。それでも、朝倉、浅井軍は、織田の大軍と向き合っている以上、背中を見せる訳には行かず、否応無しに対陣を続ける他、無かった。


膠着状態が続く中、信長が先に動いた。近江志賀郡には、堅田という琵琶湖水運の要衝がある。この時は朝倉軍の支配下にあって、比叡山に立て篭もっている朝倉、浅井軍の補給、連絡路となっていた。この堅田の地侍達が、織田方に内通を打診して来た。 補給路を断つ、絶好の機会である。織田家部将、坂井政尚が堅田派兵を進言すると、信長はこれに許可を与えた。堅田の地侍懐柔と出兵は、政尚が中心となって行ったようだ。11月25日、政尚は1千人余を率いて湖水を渡ると、夜陰に紛れて堅田城に入った。朝倉方はそうと知るや、翌26日早々、朝倉景鏡、前波景当らを差し向けて、猛攻を加えた。


敵地に単独で乗り込んでいる、政尚も必死であったが、補給路を断たれんとしている、朝倉方も必死であった。局地戦ながら激戦が展開された模様で、朝倉家の重臣、山崎吉家の書状によれば、堅田衆を含む、織田方1,500人余を討ち捕らえたとあり、京都の公家の日記、「言継卿記」によれば、織田軍は500人、朝倉軍は800人の戦死者を出したとある。朝倉方では、前波景当や、義景右筆の中村木工丞が討死し、織田方では坂井政尚が討死した。そして、この戦いで織田軍は退けられ、堅田は朝倉軍が確保する所となった。


比叡山を挟んだ両軍の睨みあいは既に3ヵ月を過ぎ、季節も秋から冬へと移り変わっていた。義景、信長は、共に相手の喉笛に剣を突きつけながらも、なかなか止めを刺せなかった。義景は、三好家との挟撃策が消えて勝機を失っていた上、積雪によって、本国、越前への道が閉ざされようとしていたので、早く撤兵したかった。信長も山上の敵を攻めあぐねていた上、四方に敵を抱えていたので、これまた撤兵したかった。11月28日、室町将軍、足利義昭と、関白、二条晴良が三井寺にやってきて、両者の和睦調停に乗り出した。義景、信長は、共に焦りを募らせていた事から、この調停は渡りに船であったろう。


しかし、延暦寺がこの和議に強く異見したので、困り果てた足利義昭と二条晴良は、正親町天皇から綸旨(りんじ)を出してもらい、延暦寺の権益を保障する事を約して、ようやく和議成立に持ち込んだ。義景、信長は共に苦しく、ここらで手を打たざるを得なかった。そして、12月13日、両軍は人質を交換した後、12月14日、織田軍が先に撤兵し、12月15日には朝倉、浅井軍もそれに続いて撤兵した。これによって、3ヶ月に渡って続けられた両軍の対峙は終わった。義景は信長打倒の絶好の機会を失い、その反面、信長は大きな危機を脱した。


この志賀の陣は、義景が攻勢を仕掛け、信長は防勢であったので、義景が主導権を握っていたと思われる。だが、その後、決め手を欠いた事が惜しまれる。三好、本願寺軍との挟撃は果たせなかったとはいえ、義景の手元には朝倉、浅井、延暦寺軍を合わせて3万人余の大軍があった。対する織田軍は4万人余で兵数的に劣るが、それでも、もっと積極的な攻勢を見せる事も出来たのではないか。これ以降、義景が戦いの主導権を握る事は二度と無かった。一方の信長は年を越えると再び攻勢に出て、敵対勢力の各個撃破を狙った。まず、煮え湯を飲まされた延暦寺に矛先を定めて、元亀2年(1571年)9月12日、数万の兵をもって堂塔を悉く焼き払い、僧侶や住民、数千人余を斬殺して、昨年来の鬱憤を晴らした。


守勢に回った義景は徐々に追い詰められ、家臣にも見放され始める。武田信玄の西上戦によって息を吹き返すかに見られたが、それも信玄の死によって絶望的となった。元亀4年(1573年)8月、義景は、織田軍に包囲された小谷城を救うべく、最後の近江入りを果たす。しかし、既に小谷城の運命は極まっており、義景は救援を諦めて越前への撤兵を開始した。ところが、それを察した信長の猛追撃を受け、同年8月13日、義景は刀根坂にて、ついに致命的な敗北を喫してしまう。8月20日、織田軍の勢いは止まらず、そのまま越前に攻め入って来たので、義景は奥地の大野郡へと落ち延びていった。しかし、ここで一族の朝倉景鏡の裏切りに遭い、賢松寺にて無念の自刃を強いられた。朝倉義景、享年41。


この志賀の陣の主役であった朝倉義景は、戦国武将としては覇気がなく、臨機応変の対応も出来なかった。足利義昭を奉じて上洛し、畿内に覇を唱える機会もあったはずだが、それを実行に移す事は無かった。彼の野心は、本国、越前の安定を図る為、周辺の加賀、若狭、近江を従える程度のものだったのだろう。だが、外交面では、遠く薩摩の島津義久にも書状を送って、琉球との交易の可能性を探っていた一面もある。雪深い越前の地にありながら、義景の目には海外が映っていたのであろうか?越前は日本海交易の拠点であったので、義景はそれを更に発展させようとしていたのだろう。また、朝倉氏の本拠地、一乗谷は文化面で非常に発展しており、京都の公家や文化人も憧れを抱いて度々、下向する程であった。義景は領国の統治者としては有能であり、もし平和な時代に生まれていれば、名君として称えられていたかもしれない。



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浅井長政の決断

2008.10.26 - 戦国史 其の一
元亀元年(1570年)4月20日、戦国の風雲児、織田信長は、目の上の瘤であった越前の戦国大名、朝倉義景を取り除くべく、京を発した。そして、同年4月25日、織田軍は越前敦賀に侵入すると、たちまちの内に金ヶ崎城を落とし、続いて、朝倉家の本拠、一乗谷を窺う形勢となった。この時、近江北部を領有する戦国大名、浅井長政は、古くからの繋がりがある朝倉家に付くか、それとも、新興の大勢力で、婚姻も結んでいる織田家に付くかの選択を迫られた。それは浅井家の存亡を賭けた、重大な選択であった。長政は父、久政や家臣達と意見を交わし、自らも小谷城の一室で苦悩する。浅井家はどう出るべきか・・・と。
 
 
信長に味方すれば、勿論、朝倉家は滅亡する事になるだろう。そうなれば、浅井家は織田家の領国に取り囲まれ、信長に従属せぜるを得なくなる。戦国大名としての発展の道は閉ざされ、ここからは織田家の一部将として働かねばならない。そして、当分は各地の戦いに引っ張り出される事になるだろう。その浅井家の働きが認められれば、越前に国替えされ、徳川家康が東海道方面の抑えとなって信長を支えた様に、長政も北陸方面の抑えに起用されたかもしれない。そうなれば、信長の天下統一事業は加速して、将来的には大きな地位と領国を有する織田家の有力一門の座を約束されたであろう。織田家中には、羽柴秀吉や明智光秀などの有能な部将が揃っているが、長政は彼らよりも上席に座る事になるだろう。
 
 
信長とは、永禄11年(1568年)に同盟を結び、その妹、市を娶って関係を深めた。史実では確認されていないが、この同盟を結ぶにあたって信長は、浅井家の了解なしに朝倉家を攻める事はしないと約束したと云われている。そして、同年9月、信長が足利義昭を奉じて上洛戦を開始すると、長政は織田軍の自領通過を認めた上、共に六角氏を攻め立てて、上洛戦に貢献した。また、永禄12年(1569年)8月、信長が伊勢侵攻を開始すると、長政はこれにも協力して軍を派遣している。ところが、これらの協力に対し、信長は浅井家の領国を安堵したのみで、恩賞沙汰はなかった。同じく信長の同盟者であった徳川家康も似たような扱いをされていたが、長政は内心、不満を覚えたのではないか。
 
 
一方、朝倉家に味方した場合、大勢力である織田家を敵に回す事となって、自家の存亡にも関わってくる。これは大きな賭けとなるが、勝てば得られる利益も大きかった。もし、信長を討つ事に成功すれば、織田家は強力な指導者を失って主体性を失い、嫡男、信忠もまだ幼い事から、当面は守勢に廻らざるを得なくなる。織田家はせっかく手にした京も放棄して、本領の美濃・尾張を保つのがやっととなるだろう。近江南部も織田家の領分であるが、防衛もままならなくなって、浅井家単独でも容易に奪取出来たであろう。京に近く、肥沃な近江一国を平定すれば、浅井家は戦国有数の大大名となり、天下を狙う位置に立つ事すら出来る。浅井家自身も、近江制覇を強く望んでいたであろう。だが、現実の浅井家は、東西南は織田家の領国に囲まれ、北には朝倉家の存在があって、発展の道は完全に閉ざされていた。浅井家が更なる飛躍を望まんとすれば、早晩、どちらかと手を切って戦わねばならなかった。


勢力の大きい織田家に味方するのが安全策であるが、それでも、朝倉家を見放すには忍びない事情が浅井家にはあった。
戦国浅井家を興したのは、初代、亮政であるが、この亮政を物心両面で援助したのが朝倉家であった。亮政が江北に勢力を伸ばしていく過程で、北近江の守護、京極氏や南近江の守護、六角定頼と対立を深める事になるが、六角氏の勢力は強大で度々、その侵攻を受けた。そこで亮政は越前の朝倉氏と結び、その援助を受けて浅井家の基盤を固めた。浅井家と朝倉家との深い結び付きは、ここから始まる。しかし、天文22年(1553年)、二代目久政の時代、六角義賢に挑んで敗れた事から(地頭山合戦)、従属を余儀なくされた。これを受けて朝倉家との関係も一事、途切れた事だろう。だが、この状態を不服とした浅井家臣達は久政を隠居に追い込み、その嫡男である賢政(後の長政)を立てた。
 
 
そして、賢政は、六角氏からの離反を明らかにすると共に、背後を固める意味で再び朝倉家と盟約を結んだと思われる。その上で賢政は、永禄3年(1560年)、六角義賢に戦いを挑み、重臣達の力添えを受けつつ、見事、これを撃ち破る事に成功した(野良田合戦)。この時、賢政は若干16歳の少年ながら、知勇を兼ね備え、気概ある武将で有る事を示したのだった。そして、1560年代前半、賢政は、六角義賢からの一字偏諱である、賢の字を捨てて長政と改名する。以後、長政は自立した戦国大名として動きだすが、それでも尚、朝倉家の影響は強かったと思われる。浅井家が近江北半分30万石余を有する大名となっても、越前の朝倉家はそれに倍する勢力であり、この実力を決して無視する事は出来なかった。


それに経済的な面でも両者の結びつきは強く、日本海から運ばれてきた産物は、朝倉家の領国越前を経て、浅井家の領国近江を通り、さらに琵琶湖の水運を経て京へと運ばれていた。この琵琶湖の水運は、浅井家の重要な資金源であった。日本海交易を通じて、朝倉、浅井家の経済はほぼ一体化していたと考えられる。浅井家にとって朝倉家は特別な存在であり、歴史的にも経済的にも一蓮托生の様な関係であった。この様な縁から、浅井家中では、父、久政を筆頭に、親朝倉派が多数を占めていたと思われる。今回の信長の越前遠征においても、久政は朝倉家に味方するよう強硬に主張したそうである。長政がこれらの意向を無視して信長に味方すれば、家中が分裂する恐れがあった。
 
 
織田家からは市を迎えて、将来有望な同盟関係となったが、それでも朝倉家と比べると縁は薄い。それに信長という人物は、傑出した能力の持ち主の半面、性格は苛烈で人に恐怖を与える存在であった。信長自身は長政の武将としての器量を高く評価して、信頼していたとされるが、長政はそこまで義兄を信頼しきれなかったのではないか。そして、越前の朝倉家が滅べば、次に狙われるのは自分達であると思い定めたのかもしれない。信長は浅井家の本領を安堵すると言っていたが、彼は人に安心感を与える様な存在ではなかった。その信長は今、無防備な背中を晒している。この時、長政は、後の明智光秀の様に、不安と誘惑の入り混じった思いに駆られたのではないか。もし、信長の打倒に成功すれば、恐怖を打ち消すと共に、その領国を掠め取る事も思いのままとなる。長政も一角の戦国武将であり、まったく野心が無いと言えば嘘になるだろう。
 
 
それに信長との同盟時に約束したとされる、朝倉を攻める際には、事前に浅井家の了解を得るとの約束が真実であれば、これを先に破った信長の方に非がある。長政の腹は固まった。信長を討つと決めたのである。それは、永禄3年(1560年)、強大な六角義賢に戦いを挑んで以来の大きな決断であった。だが、今度の相手は更に強大な織田信長である。それに相手は苛烈な性格の持ち主で、一度取り逃がせば、強烈な復讐心をもって攻めかかってくるのは目に見えていた。それでも、長政は己の全身全霊をもって義兄に挑むと決した。そして、元亀元年(1570年)4月26日前後、長政は織田家からの離反を明らかにして、信長の退路を断たんとした。しかし、結果は知られている通り、信長を取り逃がす事となる。ここから、長政の長い苦闘の日々が始まるのである。

 

武田家臣小話集

2008.10.26 - 戦国史 其の一
●武田家臣は有能

戦国時代、数多くの名臣が存在して戦国大名を支えていたが、その中でも武田家の家臣は有能であるとの評価が高い。特に名高いのは、武田四名臣と呼ばれている、高坂昌信・内藤昌豊・馬場信春・山県昌景といった部将達だろう。実際、この四人は信玄の代理として、一定の領域支配を委ねられたり、外交交渉を担ったり、一軍を率いて戦場に赴いたりと大いに活躍している。武田家には他にも、武田信繁・真田幸隆・ 昌幸父子など数多くの有能な部将が存在していた。その数多い武田部将の中で、個人的に好きなのは秋山信友である。この部将も知勇に優れており、一軍と一定の領域を任されている。この武将の画像は渋く、刀をじっと見つめるその姿はまさに「もののふ」といった感じがする。


torasige.jpg













↑秋山虎繁の画像


●間違って伝わる名前

現在、私達が知っている武田部将で、間違って伝わっている名があるようだ。例えば私が好きな武将として挙げた秋山信友は、秋山虎繁と呼ぶのが正しいとされている。

他にも、
高坂昌信 > 春日虎綱  
内藤昌豊 > 内藤昌秀
真田幸隆 > 真田幸網(晩年に幸隆と改めたとある)
であるとされている。


●武田家臣で悪く言われている武将達

小山田信茂・穴山信君・木曽義昌・長坂光堅・跡部勝資

この中で小山田氏や穴山氏は、ある程度の独立性を保った国人領主であった。この両者は武田家が甲斐統一途上、まだ強力ではない段階で、武田家と盟約を結ぶような形で従ったため、その後も大きな既得権を維持する事が出来た。信濃南部の国人、木曽氏も似たようなものだろう。武田家はこの三者と婚姻関係を結んで、親類集として遇したが、武田滅亡の際には三者とも裏切っている。これは、武田家は最後まで、国人領主を家臣として完全に掌握するには至らなかったという事だろうか。


武田滅亡の際、武田勝頼は小山田信茂を頼って落ち延びるものの、土壇場で離反され、行く宛てもなくなった勝頼一行は天目山にて滅亡してしまう。勝頼一行が小山田のもとへ向かわず、真田昌幸のもとへ向かっていればあるいは?との声もある。しかし、真田昌幸も、まだ勝頼存命時に敵方である北条家に接触していた。これは、武田家のためを思って北条家と折衝していたのか?それとも落ち目の武田家を見限って降ろうとしていたのか?は分からないが疑わしい行動ではある。結局、勝頼が頼れる者は誰もいなかったのかもしれない。


長坂光堅・跡部勝資の両者は、甲陽軍鑑では武田家を滅亡に追い込んだ佞臣とされている。だが、実際には両者とも最後まで勝頼に付き従い、天目山で殉死したとする説が有力である。それどころか、跡部勝資は勝頼の側近として大いに働き、その政権を支えた重要人物であった。

小山田氏関連HP
http://www.rekishi.sagami.in/oyamada1.html
 

高野山

2008.10.26 - 戦国史 其の一
高野山は、和歌山県東北部にある真言密教の大寺院です。

2006年の秋、私は高野山を訪れてきました。車で2時間ほどかけて高野山の麓に着きましたが、ここからがまた長い!4、50分ほど山道をひたすら上がって行ってようやく高野山に到着したと記憶しています。そこはまさに、山上の都市といった観がありました。


金剛峯寺、奥の院、霊宝館、等あちこちを見て回りましたが、私的に一番見応えがあったのは、奥の院に行く道筋の傍らにある有名な戦国武将の墓の数々でした。ここ高野山には、豊臣秀吉、織田信長、武田信玄、上杉謙信、石田三成、伊達政宗など、戦国を代表する錚々たる顔触れの武将達の墓や供養等が建立されています。それは大名の権力を誇示するかのような、巨大な独特の形であったり、質素な小さな墓まで様々でした。それらの墓は大きな杉木立と緑の苔の間にあり、静かで厳かな雰囲気を漂わせていました。


この高野山なんですが、戦国期には17万石余りの寺社領を有する、戦国大名並の戦力を持った勢力であったそうです。宣教師ルイス・フロイスの記述によれば、高野山には坊主、4、5千人が居住しており、一大共和国の様相を呈していたともあります。そして、17万石といえば1万石で250人の兵力を得られたとすると、4250人の兵力を養えるという大体の計算になります。 古くからの歴史がある寺院であり、信者を始めとする多くの人々からの寄進も有るだろうし、実際にはもっと多くの戦力を養う、大きな影響力のある勢力だったのではないかと思われます。事実かどうかはわかりませんが、高野山は数万の僧兵を擁していたとも云われています。


そういった高野山の勢力には、各国の戦国大名も目を付けていた様で、ある者は協力を仰ぎ、ある者は脅威に思ったようです。上杉謙信は天下統一のために是非、高野山の力を借りたいという手紙も残っているそうです。織田信長の場合は、高野山を目障りと感じたのか、これに兵を差し向けています。天下統一の途上にあった織田信長は、自らの御膝元とも言える畿内に、自分の権力が及ばない地域が有る事が許せなかったのでしょう。それと高野山は謀反を起こした荒木村重の残党を匿った事もあって、信長は高野聖を数百人殺害し、天正9年(1581年)には軍を派遣し、高野攻めを行います。その後も両軍は対峙し続け、信長はやがて総攻撃を行う事とし、高野山の包囲を続けます。
 

天正10年(1582年)6月2日、本能寺の変が起こった事により、織田軍は囲みを解き、高野山は難を逃れます。この本能寺の変が起こらなければ、やがてはこの高野山も、比叡山延暦寺の様に焼き討ちの憂目を免れなかったでしょう。その信長の墓が、高野山に建立されて供養されているのは、何とも皮肉です。その後、高野山は次の天下人、豊臣秀吉とも対立します。秀吉は紀州攻めを決行して、雑賀、根来寺を焼き払い、次に高野攻めを行う準備をします。それを見た高野山は秀吉に和を請い、2万石に減封された上で、武装解除します。こうして、高野山は近世の統治体制に取り込まれてゆきます。


こうした事例は、高野山だけでなく、全国の寺社仏閣に適用されました。次の天下人、徳川家康の時代になると、高野山はその庇護を受けて、後の世まで存続していく事になります。 そして、後世に数多くの文化財を伝え残しています。


高野山のHP




大坂夏の陣、影の主役

2008.10.26 - 戦国史 其の一

戦国最後の大戦、大坂夏の陣では、真田信繁(幸村)が大活躍して、現在にまでその名を轟かせている。だが、その影では、毛利吉政もそれに勝るとも劣らない活躍をしていた。尚、この武将は、勝永の名で知られているが、一次資料では吉政としか記されていない。


天正6年(1578年)、毛利吉政は、豊臣秀吉の譜代家臣であった、毛利吉成(勝信)の嫡男として生まれる。吉成は、秀吉の天下制覇の戦いに従軍したり、使者として交渉したり、代官として物資輸送に携わったりと、長きに渡って秀吉に貢献した。天正15年(1587年)には、その活躍と忠節をもって、豊前国の2群6万石余を与えられ、晴れて大名身分となった。この時、吉政も、そこから1万石を与えられたとされている。この恩義を毛利父子は、終生、忘れなかった。慶長5年(1600年)9月、関ヶ原の戦いが起こると、毛利吉成、吉政父子は、豊臣方の西軍に味方する。だが、肝心の西軍主力が敗北してしまったため、毛利父子は所領を没収された挙句、その身は、土佐の大名、山内一豊に預けられてしまう。


失意のどん底にあった毛利父子であったが、山内氏は厚遇して、客分として扱ってくれた。父、吉成は高知城の西郭に住まって、一豊の側近くに仕え、吉政は城から離れた久松に住まっていた。毛利父子は比較的、自由な身で、鷹狩りをしたり、茶の湯をする事もあったようだ。また、吉政は度々、家臣を大阪に差し向けて、大野治長と連絡を取っていた。そのまま長い歳月が流れ、慶長15年(1610年)5月25日には、正室の安姫(龍造寺政家の娘)が死去する。この安姫との間に、嫡男の式部勝家と、次男の太郎兵衛が誕生したと見られる。吉政には側室が1人確認されており、その女性との間に、後に娘が1人誕生している。慶長16年(1611年)、大野治長は、吉政に宛てて、豊臣秀頼と徳川家康が二条城で会見した事を伝えてきた。同年5月7日、父、吉成が死去する。


慶長19年(1614年)、大阪で戦雲が垂れ込み始めると、土佐の吉政の元に豊臣家の使者が現れて、大阪への入城を促される。吉政は山内氏の庇護の下、安定した生活を送っており、このまま留まっていれば、重臣格に取り立てられていただろう。だが、かつての主恩をいささかも忘れていない吉政は、全てを捨てて大阪を目指す決意を固めた。しかし、山内家の当主、忠義は徳川方として出陣するに当たって、吉政を厳しく監視しておくよう、父の康豊に言い含めていた。そのため、吉政はなかなか動きが取れなかった。そこで、忠義の力添えをしたいので、従軍を許してもらいたいと康豊に懇願する。そして、人質として嫡男、勝家と、次男、太郎兵衛を差し出すと述べたので、殊勝な心がけと出陣を許された。


同年10月、吉政は、家臣の宮田甚之丞をやって勝家を配所から連れ出させ、合流してから、夜間、浦戸を出港した。吉政はかねてから自前の船を所有しており、それに乗って大阪を目指さんとした。翌日、勝家の失踪を知って、康豊は吉政の真意を悟り、すぐに後を追わせたが、最早、手遅れであった。同年11月頃、吉政は上陸して、大阪城下に近づいたが、周辺は既に徳川方の統制化に置かれていたらしい。そこで、吉政父子は、馬の飼葉の中に身を潜めて、ようやく城中に入り込んだと云う。入城後、吉政は、真田信繁、長宗我部盛親、後藤基次、明石全登らと共に5人衆の1人として重んぜられた。やがて東軍が押し寄せてくると、吉政は、山内氏の陣所に向けて矢文を射ち込み、篭城に到った子細を説明し、これまでの厚遇に対する礼を述べたと云う。この大坂冬の陣では、幾つか激しい局地戦も起こったが、吉政の受け持った場所は不明で、活躍する場面も無かった。


だが、翌慶長20年(1615年)、大坂夏の陣が始まると、吉政は一世一代の大活躍を見せる事になる。この時の両軍の戦力は、豊臣方5万5千人に対し、徳川方は15万5千人であったとされており、豊臣方、圧倒的不利の状況であった。しかも、大坂城は冬の陣の講和の際、外堀を埋め立てられており、豊臣方は一か八か城を打って出るしか、無かった。同年5月6日、道明寺にて合戦が起こり、後藤基次隊が突出して10倍もの徳川方と戦った。この時、真田隊、毛利隊は遅れて戦場に到着して、1人奮戦していた基次を戦死させてしまう。吉政は後藤隊の敗兵を収容し、信繁が殿軍を務めて味方の撤退を成功させた。この後、毛利隊は天王寺に、真田隊は 茶臼山に野営して翌日の合戦に備えた。


同年5月7日、夏の陣、最終決戦の日、豊臣方は徳川方を引き付けるだけ引き付けてから、豊臣秀頼の出陣をもって乾坤一擲の攻勢をかけて、一気に徳川家康、秀忠父子を討ち取る事とし、各部隊、持ち場に着いた。だが、正午頃、徳川方の本多忠朝、松平忠直の先陣争いから始まった、無秩序な進撃に豊臣方は巻き込まれてしまう。 吉政は兵4千人を率いて天王寺南門に布陣していたが、徳川方の本多忠朝隊1千人に挑まれて麾下の部隊が応戦してしまう。吉政はそれを止めようとしたものの、銃撃戦は激しくなる一方であった。吉政は已む無く攻撃を開始、豊臣方は作戦とは違った形で戦いが始まってしまう。毛利隊は銃撃戦の後に突撃を開始し、たちまち本多隊を切り崩して、本多忠朝を討ち取った。続いて、保科正光、正貞兄弟の隊と交戦を開始するが、正貞に槍傷を負わせた上、これも早々に切り崩した。 この保科隊を援護せんと、今度は小笠原秀政隊が突出してきた。


小笠原隊は、毛利隊先手の竹田永翁の隊を敗走させると、続いて毛利本隊に襲い掛かる。これを見た大野治長の隊は援護に回って、小笠原隊の右備えを攻撃し、吉政も自ら兵を率いて左備えを攻撃した。この挟撃を受けて小笠原隊は崩れ出し、秀政は瀕死の重傷を負って後送され、その嫡男、忠脩(ただなが)は槍衾30本余を受けて戦死、その弟、忠真も重傷を負って後送された。忠真は命を取り留めたが、秀政は、この夜に死亡する。勢いに乗った毛利隊は、真田信吉、信牧兄弟、浅野長重、秋田実季、内藤忠興、松平康長といった諸隊を、片っ端から撃破していった。毛利吉政の嫡男、16歳になる勝家は、初陣ながら鎧武者を1人討ち取って、その首を父の前に披露した。吉政は、「見事である。しかし、その首は捨てよ。この後、敵を討ち取っても、その首は取らずともよい。そのまま打ち捨てにせよ」と言い付けた。再び前線へと戻っていく勝家の後姿を見送りながら、吉政は「惜しき者よ」とつぶやいた。この日、勝家はもう1人、鎧武者を討ち取ったが、父の言葉通り、首は打ち捨てにした。


茶臼山の真田信繁は、毛利隊が戦端を開いた後もしばらくは戦況を窺っていた。だが、毛利隊が徳川諸隊を次々に撃破していくのを見て、ここが戦機と動き出す。そして、信繁は赤備えの精鋭3千5百人を率いて、真向かいの松平忠直隊1万5千人に向かって突撃を敢行した。そして、両軍、入り乱れての激闘の末、真田隊はこれを突破する。真田隊は勢いを保ったまま、徳川本隊1万5千にぶつかって、三度に渡って突撃を敢行した。この激しい攻勢に徳川隊は浮き足立って、混乱する。真田隊は家康の本営まで肉薄し、馬印まで倒した。家康はたまらず後退し、討死も覚悟する程であった。この時、毛利隊も徳川本隊に迫っており、真田隊と共に挟撃した、あるいはその前面の徳川諸隊と渡り合っていたとされる。家康を追い詰めた真田隊であったが、この後、態勢を立て直した松平忠直隊の反撃を受けて、徐々に押し戻されていく。そして、午後15時頃、信繁は、茶臼山北方の安井神社まで辿り着いたところで力尽き、討死してしまう。


真田隊の全滅をもって豊臣方の攻勢は潰え、総崩れとなって城へと引き戻っていく。そんな中、毛利隊は殿を務めて、敗兵の撤退を助けていた。そこへ、徳川方の、藤堂高虎隊と、井伊直孝隊が追撃してくると、吉政は反撃に打って出た。毛利隊は連戦に次ぐ連戦で疲労の極みにあったが、味方の退却を助けるべく、戦場に踏み止まった。そんな毛利隊を見て、大野治長、浅井周防の隊、その他、遊軍となっていた残存部隊も集まってきて、最後の反転攻撃に転じる。井伊隊は苦戦に陥って、旗奉行2人が討ち取られ、藤堂隊も敗走しかかって、激怒した高虎は、「敗走する者は射殺せよ」と喚き叫ぶほどであった。ようやくのところで、井伊隊、藤堂隊は持ちこたえ、細川隊の来援をもって、毛利隊に鉄砲の集中射撃を浴びせかけた。吉政は頃合と見て退却に転じ、大阪城と天王寺の中間にある小橋野(おばせの)という地を通過していった。


藤堂隊は逃すまいと猛追してきたが、ここで吉政は、埋火(まいび、火縄の付いた火薬箱)をもって、食い止めんとした。そして、藤堂隊が接近したところ、堤に並べ置いた埋火を次々に爆発させて、大混乱に陥らせた。その隙に毛利隊は、城へと退き取っていった。 最後の決戦の日を戦い抜いて、吉政は大阪城まで帰り着いた。そして、この時、家臣の宮田甚之丞に遺品を託して、土佐に落とさせている。それは、水牛の兜と、信光作の名刀、豊臣家から拝領したとされる陣羽織であった。これらの遺品は、やがて土佐山内家の預かるところとなって、現在まで残されている。翌5月8日、豊臣家は最後の時を迎え、秀頼と淀殿は自害して果てる。秀頼の介錯を務めたのは、大野治長、速水甲斐守、あるいは吉政であったと云う。


主君の最後を見届けた後、吉政はあの世までもお供せんと、自害して果てた。毛利豊前守吉政、享年38。その嫡男、勝家も豊臣家に殉じて果てた。毛利式部勝家、享年16。豊臣家の象徴たる、大坂城天主は炎を上げて燃え盛り、やがて崩れ落ちていった。100年余に渡る戦国の大乱は、大坂落城をもって終わりとなった。真田信繁ら他の浪人集は、武名を上げんとして、または御家再興を夢見て戦ったのだが、吉政だけは、ただ純粋に豊臣家の為に戦っていたと思われる。土佐には、次男の太郎兵衛、吉政の妻と2歳になる娘が残されていたが、山内氏に身柄を拘束されて上方に送られた。太郎兵衛は処刑されたが、妻と娘は助命されて、家康の側室、お夏の方に預けられた。妻は侍女として長く仕え、娘は長じて有徳人に嫁ぎ、やがて母も呼び寄せて暮らしたと伝わる。



主要参考文献、今福匠著「真田より活躍した男 毛利勝永」

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