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朝倉義景と志賀の陣

2008.10.26 - 戦国史 其の一

永禄11年(1568年)9月、織田信長は、足利義昭を奉じて、上洛戦を開始する。信長は破竹の勢いで京まで攻め上がり、見事、義昭を将軍の座に着ける事に成功した。そして、信長は自らの武力と、将軍の権威を後ろ盾として、畿内周辺の諸大名を次々に服属させていった。足利義昭からの上洛命令、すなわち信長からの命は、越前の大名、朝倉義景のもとにも届けられたが、気位の高い義景はこれを完全に無視した。義景の信長否定は、その実力に裏打ちされていた。


太閤検地に拠れば、朝倉氏の勢力範囲と動員力は、越前約50万石(動員力12,500人)、加賀35.6万石の内、南半分17万石余(4,250人)、若狭8万5千石(2,125人)で、合計すると75万石余、動員力は18,750人となる。この内、若狭と加賀南部は支配が完全ではなかったが、それでも1万5千人は動員できたであろう。信長としても、これほどの実力者が京のすぐ上にあって、しかも自らに非協力的とあっては、遅かれ早かれ討伐せねばならなかった。


元亀元年(1570年)4月25日、信長は機先を制して、大軍をもって越前に攻め入る。不意を突かれた義景はたちまち追い詰められ、本拠の一乗谷も危うくなった。だがこの時、浅井長政が朝倉方に味方して、信長の背後を突いてくれたお陰で窮地を脱する事が出来た。しかし、信長は間もなく体制を整え、復仇戦を仕掛けて来る。そして、浅井氏の本拠である、小谷城に迫ったので、義景は一族の朝倉景健に8千人余の兵を授けて救援に向かわせた。同年6月28日、近江北部の姉川を挟んで、朝倉景健、浅井長政連合軍1万3千人余と、織田信長、徳川家康連合軍2万5千人余が激突した。


緒戦は朝倉、浅井方が押したものの、最終的には数の差が物を言い、朝倉、浅井軍は千人以上の戦死者を出して敗れた。この戦いで朝倉、浅井軍は大きな打撃を被ったものの、まだ余力は残っており、傷を舐めつつ次の機会を待った。7月21日、四国の三好三人衆が8千余の兵を率いて渡海し、摂津の野田、福島を拠点として、周辺国への進出を図った。8月20日、信長もこれは捨て置けないとして、岐阜から出陣し、8月26日、摂津天王寺に着陣する。信長は諸国の兵を集めた4~5万人もの大軍をもって、戦いを優勢に進めていたが、9月12日夜半、野田、福島の近隣にある大寺社勢力、石山本願寺が、突如として反信長の兵を挙げたので、戦況は一転、苦戦に陥った。


9月13日、こうして信長が摂津戦線に釘付けとなったのを見越して、朝倉義景、浅井長政が兵を挙げる。そして、信長の背後を襲うべく、京に向かって進撃を開始した。三好家、本願寺、朝倉家、浅井家の連携が取れている事から、予め、申し合わせた上での挙兵であったようだ。越前を発った朝倉軍には、浅井軍と、近江の一向一揆勢も加わり、総勢3万人余の大軍となって湖西を南下していった。9月16日、朝倉、浅井軍の先鋒は坂本に達したが、ここで織田家の部将、森可成の迎撃を受ける。可成は、信長の信頼篤い宿将で、近江南西部の織田方の重要拠点、宇佐山城の城将を任されていた。京都防衛を担っていた信長の弟、信治も2千人余を率いて駆けつけ、迎撃に加わった。


可成は、この宇佐山城と坂本の町を抜かれれば主君の身が危ういと見て、小勢ながら城から打って出る。最初の前哨戦は森軍が勝って、少々の首を取った。だが、 9月19日、朝倉、浅井軍は陣容を整え、二方向から坂本を猛攻してくると、森軍は支えきれず、重囲に陥った。森軍は奮闘を重ねたが、ついに崩れたち、森可成と織田信治を始めとする、1,800人余が討死したという。9月20日、義景は、続いて宇佐山城も落とさんとしたが、これが意外に堅城で、しかも可成の家臣達が奮戦するので攻めあぐねた。この宇佐山城を残したまま、京に進軍すれば、後方の安全を脅かされる事になる。義景は、宇佐山城を包囲しつつ、大津に進出して放火し、9月21日には、逢坂(おうさか)を越えて醍醐、山科にも火を放った。


同日、摂津にあった信長はこの報を聞くと驚愕し、自らが挟撃の危機に瀕している事を悟った。そして、直ちに明智光秀、村井貞勝、柴田勝家の軍を京に差し向けて、二条城の守備を固めさせた。これらの軍は、強行軍で同日夜半には、京に入っている。この内、柴田軍は、9月22日、京都東方を偵察した後、摂津に帰陣した。9月23日、信長自身も京に取って返す事を決断し、三好、本願寺軍への抑えとして、和田維政と柴田勝家を残すと、これまた強行軍で、同日深夜、京に入った。この時の信長の行動は、実に機敏であった。


9月24日、義景は、信長本隊が京に入ったと聞くと、宇佐山城の囲みを解いて、近隣の比叡山延暦寺へと退いた。朝倉、浅井連合軍は比叡山の峰々に陣を構え、信長も宇佐山城を拠点として、下坂本一帯に軍を展開した。この時の朝倉、浅井軍の人数は、延暦寺の僧兵3千人余も合わせると、総勢3万人余であった。対する信長軍も3万人余の軍勢であったらしい。両軍ほぼ同数で、迂闊に手は出せず、義景、信長共、じりじりした思いで対陣の日を重ねた。


織田軍は比叡山を囲んでいたが、山上に陣取る朝倉、浅井軍への強攻は極めて難しいと見て、比叡山延暦寺に朝倉軍立ち退きの申し入れを行った。

「朝倉に味方する事をやめ、自分に味方してほしい。そうすれば織田分国内にある延暦寺領は返還する。しかし、出家の身ゆえ一方に味方できぬとあらば、せめて中立を保ってほしい。もし、これに違約するならば、延暦寺全てを焼き払う」

延暦寺は、この申し出を完全に無視したので、信長は内心、憤怒を漲(みなぎ)らせた。その一方、心強い援軍も来てくれた。10月3日、三河の徳川家康がわざわざ近江南部まで援軍にやってきて、織田家部将の木下秀吉や丹羽長秀の軍も駆けつけてきた。これらの援軍を得て、織田軍の方が兵数は上回っただろう。


この時、信長は四方に敵を抱えていた。摂津には本願寺と三好軍があり、近江各地では一向一揆が蜂起、南近江では六角義賢が挙兵、更に信長の本拠、尾張から程近い、伊勢長島でも一向一揆が不穏な動きを示していた。信長は早々に片をつけるべく、10月20日、義景に挑戦状を送りつけて決戦を促した。「信長公記」によれば、義景はこれには応えず、代わって和睦を申し入れてきたが、信長はこれを拒否したとある。その一方、同日、朝倉、浅井軍は、比叡山から下りて、洛北の修学寺、一乗寺、松ヶ崎周辺を放火している。10月21日、「尋憲記」によれば、今度は浅井長政が和睦を申し入れてきたが、信長はこれも拒否したとある。2つの史書に、朝倉方から和睦の提案があったとされている。義景は、信長の勢いに恐れをなしたのか、それとも冬の訪れを前に撤兵を図ったのか、理由は定かではない。


10月22日、三好軍が進撃を開始して、織田方の拠点、山城の御牧城、河内の高屋城、烏帽子形城に攻撃を加えた。これらは、事前に申し合わせた上での攻撃であったと思われる。 御牧城は落ちたが、木下秀吉と細川藤考がすぐに奪回し、高屋城、烏帽子形城は守りきって、三好軍を退ける事に成功した。朝倉、浅井軍と、三好軍との挟撃策は不発に終わってしまう。だが、伊勢方面では、新たな反織田勢力が生じていた。伊勢長島において、一向一揆数万人が蜂起して、信長の弟、信興が守る尾張小木江城を囲んだのである。 信長は主力をもって朝倉、浅井軍と対峙中であり、援軍を派遣する余裕など無かった。


11月21日、一揆軍の猛攻を受けて小木江城は落城し、信興は自刃に追い込まれた。信長は歯軋りする思いであったろう。信長は苦境にあったが、外交面から事態打開を図る。11月22日、六角義賢と和睦を成立させ、続いて三好家との和睦成立にも成功した。これで信長は挟撃の危機から脱したが、朝倉、浅井軍に取っては、梯子を外された形となった。それでも、朝倉、浅井軍は、織田の大軍と向き合っている以上、背中を見せる訳には行かず、否応無しに対陣を続ける他、無かった。


膠着状態が続く中、信長が先に動いた。近江志賀郡には、堅田という琵琶湖水運の要衝がある。この時は朝倉軍の支配下にあって、比叡山に立て篭もっている朝倉、浅井軍の補給、連絡路となっていた。この堅田の地侍達が、織田方に内通を打診して来た。 補給路を断つ、絶好の機会である。織田家部将、坂井政尚が堅田派兵を進言すると、信長はこれに許可を与えた。堅田の地侍懐柔と出兵は、政尚が中心となって行ったようだ。11月25日、政尚は1千人余を率いて湖水を渡ると、夜陰に紛れて堅田城に入った。朝倉方はそうと知るや、翌26日早々、朝倉景鏡、前波景当らを差し向けて、猛攻を加えた。


敵地に単独で乗り込んでいる、政尚も必死であったが、補給路を断たれんとしている、朝倉方も必死であった。局地戦ながら激戦が展開された模様で、朝倉家の重臣、山崎吉家の書状によれば、堅田衆を含む、織田方1,500人余を討ち捕らえたとあり、京都の公家の日記、「言継卿記」によれば、織田軍は500人、朝倉軍は800人の戦死者を出したとある。朝倉方では、前波景当や、義景右筆の中村木工丞が討死し、織田方では坂井政尚が討死した。そして、この戦いで織田軍は退けられ、堅田は朝倉軍が確保する所となった。


比叡山を挟んだ両軍の睨みあいは既に3ヵ月を過ぎ、季節も秋から冬へと移り変わっていた。義景、信長は、共に相手の喉笛に剣を突きつけながらも、なかなか止めを刺せなかった。義景は、三好家との挟撃策が消えて勝機を失っていた上、積雪によって、本国、越前への道が閉ざされようとしていたので、早く撤兵したかった。信長も山上の敵を攻めあぐねていた上、四方に敵を抱えていたので、これまた撤兵したかった。11月28日、室町将軍、足利義昭と、関白、二条晴良が三井寺にやってきて、両者の和睦調停に乗り出した。義景、信長は、共に焦りを募らせていた事から、この調停は渡りに船であったろう。


しかし、延暦寺がこの和議に強く異見したので、困り果てた足利義昭と二条晴良は、正親町天皇から綸旨(りんじ)を出してもらい、延暦寺の権益を保障する事を約して、ようやく和議成立に持ち込んだ。義景、信長は共に苦しく、ここらで手を打たざるを得なかった。そして、12月13日、両軍は人質を交換した後、12月14日、織田軍が先に撤兵し、12月15日には朝倉、浅井軍もそれに続いて撤兵した。これによって、3ヶ月に渡って続けられた両軍の対峙は終わった。義景は信長打倒の絶好の機会を失い、その反面、信長は大きな危機を脱した。


この志賀の陣は、義景が攻勢を仕掛け、信長は防勢であったので、義景が主導権を握っていたと思われる。だが、その後、決め手を欠いた事が惜しまれる。三好、本願寺軍との挟撃は果たせなかったとはいえ、義景の手元には朝倉、浅井、延暦寺軍を合わせて3万人余の大軍があった。対する織田軍は4万人余で兵数的に劣るが、それでも、もっと積極的な攻勢を見せる事も出来たのではないか。これ以降、義景が戦いの主導権を握る事は二度と無かった。一方の信長は年を越えると再び攻勢に出て、敵対勢力の各個撃破を狙った。まず、煮え湯を飲まされた延暦寺に矛先を定めて、元亀2年(1571年)9月12日、数万の兵をもって堂塔を悉く焼き払い、僧侶や住民、数千人余を斬殺して、昨年来の鬱憤を晴らした。


守勢に回った義景は徐々に追い詰められ、家臣にも見放され始める。武田信玄の西上戦によって息を吹き返すかに見られたが、それも信玄の死によって絶望的となった。元亀4年(1573年)8月、義景は、織田軍に包囲された小谷城を救うべく、最後の近江入りを果たす。しかし、既に小谷城の運命は極まっており、義景は救援を諦めて越前への撤兵を開始した。ところが、それを察した信長の猛追撃を受け、同年8月13日、義景は刀根坂にて、ついに致命的な敗北を喫してしまう。8月20日、織田軍の勢いは止まらず、そのまま越前に攻め入って来たので、義景は奥地の大野郡へと落ち延びていった。しかし、ここで一族の朝倉景鏡の裏切りに遭い、賢松寺にて無念の自刃を強いられた。朝倉義景、享年41。


この志賀の陣の主役であった朝倉義景は、戦国武将としては覇気がなく、臨機応変の対応も出来なかった。足利義昭を奉じて上洛し、畿内に覇を唱える機会もあったはずだが、それを実行に移す事は無かった。彼の野心は、本国、越前の安定を図る為、周辺の加賀、若狭、近江を従える程度のものだったのだろう。だが、外交面では、遠く薩摩の島津義久にも書状を送って、琉球との交易の可能性を探っていた一面もある。雪深い越前の地にありながら、義景の目には海外が映っていたのであろうか?越前は日本海交易の拠点であったので、義景はそれを更に発展させようとしていたのだろう。また、朝倉氏の本拠地、一乗谷は文化面で非常に発展しており、京都の公家や文化人も憧れを抱いて度々、下向する程であった。義景は領国の統治者としては有能であり、もし平和な時代に生まれていれば、名君として称えられていたかもしれない。



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