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武田家臣小話集

2008.10.26 - 戦国史 其の一
●武田家臣は有能

戦国時代、数多くの名臣が存在して戦国大名を支えていたが、その中でも武田家の家臣は有能であるとの評価が高い。特に名高いのは、武田四名臣と呼ばれている、高坂昌信・内藤昌豊・馬場信春・山県昌景といった部将達だろう。実際、この四人は信玄の代理として、一定の領域支配を委ねられたり、外交交渉を担ったり、一軍を率いて戦場に赴いたりと大いに活躍している。武田家には他にも、武田信繁・真田幸隆・ 昌幸父子など数多くの有能な部将が存在していた。その数多い武田部将の中で、個人的に好きなのは秋山信友である。この部将も知勇に優れており、一軍と一定の領域を任されている。この武将の画像は渋く、刀をじっと見つめるその姿はまさに「もののふ」といった感じがする。


torasige.jpg













↑秋山虎繁の画像


●間違って伝わる名前

現在、私達が知っている武田部将で、間違って伝わっている名があるようだ。例えば私が好きな武将として挙げた秋山信友は、秋山虎繁と呼ぶのが正しいとされている。

他にも、
高坂昌信 > 春日虎綱  
内藤昌豊 > 内藤昌秀
真田幸隆 > 真田幸網(晩年に幸隆と改めたとある)
であるとされている。


●武田家臣で悪く言われている武将達

小山田信茂・穴山信君・木曽義昌・長坂光堅・跡部勝資

この中で小山田氏や穴山氏は、ある程度の独立性を保った国人領主であった。この両者は武田家が甲斐統一途上、まだ強力ではない段階で、武田家と盟約を結ぶような形で従ったため、その後も大きな既得権を維持する事が出来た。信濃南部の国人、木曽氏も似たようなものだろう。武田家はこの三者と婚姻関係を結んで、親類集として遇したが、武田滅亡の際には三者とも裏切っている。これは、武田家は最後まで、国人領主を家臣として完全に掌握するには至らなかったという事だろうか。


武田滅亡の際、武田勝頼は小山田信茂を頼って落ち延びるものの、土壇場で離反され、行く宛てもなくなった勝頼一行は天目山にて滅亡してしまう。勝頼一行が小山田のもとへ向かわず、真田昌幸のもとへ向かっていればあるいは?との声もある。しかし、真田昌幸も、まだ勝頼存命時に敵方である北条家に接触していた。これは、武田家のためを思って北条家と折衝していたのか?それとも落ち目の武田家を見限って降ろうとしていたのか?は分からないが疑わしい行動ではある。結局、勝頼が頼れる者は誰もいなかったのかもしれない。


長坂光堅・跡部勝資の両者は、甲陽軍鑑では武田家を滅亡に追い込んだ佞臣とされている。だが、実際には両者とも最後まで勝頼に付き従い、天目山で殉死したとする説が有力である。それどころか、跡部勝資は勝頼の側近として大いに働き、その政権を支えた重要人物であった。

小山田氏関連HP
http://www.rekishi.sagami.in/oyamada1.html
 
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