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浅井長政の決断

2008.10.26 - 戦国史 其の一
元亀元年(1570年)4月20日、戦国の風雲児、織田信長は、目の上の瘤であった越前の戦国大名、朝倉義景を取り除くべく、京を発した。そして、同年4月25日、織田軍は越前敦賀に侵入すると、たちまちの内に金ヶ崎城を落とし、続いて、朝倉家の本拠、一乗谷を窺う形勢となった。この時、近江北部を領有する戦国大名、浅井長政は、古くからの繋がりがある朝倉家に付くか、それとも、新興の大勢力で、婚姻も結んでいる織田家に付くかの選択を迫られた。それは浅井家の存亡を賭けた、重大な選択であった。長政は父、久政や家臣達と意見を交わし、自らも小谷城の一室で苦悩する。浅井家はどう出るべきか・・・と。
 
 
信長に味方すれば、勿論、朝倉家は滅亡する事になるだろう。そうなれば、浅井家は織田家の領国に取り囲まれ、信長に従属せぜるを得なくなる。戦国大名としての発展の道は閉ざされ、ここからは織田家の一部将として働かねばならない。そして、当分は各地の戦いに引っ張り出される事になるだろう。その浅井家の働きが認められれば、越前に国替えされ、徳川家康が東海道方面の抑えとなって信長を支えた様に、長政も北陸方面の抑えに起用されたかもしれない。そうなれば、信長の天下統一事業は加速して、将来的には大きな地位と領国を有する織田家の有力一門の座を約束されたであろう。織田家中には、羽柴秀吉や明智光秀などの有能な部将が揃っているが、長政は彼らよりも上席に座る事になるだろう。
 
 
信長とは、永禄11年(1568年)に同盟を結び、その妹、市を娶って関係を深めた。史実では確認されていないが、この同盟を結ぶにあたって信長は、浅井家の了解なしに朝倉家を攻める事はしないと約束したと云われている。そして、同年9月、信長が足利義昭を奉じて上洛戦を開始すると、長政は織田軍の自領通過を認めた上、共に六角氏を攻め立てて、上洛戦に貢献した。また、永禄12年(1569年)8月、信長が伊勢侵攻を開始すると、長政はこれにも協力して軍を派遣している。ところが、これらの協力に対し、信長は浅井家の領国を安堵したのみで、恩賞沙汰はなかった。同じく信長の同盟者であった徳川家康も似たような扱いをされていたが、長政は内心、不満を覚えたのではないか。
 
 
一方、朝倉家に味方した場合、大勢力である織田家を敵に回す事となって、自家の存亡にも関わってくる。これは大きな賭けとなるが、勝てば得られる利益も大きかった。もし、信長を討つ事に成功すれば、織田家は強力な指導者を失って主体性を失い、嫡男、信忠もまだ幼い事から、当面は守勢に廻らざるを得なくなる。織田家はせっかく手にした京も放棄して、本領の美濃・尾張を保つのがやっととなるだろう。近江南部も織田家の領分であるが、防衛もままならなくなって、浅井家単独でも容易に奪取出来たであろう。京に近く、肥沃な近江一国を平定すれば、浅井家は戦国有数の大大名となり、天下を狙う位置に立つ事すら出来る。浅井家自身も、近江制覇を強く望んでいたであろう。だが、現実の浅井家は、東西南は織田家の領国に囲まれ、北には朝倉家の存在があって、発展の道は完全に閉ざされていた。浅井家が更なる飛躍を望まんとすれば、早晩、どちらかと手を切って戦わねばならなかった。


勢力の大きい織田家に味方するのが安全策であるが、それでも、朝倉家を見放すには忍びない事情が浅井家にはあった。
戦国浅井家を興したのは、初代、亮政であるが、この亮政を物心両面で援助したのが朝倉家であった。亮政が江北に勢力を伸ばしていく過程で、北近江の守護、京極氏や南近江の守護、六角定頼と対立を深める事になるが、六角氏の勢力は強大で度々、その侵攻を受けた。そこで亮政は越前の朝倉氏と結び、その援助を受けて浅井家の基盤を固めた。浅井家と朝倉家との深い結び付きは、ここから始まる。しかし、天文22年(1553年)、二代目久政の時代、六角義賢に挑んで敗れた事から(地頭山合戦)、従属を余儀なくされた。これを受けて朝倉家との関係も一事、途切れた事だろう。だが、この状態を不服とした浅井家臣達は久政を隠居に追い込み、その嫡男である賢政(後の長政)を立てた。
 
 
そして、賢政は、六角氏からの離反を明らかにすると共に、背後を固める意味で再び朝倉家と盟約を結んだと思われる。その上で賢政は、永禄3年(1560年)、六角義賢に戦いを挑み、重臣達の力添えを受けつつ、見事、これを撃ち破る事に成功した(野良田合戦)。この時、賢政は若干16歳の少年ながら、知勇を兼ね備え、気概ある武将で有る事を示したのだった。そして、1560年代前半、賢政は、六角義賢からの一字偏諱である、賢の字を捨てて長政と改名する。以後、長政は自立した戦国大名として動きだすが、それでも尚、朝倉家の影響は強かったと思われる。浅井家が近江北半分30万石余を有する大名となっても、越前の朝倉家はそれに倍する勢力であり、この実力を決して無視する事は出来なかった。


それに経済的な面でも両者の結びつきは強く、日本海から運ばれてきた産物は、朝倉家の領国越前を経て、浅井家の領国近江を通り、さらに琵琶湖の水運を経て京へと運ばれていた。この琵琶湖の水運は、浅井家の重要な資金源であった。日本海交易を通じて、朝倉、浅井家の経済はほぼ一体化していたと考えられる。浅井家にとって朝倉家は特別な存在であり、歴史的にも経済的にも一蓮托生の様な関係であった。この様な縁から、浅井家中では、父、久政を筆頭に、親朝倉派が多数を占めていたと思われる。今回の信長の越前遠征においても、久政は朝倉家に味方するよう強硬に主張したそうである。長政がこれらの意向を無視して信長に味方すれば、家中が分裂する恐れがあった。
 
 
織田家からは市を迎えて、将来有望な同盟関係となったが、それでも朝倉家と比べると縁は薄い。それに信長という人物は、傑出した能力の持ち主の半面、性格は苛烈で人に恐怖を与える存在であった。信長自身は長政の武将としての器量を高く評価して、信頼していたとされるが、長政はそこまで義兄を信頼しきれなかったのではないか。そして、越前の朝倉家が滅べば、次に狙われるのは自分達であると思い定めたのかもしれない。信長は浅井家の本領を安堵すると言っていたが、彼は人に安心感を与える様な存在ではなかった。その信長は今、無防備な背中を晒している。この時、長政は、後の明智光秀の様に、不安と誘惑の入り混じった思いに駆られたのではないか。もし、信長の打倒に成功すれば、恐怖を打ち消すと共に、その領国を掠め取る事も思いのままとなる。長政も一角の戦国武将であり、まったく野心が無いと言えば嘘になるだろう。
 
 
それに信長との同盟時に約束したとされる、朝倉を攻める際には、事前に浅井家の了解を得るとの約束が真実であれば、これを先に破った信長の方に非がある。長政の腹は固まった。信長を討つと決めたのである。それは、永禄3年(1560年)、強大な六角義賢に戦いを挑んで以来の大きな決断であった。だが、今度の相手は更に強大な織田信長である。それに相手は苛烈な性格の持ち主で、一度取り逃がせば、強烈な復讐心をもって攻めかかってくるのは目に見えていた。それでも、長政は己の全身全霊をもって義兄に挑むと決した。そして、元亀元年(1570年)4月26日前後、長政は織田家からの離反を明らかにして、信長の退路を断たんとした。しかし、結果は知られている通り、信長を取り逃がす事となる。ここから、長政の長い苦闘の日々が始まるのである。

 
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